同じドアをくぐれたら



   4



 後日、改めて松長宗真と瀬山志穂里に会うこととなった。

 場所は沙絵と彩に再会したあの公園だ。午後三時に集合となっている。

 沙絵や彩と再会したあの日は紛うことなく冬で、今は木々が生い茂っている。服装も徐々に薄くなって、春を感じさせられる。

 日々が過ぎた。

 塗装が禿げていて、砂埃に包まれたベンチを軽く叩いて座り、空を仰ぐ。

「一年、か……」

 一年前。それは、松長によって仕向けられた、彩との邂逅。

「春は出会いの季節って言うからね。言葉通り、私たちは出会った。出会い方とか、場所が最悪だったとしても…………私たちは出会えた」

 季節感なんてまるでないあの場所で遭逢し、気がつかないうちに、絆を深めていった。全てを共有し、支え合い、相即不離の関係となった。

 今を大切にしたいし、未来も当然、幸福を願って――――

 彩の手を握る。

「苦しくて、辛くて、悲しくて……負の感情に支配されていた。でも、俺たちは頑張った。例え身体の一部を失っても、今を幸せだと感じられる。それって、凄いことだよね」

 数多くの不幸が至る所に見受けられ、哀切極まりない。しかし、とても大きくて掛け替えのない幸福を手に入れた俺たちは、寧ろ幸せだ。

「愛の力、なんだよ。その力は限界なんて知らないし、大きさを知ることだってできない。想いを寄せれば寄せるほど、胸の中で膨らんでいって、爆発した時に抑えることができなくなるの。もしも、雄斗がいなかったらと思うと…………張り裂けそうになる」

 手を離すと、彩が見つめてくるので、負けじと見つめ返すと俯いてしまう。

「私、変わったよね。ネガティブの塊だったのに、解放されたその時、雄斗と会いたいって意思を固めてさ。結局何ヶ月も会えなかったんだけどさ、へへへ」

 顔を上げ、指で頭を掻きながら笑顔を見せてくる。その笑顔を見ると、心が幸福感で満たされ、体温が上昇する。

 確かに彩は変わった。月並みな感想だが、以前と比べ明るくなった。

「あの日のことを忘れてて、ごめん。忘れていなかったらって思うと……今更だけど心が痛むよ。覚えていたら、俺も彩を探して、いち早く悲しみを共有できていたのに」

「でもそれじゃあ、顔色は悪いし、髪もボロボロだし、正直見せられた姿じゃなかったと思うよ。だから、冬に会えて正解だったかも」

「そんなこと…………おっと」

 不意に携帯電話が鳴る。沙絵からのメールだ。

『すぐ近くだから待ってて』という変哲もないメールだった。何もないとはいえ、松長と瀬山に改めて会うのは勇気がいるので、気を引き締めて三人を待つ。

「緊張してる? リラックス、リラックス。ほら、来たんじゃない?」

 沙絵の車と瀬山の車が低音を響かせながら現れ、路上駐車した。

「そんなに顔が強張ってるかな…………」

 足音が聞こえてくるものの、気がつかない振りをし、入り口とは反対方向に顔を向け、目を瞑る。

「雄斗! わざとらしい!」

 そんなことを言って目の前に聳え立つ沙絵が、指で無理矢理四白眼の状態にして、目を瞑ることを許さない。視界の端に映る、松長と瀬山がこちらを見て笑っている。松長の顔は今もまだ若干痛々しいのは、少々申し訳なく感じる。

「出迎えもないのか! えぇ、遅くはなりましたとも! でもその態度は許さん、食らえ!」

 本気のデコピンを浴びせてきた。地味に痛いし、こんなやりとりを見せるのは恥ずかしい。

「いや、だってさ……」じんわりと続く痛みに悶えながら俯き、弱音を漏らす。「普通に接するのは難しいよ…………」

「ほら、顔を上げて! 弱々しい雄斗なんて見たくないんだけど」

 無理矢理顔を掴んで松長を見せてくる。笑い者にされていて、生きた心地がしない。

「お前にはガッカリだ、男らしくねぇ。もっと堂々と俺を見据えろよ」

「うるせぇ」

 挑発的な態度で見下ろしている松長は、どこか晴れやかな表情で腕を組み、口を開いた。

「俺は色々と失っちまった。愛車に友人、そして恋人。お前たちの失ったものに比べて、陳腐なものだけどな。得たのは、その場限りの悦楽と、少しばかりの罪悪感だった」

「恋人を失った……? いや、ちょっと、聞いてないんだけどー」

 沙絵が言葉を遮る。いや、反応が早かったのが沙絵というだけで、誰もが口を開いていた。

「こ、恋人……って私、ここにいるけど、えっと、どういうこと?」

「今決めた。志穂里とは別れる。これは強固な意志だ。何を言われようと、お前とは別れると決意したんだ。最後まで自分勝手で悪いがな、ケジメでもあるんだ」

 突然の悲報にわなわなと身を震わせ蹲ってしまう瀬山に注目してしまう。

「とにかく、その話をまたいずれ、だ。罪滅ぼしってわけじゃないが、俺が間賦口にしてやれることは資金の援助くらいだ。それで手を打ってくれねぇか?」

「資金の援助、ねぇ……」

 罪の意識が薄ければ、自首するという選択肢もないのだろうか。微量の罪悪感しかない松長には難しい話か。

「いらないよ、そんなもの。せいぜい、俺たちの幸福を願ってろ」

 正直に言えば喜ばしい提案だ。貧乏が辛いことは身をもって実感している。それでも、松長とは関係を絶たなければいけないのだから、その提案を享受してはいけない。

「雄斗さんかっけー! マジリスペクト。んで志穂里を放置する宗真かっこわるー」

 相変わらず緊迫感のない横槍を入れる沙絵が、彩を見ながら親指で瀬山を指す。それに気がついたのか、彩が行動に移す。

「志穂里ちゃん、車で休んでる?」

 彩が瀬山の隣で頭を撫でながら休息を促す。先ほどからの様子を見るに、一旦落ち着くべきだろう。

 しかし、瀬山は動こうとせず、ぼそぼそと何か喋りながら蹲ったままだ。

「ほら、行こう。ね?」

 半ば無理矢理に瀬山を立ち上がらせて車へと向かっていった。

 例えば俺が、唐突に彩に別れを告げられたとしたら、同じような状態に陥ってしまうのだろうか。いや、そんなことを考えても仕方ない。そんな状況は訪れない、……はずだ。

「俺は格好悪いさ。それに、細々と生きていくと決めたんだ、丁度いいだろ。実は、やりたいことが見つかってな。夢って言えばいいのか? そいつを実現させるために、学校へ行こうかなと思ってる」

 松長はベンチの前から離れ、ブランコへと向かった。

 この男の口からそんなことを聞くとは思わなかったので、呆気にとられてしまう。夢が何かは気にならないものの、その夢を見つけたまでの経緯は気になる。だが、それを尋ねられるほど気を許してはいないし、否定するつもりもないので、自由に追いかけていてほしい。

 ブランコに座った松長は、慣れた様子で漕ぎ始める。

「女も友人もいなくなって孤独になった俺だが、幸いにも金には困っていないから、学業に専念できる。今じゃ、これで良かったんだって思っているよ」

 晴々とした顔でブランコを漕ぎながら、決算するかのように喋る松長を見て、関係を断ち切らずとも、既に切れかかっていることに気がつく。

「宗真が夢を語るなんて、落ちたものだな! フフン、例えばこれがエピローグで、一連の事件の終結に向かっているのだとしたら、私は宗真にこう言う。友達がいない? ノンノン、私がまた友達になってやんよ! ってね。でも言わねーよ。一人で追いかけて、夢を叶えるこったね。そしたらまた全部忘れて、一から友達になってあげる」

 それが沙絵の本心なのかわからないが、満足そうな面持ちでベンチに座った。

「ねぇねぇ、雄斗、今のどうだった? 惚れた? 涙腺に響いた?」

「…………いや」

 そこで確認してしまうから格好悪くなってしまうと気がつかないのだろうか。

「そうか……これはエピローグなのか」

 これは、拉致監禁から始まった一年間の物語。失ったものは多いが、成長した。視野が百八十度変わった。環境も一変し、まるで別人の人生を歩み始めたかのように新鮮だ。

 そんな物語が、派手なクライマックスもなく終わろうとしている。

「普遍的な人生のレールから外してしまって悪かったな。俺がこんなことを言うのは間違ってるいるんだが、これからまた一般人に溶け込んで、目立たないように生きろ。腕なしのお前には難しいかもしれんがな」

「レールを外して脱線させたお前に生き方や未来を指図される筋合いなんてない。好きに生きるよ。お前だって、地味に生きろ。人様に迷惑をかけるなら、ちゃんとその罪を償え。俺たちへ行った罪を最初で最後にしろ」

 もう何も不満はない。全てを拭い去るように松長を殴り続けて、心の闇は晴れたのかもしれない。その闇を浄化したことで、世界は再度一変したかのようにとても明るいけれど、これが元々の光景だったと思うと、素直に喜べない。

 傍から見れば、中途半端な復讐劇だったかもしれないが、濛気が消散したので、これで全て終わりだ。いくら口約束で警察沙汰にはしないと言われても、これ以上平然と罪を犯せる精神は持ち合わせていない。

「今思うと不思議だ。何を思ってお前たちを監禁したんだろうな。いくらなんでも、駄目だと判断できたはずなのに。そして、記憶を取り戻した間賦口と無意味な敵対。馬鹿げてる、このままじゃつまらないからとわざわざ記憶を呼び起こして……。自分が起こした行動であれ、本質を見出だせない」

「…………………………………………」

 ただただ、拍子抜けだ。キャラクターがぶれ始めている。しかし、思い返せば、松長は強弱が激しく、表裏が明確な性格だった。だとしても、悪役は悪役を突き通してほしかったという期待があったのも今だから言える。

 相変わらず松長は子供のようにブランコを漕いで、錆びた鉄同士が擦れて不快な音を響かせている。その音に応じるよう、瀬山が歩いてきた。

 足取りは重く、改めて、離別することの意味を思い知らされるようだ。

 それに気がついた松長は瀬山を一瞥して、それでも声を掛けずにブランコを漕いでいる。

「宗真くん…………」

 手を後ろで組んで、俯きながら松長の後ろで立ち止まった。彩の姿は見当たらない。

「もう、私たち、終わりなのかな。こんな唐突に。悪い夢なんじゃないかって思いたかったけど、そんなことないんだよね。これが現実なんだよね」

 瀬山は相変わらず落胆して俯いたままで、顔色を窺うことができなければ、痛々しい姿を見続けることもできない。ただ早く、この案件を終わらせてほしいと思った。

「私、宗真くんが好きで好きでたまらなくて、隣に立っていられるように努力したけど、まだ足りないの? 足りない部分があるなら、言ってほしいよ」

 俺は努力なんてしていなくて、現状に甘えてしまっている。今回が努力云々の話ではないけれど、生産性のない一日を過ごす今のままではいつか、彩に愛想を尽かされてしまうだろう。

「宗真くんは変わっちゃった。私の大好きな宗真くんが変わっちゃった。猛毒を抜かれて、牙さえも抜かれた蛇みたいになっちゃった。そんな宗真くんを、今でも私は好きでいるのに、宗真くんは私を捨ててしまう。それがどうしてなのかわからない、わからない、わからない!」

 まるで瀬山の視界、……世界には、松長しか存在しないかのように、心情を崩壊させる。

「…………でも、やっとわかったよ」

 再度瀬山の様子を窺う。

 瀬山は重そうに頭と口角を上げ、松長の背中へと視線を移すと、針の穴を通すかのように注視した。

「宗真くんは激情に飲み込まれて病に冒されちゃった。大変だったよね。大好きな車は大破しちゃって、片腕の間賦口くんにこれでもかと暴行されて、プライドを傷つけられたんだよ」

 そして、瀬山はこれでもかと声を振り絞り、青空へと向かって大声を上げると、後ろで組んでいた手が露呈し、何か持っていることに気がつく。

 瀬山の絶叫を無視してブランコを漕ぎ続ける松長の背中へと瀬山が三歩前へ出ると、両手で持った何かが吸い込まれるようにして激突する。

 当然、瀬山はその勢いを殺せずに弾き飛ばされ、尻餅をついた。

 心配したい気持ちは当然あるが、何か異様な雰囲気に声を出せない。

「……宗真くんの病気を治してあげるんだ、私。看護師を目指していたのは、この時のためなのかな? フフ、瀉血だけで治るかわからないけど、治るといいなぁ…………」

 ゆっくりと勢いを失っていくブランコから松長はずり落ち、その背中は赤く染まっていく。終焉の情景を彷彿とさせる鮮血は止め処なく溢れ続け、錆びた鉄の擦れる音は止む。

「……………………あっ、あ」

 沙絵は目玉を飛び出さんばかりに見開いて、俺の腕を握り締めてくる。

 あまりに突然の出来事に、誰も動くことができない。この状況の処理速度は著しく低く、完全に理解するのは困難だ。

「…………………………………………」

 呆気ない幕切れだった。

 永遠の盟約を結んだ最愛の人が、まさか命の灯火を吹き消そうとは思わなかっただろう。

「ねぇ、返事してよ、宗真くん。私をいつものように抱きしめて、耳元で愛を囁いてよ。指と指を絡ませて、離さないでよ。頑張ったねって頭を撫でてよ」

 気を失っている松長へ再度近づき、握り締めている凶器を何度も抜いては刺して、地面はどどめ色に染まる。

 今、間違いないと確信を持って言えることがある。

 松長は、絶命した。

「これってもしかして、治療、失敗したのかな。失敗した? 失敗しちゃった……? どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう、どうしよう」

 力の抜けている腕が、弱々しくもゆっくりと、自分自身へと矛先を向ける。

「責任。失敗した、責任」

 理解、処理、そんなものを超越して、無意識に身体は動いていた。瀬山の行動を止めるために、間に合わないとわかってても、出せる力全てを刹那に振り絞った。

「そんなことしちゃ駄目だ!」

 しかし、この距離では止められない。

「…………責任取らないと」

 俺の背後からナイフよりも鋭利な、言葉にならない金切り声が心に突き刺さる。

 そして、その声が凶器を後押しするかのように、瀬山の腕力でありながら軽々しく躊躇なく刺さっていって、それに伴って溢れる血を眺めることしかできなかった。

 止めることは、できなかった。

「そんな、こんなことって…………」

 俺のせいではない、止めることは不可能だった。誰にも止めることなんてできなかった。

 そう思わなければ、心の消耗を抑えられない。

 瀬山が倒れた際に触れて動作したブランコは完全に制止しておらず、錆びた鉄の擦れる音を響かせている。この音が鳴り止むと、二人は完全に力尽きるのだろう。それをただ、膝をついて見ていることしかできなかった。




 公園での一件は、警察の介入を避けることはできなかった。

 状況が状況だけに、面倒なことになると思っていたのだが、意外にもあっという間に解放された。

 その理由は単純明快。瀬山は生きていたのだ。

 瀬山は当然逮捕され、その後を知らなければ、沙絵や彩と違い、俺は知る気もなかった。

 これが、物語の本当の結末。なんて不本意な終わり方だろうか。血を流さず、平和的に、あわよくば関係を修復できればと、本心か定かではないが、それに近い感情は抱いていた。

 全て、歪んだ感情と、壊れた人間のエゴが生んだ惨劇。しかし、そうだとしても、見殺しにしてしまった事実は覆らない。止められなかったのは言い訳にならない。

 終日、過誤に悩まされ、消耗していく精神だが、松長の狂った思案に反旗を翻した瀬山が罰を与えたことが本来望んでいた結末なのだと思えば、多少なりとも心は軽くなって安定する。

 だが、彩との関係はもう遮られない。だから、心が消耗しきって枯渇しても構わない。二人で未来へ進むことができるだけで、俺は幸福なのだから。

 その気持ちを彩へ向けて明言していないから、告白しよう。この思いの丈を。あの公園で。

「あのさ、彩」

「お熱い二人だことー! 私も混ぜてー!」

「空気を読め、馬鹿!」

 先ほどの発言を訂正しよう。邪魔者はまだ一人いた。

「どんな空気か知らないしー! 雄斗たちと遊ぼうとしてるだけだしー!」

 三週間前にあの事件が起きてから、公園に初めて訪れる。

 あの時瀬山は、彩に色々と理由を並べて車に待機させていたらしい。冷静さを欠いているはずの瀬山が、だ。彩も状況が状況だけに応じることしかできず、結果、瀬山の暴挙を止めることは叶わなかった。

 ブランコへ付着した血は既に消え去り、以前と変わらず錆が目立つ。

 ベンチへ座っている彩と、その前に立つ俺。そして、突然訪れ腕を組んでくる邪魔者こと沙絵。いつもの通り、見慣れた構図だ。

「ねぇねぇーどっか行こうよー! 雄斗の家でもいいよ! ゲームしようよゲーム」

 この喧騒からどっかとやらへ行きたい気分になる。一応、元友人である松長が死亡し、瀬山が逮捕されたというのに、この元気はどこから湧いてくるのだろうか。

「あぁ鬱陶しい! そもそもここにいるのをなんで知ってるんだよ」

 すると、申し訳なさそうに彩が挙手する。「ごめん……私が呼んだ」

「そうですー、彩に呼ばれて来たんですー、鬱陶しいだとか、彩に文句言ってくださいー」

「あぁもう、話はまた今度にする。その時は二人きりで」

「うわーひどい! 私を邪魔者扱いするなよなー、明後日からバイト復帰だというのに」

 実は沙絵、アルバイトをやめていた。毎日のように会える理由はそれに尽きた。全てが解決した今が、復帰する最適なタイミングなのだろう。

「でも沙絵、その髪、平気なの?」と彩が横槍を入れる。それもそのはず、髪型こそ変わってはいないものの、金髪だけに留まらず、毛先に赤色と桃色が追加されている。グラデーションカラーといえばいいのだろうか。

「んー……ちょっと遊びすぎた」毛先を指で弄びながら返答する沙絵。「さすがにもうちょっと暗くするつもりだよ」

 派手ではあるが似合っているので、少し勿体ない気もした。しかし、働くためなのだから、そんなことは言ってられないし、そろそろ俺も仕事を見つけなければいけない。

「それじゃ、バイト復帰祝いでもするか。贅沢はしないけど」

 そうして、この公園を後にして、三人で自宅へと向かった。




 彩と沙絵はテレビを見ながら談笑し、その様子を見ながら俺は思い耽けていた。

 過去と現在。

 こんな日常を誰が想像して、隻腕になるのを予測できただろうか。現実は瞬間の判断や行動で一変すると思い知らされた。

 退屈な時間を過ごせば過ごすほど、非日常は重く伸し掛かるように感じる。その感覚の差異が、時に身体を押し潰そうとも、耐え切った直後、打って変わってバネのように飛び跳ねることができる。そうして、自身の視野がパノラマのように広がって、置かれている立場や現状を見渡すことで、無意識のうちに理解する。

 だから意識せずとも、脳の端に眠っている無意識の思惑がじわじわと浮かんでは消え、はっきりとわからなくても、いつの間にか思惑と合致して行動できた。

 その兆候が見えたのは、恐らく睡眠中だ。眠っている間、脳は休息せずに思考し、客観的に自身をストーリー化して、結末への道筋を思い浮かべていた。

 その予測と主観的、客観的に考えた別々の思惑、そして協力。全てが重なって、エンディングを迎えることができた。

 今思い返せば、だが。

 当時は間違いなく必死で、苦しかった。この結末が確約された未来だと知らなかったのだから、当然ではある。

「ふぅ…………」改めて、物語が終わったことを実感する。

 俺はこれからも夢を見るのだろう。無意識の客観視、未来の予測変換、置かれた現状を。

 今まで通ってきたレールは脱線していないし、選択を誤ったわけでもない。

 それはつまり、どんな選択肢を選び決断しても、未来から過去を思い返すと、そこに選択肢なんて元々存在せず、曲線が多い一直線だったに過ぎないということだ。

 そう結論づけ、俺は双眸を瞑った。




「うわ、寝てた…………」

 テーブルに突っ伏して眠っていたようだ。二人も同様に眠っている。

 部屋の電気はもちろん、テレビも点いたままで、通販番組が放映されている。

 身体を伸ばして立ち上がり、乾いた喉を潤そうと、水道へ向かった。

「人のこと言えないけど、気、抜け過ぎだろ」

 振り返って二人を見る。沙絵は相変わらず口を大きく開けて、間抜けな顔を晒している。

「この寝顔を見ると安心するよなぁ……問題は解決したんだなって、改めて感じる」

「…………ふぁ、あ? あれ? 雄斗、私寝てた?」

 物音で彩が目を覚ましたようだ。涎を手の甲で拭った後、目元をこすり始めた。

「おはよう。俺もついさっき起きた。三人して寝落ちだね。何か飲む?」

 冷蔵庫の扉を開いてみたが、飲みかけの緑茶と沙絵のビールしか入っていなかった。

「って、特に飲み物なかった…………」

「じゃあ散歩も兼ねて、買いに行こうか」

 夜にもかかわらず暖かくて、丁度いいかもしれない。

「いいね。行こうか。彩はすぐに出れる? 俺はこのまま出れるけど」

「ちょっと待って」と言って、鏡を見ながら髪型を整え始めた。こんな何気ない仕草がとても愛おしく思える。

 その時、視界に入った沙絵が、少し動いていたような気がした。

「もしかして、沙絵、起きてる?」

「…………………………………………」

 返事がないので、やはり気のせいだろうか。

 ――――二人きりになるよう考慮してくれているとしたら。そんな考えが一瞬頭を過った。

「待たせてごめんね、行こ」

 俺は頷いて、玄関の扉を静かにゆっくりと開いた。生温い風が身体を撫でて、纏わりつくけれど、嫌いじゃない。

「あいつ起こすと面倒だからな。どこ行こうか? コンビニ……かな」

「そうしよっか。あんまり遠くだと疲れちゃうし」

 徒歩で十分の場所にあるコンビニへ向かうことにした。

 この時間になると交通量は激減し、当然人はいない。街灯だけが出迎えてくれる。

「こうやって二人で出歩くのって、久しぶりっていうか、懐かしいね。最近はバタバタしてたし。何度も何度も、改めて思うよ。全部終わったってさ、もうしつこいくらいにそう思う」

 一年前の今ごろは監禁されていて、地獄のような日々を送っていたのが、まるで嘘のように身体が弾む。もちろん、その過去があるからこそ、こうして弾めるのだが。

「松長じゃないけどさ、希望が湧いたっていうか、確信を持って言える夢はないけど、これからの未来を思うと胸が高鳴るんだよね。彩とあれこれしたいって、いつも考えてるよ」

 そして、今一番したいことは、やはり告白だ。沙絵にいつも邪魔されるので、早く二人きりの時間を見つけて告白したい。

「ねぇ、雄斗。公園寄ろうか」

「ん? いいけど」

 急な提案に少し驚きながら了承し、コンビニへ行く途中にあるいつもの公園に立ち寄る。

「さっき、雄斗は全部終わったって言ったけど、何か忘れてない?」

 何を忘れているのだろうか。戻っていない記憶があるのだとしたら、それはいつの話だろうか。思い返しても、記憶が抜けている月日がわからない。

「折角、また二人きりなのに、なぁ…………」

「あっ!」

 鈍感過ぎる。沙絵が二人きりになるよう考慮してくれているなどと考えていたはずなのに、それは勘違いだと言い聞かせて、今は二人きりではないと勘違いしたのだろうか。

 とはいえ、細かいことを気にして、絶好の機会を逃してはいけない。

「今日言えなかった話の続き、してもいい?」

 彩は俯いたまま、何も喋らない。

「それは肯定だと受け取って続けるね。……今まで明言せず、有耶無耶なままの関係だった。俺と彩は、どんな関係なのかな。特殊な境遇に置かれた不幸な二人? 端から見れば、そうなるかもしれない。でも、それじゃ嫌なんだ」

 この気持ちを知ったのは、監禁されていた時。一度は忘れてしまったけれど、大切な感情。誰にでも備えている、自制心を失って、暴走しかねない本能。

 その全てを言葉にして、彩へ吐き出そう。

「俺は、彩が好きだ。大好きなんだ。何よりも、誰よりも好きだ。この出会いを運命だと感じてる。幸福と思えること全てを彩と共有して、毎日を埋め尽くしたい」

「…………………………………………」

「不幸にはさせない。絶対幸せにするし、幸せになる。俺と、付き合って下さい!」

 それでも、彩は無言を貫く。やはり、今の俺にそんな資格はないということだろうか。

「…………駄目、かな?」

 溢れそうな涙のせいで視界が揺らぐ。楽しいことを思い浮かべながら空を仰げば、この涙を落とさずに済むだろうか。しかし、そんなことを考えたせいで、余計に涙が溢れてしまう。

 もう、二度と泣かないと決めたのに。

「あ、あれ? なんで泣いてるの? まだ何も言ってないのに」

 必死の抵抗も虚しくボロボロと涙は落ちて、無様な顔を晒すと、困惑の表情を浮かべた彩の姿があった。

「だって、何も言わないから、断られたのかと……そう思ったら涙が」

 すると、彩は笑顔になって、俺の肩を叩く。

「やっと言ってくれた、って思ってたの。だって、私が断る理由がないよ。ずっと、その言葉を待ってた」

 そのまま身体を抱き寄せて、視界から彩が消える。柔らかな身体が、俺を包んで離さない。

「好き。大好き。前にも言ったよね。痛みも、悲しみも、喜びも、全て共有するって。雄斗が好きでいてくれるなら、それはもう、確定事項なの。嫌われたりしない限り一生! だから、私のことを嫌わないでいてね」

「嫌ったりしない。ずっと、一緒だ。死ぬまで、いや、死んだって!」

 左腕で彩を強く抱き返す。このまま時が止まればいいなと過ったが、それは駄目だ。これから、彩と色々な時間を共有しなければいけないのだから。

「これで私たち、正式に恋人同士だね」

 その言葉を聞いて、彩の身体を引き離し、そっと唇を重ねる。彩とのたどたどしく、初々しいキスによって、一生忘れることのできない感覚が全身を覆った。

 唇を離して彩の顔が視界に入ると、左頬には涙が伝っていた。その涙を指で拭って、再度唇を奪う。何度も、何度も、感覚がなくなるまで。




「そろそろ行こっか。なんか、お腹すいちゃったよ」

 告白からどれだけの時間が経過したのか定かではない。その間の記憶がハッキリとせず曖昧なのは、享楽に耽け、愛に脳を侵食されたからだろうか。

「もう、朝だね…………」

 新聞配達のバイクが遠近で音を響かせている黎明。俺たちは目を細めながら、昇り来る太陽に向かって歩み始めた。

 眩い光が身体を纏う全ての不安を焼き払って、祝福するように体温を上昇させていく。

「普段あんまり食べないけど、チョコとか、甘いの食べたい気分だ」

「気が合うね、さすがは私の彼氏」そう言って、少し頬を赤らめた。「なんか、ちょっと恥ずかしいね。私の彼氏……って」

「……お、俺の…………彼女」

 今更な気もするが、確かに恥ずかしい。二人きりで恥ずかしいのだから、人前では絶対に言えないだろう。

 彩の手を引っ張り、恥ずかしさを隠すように走り出した。

「え、ちょ、ちょっと」

「なんか、走りたい気分になった!」

 ただ走っているだけなのに、充実感があって愉快だ。ここまで高揚しているのは生まれて初めてではないだろうか。見える景色全てが、日差しと相俟って光に満ちている。

 しばらく走り続けた後、赤信号で停止して、二人で息を整える。俺は空を仰ぎながら、雲一つない青一面を瞳に焼きつけて、深呼吸した。

「今日はこれから何しようか!」

「デート! でも、身嗜み整えたいから一旦家帰ってからね」

「わかった」

 信号は青に変わり、横断歩道を渡ればコンビニはすぐそこだ。手早く買い物を済ませて、初めてできた彼女とのデートに備えたい。




 自宅へ到着し、玄関の扉を開く。いつものように靴を脱いで、手洗いうがいを済ませて、リビングへと進む。

 すると、眠っていたはずの沙絵が出迎えた。

「おかえり、雄斗。どこへ行ってたの? 彩は一緒じゃないの?」

 何と言うべきだろうか。彩との関係を隠すべきなのか、正直に言うべきか。しかし、言わずともいずれ発覚しそうなので、今は誤魔化しておこう。

「えーっと……これ、飲み物買いに行ってたんだよ。あ、沙絵の分忘れた! 買ってくる!」

「雄斗!」と止められてしまった。

「大丈夫、わかってるからさ。でも……彩がいないってことは」

 沙絵は全てを察している。しかし、勘違いをしている様子なので訂正する。

「やっぱり、さっき起きてたろ。ちなみに、結論から言うと、俺は今幸せだ」

「えっ……マジ…………私の彩が、私の雄斗が」

「いつから沙絵のものになったんだよ。俺はこれからデートなの!」

 何度も何度も助けてくれた沙絵には感謝しなければいけない。沙絵がいなければ、今の俺は存在しないと言っても過言ではないだろう。

「でも、おめでと。本音言っちゃうとさ…………二人の間に入る余地、ないよ。赤い糸が雁字搦めだもん。まぁ、これからも、そんな二人の赤い糸を鷲掴みして引き連れるけどね!」

「ハ、ハハ…………ほどほどに」

 結局、沙絵には勝てないなと思うと、自然と笑みがこぼれた。

 思い出す。

 沙絵との出会いは、去年の夏。

 監禁から解放された日の夕方、いつもの公園で俺は出会った。

 出会い頭に自宅へ招待され、ストーカー紛いのこともされた。それでも、俺は沙絵が気になり、再会を試みた。その結果再度出会い、連絡先を交換することができた。その日を境に冬まで会えなかったが、連絡先を交換したおかげで再度出会えた。

 夏に沙絵と出会い、冬、彩と出会うまでの間、俺は何をしていたのだろう。つい半年ほど前のことだが、明確に思い出せない。監禁が原因の記憶喪失のせいで、記憶が抜けがちになっているのか、ただただ記憶に焼きつける価値もない日々だったのか。

 それならばこの先、記憶を失わないように、有意義で、濃密な毎日を送らないといけない。

「沙絵、今までありがとう。そして、これからもよろしく。こんなこと言うの、恥ずかしいけどさ……、松長たちとの一件を終わらせることができたのも、色々な線を辿れば沙絵が発端だと思うし。もちろん、松長が死んだのは予定外だし予想外だけど」

「うん」と感情を出さずに頷く。

「彩に右腕がないって宣告されて、慰められた時……凄い嬉しかった。でも、俺を自宅に置いてった時は、悲しかった。それは彩を連れてくるためだったって知らなかったからだけど」

 沙絵の胸で涙が枯れるほど泣いて、俺は自宅に連れ戻された。一人にしないでくれ、なんて言ってしまったことは忘れていない。都合の悪い健忘症だ。

 自宅に放置された理由は、俺と彩を二人にしたかったから。俺の膨大な悲しみを受け止められるのは彩だけだと、沙絵は知っていたから。

 あの日、彩に突き放されていたままだったら、罪悪感で死んでいたかもしれない。

 自分では力不足、と沙絵は冷静に判断できるから、俺は俺を取り戻せた。

 思い出せば、出すほど、俺は沙絵に助けられている。

「本当、感謝しかできなくてごめん。言葉だけじゃ足りないくらい、沙絵には感謝してる」

「ちょっと、雄斗、泣かないでよ。今、湿っぽいのは嫌だよ」

「あ、え?」

 先ほど泣いたせいで、涙腺が緩んでいるようだ。頬を伝って床へ落ちていく涙の量が、感謝の気持ちを物語っているかのように、何滴も止め処なく、決壊したダムのように溢れる。

「全く、私がいないと駄目なんだから! これからデートでしょ? 私はお邪魔にならないよう帰るから、その崩れた顔を洗って楽しんできなよ」

「そんなの、わかってる……けど」涙が止まってくれない。「ごめん」

 あの時のように、沙絵の胸を借りて涙を枯らしたいけれど、それでは駄目だ。

「泣けー、泣け泣けー! やーいやーい!」

 子供のような言動で煽られるが、そんな言葉でも、言われるほどに涙は増していく。

 不意に、沙絵は俺の頭を撫でる。子供を慰撫するよう、嫋やかに。

「…………泣いて、泣きまくって、全部を出し切っちゃいな。もう、そんな涙を流さないように、私みたいにさ」

 今はまだ、沙絵の元で甘えよう。

 そして、悲しみの元凶が流れ落ちるまで、涙を落とそう。




「それじゃあ行ってらっしゃい。“彼女”との初デートでしょ? ガッカリさせちゃ駄目だからね! 私は家帰って寝直すからさ」沙絵が敬礼ポーズをする。「健闘を祈る」

 沙絵は車に乗り込み、窓を下ろしてそんなことを言った。

 俺は手を振りながら簡単に見送り、遠退いて右折する車を見ていた。

 彩からはメールが届いていた。『もう少しで準備終わるから、ゆっくり公園に向かって』

 そのメールに従い、沙絵の後を追うようにして歩き出す。

 途中まで方向が一緒なので送っていくと言われたけれど、それは断った。自分のペースで公園に辿り着きたいからだ。

 俺は、過去を乗り越えた。涙と一緒に、吐き出した。しかしそれは、錯覚かもしれない。これから、過去が襲うかもしれない。

 それでも、彩と沙絵という存在が、きっと打ち負かしてくれる。

 だから、怖くない。

 明日を想像してみる。

 その明日はきっと明るく、彩は笑顔で、俺も笑顔で。次の日も、また次の日も、日毎夜毎、きっと明るい。右腕を失っても、俺は幸せになれる。

 なれるはずだ。

 そして、その幸せが彩に関わっていると、より一層嬉しい。

 虚心坦懐に俺は歩く。

 立ち止まっていた時間を取り戻すべく、歩く。

 そのスピードが遅くても、着実に一歩ずつ。

 彩に追いつくように、合わせるように、未来へ向かって共に歩く。

 彩が解錠してくれた明るい未来の扉を開くと、そこで待っていたのは、笑顔で手を差し出す俺の彼女の姿だった。

「おまたせ。これからどこへ行こうか!」

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