第2話

 たぶん、これくらいの時期までが、俺のいちばん幸せな記憶。甘やかで夢みたいだった。そして今は、そんな時間は失ってしまった。

 10代にさしかかって、俺も成もお互い以外の友達ともつるむようになって、俺は段々と気付いてしまった。

 自分たちが、ちょっと「普通」から外れているんじゃないかって。

 他の友達とは、成とするみたいにくっついたり触れたりしないし、男で自分たちのようなことをする奴は見たことがなかった。

 俺が、変なのかな。どうしたらいいんだろ。

「なあ、成」

「んー?」

相変わらず、俺に腕を回してベタベタとくっついてくる成に、聞いてみる。

「こーいうこと、俺じゃない他の奴にも、するのか?」

「こーいうって?」

「……なんだ、こういう、くっついたり、とか……」

「あー……はは、やだなあ俺はきりちゃんにしかしないよ。きりちゃんはとくべつだもん」

なんか面食らってしまった。数秒前まで、成の腕を掴んで振りほどこうかとさえ思っていたのに、振りほどくに振りほどけなかった。

 成は俺のことを特別だと言った。つまり、成も俺が覚えたのと同じ違和感をちゃんと持っていて、さらには、俺の心のどこかにあった、成を遠ざけようとする気持ち、いや、成と距離を置いてでも、「普通」にならなければいけないという強迫観念に気付いていてなお、俺 と今まで通りの接し方をしようとしているということだ。

 なんとのんきなことだろうと思った。それでも、人の目とか、他人が決めた基準を気にしてあくせくしている俺と対照的に、自分の気持ちに正直でいられて、マイペースを保っていられるある意味での意志の強さをもった成のことを羨んだし、尊敬した。それに、特別と言われて舞い上がっている、単純な自分もいた。

 でもごめん、成。俺には、ちょっと難しいかもしれない。

 それに、このままじゃ、成は俺に、なんか――

 俺に触れている成の手が少し動いたのを感じて、ハッと金縛りが解けたように身体が動くようになったので、俺は静かに成の腕の中からすべり抜けた。

 ……なんか、やばいって。このままじゃ。だめだよ成。

 掴むものを失った成の手は、寂しげに映った。その顔を見ることは、怖くてできなかった。


 成にはきっと俺ほどのめんどくさい思考もなく、年齢を重ねても、ずっと幼いころの延長だったのだろう。友情、恋愛感情。そういう言葉からは離れた次元に、俺たちはいた。

 で、あるからこそ、自分の中に潜む成を疎ましく感じる部分に気付くたびに、自己嫌悪に陥った。きりちゃん、きりちゃん、って俺のあとをついてきたあの時のまま、成はずっと変わらずにいてくれるのに、なのに、なんで俺は、

 こんなに弱いんだろう。

 あの事件が起きたのは、俺たちが小学校を卒業する直前だった。

「なあなあ、ユリカちゃんさ、キリのこと好きらしいぞ」

クラスでつるんでいた男友達に、突然言われた。

「えっ」

「だーかーら、ユリカちゃん!」

ユリカちゃんは、同じクラスの女の子だった。綺麗な長い髪を、いつも綺麗なリボンで結んで、まあ、かわいいし、何より、クラスの女子たちの中で、なんとなく彼女がいちばん大人なように思っていた。

 そんな子が自分を好きだと知って、うれしくないはずがなかった。自分自身は彼女のことをどう思っているのか、そういえば考えたこともなかったが、というか、こうなってみて初めて彼女のことを意識したが、それでも、悪い気は全くしていなかった。

 そんな話を聞いた時、俺は真っ先に成のことを目で探した。たぶん、無意識に。

 当時、同じクラスだった成は、自席で本を読んでいた。今の話が聞こえていたのかいないのか、分からないが、成は本から顔を上げなかった。

 窓からの陽の光を受ける成の横顔から視線を戻す時に、ユリカちゃんまさにその人とばちっ、と目が合った。ユリカちゃんのそばにいた2、3人の女の子たちが、こそこそとユリカちゃんに何か耳打ちするのが見えた。

 その時、俺の頬はたぶん紅潮していた。自分のことを好きだという女の子と目が合った気恥ずかしさと、こんな時にまで、成のことを気にかけていたこと、そしてそれを、その女の子本人に悟られたであろうという、――羞恥。


 その日、下校のため学校を出ようかという時に、俺はユリカちゃんたちのグループともう一度鉢合わせた。と、いっても、向こうは俺とすれ違ったことには気づいていなかったはずだ。だって、平気で俺のことを話題に上げていたから。

「ユリカちゃんってば、キリくんのことが好きなんて、本気なのぉ?」

「え、なんで」

「絶対、大変だと思う。だってほら、キリくんには、ナルくんがいるじゃない」

俺の横を過ぎ去っていく声に、息もできなかった。

 なんだよ。なんだよ、なんだよなんだよ。

 なんか、きたない感情が自分を満たしたような気がして。一切を振り払いたくて、俺は振り返りもせずに走って学校を飛び出した。いつも一緒に帰っている成を置いてきたが、こんな時にあいつと並んで歩けるはずもなかった。

 こんなこと、考えちゃいけないけど。もし、成の存在が、少しずつでも、何か俺の可能性を削っているのだとしたら。そんなふうに思ってしまう自分に、本当に嫌気がさした。

 そんなわけで、その時の俺はなんかとにかくムシャクシャしていた。今、あいつの——成の顔なんて見れない。見たら俺はどうなってしまうのか、何をしてしまうのか、分からない。それなのに。

 あいつはこういう時に、しっかり俺の目の前に現れるんだからおかしい。

「あっ!きりちゃん!いたいた!……やっと追いついた……」

あいつは息を切らせてこちらに走ってきた。昔から身体が弱くてとろいあいつは、いまだに走り方おかしいし、やっぱり足はおっせぇし、――それに、こいつ学校からここまで走ってきたっていうのか?そんなの、本当なら絶対身体にこたえるはずなのに。

 ――なんで、追いかけてきたんだよ。俺のこと。

「なんで追いかけてきたんだよ」

――ほっといてくれよ。

「え……?」

「ほっといてくれよ!」

「きりちゃん、何言って……とりあえず一回落ち着こう?ねえ、きりちゃん……」

「だいたい、きりちゃんきりちゃんって、ベタベタベタベタとうっとうしいんだよ!いつまでガキの頃のままのつもりでいるわけ⁉」

気づいたら、俺に差し出しかけていた成の手をぴしゃっと振り払って、そのまま力いっぱい成のことを突き飛ばしていた。

 力に訴えるのはよくない。成が悲しむから。俺は成よりずっと力があるんだから、成のことは丁重に扱わなければならない。――俺は、成を悲しませるようなことは絶対にしちゃいけないんだ。

 そんな、何年も何年も持ち続けていた固い決意は、その一瞬で吹き飛んだ。

 成は大きく後ろによろめいた。あっ、と、思った時には遅かった。その時になって気づいたのだが、成はロープを背にして立っていて、よく見るとそのロープには「危険 立入禁止」の紙がさがっていた。成は背後のロープにぶつかってそのまま背中から地面に倒れこんだ。ロープの奥に一体何が積まれていたんだか、今となってはよく覚えていないが、ガラガラガラッと大きな音を立てて成は何か重い物の下敷きになった。

 成は声も上げなかったし、ぴくりとも動かなかった。ただ資材の隙間から見える成の肌の上を鮮やかな赤の血が流れていることだけは分かった。

 その光景に恐ろしくなって、何を考えるよりも早く足が動いて、俺はその場から全速力で逃げ出したのだった。

 俺は、絶対にしてはいけないことをした。言ってはいけないことを成に言った。そして今、卑怯にも血を流して倒れた成を見捨てて、逃げている。

 走っていると涙が風に運ばれていった。

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