What You Want



   3



 今まで右腕として正常に機能していたはずの箇所には記憶の粒子が浮遊していた。その粒子はただ纏わりつくだけで意味を成さない、本来ならば自分自身が吸収するはずだったものだ。

 しかし、それを拒絶した。その結果、右腕を失ったと同時に、右腕へ蓄積された記憶をそのまま失っていた。

 そして、真実を告げられ拒むことを選択肢から外され容認するしかなくなった今、右腕に偏在している記憶の粒子が俺を捉えて穿った。

 走馬灯のように悪夢が俺という概念の中で上映されている。水分という水分を目や口から溢れさせながら。

 松長宗真と瀬山志穂里という二人が俺たちを拉致監禁し、加虐行為に勤しみ、俺が彩の右目を抉り取り、彩が俺の右腕を斬り落としたという抗えない真実。

 取り戻した数ヶ月の記憶。失い、失っていた右腕。彩という大切な同類。

 俺を、俺に、全てを取り込んで、快哉を叫ぶ。

 明確な目標を双眸が捉えた。限りない憎悪を秘めて、今はなき右腕を思いながら。

 ――――俺は、復讐する。




 挙措を失い、二人の落ち着きを取り戻すのに幾許の時間が必要だった。右腕を失ったことに改めて哀愁を感じ、意識しながら呼吸を繰り返す。

 しかし、点と点が繋がっていく感覚は独特の爽快感だ。俺を見ては目を逸らしていたコンビニ店員、その意味がやっとわかった。右腕がなかったのだから、注目を集めて当然だ。

 それにしても、今までどうやって生活していたのだろうか。右腕がないことを無意識に意識し、左腕だけで生活をしていたのだろうか。そして偶然、奇跡、幸運に恵まれ、右腕を使う機会が極端になかったのだとしたら、と考える。

「いやいや…………」

 考えても無駄だろう。今もこうして生きているのが答えだ。

「いてて、右腕いてー」

 そこには何もないというのに、架空の右腕が痛みを訴えている。意識すればするほど痛覚は増して、抑えられない。

「大丈夫、私が隣にいるよ。痛みも、悲しみも、喜びも、全て共有するから」

 怠惰な時間を過ごす。明かりを灯さなければ物を識別できないほどに部屋は陰っている。しかし、目を開く必要はなかった。隣には彩がいる。彩の体温、呼吸、身体を感じられる。

 このまま眠りに就こう。

 ズタズタに引き裂かれた身体と心を癒して、傷だらけの夜明けを待とう。

 もう、二度と泣かなくていいように。




 復讐とは、敵討ちをする。仕返しをする。報復。

 でも、それが原因で逮捕されるなんてへまはしない。

 彩から聞いた話だ。あの二人は、拉致監禁の加害者として逮捕はおろか、事件にさえなっていないと。

 彩の両親は被害届なんて出さず、友人や恋人の家に泊まりに行ったのだろうという楽観的な考えで全く心配しなかった、らしい。眼帯も特殊なファッションの一部だろう、と。なぜ不確定なのかは彩が直接問い質したわけではなく、予想でしかないからだ。

 昔から彩に興味を持たず、会話という会話はほとんどなく、かと言って邪険にしているわけではなかった。服が欲しい、髪を切りたいと言えば手に余るほどのお小遣いを渡すし、ぎこちないけれど、笑顔だって見せてくれていたそうだ。

 考えるに、子供への接し方を全くわかっていないのだと思う。

 娘を愛したい。だが、愛し方がわからない。求めるのならば与えるけれど、親から与えるにはどうすればいいのかと考えてしまった結果、放ってしまっているのだろう。

 話が逸れてしまったが、結論はこうだ。俺には親、近くに住む親族も存在しない。彩の親も娘には比較的自由にさせていて、拉致監禁されてるとも思っていない。すなわち、被害届も捜索願も一切ない。

 だからあの二人は、罪を犯しているのに罰を受けない。

 俺たちは謂れのない罰を受けた。だから、これから奴らへ罰を与えるために罪を犯す。




「復讐するっていうのはわかったけど、それはあの男だけにしようよ」

「それはなぜ? あの女だって、彩にひどいことをした」

 首を振って否定し、携帯電話に保存されている写真を見せてきた。

 そこに写っていたのは、楽しそうに笑いながら彩と共に映る瀬山志穂里だった。

「なんで一緒に写ってる写真が…………?」

「志穂理ちゃんは悪くない。ひどいことをしたのは間違いないけどね。でも、仕方なかった。あの男が好きだったから従っただけで。私たちを監禁する計画を聞かされた時は、震え上がった。でも、それを聞いてもしも断ってしまったら、あの男を失う。下手したら、命さえも失ってしまう。……殺されてしまう。だから、仕方なかったんだよ」

 俺は瀬山も許せない。けれど、彩が言うのなら、それも“仕方ない”のだろう。

「瀬山とは仲がいいの? それだって最近の写真でしょ」

「仲いいよ。こっちは二週間前に撮ったプリクラ。看護婦なんだってさ、見習いだけど。義眼の手入れとか全部、志穂理ちゃんが教えてくれた」

 彩がこれだけ言ってくると、案外、良い奴なのだろうか。どんな人間か詳しく知らないけれど、男に染められた純情な女なのかなと勝手に想像する。

「そうか…………」瀬山と連絡が取れるのだったら話が早い。「じゃあ、瀬山を呼んでもらおうかな。瀬山を利用して、松長に復讐する」

 瀬山を利用すれば、松長の所在や連絡先がわかるはずだ。使えるものを利用して、なんとしても復讐してやる。

「で、でも」

「あくまで復讐の矛先は松長。…………だから気に病むことはないよ」

 松長が危害を加えられ、瀬山が何も感じないはずはない。松長を傷つけるということは、結果的に瀬山を傷つけることに相違ないと思うのだが、それを口にしてしまったら瀬山を利用できないので嘘で取り繕う。

「…………雄斗がそう言うなら、そう思うように努力する」と彩は肯定する。でも、それではがらんどうな瀬山と変わらない。俺の全てを受け入れずに、自分の意志も曲げないでほしいと同時に思った。

 手筈は順調だ。

 しかし、松長へ罰を与えるにはどうすればいいのだろうか。

 怒りを込めて殴るのでは、せいぜい青春よろしく喧嘩でしかない。肉体的は当然、精神的にもダメージを受けるような、そんな何かを考えなければいけない。

 第一に浮かび上がったのは、決定的なダメージを与えられる監禁返し。しかし、俺の知識や環境では不可能だろう。

 ならば、どうするべきか。

 部屋の窓を開けて、春の風を浴びる。茹だっている頭を冷やすのに最適だった。

「何か、いい案が浮かばないかな…………」

 道路を通過する車や自転車を眺めながら独り言つ。

 そういえば、存在しないはずの右腕が痛んだりするけれど、この身体はリハビリなど、そういう類のことをしなくていいのだろうか。

「……………………まぁ」

 無意識のうちに身体が順応したという結論へ至ろう。身体の完全な治癒は全てが解決してからでいい。今はそんな場合じゃない。

 ただただ黙考するが、時間は刻々と経過する。

 こうしている間も松長は、堂々と生活を送っている。その現実が許せない。けれど、俺は無力で何もすることができない。それこそ著名人でもなければ資本家でもないただの庶民だ。そんな俺が何か行動するにあたって、労力や財力が必要となってくるが、右腕を失った身体の労力や無職の財力で何ができるというのだろうか。無鉄砲に憎しみを解き放てば、破滅が待っているだけだ。そのために知恵を振り絞る必要がある。思い浮かぶアイデア次第で未来が変わるのだから、慎重に吟味しなくてはならない。

 着信音が鳴り響く。こんな時に誰だろうかと携帯電話の画面を注視すると、そこには既知の表示が映し出されていた。

 非通知設定。

 嫌な予感だけが脳裏を過るが、通話ボタンを押してスピーカーに耳を傾ける。

「…………もしもし」

『俺だ。お前、ようやく思い出したんだってな。もう面倒なことはやめだ、間賦口。お前どうせ、俺に復讐したいんだろ? 何となく察しがつくよ。だから俺は、正々堂々と迎え撃つ。いいんだ、心配は必要ない。俺がお前に何をされようと警察沙汰にはしない。そんなのつまらないからな。俺を殺すなり、監禁するなり、自由にやってくれ。でもそれには条件がある』

「条件? そんなもの、俺の自由だろ。お前が指図するな」

『まぁ聞けよ。お前の復讐を見て見ぬふりする代わりに、復讐なんて気持ちが湧かないよう完膚なきまでに俺も攻撃させろ。要は、心と身体の削り合いだ。双方の刃が欠けるまで戦い続ける。……どうだ、少年誌みたいで燃える展開になってきただろ?』

「俺たちをまだ苦しめるのか? もう充分だろ。お前が俺たちと同じ、いやそれ以上に壊されれば終わりじゃねぇか」

『だから、それじゃつまんねーだろ。せっかく秩序や法律を無視して壊し合える環境を作ってるのに興醒めだ。もっと楽しく生きようぜ。もっとも、生きてられるか保証はしないけどな』

「楽しいとかそういうことじゃないだろ? 既に禁忌を破っているお前が秩序を語るな!」

『あぁあぁうるせぇ。しっかりと俺を楽しませろよ? お前の希望を打ち砕いてやるからよ。それじゃあ、今からスタートだ』

「おい、ちょっと待て!」

 通話はそこで途切れる。無常にも聞こえてくるのは無機質な終話音。

 焦燥感や危機感で包まれた身体。その手は携帯電話を汗で濡らしていた。しかし、様々な感情が犇めく中で多くを占めたのは間違いなく恐怖だろう。

「…………もしかして、松長からの電話? 汗が凄いよ」

「そう。危険なことに巻き込んじゃうかもしれない。でも、今度こそは絶対に守るから」

 正直、怖い。松長という男は何をしてくるのか予測できないからだ。それに問題がある。俺は松長のことを詳しく知らない。松長は俺の家は当然、電話番号だって把握しているし、恐らく他にも俺の情報を握っているのだろう。これでは不公平だ、とその旨を伝える前に電話は切られてしまった。

「もしも雄斗が危険な目にあったときは、私も守ってあげる」

「彩…………」

 不意討ちのような言葉につい緊張の糸が切れそうになるが表情を改めて続ける。

「で、松長はこう言ってた。俺が記憶を取り戻した今、復讐心でいっぱいなはず。そこで、復讐に目を瞑る代わりに同じよう攻撃をさせろって。その提案を、何も考えず怒りに身を任せて俺は、半ば無理矢理に了承した。……ごめん、相談もせずに」

「ううん、大丈夫。私は雄斗に従い尽力するだけだから」

 それはとても優しい声色だった。

「もしも、誰か女の人と付き合いたいって言うなら私は雄斗を応援するし、もう私と会いたくないって言うなら二度と目の前には現れない。雄斗のことを本気で想っているからこそ、そんなことで恨んで猟奇的になったりしないよ。そんなの自分を見てくれないからっていうわがままだから。そんな擬い物の感情じゃないから、雄斗がどんな選択をしたって幸せになれるよう頑張れる」

 この選択は間違っていたのではないか、と悔やんでいる。けれど、“人は何かの選択をした時、必ず後悔するようにできている”という言葉を聞いたことがある。そして、“後悔したくないのなら決断しなければいい”と。しかし、決断しなかったことを後悔する可能性だってあるのだから、とどのつまりは人間、日常的に後悔をしている生き物なのだ。

この選択に後悔した。でもそれが何だ。将来、この選択は間違ってなかったと言えるようになるまで二人で突き進めばいい。

「松長の手掛かりを掴むには、やっぱり瀬山を利用するしかない。問題は利用方法だ」

 共犯者になれるほど深く愛しているという彼女の特性を上手く利用したいのだが、完璧と思える有効な案が浮かばない。いくつか浮かぶ案も、突き詰めると失敗な気がしてならない。

「何か方法が思い浮かんでも、松長が一枚も二枚も上を行っている気がする…………」

 震える手に彩の温かい手が重ねられた。

「協力できることがあったら、ちゃんと言ってね」

「とりあえず明日瀬山と会う。それは決めた。あとは、いくつか浮かんだ案を練り続けて、より強固に仕上げる」

 外を強く見やり、願いを込める。俺は、この子を絶対守りたいと強く、強く。




 後日、彩に頼み、瀬山をハンバーガー屋に呼び出してもらった。

 午後一時に待ち合わせており、俺はちょうど十分前に到着して、珈琲だけを注文して瀬山の到着を待っているところだ。

「瀬山、志穂里……か。彩に聞いた特徴通りなら、うまくいくはずだ」

 失敗は、許されない。

 瀬山と会うということは博打に近いが、これから行うことを頭の中で何度もシミュレーションし、より完璧だと思う方へ都度修正すれば、その積み重ねによって約束された結果にも成り得る。より一層確率を上げて賽を投げなくてはならない。

「ねぇ、間賦口くん。そろそろ気づこうよ」

 目を瞑っていたため、目の前で座っている瀬山に気がつかなかった。不意に声を掛けられ、椅子から転げ落ちそうになるが、辛うじてバランスを取って持ち直す。

 みっともない姿を見られてしまったと思った以上に、気配を感じ取ることができなかった自分を悔やむ。常日頃から、最悪の事態を想定しなければいけないというのに。

「そ、そんなコソコソ来るなよ。びっくりするだろ」

「話しかける雰囲気じゃなかったから、ごめんなさい」

 ほんのりピンク色のマキシ丈ワンピースにライダースジャケットを羽織った姿で瀬山志穂里は現れた。ワンピースより濃いピンク色のバッグには、ジャラジャラとアクセサリーがついており、全体の雰囲気には不釣り合いだ。

「間賦口くんはドリンクだけ? 何も頼まないの?」

「あぁ」と相槌を打つ。

 午後一時過ぎだというのに、店は比較的空いているようで、瀬山の注文したものはすぐに届けられる。

「ちょうどハンバーガー食べたかったんだよね。オニオンフライも好きなんだぁ」

 口を噤み、瀬山の様子を窺う。それに、転げ落ちそうになった羞恥心が残っているので、落ち着きを取り戻すまで、時間の経過を待ったほうが得策だろう。

 だが、他愛のない会話が続くわけもなく、瀬山は過去に触れる。

「……やっと思い出したんだよね。やっぱり、私のこと恨んでる?」

 聞かずともわかるであろう質問を瀬山はぶつけてくる。その言葉を聞いて、主に怒りの感情が湧き、羞恥心は中和され、落ち着きを取り戻す。

「俺になんて答えてほしいんだ?」

「…………難しいね。許すだとか、そういう次元の話じゃないっていうのはわかってるけど」

 少し時間を置いて、ちょうどいい熱さになった珈琲を口にする。

「でも、私は後悔なんてしてないよ。この一件で更に、宗真くんと繋がれた気がするの。好きだから、好き過ぎるから。だから、迷ったものの決断できた。私は、宗真くんのために生きているんだって実感が強くなっていった。生きるのも、死ぬのも、過ちを犯すのだって、全部、何もかも一緒」

 悪びれる様子を見せず、恋愛感情だけで生きてきたという自分に絶対的な自信を持ち、瀬山志穂里という人間を形成している哲学とも感じた。

 そんな彼女が、松長宗真という男を失ったとしたら……そんな考えが頭を過った。

「逞しいな、あんた。俺の目の前でそんな戯言抜かせるなんて」

「上っ面だけで語るのは駄目かなと思って。本心だよ。それとも、嘘でもいいから悲しそうな顔で謝罪してほしかった?」

 謝ってほしいのだろうか、その謝罪に意味がないと知っていても。しかし、その言葉とは裏腹に意外なことを言った。

「……でもね、行動そのものは肯定してないよ。言ったでしょ? 迷ったって。だって、私たちがしたことは許されない犯罪なんだから」

 ちっぽけな常識であれ、持ち合わせていて胸を撫で下ろす。

「せめてもの償いと思って、彩ちゃんには色々と協力しているよ。だから許してとは言わないけど」

「それで許すかどうかは定かじゃないが、何だかんだ言って、俺はそれほどあんたを恨んでいないと思う。元凶である松長さえいなければ、あんただってこんなことしなかったんだろ?」

「それは、まぁ…………」

 そして、無言の時間が流れ始めようとしたので、ここぞとばかりに瀬山へ問う。

「あんたは今、俺と松長がしていることを知っているのか? 殺し合いだ。対等じゃない殺し合い。俺は腕もなければ、松長の情報もないに等しい。こんなの勝てるか? あんたはどう思う? 敗北の結果を待つだけに何の意味がある。そんな有利な条件でしか戦うことのできない男があんたは好きなのか?」

「…………宗真くんがそういうことを始めたのは知ってる。でも、間賦口くんに貶められる筋合いはない!」

 瀬山が机を思い切り叩くと、その音が店内に響き渡り注目を浴びる。

 想定通りだ。扱いやすいことこの上ない。もっと興奮させて、知性を失わせる。

「筋合いがなかろうと、真実だろ。例えるなら、歩のみで形成された部隊を引き連れて竜王部隊を倒せと言ってるようなもんだ。そんな勝負を仕掛ける松長をどう思うか、“本心”で言ってみろ」

「…………………………………………」

「卑怯、だろ? そんな卑怯者に惚れてるなんて、滑稽だな。もしかして松長は、監禁した相手じゃなきゃ強気になれない腰抜けか?」

 端正な顔をふいにして歯をギリリと食いしばり、瀬山は強い眼差しを向ける。

 しかし、自分自身、そのやり方には尊敬の念を抱く。竜王部隊を形成した手腕を褒め称えるべきであり、平等を唱えるべきではない。だが今は、個人的な感情は無視だ。

「うるさい! やめてよ、何が目的で私を呼んだの? 理由を言いなさいよ!」

「わかるだろ。松長の情報をよこせ。対等に戦わせろ。それだけだ」

 すると瀬山は、座っているベンチシートに置かれたバッグから携帯電話を取り出した。

「ほら、これ。連絡先見せるから、電話番号とか住所メモして」

 電話番号に関しては、通話ができるだけであり、そもそも電話に出るとも限らないのであまり有り難みを感じないが、住所を知れたのは大きいのではないだろうか。否応なしに松長と顔を合わせることが可能だ。

「他には? もう少し個人情報が欲しい」

「わかった」瀬山は視線を逸らす。「今日はまだ時間あるの? これ食べたら場所変えよう」

「それはなぜ? ここじゃ都合が悪いのか?」

「…………周りの視線」と言われて周辺を見ると、こそこそ話をしている人や、わざとらしく目線を逸らしている人がいた。痴話喧嘩とでも思われているのだろうか。確かに、このまま話を続けるのは気が進まないし、これと言った用事もないので、場所を変えるべきだろう。

 冷静でいられる人間が上に立つ。焦りや怒りの感情に惑わされてしまったら、最上の選択はできない。深呼吸をして、血液の流れを感じ取るように思考することを改めて銘記する。

「そうしよう。こっちは一日大丈夫だけど、そっちは?」

「夜までなら空けてある。でも、ちょっと、待ってて」

 手に持っていたハンバーガーを黙々と食べ始めた。

「…………俺も何か頼むべきだった」

 美味しそうにハンバーガーを平らげる姿を目の当たりにして、腹鳴が響く。




 身体へ衝撃が走ったと同時に呻き声を漏らし、視界が揺らぐ。

 何が起こったのかわからなかったが、男の声を耳にすると察した。

「こんにちは、間賦口雄斗くん。久しぶりだねぇ。どうしたんだい? そんなとこに横たわって。洋服が汚れてしまうじゃないか」

 俯せに倒れた俺へ向けて手を差し出してくるが、それは右腕に向けてのものだった。当然握り返すことはできないし、左腕さえ正確に動かすことができない。

「ほら、起こしてやるよ。手を出せって。……あぁ! 握る腕がないんだったな!」

「……お、お前、何を、した」

「非殺傷性個人携行兵器。要するにスタンガンだ。しかし、残念だな……こういうのは一発で気絶させられるってイメージがあるが、やっぱり市販の物じゃ気絶しないか。それでも、市販じゃ最強らしいからな、これ。一分近くは動けないはずだ」

 全身が引き攣るような痛みだというのに、一分ほどで回復するのだろうか。

「とりあえず、そうだな…………もう一度浴びとくか?」

 視界に電撃が走る。一度浴びたとはいえ、この衝撃に慣れるのは難しい。

「はははははっ! ビクビクして面白いぞお前! もう一度だ!」

 必死に意識を保ちながら、幾度となく流れる電撃に耐え続ける。

「まだ意識があるのか。なかなかしぶとい奴だな、お前。その立派な精神力を称賛して、俺がここにいる理由を教えてやる」

 しっかりと見えるように、俯せの俺の前へしゃがみ、見慣れない小さな機械とノートパソコンの液晶画面を見せてきた。

「GPSロガー。こいつはリアルタイムで居場所を教えてくれる代物だ。お前と志穂里が会うと聞いて持たせておいた。あとは、ネットブックを片手に尾行してれば、隙だらけのお前に会えるわけだ」

 画面には現在地と、この場所へ至る道順が記されていた。

「それと、志穂里のバッグにマイクをつけておいた。わかるな? 会話はすべて俺の耳の中に流れている」

 ジャラジャラとつけられたアクセサリーの中に紛れていたのかもしれない。

 不覚だった。

 すると松長は、ネジが外れたように笑い始める。

「いやぁ、本当にお前は面白いな! 俺のこと知らないからズルい! 卑怯だ卑怯だ! ってか? そんなことを堂々と抜かしやがって! 笑えるぜ!」

 松長は立ち上がり、俺の横腹を何度か蹴ったあと、瀬山へ不満をぶつける。

「でもなぁ、志穂里。なんで勝手に俺の家とか教えてんだ。飯食ったら出てこいって言ったろうが。こんな簡単なこともできないなら、全て終わるまで寝てろ」

「ごめんなさい……宗真くんの悪口を聞いてたら我慢できなくて…………。一刻も早く黙ってほしかったから」

 立腹させる行為は間違っていなかったようだ。

 意識が朦朧とする中、左手をグッと握る。

「とりあえず、俺たちは帰るから。お前は迎えが来るまでそこで寝ててくれ。沙絵を呼んでおいたからよ。知ってるだろ? 御沓沙絵だ」

 御沓沙絵という名前が、松長の口から発せられた。聞き間違えたのだろうか。

 いや、間違いなく、こう言っていた。「御沓、沙絵…………」

「なんで知ってるんだって顔だなぁ、うくくっ。あぁそういや、情報が知りたいって言ってたからな、教えてやるよ。お前の腕、江利川の眼球がない理由の根幹は御沓沙絵だ」

 何も言い返せず、止めの電流を浴びて目の前が真っ暗になった。




 息をしている。それは、確かな生きているという実感。

 深く空気を吸い込むと、身体は軽くなって、どこへでも飛んでしまいそうな感覚に陥ってしまう。しかし、それでは駄目だと空気を吐き出して、血液を循環させる。

 その流動を察知すると、より一層、生きている実感が強くなっていくのがわかる。

 生きている。

 死んでなどいない。

 生きているのだ。

 双眸を見開き、立ち上がれと奮起する。

「雄斗、起きて! 起きてってば!」

「………………………………あっ」

 意識が回復し、目を覚ますと、左目を真っ赤に染めた彩の姿があった。頬を伝って落ちた涙が、顔を濡らしている。

「よかった、本当によかった…………。さっきまで沙絵と一緒にいたんだけど呼び出されて、そしたら、雄斗、倒れてて……………………」

 嗚咽しながら喋り、涙は枯れることなくポタポタと落ち続ける。こんな思いをさせてしまった自分が情けなくて、心が苦しい。

「そうだ、沙絵は? 一緒だったってことは、今は」

 辺りを見回すが、車が停車していなければ沙絵も当然いない。松長との関係を根掘り葉掘り聞こうと思っていたのだが、それを恐れて帰ってしまったのだろうか。

「沙絵は……用事があるとか、私も詳しくは知らない…………」

 何か裏がありそうな感じだが、その言葉を信じて猜疑の目を瞑る。

「それよりも、雄斗、立てる? 家に帰ろ? 身体が心配だよ」

「…………そう、だね」

 彩の肩を借りながら立ち上がると、汚れた箇所を叩いてくる。こんな些細な気遣いを嬉しく感じながら歩き始めた。

 だが、沙絵のことが気になる。沙絵がこの場にいない理由を知っていると仮定して、それでいて松長と沙絵の関係を知らないとは思えない。そう思っていてこんなことを聞くのは酷な気もするが、その関係を明白することは重要だ。

 それに、本当に知らない可能性だってある。それはそれで、衝撃の事実なのかもしれないけれど。

「彩は、知ってる? 松長は沙絵を知っているってことを」

「………………………………………………………………」

 不自然に黙秘を続け、目が少し泳いでいる。

 やはり、彩は知っている。

 質問の解を得ることはできなかったが、否定をしなかった。だから、追求を許されたのと相違ない。

「知ってることでいいから、何か教えてくれないかな」

 少しだけ、歩行速度が落ちた気がした。

「知らないってこと? それとも、何も言わないのには理由があるの? そうやって無言を突き通すんだったら、俺にも考えがあるけど」

 そんな考えはない。思わせぶりなことを言えば、喋ってくれると思ったからだ。

 彩は歩行を止める。

「私の一番好きな人が知りたいことを私は知っているのに、教えることができない」

 そして、力強く握り拳を作り、唇を噛んだ。

「それだけでいいよ」

 やはり、何か事情がある。彩には教えることができても、俺には教えられない何かが。

「でも言わなくちゃ! 沙絵には悪いけど、やっぱり雄斗を裏切れないよ!」

 それに対して俺は無言のままでいた。彩へ耳を傾けつつも、再び歩き出して自制する。俺はもう言わなくていいと伝えた。これ以上追求し、言うなと頼まれたことを無理強いして吐かせることなんてしたくない。しかし、沙絵を裏切ってまで俺に伝えるという決意を無下にするわけにもいかない。

 だから、彩と同じように無言を突き通す。

「沙絵はね、松長宗真と幼馴染なの。詳しくは教えてくれなかったけど、私たちが出会うきっかけになった、あの監禁は…………沙絵のせいなんだって」

 松長と幼馴染だったということは理解できるが、右腕を失った原因が沙絵というのは全く理解できない。沙絵自らが手を下さずに、松長と瀬山に監禁を指示していたと解釈すればいいのだろうか。それならば、今までの親密な関係は嘘だったということになる。

 そんなはずはない。

「沙絵のせいって、なんだよ。聞き間違いとか、勘違いじゃなくて?」

「私だって信じられないよ。そんなこと……信じられるわけない。でも、沙絵は間違いなくそう言ってた。だから、私の右目と、雄斗の右腕の代わりになりたいって」

 それはすなわち、根幹の大きさを表している。自責の念に駆られてしまうほど、沙絵自身が原因だと感じているということなのだろうか。

 俺は否定する。沙絵は自由奔放で無責任と第一印象で思っていたけれど、それは間違っていた。“人は見かけによらぬもの”とは沙絵のためにある言葉だと思えるほどに。

 人間、第一印象が大事なのは間違いないだろう。だが、沙絵は広く浅い人脈を欲してはいない。深い付き合いをするには、付き合うことへのメリットとデメリットを明確にしなければ不可能であり、沙絵はあえてデメリットを印象づける。そうすることで、いざという時、メリットのハードルを下げることができるから、第三者から見ると大したことない事柄であっても、素晴らしいことをされたと思わせることができる。これは、結果的に好印象を勝ち取る沙絵なりの流儀なのだ。

 しかし、人間の心理を突いた上手い立ち回り方をしているつもりでも、人の良さが滲み出てしまっていて、悪人になりきれていない。

 そんな沙絵なのだから、原因と呼べるかどうか定かではないような理由に責任を感じているだけなのかもしれない。

「…………例え、沙絵のせいでも、私は感謝してるけどね。失った代償は大きいけど、雄斗と出会って、自分を変えることができたのは、その原因を作った沙絵のお陰って言えるから」

 それで、いいのだろうか。俺と出会えたことが、彩の右目以上の価値があるとは到底思えないし、自分を変えるきっかけが、右目の損失で正解なのだろうか。

 ただ、少なくとも今、確信を持って言えることがある。

「でも俺は、失敗してしまった」

「そんな風に思ってたら前に進めないよ。まだ、終わったわけじゃない。だから、一緒に頑張ろ? 影に属していた私たちにだっていつか、日の光が差すよ」

 不安も不満も吐露せずに鼓舞してくれる。

 恐怖や鈍痛を共有したあの時から昇華し、進むべき道程の遥か先で見守る姿が見える。進む方法を理解していて、俺を置いて進むことだってできるのに、それでも道標となるべく停滞してくれている。だから走らないと、走って追いつかないといけない。




 彩の肩を借りながら自宅への経路を進んでいると、一本のメールが届いた。

「……ん」誰だろうか。心当たりがある人は数えるほどしかいないけれど。

 隣で携帯電話を覗き込まれているので少し戸惑ったが、メール画面を開く。

 メールを送ってきたのは松長だ。電話番号はしっかりと入手したが、メールアドレスは携帯電話へ入力しなかったので差出人不明になっていて真偽不明だが、松長宗真と名乗り、偽る人間もいないだろう。

「あいつからメール? つーか、アドレスまで知ってるのかよ」

 それもやはり、沙絵からの情報、だろうか。

「内容は?」

 わざわざメールを送ってくるのだから、恐らく喜べない内容だ。次の攻撃と考えていいだろう。一通のメールを確認するだけで、これほど気が滅入るのは初めてだ。

『ちーっす、さっきぶり。お疲れのところだろうが、早く家に帰ったほうがいいぜー』

「なんだ…………? 家に、何かされたのか?」

 焦慮に駆られる。冷静でいられる人間が上に立つ、とわかっていても、立て続けの攻撃に冷静でいられる自信がない。

「なに、これ。早く家に帰らなくちゃ。怖いよ」

 その言葉とは裏腹に彩は立ち止まり、俯いてしまった。

 駄目だ。

 こんなの、駄目だ。

 彩を守ると決めた。彩を幸せにすると決めた。こんな身体でも、守ると決めた。

「走ろう、彩! もう後戻りなんてできない。俺は彩を絶対幸せにする。そのために俺は、悪魔に魂を売る。それだけ負けられないんだ」

 一生懸命考えた末の策なんて捨ててしまおう。俺が考えた“変哲ない奇策”があの奇人、松長宗真に通じるはずがない。それならば、奇策を“下回る”凡策を講じるとしよう。

 不可解な絶望は浴びたのだから、今度は浴びせてやろう。

 全力疾走する。そして、その勢いのまま、松長宗真を打ち破ると心の中で叫んだ。




「あぁ、どうしよう。どうすればよかったんだろう。これでよかったのかな」

 近くのコンビニに駐車して、携帯電話を手に取り、独り言つ。

「雄斗からの通知、なしか。あぁ……不安だ。大丈夫かな」

 一通りの確認をし終え、携帯電話を助手席に放り投げて、車を発進させる。

 するべきことはした、と思う。あとは待つだけだ。

「宗真のやつ、ついに関係ばらしちゃったからなぁ…………」

 松長宗真とは十年前近く、幼いころからの仲だ。性格というか、嗜好というか、何かと通ずるものが多くて、性別を気にせずに付き合えた。

 そう、過去形だ。

 あの出来事を最後に、私は宗真と距離を置いた。

 そして、雄斗も一緒に距離を置くことになる。

 きっかけは、忘れもしない。あれは七月二十九日の金曜日。




「お疲れ様でしたぁ!」

「お疲れさーん」

 仕事を終えて、店長や夜のアルバイターに挨拶を交わしながら控え室へと戻る。

「あぁー今日も疲れたなぁっと、宗真に連絡しとこ」

 今日はこれから宗真と志穂里と私で会うことになっている。

 タイムカードを押し、仕事用のエプロンを畳んでバッグに放り込み、控え室を飛び出す。

「うぅん……っと、半袖でも全然寒くないや」

 身体を伸ばしながら、そのまま店を後にする。

 車を所有しているが、歩いて七分前後で帰宅できるので、普段は徒歩で通勤している。

 夏の帰り道が好きだ。夏になると感じる適度な涼しさが気持ちいいので、つい寄り道をしてしまう。今は七時二分。約束は八時なので充分時間はあるだろう。今日も公園に寄ってから帰ることにした。

 私のお気に入りの公園は寂れている。毎日通っているわけではないけれど、人がいるのを見たことがない。けれど、昨日人がいた。しかも、右腕を失った好みの男子。

 何を隠そう、欠損嗜好なのだ。腕や足を失っている人間に異様な興奮を感じる。そして、宗真も同類だ。理由は恐らく、多感な時期に見た小説だろう。好みなんて所詮そんなものだ。

 そんな私にど真ん中直球のストレートが投じられたのだ。彼はまさしくストライク。

「でも、バイト帰りだから格好がなぁ…………。まぁ、いると決まったわけじゃないし、服装だって昨日と変わらないけど」

 せっかくなので、いつもと違う出入り口から公園に寄ることにしよう。東側の出入り口は、遊具が密集している中心地と少し離れており、様子見するのにちょうどいい。

「そーっと、そーっとね…………」

 壁を沿って進み、顔だけをそろりと出して公園を見渡すと、簡単に彼を見つけることができた。熟視すると、俯いているように見える。

「元気、ないのかなぁ。昨日は地べたに寝てたしなぁ。絶対頭おかしいよ……そんな部分がそそるんだけどね! 今日のミッションは連絡先の交換だな」

 緩慢な動きで、足音を立てないよう気にしながら徐々に近づいていく。しかし、全くと言っていいほど周りを気にしていないようで、普通に近づいても大丈夫ではないだろうか。

 感知されず、難なく彼の座るベンチの後ろに辿り着くことができた。

 彼の目元を覆って、まるで恋人のように問いかける。

「だーれだ? 元気ないね」

「うわっ!」

 私の冷たい手と打って変わって、彼の顔は温かい。

「あんたは、昨日の!」

 声だけで分かってくれたようだ。昨日会っただけなのに、凄い。もしかして、結構意識されていて、私を待ち侘びていたのだろうか。

「大正解! もしかして、私のこと、恋しくなっちゃったからここにいるの?」

 そうなのだとしたら遊び甲斐がある。思う存分からかってあげよう。

「こ、恋しいっていうか、なんていうか…………」

 何か発しようとして、口を閉じてしまう。

「ていうか、いつまで手で隠すんだよ」

「あ、ごめんごめん。つい触っていたくて」

 誤魔化した。絶対に誤魔化した。なんとかわいいのだろうか。抱きしめたい衝動に駆られ、抑えることができない。

「「いったー!」」

 抱きしめようとした途端、頭突きを浴びてしまった。

「ちょっとー、急に振り向かないでよ! …………抱きしめてあげようと思ったのに」

 痛い。ただただ、痛い。勢いに限度があった。抱きしめることもできず、咄嗟の行動に少し反省する。しかし、私の言葉に頬を染めた気がして、煽るように言葉を続ける。 

「どうしたの、黙り込んじゃって。もしかして想像した?」

 やはり何も言わない。抱きしめてあげよう、という言葉を本気で受け取ったようだ。もちろん、私も本気で言ったのだから、それはつまり意思疎通が図れているということだ。

「仕方ないなぁ、ほらほら」

 ベンチ越しに彼を抱き寄せる。熱を帯びた顔と身体は、私の気分を高揚させる一端となる。

「…………ち、ちょっと、まずいって!」

 しかし、無理矢理引き剥がされてしまった。片腕とはいえ、男の腕力には敵わない。

「もう、照れちゃって! 顔真っ赤! 熱いよー!」

 これでもかと顔を赤くして目線を逸らす初々しさが堪らない。

「あ、あのさ、名前」

 よく聞き取れないが、名前を聞いているようだ。嫌がられていることもなく、関係は発展しているようだ。このままの勢いで連絡先も手に入れるとしよう。

「え? 名前? 私の名前は、御沓沙絵。沙絵って呼んでいいよ。君は?」

「俺は、間賦口雄斗」

 まぶぐち、ゆうと? まぶぐち? 真、馬、眩……眩しい……。該当する漢字が全くわからない。学がないと思われるのは癪だが、この際仕方ないだろう。

「君さ……、…………君の名前さ、漢字でどう書くの?」

 真剣な面持ちで尋ねたせいか、唖然としているようだ。しかし、左手でカーゴパンツの左ポケットから携帯電話を取り出し、何かを打ち込んだあと、差し出される。

 隻腕を気にしている可能性があるのであえて右手については触れないけれど、称賛したくなるほど器用だ。

「どうも」手渡された携帯電話の画面には、名前が漢字で表示されていた。

 間賦口、雄斗。やはり見慣れない苗字だ。しっかりメモしておこうと、私も携帯電話を取り出し、新規連絡先に名前を入力する。

「……………………」

 一瞬視線を向けると、雄斗は空を見つめていた。何とも言えない儚げな表情で、遠くを見ているようだった。その横顔に、私はますます興味がわく。

 ふと、脳裏を過る。今なら携帯電話の中を覗いても気づかれないのではないか、と。

 気がつかれないうちに電話番号とメールアドレスを入手しようと試みる。私のメールアドレスを高速で打ち込んで空メールを送信したあと、私の携帯電話へワン切りをした。

 雄斗はまだ空を見ていた。完璧だ。

「はい、おっけー」

 ホームボタンを押し、携帯電話を返す。何も言わなければ、電話番号とメールアドレスを奪取されたとは思わないだろうが、敢えて私は宣言する。

「電話番号、それとメールアドレスもいただきましたよ」

 早速、着信履歴からリダイヤルをして、雄斗の携帯電話を鳴らす。着信音は初期から変えていないのか、いわゆる“着信音その一”だ。

『もしもし』

「雄斗ですか?」と言った直後、通話を切られてしまう。

「目の前にいるのに電話する必要ないだろ」

「着信音何かなーとかちゃんとかかるかなーとか、あるじゃん。じゃあ、次はメールね」

 これは馬鹿の評価を覆す絶好の機会だ、メールの早打ちには自信がある。

 内容は私のプロフィール。名前と電話番号、念のためメールアドレス、血液型、誕生日、趣味、特技、好きなタレント、歌手、ブランド、思いつく限りの内容を必死に打ち込んだ。

「ほい、完了」雄斗はメールの内容量に驚いている様子だ。本気を出した甲斐があったと心の中でガッツポーズする。「ちゃんと登録しておいてよね!」

「ん……あぁ」

 忌避的な返事だが、顔は綻んでいる。そんな素直じゃないところも好みだ。

 そういえば、メールを入力している際に気がついた。七時半を過ぎている。これほど愉快な時を終えるのは悲しいが、早く帰らなければいけない。

「じゃあ、私は帰ろっかなー。来たばっかなんだけど、まさかいるとは思わなかったし」

 ただ、その言葉に尽きる。二日も続けて出会えるとは思っていなかった。

「それは、俺も…………そもそもなんでここに?」

「うーん、もちろん雄斗に会いたかったのもあるけど、夏恒例の帰宅ルートなんだよね。ここで小休憩してから家に帰るのが一番気が落ち着くっていうか」

 雄斗に対抗し、素直じゃないアピールをしてみた。

「仕事の帰り、とか? 近くで働いてたり? 格好もそんな感じ」

 北西を指差してすぐそこだよと告げる。それにしても、急に突っ掛かる。別れを惜しんでいるのだろうか。

「そこの薬局? ふーん、俺あんまり行かないしなぁ」

「訂正させてもらいます。あれは薬局ではなく、ドラッグストアです。薬剤師ではなく、登録販売者しかいないのです。処方箋を持ち込まれても困るのです、まる」

 この会話、凄く惜しいけれど、そろそろ本当に帰らないと間に合わない。

「って、そんなこと言ってる場合じゃないんだった。これから用事あるから、帰る!」

「そっ、か…………」

 雄斗は悲しげな表情で頷く。

「なんか、本当ごめんね。私が絡んだくせに。今日もいるとは思わなかったんだ。あとでメールするからその時に! じゃあね!」

「あぁ、また」

 走ってこの場から立ち去る。雄斗を見て手を振っていると、傾斜で転びそうになり、恥ずかしさを隠そうと笑ってしまう。その時、雄斗も笑っていて、より一層にやけてしまう。

「うわーやばい。もう四十分だ。シャワー浴びたかったけど、しょうがない。着替えるだけにしよう」

 公園から走って五分もせずに帰宅し、急いで着替えてから愛車の鍵を手に持ち、家を出た。




「遅くなってごめーん」

「待たせ過ぎだ」

 自宅から車で約十五分の場所にある焼肉屋に約束から十分遅れて到着し、宗真と志穂里は車の中で待機していた。車は当然、宗真の物である。

「相変わらず綺麗に乗ってんねぇ。買って一年以上経つけど、汚れてる時がないよね」

「車ってのは服装と変わりない。いくら整った格好をしても、車が泥だらけじゃたかが知れてるだろ。それにこいつは、わざわざ状態が良いのを探して買ったんだ。汚くしちゃそこまでした意味がないだろ?」

 宗真が常に心掛けている拘りの一つだ。

「中途半端が嫌いだからな。完璧であるべきものは常に完璧であるべきだ。とまぁ、こんな話は店の中でいいだろ。行くぞ」

 賛同して志穂里と共に宗真の後を歩く。

 店の中へ入り、名前を告げると、予約していた座敷へ案内される。

 私が主催ならこの店は選択しない。言わずもがな、値段が少し高めだからだ。今日は宗真の奢りだから来たのであって、割り勘なら、まぁ来ないだろう。

 宗真は仕事をしていないにもかかわらず、財布は常に厚い。いわゆる、親の脛かじりだ。

「あーむかついてきた! 特選霜降りカルビ注文じゃー!」

「ハハハッ! 相変わらず脂身が好きだな! そういえば、好きといえばだな…………」宗真がわかりやすく口角を上げる。「間賦口雄斗っていう男がいるんだが」

「えっ?」

 まぶぐち、ゆうと? ついさっき会ったあの子だ。好きといえば、と続けて雄斗の名前を出すということは、つまり。

「これがその男の写真だ。見てみろよ」

 宗真は携帯電話を差し出し、凄惨な肉片を映し出していた。

「………………………………」

 切断された右腕は鬱血して変色し、至る箇所にホッチキスの芯のようなものが埋め込まれ、まるで、赤黒い絵の具が飛び散っているかのように、血が散乱している。

「それでな、これが張本人。お前好みだろ?」

 そう言って画面をフリックすると、悪い予感通りに雄斗が映し出されていた。この写真ではまだ右腕が繋がっているけれど、静止画でもわかるほど不安定な眼差しで虚ろだ。

「これってマジなやつじゃん……。私本人と会ったよ。しかも、ついさっきだよ。この画像どこで見つけたのさ」

 そう疑問をぶつけると、宗真自身も困惑の表情を浮かべたあと、ニタニタと薄ら笑う。

「見つけたも何も、撮影したのは俺だぞ? いやぁ、苦労したぜ。完全犯罪になるよう仕向けるのはこの俺でさえ憔悴した。心を壊すための環境を整えて、長期間不在でも怪しまれない対象の選定をし、解放後の――――」

「それ、本気で言ってんの?」

「…………は、はぁ?」

 相変わらず困惑している。まるで私がおかしなことを言っているようで、心地が悪い。

「志穂里も大変だねぇ。こんな妄言に付き合わされて」

 妄言とはいえ、事実、雄斗の右腕はない。右腕を失う過程は知らないけれど。

「本当の話だよ。私だって協力したし。少し嫉妬しちゃうなぁ……沙絵ちゃんをビックリさせるからって最後まで内密にしてたの」

 志穂里まで何を言っているのだろうか。

「で、話戻すけどよ。この男の詳細、知りたいだろ? 気になるだろ?」

「宗真くん、さっき会ったって言ってたでしょ」

「あぁ、そうだったな! それじゃあ沙絵ならもう何から何まで知ってるってか?」

 この二人の言っていることは、どこまでが真実で、どこまでが妄言なのか。そして、その内容は全て、事実であってはいけない。

「おい、沙絵、聞いてるのかよ?」

「雄斗に、何をしたの」

 このあと宗真が発する言葉は既に脳内を駆け巡っており、痛々しく心を抉る。

「だから言っただろ。こいつを監禁して、拷問にかけて、最後に右腕を――――」

「もういい、もういいよ。冗談だとしても過ぎるし、冗談とも思えない、そんなことをしてしまった二人は……犯罪者だ。それだけは…………言っておくから」

 そう言い残して席を立った。一度振り返ると、宗真は遠くを見つめるようにして、私を見なかった。志穂里は酔いが冷めたかのように、顔を青くしていた。

 でも、もう遅い。事実と認めたくはないけれど、それが事実なら犯罪だ。

 店を出て車に乗り込み、携帯電話を手に取る。

「どうしようか…………」

 雄斗に連絡すべきか、否か。

 しかし、電話やメールで何を聞くというのか。監禁されていたか、拷問を受けていたか、右腕を落とされたか、そんな事実確認をすればいいのだろうか。

 そんなこと、できるわけがない。

 ふと、頭を過る。この案件には関わってはいけない、と。

「バイト、やめよ」そして、家を出よう。現実逃避をしよう。

 携帯電話を助手席に放り投げ、エンジンを始動させる。マフラーの音が全身を伝い、血液が高速で循環する。感覚が麻痺していくように、車の振動に耽溺していく。

「現実との境界線をしっかり見据えないから…………こんなことになるんだよ」

 アクセルを踏み込んで、全てを忘れ去るように悲しみの果てへ向かおう。

 その選択が誤っているのは自分でもわかっている。雄斗のため、宗真のために動くべきだ。しかし私は、不確定な未来を見据えて動くことができなかった。人は皆、自分が好きだから。

 とにかく今は、何も考えたくない。そう思いながら、行き先なんて考えずに直進を続ける。

 心を苛む事象を全て消し去ったあと、ここへ戻るとしよう。

 エンジンの回転数を高く保たせ、快音を響かせている。シートに押しつけられる加速を味わいながら、私は車から逃れることができないと悟る。駄目だと思う箇所はいくらでもあるけれど、何であれ、愛すべき愛車だ。この子だけは、私を裏切らない。

「達者であれよ。私は少しだけ物語の歯車から外れるとしよう」




 松長の言いなりになる必要はない。そう思って、帰宅することをやめた。

 これは意地でもある。

 自宅に何かされたことが気にならないといえば嘘になるけれど、自宅よりもまず、決着をつけることを優先するべきだ。

 今まで、松長を超えるべく奇策を考えていた。しかし、根っからの奇人に奇策を仕掛けて、果たして勝ち目があるのだろうか、と悟った。つまり正攻法、いや、それを更に下回る凡策が有効ではないのだろうかと。簡潔に言えば、じゃんけんの法則だ。

「彩、乗り込もう。松長宗真の家に!」

「…………雄斗、本気? い、家に乗り込むって」

 奇策を以て奇策を制することは無駄だと悟った今、真っ先に思いつく凡策を実行する。

 結局決め手は、思い切りの良さと運だと思う。

「そもそも、松長が家にいるの? いなかったら、どうするの…………?」

「関係ない。いてもいなくてもやることは一緒だし、いなかったら呼べばいい。こんなやり方じゃ、彩は俺のことを蔑むかもしれない。嫌うかもしれない。それでも俺は、松長に負けたくない」

 再度意志を固める。揺らぐことのないよう、より強固に。

 許されない、禁忌を犯すのだから。

「私のことは気にしないで。私が足枷になっちゃったら、一生後悔するから」彩は俺を見据えて続ける。「雄斗のこと、信頼してるから。だから、やりたいことをやって」

「ありがとう。全てを終わらせよう」

 この作戦を遂行するためには、いくつか必要なものがある。そして、全ての準備を終えるには数時間ほど必要だろう。

 しかし、猶予はない。とにかく急ごう。




『お前の脅迫には屈しない。こんな馬鹿げたことを始めて、たった一日しか経過してない。でも、長く続ける必要はないだろ? すぐに決着をつけよう。場所はお前の家だ』

 全ての準備を済ませてから送信するのだが、時間を持て余したので、松長宛のメールを先に打ち込んでおく。

 時間が惜しいのにもかかわらず持て余した理由はタクシーだ。松長家へ徒歩で向かうと時間が掛かり過ぎるので、無理してタクシーを拾ったのだ。元々軽かった財布はこれを機にすっからかん、それどころか、足りない分は彩に出してもらった。

「ここが、松長の家…………」

 恐らく、俺たちが監禁されていた場所。何もかもを共有した場所。

 そして、松長との鎖を断ち切る場所。

 足が竦む。終わりが近づいていると感じ、感じた分だけ心は萎縮し、脂汗が身体中を覆う。そのせいで、一歩を踏み出す力が通常よりも必要だ。全身筋肉痛の状態で、米俵を担いで階段を登るような感覚に襲われ、当然、力を抜いた途端に潰されてしまう。

「行こう、雄斗。泣き言は言ってられないでしょ」

 彩が息を飲む音が聞こえた。


「もう、戻れない」


 心を蝕む重圧に負け、やすやすと自宅には、もう、戻れない。

 右腕のある生活には、もう、戻れない。

 彩が隣にいない世界には、戻りたくない。

「まぁ、お金がないから戻ろうにも、戻れないか……はは」

 彩のお陰で身体が軽くなり、一歩を踏み出すことができた。

 この一歩を全身に刻んで、ここへは二度と立ち入らないと誓って、開いたままで不用心な家の門を通った。

「うわぁ、広い。庭だけで百坪以上ありそうだ。こんな大きい家に一人暮らしとか、不謹慎だけど、監禁に限らず環境が整い過ぎてる」

 例えば今、ここで大きな声を出して助けを乞うたとしても、誰の耳に入ることもなく、大声は空へと向かって霧散するだろう。

 住宅街とは少し離れ、近所付き合いとは無縁の場所にある松長家は、率直に言って富者の家だった。彩の家も比較的大きめな家だったが、これは比べるに値しない。はっきり言って、比べようがないほどの格の違いを見せつけられている。

 しかしながら、それは好都合でもある。誰しも考えては放棄してしまうであろう凡策を講じるには、周りの目を気にする必要があったからだ。ここならば間違いなく可能であり、成功に期待できる。

「俺は作るものがあるから、そこの車庫みたいな場所に撒いておいて」

 彩は頷いて、キャリーバッグのキャスターを転がせた。中身を含めて十キロ近いので、いくらキャスターが付いていても重く感じるだろう。

 しかし、俺がこれから作成するものははっきり言って危険だ。疲労度だけで言えば俺はかなり楽をしているが、万が一を考えて俺自身が作成することとした。とはいえ、数分で完成する見込みなので、それから手伝うとしよう。

 予想や予測が上手く当て嵌まり、失敗の文字が掠れて見えにくい。それは半ば強制的な楽観視による視野の狭窄だろうか。

 現在五時を過ぎ、だんだんと明るさを失ってきているこの庭で、明るい未来を掴み取ることが果たして可能なのか、考える。

「……………………少なくとも、やっていることに賛同できないよな。普通は」

 この作戦が成功したとしても、明るい未来に直結するわけではない。しかし、行動しなければ未来さえも訪れない。

 太陽が沈むと俺の心も同様に意気消沈していく。そして、月が妖しく笑う時、松長も同様に笑うのだろう。陽と陰、太陽と月、間賦口雄斗と松長宗真。

「ちょっと、無理矢理か…………俺が太陽なわけないし」

「太陽だよ」

 車庫の方向から声が聞こえた。

「雄斗は、私の太陽だよ。暗い闇に囲まれていた時、眩い希望で照らしてくれた」

 それは彩への慰撫でありながら、自分自身への現実逃避でもあった。

 勘違いをしている。彩が思っているような聖人君子ではないし、土性骨の据わった逞しさなんてない。置かれている立場に必死だっただけだ。

 しかし、それを彩に伝えることが正解だと思えない。沙絵のような人間ならば、照れているなどと言って茶化すかもしれないが、彩の場合、間違いなく信じ、下手すれば関係を壊してしまう。一度悲観すると、何もかもが招かれざる絶望と感じてしまうように。

「…………雄斗?」

 すぐ後方から彩の声がした。

「ん?」

「私、終わったよ。やっぱり作るの時間掛かる? 暗くなってきたし、早めに準備しないと……何か、手伝おうか?」

「全然大丈夫。ちょっと考えごとしてただけだから」

 思考するのをやめて、事実は墓場まで持っていくことにした。事実を全て伝えるだけが正解ではない。

「よし、完成。松長へメールを送信しよう。失敗しないといいんだけど…………」

 携帯電話を取り出し、送信ボタンを押せば、全ての始まりと終わりが、開始する。

 後悔なんてない。覚悟を決め、失敗なんてしないと自信を持って希望を紡ぐ。

「送信!」

 送信すると同時に、頭の中で時計の針が著しく鳴り響く。監禁の恐怖が再燃するようで、身震いしてしまう。それでも、この身震いは武者震いなのだと言い聞かせて、高揚する。

 新たな道筋が増えたようだ。魅力的で利己的な、先の見えない迂曲道。

「……遠くだけど、車の音がしない?」

 隻眼のおかげか聴力の優れた彩が、疑問を投げ掛ける。言われてみれば、聞こえなくもないが、もしも車が近づいているのなら、襟を正す必要がある。

「車が来るとしたら、松長の可能性大だよね。こんな辺鄙な場所に来る人なんていない」

 つまり、車の音がした場合、この家へ向かっているのと同義だ。

「やっぱり、聞こえるよね? うん、近づいてる……近づいてるよ!」

「落ち着こう、わかってたことじゃないか。指定した場所で待とう」

 しかし早い。メールを送信した直後だ。近くを走っていたのか、帰宅途中だったのか、それとも、この行動すら松長の予想の範疇だったということなのか。

 もう後戻りができない今、そんなことを気にして落ち込んではいけない。最終確認をして、余計な思考回路を閉鎖する。復讐の感情で身体中を支配し、非情になって、徹底的に松長宗真を叩くことだけを思い描く。負けることは許されず、それは死を意味し、次はない。

 明日もまた太陽が昇るように、俺も明日を迎えよう。




 ワインレッドで全高の低い車が現れた。松長は当然運転席に座っているが、瀬山は助手席に座っていなかった。

「何だ、この臭い…………。もしかして、ガソリン漏れてんのか?」

 車から降りた松長は頻りに臭いを気にしている。しかし、何ら不思議ではない。この臭いは鼻が利かない人間でも気がつくだろう。耐えられない臭気ではないが、気分を害す。

「燃料ホースが原因か……? 明日しっかりチェックしないとな」

 車のボンネットを開けて、手に持ったライトの光を頼りに色々と確認しているようだ。隙だらけの後ろ姿に足音を立てず近づき先制攻撃を仕掛けてもいいが、車庫の前には防犯用の砂利が撒かれていて、静かなこの場所では不可能だ。

 下手なことは考えず、行動に移す。隣で息を潜めている彩に合図をして、一歩前へ出る。

「車の故障ですか? 松長宗真さん」

 その問いに何も返事をせず、規則的な歩行で距離を詰めてきた。完全に日が落ちていないのが幸いして、左手のライトとは別に、懐から何かを取り出したのが見えた。

 鈍色に光るそれは、アイスピックのようだ。手を出される前に牽制する。

「待て! こいつを投げてもいいのか?」

 左手が掴んでいるのは携帯電話で調べて作成した手作りの火炎瓶。手順は間違えていないはずだが、しっかりと発火するか不明瞭だ。

 しかし、牽制は通じず松長は歩みを止めない。迫る鈍色が恐怖を駆り立てる。

「くそっ、少しは躊躇しろよな!」

 放物線を描くようにして車庫付近へ投擲された火炎瓶は見事に砕け散り、彩の撒いたガソリンに引火し一斉に火の手が上がると、さすがの松長も停止する。

「俺は待てって言ったからな、恨むなよ!」

 黒煙が広がり、空気と共に視界も悪くなる。

「この…………この野郎、この野郎、この野郎! 俺の車が!」

 松長が車を大事にしていることは、輝いている車を見れば歴然としている。松長は俺に背を向け、車へと向かう。車庫を燃やして正解のようだ。

「待て!」急いで松長を追う。

 しかし、それは松長の罠であった。車庫へ向かったと見せかけ、そのままUターンをして急加速、アイスピックを突き出した。

「――――のやろォ!」

 もしも右腕が存在していたら刺されていただろう。身体の僅か数センチ右を掠めるようにしてアイスピックが通過する。

 急な回避でバランスを崩しながらも左足で踏ん張り、松長を殴打する。

「…………っ!」

 だが、体重が乗っておらず、思った以上に力が入らない。松長に命中したものの、決定打どころか、ダメージが蓄積してるとも思えない。

 右手を使いたいと切に思う。喧嘩慣れしていなければ、左手だけの格闘なんて生まれて初めてだ。拳を突き出してからのバランス感覚が異質で、戦闘に適していない。

 続けて右足で踏み込み、左足を繰り出すが、脇と腕で挟むような形で掴まれてしまう。ただでさえ足元が覚束ない俺は崩れるようにして松長と共に倒れ、その際に掴まれていた足を振りほどく。頭に衝撃が走り、視界が揺らぐと、ぼんやりとアイスピックを振りかざして口角を上げた松長の姿が映る。

「次は足の番だ!」と大声で松長は宣言し、俺は逃れられないと歯を食い縛る。

「そんなことさせない!」

 アイスピックを持った松長に向かって彩が躊躇せず突進し、押し倒した。松長は受け身よろしく倒れ込み、それと同時に右腕を突き出した。

「うあっ……あ…………」

 鈍色の矛先は、彩の顔に目掛けて進み、回避することは叶わなかった。

 俺は呆然と、黒煙が遮り辛うじて見える光景を脳に焼きつけることしかできなかった。彩の顔に生えたステンレスが、今、引き抜かれる。

 矛先には何かが付着しており、それは即ち、彩の顔から取り出されたものだ。

「ちっ、邪魔だ!」

「彩!」

 松長は彩を蹴り飛ばして退避する。顔を抑えて動かない彩のもとへ向かい、左腕で抱き寄せたあと、松長とは別の方向へ移動する。

 炎が激しく燃え盛っているが、家まで距離があるので、直に鎮火するだろう。

「蹴られたところは痛む? それに、目が…………」

「義眼で助かったよ…………」

 彩は右目を手で抑えながらも、安堵の表情で俺を見つめていた。眼帯をつけていなかったのが不幸中の幸いか、もしも眼帯をつけていれば、目標は間違いなく左目だっただろう。そもそも狙いを定めるほどの余裕があったのかという話にもなるのだが。

 松長は車庫へ向かい、車に乗り込み発進しようとエンジンを始動させた。車庫の中はそれほど燃えておらず、難なく車に乗り込めたようだ。

 車庫から火種を打ち消すように飛び出すと、俺たちを睨みながら何か口にしていたが、読唇術は体得していないのでわからなかった。

「ここまで、か…………?」

 すると、耳を劈くような音が門の方角から聞こえた。

 慌てて視線を送ると、松長の車が門に激突していた。

 常日頃出入りしている場所で、こんな時に偶然事故をしたというのだろうか。疑問に思いながらも距離を詰めると、黄色の車が門の外で停車していた。

 沙絵の車だ。

 冷静に現状を整理する。これは予想だが、余所見運転をしながら車庫を出た際、沙絵の車が近づいていることに気がつかず、緊急回避をした先が門だった。

 しかし、なぜ沙絵がこの場所へ来たのだろうか。そういえば、記憶を再度宿してから沙絵に会うのは始めてだ。実際は意識のない時に会っているのだが。

 車から沙絵が降りて、こちらへ向かってくる。

「ちょっと雄斗、彩、何これ! 庭ってか車庫が燃えてるし、宗真は事故ったし」

「その前に俺も聞きたい。松長と幼馴染だったこと、どうして言ってくれなかったんだよ。俺の腕がないのは沙絵のせいだってことも聞いた。松長の発言を全て鵜呑みにするわけじゃないけどさ、そんな嘘をつくとも思えないし」

 沙絵は目を見開いて停止し、俯く。

「ごめん、ごめんね……全部私のせいだ。私、逃げてばかりだ。今日もまた逃げちゃった。でも、それじゃ駄目だと思ったんだ。だから、雄斗に会おうと思って」

「それで、ここに来たのか?」

「正確には違う」

 沙絵は携帯電話を取り出して、メールの文面を見せる。

『お前の脅迫には屈しない。こんな馬鹿げたことを始めて、たった一日しか経過してない。でも、長く続ける必要はないだろ? すぐに決着をつけよう。場所はお前の家だ』

「ええっと、これって、松長に送ったメールじゃ…………」

 そう言うと、沙絵は無言で文字を打ち始め、間もなくして俺の携帯電話が振動した。

『このアドレスは私のだよ。使っていないもう一つのメールアドレス。これを使って、雄斗の家に呼び出したのに、何も返事がなくて焦ったよ。そしたら、さっきのメールが届いたから、急いで宗真の家に向かったってわけ』

 つまり、松長宛のメールは沙絵に届いていて、松長は偶然帰宅したということだろうか。

「もう、同時に色々と起こり過ぎ。とりあえず宗真は無事か見てくる」

 沙絵は事故現場へと向かってしまった。それをゆっくりと追うことにする。

 終わりが見えない。こんなことになって、どうすれば勝利で、どうすれば敗北だったのだろうか。松長を殺害することが本当の勝利なのだろうか。

 いや、そんなことはない。自分の罪を認め、罰を受けると心の底から思わせることができれば、本当の勝利といえるだろう。

 だが、あの男が自ら望んで罰を受けるとは思えない。思えないからこそ、罪を認めるまで罰を与えるしかない。だから、終わりが見えない。

「雄斗、いないよ! 宗真がいない! どこにもいないよ!」

 車の方角から沙絵の声が響き渡る。

「松長がいないってどういうこと? 怪我とか、してないのか……?」

 勢いはかなりあったので、無傷では済まないと思うのだが。

「血痕がある。この車、ステアリング変えてあるからエアバッグがないんだよ」

 ということは、激突した際に頭を強打して流血したのだろう。それならば、血痕を頼りに松長の居場所がわかるかもしれない。

「断続的に血が垂れていれば……どこに行ったかわかる」

「そうだけど、でもその前に消防車呼ばないと…………」

「多分だけど、大丈夫。ガソリンを少し撒いただけだし、庭も広い。家に燃え移ることはないと思う。確証はないけど、優先順位を考えたら火はどうでもいい」

 沙絵は黒煙が噴出する車庫を見て逡巡している。

「いいぜ、松長の味方になるなら、なれよ」

 俺は敢えて、沙絵を突き放す。曖昧な立ち位置で動かれたくないからだ。この問題に、横槍を入れる第三者は必要ない。俺たちか、松長たちだ。

「…………行こう。私は雄斗の右腕だから」

 そう言ってくれると信じていた。だから、突き放せたのかもしれない。

「ありがとう。じゃあ、頼みがあるんだけど、瀬山に連絡してくれないか? 義眼の処置は瀬山にしてもらったみたいで、今回もお願いしたいんだ」

 俺は本日の件で嫌われたかもしれないが、彩のことなら話は別だろう。

「ん? んん? ちょっと、待って。処置してもらったってどういうこと? 志穂里のことを前から知ってるわけじゃない……でしょ?」

「詳しい話はあと! そんなことより、連絡頼むよ」

「んー……そうだね」

 沙絵は渋々携帯電話を操作して、耳に添える。

「電話、気まずいなぁ。雄斗の頼みだからしょうがないけどさぁ。あ、もしもし」

 瀬山が電話に出たようだ。

「あ、もしもし、志穂里? 久しぶりだね。元気してた? 突然なんだけど、彩の義眼、また処置してほしいとかなんとか。そうそう、雄斗。これから志穂里の家行くから、あ、宗真の家がいいの? 処置する設備、的な? わかった。じゃあ待っててね」

 通話が終わったようだ。

「じゃあ志穂里連れてくるから。待ってるように」

 そのまま走って車に乗り込んでしまった。

「待ってるように、って……さっき言ったこと忘れたのかよ、あいつ」

 諦めかけていた松長への復讐を怒りに身を委ねて、再度行う。松長はせいぜい血で汚れた首を洗って待っていればいい。

「彩も一緒に行こう。松長を探して、見つけたら…………」

「私の義眼、返してもらう」

 黒煙混じりの追い風が身体を後押しする。少し肌寒くなった気がするけれど、身体は熱いままだ。完全に冷めてしまう前に、この熱をぶつけよう。

「さぁ、行こうか」




「あれだ……間違いない」

 端的に言って、松長は数分で見つかった。

 考えてみれば、それは必然だった。頭を強く打って流血し続けている身体で、そう遠くへは行けない。

 発見した松長は、覚束ない足取りで彷徨っているようにも見える。

 だが、そんな松長を不憫に思う必要はない。俺は思い切り地を蹴り、距離を詰めた。

「何逃げてんだよ、松長ぁ! まだ決着はついてないぞ!」

 突進した勢いのまま前蹴りを繰り出すと、驚く素振りを見せなければ、避ける様子もなく松長は転がるように飛ばされて、そのまま動かない。

「お前も、なかなか……惨いな。死に損ないの身体に追い討ちかよ」

「お前には負けるよ、松長」

 仰向けになるよう蹴り飛ばすと、額を中心に赤黒く濡れていた。

「まさかここまで立場が逆転するとはなぁ…………片腕のくせによ」

 口だけは達者な松長の腕を踏みつけると、顔を歪ませ、呻き声を漏らす。

「さっきのアイスピックと、目はどうした? 出せよ」

「知らねぇなぁ、そんなの。あったらどうするって?」

「いちいち癪に障るんだよ!」

 再度腕を踏み、そのまま馬乗りになって胸ぐらを掴む。

「お前はどうすれば罪を認めるんだ。罰を受けるんだ。こんなの、俺の受けた責め苦に比べたら……いや、比べるにも値しない。なぁ、お前はどうしたいんだ…………」

 視界が揺らぐ。それは、頬を伝って落ち続ける涙のせいだ。血で汚れた松長の顔を濡らしていく。

「じゃあ、終わりにするか? 関係を断ち切るか? 断ち切れるのか? こんな中途半端でもいいなら了承するぜ。こんなボロボロじゃさすがの俺も意気消沈だ」

 終わりにする。関係を断ち切る。それは望むべき未来であると同時に、過去を許すということにもなるのではないだろうか。

「江利川はどう思う? このままもう関わらない……それを望むのか?」

「私は雄斗と同じ気持ちだから。何を聞かれても、答える必要性が感じられない」

 同じ気持ちなどではなく、俺の気持ちに沿っているだけだ。自主性がなく、がらんどうな瀬山のようになってほしくない。率直に言えば好みではない。しかし、好かれることに耐性がないせいで口に出せず、受け入れてしまっている。

 つくづく自分は中途半端だと思った。身体に生活、決断、関係。

 振り向いて彩を見ると、松長への回答を待っている様子だった。

「関係を断ち切ることは……できるのか? 右腕を見れば松長を思い出して、沸々と怒りが湧いてくる。いつまでも逃れられない、背負ってしまった運命が、それを許せるのか?」

 独り言のように今の気持ちを吐露すると、松長が黙っていなかった。

「おいおい、俺が本気でそんなことを言うと思ったのか? ふざけるなよ、間賦口。俺は中途半端が一番嫌いなんだよ。殺るか殺られるかじゃねぇのか? 関係を断ち切ることができるかどうかなんて、一瞬でも考えた時点で終わってるんだよ。片腕足りないのは一生涯消えない汚点なんだよ。お前は不完全な人間に成り果てた欠陥品なんだよ!」

 松長は最後の力を振り絞るかのように、ポケットから手を振りかざす。

「雄斗!」

 視界に一瞬亀裂が入る。この感覚、経験がある。一度ではなく、何度も。

「お、お前…………!」

 その原因が視界に入ると、思考よりも先に身体が反応していた。拳を何度も振り落とし、その手は血で染まっていくけれど、そんなことは気にも留めず繰り返している。

 視界と思考が赤と黒で染まり、自制心は喪失していた。

「雄斗、もうやめようよ!」

 腕を掴まれ、動かすことができなくなると痛覚が戻る。その痛みが、赤と黒に染まった思考へ向けて白い塗料を散布し、意識が明瞭になっていく。

「あぁ…………」

 彩が制止してくれたおかげで正気に戻ることができた。松長は血だらけになっていて、気を失っている。俺は左手の感覚が薄れ、左太股にアイスピックが刺されている。

 それを見ると、余計に左脚が痛んでくる。

「うっ……うぅ、うああ…………いてぇ…………」

「雄斗、立てる? えっと、どうしよう……抜いて止血すればいいのかな…………でも止血ってどうやるんだろ。傷口より上を縛るとかで大丈夫なのかな」

「痛むけど大きな傷じゃないし、そんなことより目を探そうよ。アイスピックを忍ばせていたポケットの中にあればいいんだけど、捨てられたかも」

 松長のポケットに手を突っ込むが、何も入っていなかった。

 すると、遠くから音が響いてくる。その音の正体は間違いなく車だが、聞き慣れた沙絵の車の音ではない。ということは他人の車であり、この現場を晒したままでは駄目だが、隠蔽するには圧倒的に時間が足りない。何も起こらないことを祈って待つしかないだろう。

 しかし、祈りは届かず、気がついてしまったようだ。ヘッドライトに照らされたあと、急ブレーキを掛けて停車した。

 どう言い逃れようか。下手なことを言って通報されてしまうと、松長家の状況も含め、かなりの一大事だ。

「ちょっと雄斗、何してんの! 待ってろって言ったじゃん! 本当馬鹿だな!」

 ドアを物凄い勢いで開けて飛び出してきたのは沙絵、そして瀬山だった。

 やはり、冷静さが足りていない。少し考えれば浮かんだはずだ。この辺鄙な場所へ向かう人間がいるとするならば、それは松長と関わりを持つ者と。

 瀬山は松長の元へ駆け寄って声を荒げ、沙絵は俺たちの元へ駆け寄る。

「宗真くん! 宗真くん! ねぇ、返事して! 宗真くん!」

 松長の状態を見て冷静さを失っている様子の瀬山だが、身体のことを考えてか、触れないことに感心する。

「これ、やったの……雄斗?」

 当然、沙絵も松長が目に入る。

「そう、だと思う。やったのは間違いないんだけど、はっきりと覚えてない。時間が一瞬で過ぎたって言えばいいのかな」

 理性を失うほどの怒りに身を任せた結果がこの惨状だ。

「でもしょうがないよ。宗真にゃ悪いけどさ、自業自得だね。志穂里だって、雄斗を恨んじゃいけないよ。これだけの罰で済んだと思って感謝すべき。とりあえず、志穂里は彩の件を。宗真の件は救急車を呼ぼう」

「俺はどうすれば…………」

「そんなん、宗真と一緒にいなさいよ、救急車来るまでさ。……全部終わりにするんだよ。でも、もう血は流さないように」

 肝心の終わらせ方がわからないけれど、逡巡している場合ではないので従うしかない。

「じゃあ彩、志穂里の車なんだけどさ、行こうか」

 彩は黙って頷き、沙絵の元へ歩み寄るが、瀬山は松長の元から動かない。

「志穂里! 宗真が心配なのはわかる。でも、今は我が儘じゃ駄目だよ。ちゃんとやるべきことをやって、綺麗さっぱり終わらせようよ」

「……………………そう、だね」

 瀬山は納得がいかない様子だが、渋々運転席に乗り込み、二人もそれぞれ助手席と後部席に乗り込んだ。

 助手席に乗っている沙絵が窓を下ろす。

「私たちはもう行くから、宗真のこと、よろしく。救急車は私が呼んでおくから、面倒なことにならないよう、辻褄を合わせてね」

「わかった」と頷くと、車は松長の家へ向かってしまった。

「はぁ…………」

 何というか呆気ない結末で、しかし、これこそが終わりとも思った。

 現れた強大な敵を倒してハッピーエンドを迎えることは、フィクションの世界でなければ難しいということだ。

 現実は一段と平凡で、単純でありながら奇々怪々。霞んでいて明白ではないどこかにあるであろうゴールへ向かって進み、辿り着いた場所がゴールではないのに、そこをゴールだと勘違いしている。

 この達成感が皆無の状態で終えるのが、現実世界での終え方なのだろうと納得した。

「まぁ、お前は納得しないだろうけど」血だらけで気を失っている松長へ吐露する。「納得してもらわないと困る」

 今はなき右腕を思い出して、捨て去って、この身体こそが本来の自分であるという悲しくも勇気ある決断をする。

 過去に縛られて未来を見据えることができないのは嫌だ。

 彩と沙絵に出会えた奇跡が薄れてしまうのは嫌だ。

 どす黒い感情に支配されて、それに染まってしまうのは嫌だ。

 だから、松長に対する許し難い気持ちや怒りを受け入れて、虚心坦懐に日々を生きていく。

 全ては明るい未来、ただ一つを求めて。

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