籠の鳥の孤独
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緩やかに攪拌されていた意識は戻りつつあり、目を開いてみたけれど、そこは暗闇で何も見えず、しかし、私がうつ伏せで床に口づけしていることを触覚が伝達する。
反射的に汚いと口にするはずが、思ったように動かず、身体が不自由だ。
長時間正座をしたあとのような痺れた感覚が全身に広がり、鈍いとはいえ、痛みが増さないように頭を横へ向ける。
床との長い口づけを終え、全身の痺れにも慣れると、節々の痛みを感じるようになった。
微かな光さえも一切ない、月が照らす夜などでは味わえない正真正銘の深淵に、不規則な私の呼吸が聞こえる。
不安と恐怖が私の中で鬱積し、徐々に荒い息遣いとなって、呼吸以外何も聞こえないこの場所はまるで、私だけしか存在しないような気がして、より一層震え上がる。
しかし、震え上がる身体とは裏腹に、この場所は寒いなんて言葉を出すのも億劫なほどに蒸し暑い。私の記憶が正しければ、今は春。夏の日差しに照らされるよりは幾分耐えられるけれど、暖房器具が全力で動作していると考えるほどの暑さに、脱水症状と似た苦痛を覚える。
「いや、本当に暖房が…………」あるのだろうか。暖房器具が作動していれば、稼動音がするはずだ。しかし、不安定な呼吸音が聞こえるだけで、機械のような音は一切聞こえないので結局、機械の類はないという結論に至った。
ここで、今更ではあるけれど、疑問が増えた。
暗すぎる。
例え深夜でも、扉やカーテンの隙間から月夜の光が差し込むはずだ。しかし、そんな微かな光さえも感じられないこの場所は、窓も扉もない密室空間なのだろうか。けれど、それでは人が入ることすら不可能だ。
「………………………………」
それよりもまず、ここから脱出することを考えよう。四の五の考える暇があったら行動だ。
痛みの和らぎつつある身体を地べたから立ち上がらせ、軽く埃を払いながら歩き出そうとしたが、それは叶わず、不意だったがゆえに受身も取れず転倒し、再度床との口づけとなった。
何が起こったか直後に理解できず、そして理解してしまった自分を嫌悪する。
足首に冷たく重い装飾品が取りつけられていて、それが何なのか確認するため手で触れる。今まで身体の感覚が麻痺していたとはいえ、どうして気がつかなかったのだろうか。
これは――――鉄の足枷だ。
足枷に気がついたあと、再び眠ってしまったようだ。
今回はうつ伏せだったものの、顔は横を向いていて、床に口を許していないことを喜ぶ。しかし、今の状況を鑑みて呆れ、左頬にまで垂れた涎を手の甲で軽く拭い、周りを見る。
何も変わらない、真っ暗な風景が広がっていた。部屋の大きさなんてわからないけれど、どこまでも闇が続いているようだった。
すると、デシベルで表すとしたら僅かだろうが、ほぼ無音に等しいこの部屋で物音がしたので、「あっ」と思わず声を漏らしてしまい、慌てて口を塞ぐ。
「だ、誰かいるのか?」
私以外にも誰かがいた。足枷といい、鈍感な自分を戒める。声色からして年の近い男。私のことを今知ったということは、同じ状況なのだろうか。
「えっと……あなたも……気がついたら、ここに?」
「そうなんだよ、俺もいつの間にか。一人じゃなくてよかった。心細かったから」
やはり、意識のない間にここへ連れ込まれたのだろう。
「あ、あなたもそこから動けないの…………?」
ガチャ、ガチャ、と音を立てて男はため息を吐く。
「足が動かせない。取ろうと思っても硬くて無理だった」
「私も、駄目」と、同じようにガチャガチャと音を立てる。
こんな状況で、これから何が起こるかすらわかっていないというのに、仲間がいると思うだけで心が落ち着いた。
せっかくなので、他にも何か聞こうと思ったけれど、変に意識してしまって躊躇ってしまう引っ込み思案な自分を呪った。
「…………ずっと、このままなのかな」
誰かに言うわけでもなく、小さく、今の気持ちを吐露する。想像したくないけれど、思い浮かべてしまう、未来。
――――死。
嫌なことがあると、冗談交じりで死んでしまいたいと思ったけれど、今そう思うことは、現実味が帯び過ぎている。
直視したくない現実を、目を見開くための拷問道具で無理矢理見せられているようで、関わりたくもない現状から逃げられないように鉄の足枷で拘束されているようで、途端に胃液が逆流して吐き気を催し、気持ちの悪さを暗闇が助長させるが、口と胸を抑え必死に耐える。
そんな私に気がついたのか、ただ私の呟きに答えたのか、それとも自分に希望を持たせるための暗示なのかわからないけれど、彼は言う。
「大丈夫、助けが来てくれるはずだから………………」
救出される保証なんてなくても、希望だけの言葉でも、例え彼だけが助かる運命だったとしても、今の私を安堵させるには充分だった。
左頬に拭い切れていない涎と大粒の涙が混じり合う。
最近、涙を流したのはいつだろうか。明確な理由や時期を思い出せないけれど、今は確信を持って涙を流している。
――――早く、助けて。
しかし、救いを乞うたところで、こんな暗闇に光は差さない。
特に会話のない時間が流れる。
聞きたいこと、知りたいことは山のようにあるけれど、内気な性格と、この部屋の鬱屈した空気が、質問する気をなくさせる。
いつも、そうだった。
仲良くなりたいと思っている人を偶然見かけても、目と目が合う時、何を口にすればいいのか、何を言えば嫌がられないか、今着ている服は変じゃないか、違和感なく話せるか考えてしまい、偶然だねとただそう言うだけで終わることなのに、今日会ったことで、何か変化があるかもしれないと考えたりして、そう考えることで尚更何を言って、どんな仕草をすればいいのかわからなくなってしまう。
そうした結果、気づかれないよう静かに隠れてしまう。
思ったことを簡単に発言できる人は、一利一害だと思う。他人を立てる人なら友人が多いだろうし、罵詈雑言を浴びせるような人なら敵だらけ。想像に過ぎないけれど、どちらにせよ、他人との関わりを多く持つのは間違いない。
私のように寡黙だと、関わりさえない。友と呼べる人が皆無で、敵は自分自身の中に。
要は自己嫌悪だ。いつもなよなよした自分を嫌悪する。何か、打ち込めるようなものでもあればいいのだが、興味が湧くようなものに出会ったことがない。なので、内気で自己嫌悪するのは必然だ。
虚栄を張ってしまった。
こんな性格だから、大概のものに興味がなくて、友人もいなくて、自分を嫌悪しているの間違いだ。事実とはいえ、悲しい人生だなと思い、そしてそれは、現在進行形である。
同じ被害者の彼とは、関係を深くしたい。少しでも会話をして、陰鬱な気分を晴らしたい。
…………だけど、何も言えない。
こんな状況だからこそ、他愛ない話でもして気を紛らわせたい。
…………だけど、私から喋り出すことができない。
だけど、だけど、だけど……否定、反対から喋るのも原因だ。
自分を変えたい、と強く思う。そうしなければ、いつまで経っても私は孤独。
しかし、孤独を否定するわけじゃない。孤独に愛される私も孤独が好きだから。そして、孤独以上に何かを好きになりたいとも思っている。けれど、一方通行の愛情、友情を振り撒かないから今がある。
見返りがなくてもいい。私のことを嫌ってもいい。
ただ、いないことには絶対にしてほしくない。あなたの側に私はいるから。
暗くて見えないけれど、彼を見つめる。体型、髪型、服装、心の中、全てを見つめる。
だから、あなたも私を見てほしい。
鎖の音が微かに聞こえる。
彼が私の思いを汲み取ったかは定かではないし、見ているかどうかの確認もできない。それでも私は、彼に通じたんだと思うことにする。ネガティブにさせる場所なのだから、微力ながらも抗って、ポジティブでいるとしよう。
すると突然、コツン、コツンと何か音が聞こえる。徐々に近づいて音量も増すその音は、足音のようで、彼も当然気がつき、小さな声で「何の音だ?」と疑問を漏らす。
鳴り響く足音はどうやら複数で、各々、私の前と彼の前で立ち止まったので、ここはどこなんだ、早くここから出せ、との旨を叫ぼうとしたが、その前に猿轡を噛まされ、手を背中にして手錠も嵌められた。
ただでさえ暗闇で参っているというのに、壁につけられていた足枷も外されず、こうして私はほぼ完全に身動きの取れない状況になってしまった。恐らく、彼も同じ状況だろう。
そして、犯人と思われる二人は再び足音を鳴らして立ち去っていく。
部屋を出る途中だろうか、何かカタカタと音を立て、その直後から時計の針の音が聞こえてくる。時計のスイッチをいれたか、電池をいれたのだろう。
定期的に針の音が鳴り、最初は何秒何分と数えていたが、気が遠くなり、いつの間にか数えることをやめてしまった。
私がここへ来てから、どれだけの時間が経過したのだろうか。もしかしたら、一日も経っていないかもしれない。
一秒を正確に刻む時計の針の音だけでは現時刻はわからない。
だからこそ、この音が喧しい。
止むことのない音の雨。耳を防ぐこともできない。頭がおかしくなってしまいそうだ。
あれから、どのくらいの時間が経過したのだろうか。時刻を知らせるためのもの、すなわち時計があるけれど、現在の時刻なんてわからないし、今は私を苦しめているだけだ。
静かな夜、等間隔に聞こえる時計の針の、小さな音だけが妙に気になって眠れない日があったことを思い出す。
神経質、なのだろう。小学生だったころ、わざわざ自分で針の音がしないデジタル時計を買うほどに嫌いだった私なのだから、効果的な嫌がらせだ。的確に私を苦しめる。
すると、また足音が聞こえてくる。次は何をされるのだろうか。近づく足音はやはり二つであり、先ほどと同じく二手に分かれる。
目の前まで来ると、立ち止まり、猿轡を外してくれた。その意図を冷静に考える。
「これはもういらねぇな……と、やぁやぁ、お前たち」
男の低い声が響いた。声は目の前から聞こえてこなかったので、彼の方にいる人間だと予測しながら、猿轡のせいで違和感がある歯を何度か食いしばる。
「気分はどうだ? 今はお前たちに…………」と、男が喋っている最中に彼が遮り、怒鳴り散らす。「何なんだ、これ! 早くここから出せよ!」
しかし、それは間違いだった。
「お前、うるさいよ」
男が感情を込めずにそう言った。そして、工具のような音と共に、彼が悲鳴を上げる。その叫び声は、言葉になっていない感情の洪水だった。
「あー痛いなぁ、痛い痛い。こいつ、知ってるか? 壁なんかに針が打てる建築用ホッチキスなんだけどよ。それが今、お前の右腕に使用されたのさ。こんな感じでな!」
再度、工具の音と彼の悲鳴が耳を貫く。暗闇の中なので確かめる術がないけれど、彼の悲鳴を聞く限り、それは事実なのだ。
右腕に針を打ち込まれた。その事実を前にしたら、恐怖で震えるという選択しかできない。
身動きが取れない状況で、男は躊躇なく苦痛を与える人間。癪に障ることを言ってしまったら、私も同じようなことをされてしまう。
「………………………………」
猿轡で喋らせなかった理由がわかったような気がした。私なりの推測でしかないのだが、犯人と思わしき人間が近づき、それでも喋ることを許さず、実際、どれほど時間が経過したのかは不明瞭だが、数時間後に喋れる環境を作り、溜まっていた鬱憤をぶつけさせる。そして、反抗することは無意味であると、絶対的な立場の差を身体へと刻む。そうすることで、男たちへの恐怖心を植えつけられ、人として断らなければいけない命令をされても、従うことしかできなくなる。
男は不意の誹謗で怒ったのではなく、予定通りの誹謗に対して、予定通り対応しただけであり、要するに私たちは、手のひらの上で踊らされているに過ぎない。
「おいおい女、何黙ってるんだよ。キャーとかやめてーとか言って、助けを乞えよ。それともあれか? 同じ目に会いたくないから口を閉ざしてるのか?」
もちろん、一番の理由はそれだ。しかし、恐怖で喋れなかったのも理由の一つだ。ただでさえ喋ることに慣れていない私が、こんな時に言葉を出せるわけがない。
「つまんねぇ。お前も苦しめ」
彼の悲鳴が脳内で何度も再生され、その悲鳴を私も発すると思うと、全身が震えた。
しかし、男の近づく音が聞こえなかったので安堵すると、右瞼を触られる。おそらくもう一人の、私の目の前にいる人が危害を加えようとしているのだろう。
目を閉じようと抵抗しても、無理矢理抑えられ、右目に何かを入れられた。その直後、激痛が目から全身に伝わり、思わず声を荒らげる。
「い、痛い! 痛い! 痛いいい!」
「少し経つと真っ赤に充血して痒くなるぞー。まぁ、手、使えないから擦れないけどな」
今すぐ洗って冷やしたいほどの痛みと熱さが神経を刺激する。
「暴力を振るうのは面白いけどよ、人間は自然に治癒する」
男は突然、語り出した。
「例え骨を折ったって、病院に行ってれば治る。それじゃあつまらないんだよ」
そう言い放ったあと、男が笑ったのを感じ取った。
「だけどな、精神……心が壊れたら、簡単には治らない」
男はゆっくりと足音を鳴らしながら、私たちに言葉を投げ続ける。
「でもさ、壊れるって何だ? そんなの知らねぇよ。だけど、一目見ればわかるだろ? こいつ、頭おかしいな、病んでるなって」
そして、立ち止まる。
「そんな風にしてやるよ、お前らを。壊れちまえ!」
男たちは去る前に、簡単な食事を与えてきた。いや、食事という言葉は相応しくない。私たちは、望まれない形で、男たちの欲望のため生かされる。そのためのエサだ。
あの男たちがどんな結末を望んでいるのかわからないけれど、様々な方法で苦痛を与えたあと、私たちを殺すのが目的なのだろうか。だとしたら、助かる見込みはあるのだろうか。
苦しみと痛みのせいで、真っ暗な未来ばかりが堂々巡りし、さすがに疲れた。
眠ろう。夢の世界へ旅立とう。
時計の針がチクタクと絶えず鳴っているし、右目も煮え滾るように痛むけれど、心身共に限界のようだ。眠ると決めた途端、何も考えることができなくなった。
「おやすみなさい…………」
誰かに言うわけでもなく、夢行きのキップを手に持ちつぶやく。
目が覚めたら、どうか助かっていますように、と淡い希望を抱いて目を瞑った。
「お目覚めの気分はどうだ?」
痛みと共に目が覚める。私の頬を数回叩いたあと、再び激痛が走り、呻き声を漏らす。
「ううぅ、あああああ!」
「何勝手に寝てんだよ? 寝てもいいなんて一言も言ってないだろ。寝ていい時間は俺が決める。いや…………全ての決定権は俺だ」
眠気で頭がボーっとしていて、現状を理解するのに幾許かの時間を有した。
またしても、右目に何か入れられたようだ。
「うーん、さっきより反応が薄いなぁ。痛みに慣れたか? 人間の適応能力には驚くな」
言われてみれば、耐えられる痛みだったかもしれないが、それは眠っていたから鈍かったのだろう。
「でもお前、かわいそうに…………。連帯責任だから」
その言葉に痛みも忘れて目を見開く。直後、工具の音と共に、彼が大声で苦痛を訴える。その悲鳴に声を漏らしそうなほど驚き、そして、その悲鳴を決して忘れてはいけないと戒める。
「二回目だなぁ、痛そうに。お前のせいでやられちゃったんだぞ? 罪悪感はないのか?」
私のせいで、彼を。睡眠さえも許されないと、なぜ思わなかったのだろうか。
「俺は……大丈夫だから…………」
理不尽な痛みを味わう原因となった私に対して、彼は優しい言葉を投げかける。
「ごめんなさい」私は何度も謝罪をする。「ごめんなさい、ごめんなさい」
「あーあー、お涙頂戴だねぇ。奮発してもう一セットやろうか!」
私たちは再び喚き、男は歓喜する。
これが現実で、紛れもなく事実で、嘘偽りない私の世界。
男が満足して部屋を去ると、緊張が解かれ、私は彼に喉を枯らすほど謝り、涙を流した。
涙の理由が取分け痛みによるものなのが悲しかったけれど、彼に対する償いの意で溢れる涙だって混じっているはずだ。
彼の腕には何箇所も針が刺さっている。けれど、私の右目は精々充血しているだけだ。明瞭な傷がない私の右腕を彼に差し出したいほどに、私は彼を憐れむが、そんな芸当、神様にしかできない。
しかし、神様なんていない。神様がいるのなら、とにかく助けてほしい。ここから出すことなんて、他愛のないことだろう。
でも、まだ私たちは抜け出せないでいる。だから、神様なんていなければ、信じることもない。信じれば信じるほど、現実が深く突き刺さるからだ。
相変わらず右目と身体は痛みが癒えず、精神は蝕まれ続ける。
「希望を捨てないで。いつか、きっと、ここから出られるから」
現実逃避とも思える言葉を彼は口にする。
今の私にはそんな日が来るとは到底思えなくて、俯きながら小さく嘆声を漏らす。
希望を捨てたいわけじゃない。それでも今は、この現実を容認して、耐えるべきだ。
眠気と苦痛が混じり合って私を苛ませる。大きなベッドで大の字になって眠りたいけれど、ベッドもなければ、眠ることさえも許されない。
ここへ来て数日、数週間が経つと思うけれど、実際はまだ二、三日かもしれないし、数ヶ月かもしれない。人間の体内時計なんて案外曖昧だ。
そう、曖昧模糊。
ここで生きている私も不確かな存在。生きているのか、生かされているのか、既に死んだも同然なのか。絶望と死が隣り合わせのこの監禁を終えるにはどうすればいいのだろうか。
犯人を殺す。隙を突いて逃げ出す。警察の助けを待つ。どれも救いようのない選択肢だ。
コツン、コツンと、靴で床を踏む音が聞こえる。警戒心からか、最近聴力が上がり、あの男が来たことを知るのが早くなった。
襲い来る、覚悟を決めろ、歯を食いしばれ、そう決意し待った私に、吉報が届く。
「お前たちをここから出してやる」
ここから出れる。何を言っているのだろうか。突然の発言に唖然とする。その言葉を理解するのは簡単だったけれど、心が言葉を受けつけない。
「まずはお前からだ」
何も言えず、驚愕、不安、喜悦、様々な感情を巡らせていると、いつの間にか手足の拘束が解かれていた。しかし、自由になったものの、重々しい身体は言うことを聞かない。身体が痛みのない痺れに侵されていて、何よりも、男への恐怖心で動けないようだ。
それに気がついたのか、肩を組まれる。
「え、あの」拉致監禁をする人間ということで、筋骨隆々とまではいかないけれど、それなりに逞しい人間を想像していた。しかし、想像と違い、身体が柔らかい。「女の人?」今まで私に直接手を下していたのはこの人だろうか。
肯定も否定もせずに私を支え、一歩ずつ、ここから歩き出す。皮肉にも、危害を加えたであろう人の助けで、私は歩けている。
「私は……助かる…………」
重い足取りが何よりの証拠として、人はここまで弱るのだと改めて感じた。
一生戻ることのないこの部屋の扉を開いても、相変わらず暗いままであり、どういう構造の建物なのか気になった。ここは地下室だろうか。
再度扉を開き、中へ入るよう指示されるけれど、自立できなければ、暗くて前が見えないので、結局このまま一緒に進む。
部屋へ入っても暗いままだったが、照明が点き、その目を瞑る。慣れない光に目が眩み、脳へ電気が走ったかのように身体が震える。
目を擦りながらゆっくりと開き、それでも未だに眩しくて、明確に物を捉えることができない私の目に入ったのは、異様なほどの白。部屋一面が、汚れていない雪のように白く、久々の光を取り入れた眼球だからか、より一層白さが際立っている。
「ま、眩しくて、目が痛い…………」
目を焼く光が徐々に和らいでいくと、用途不明の道具を首からぶら下げている男女が目の前で立っていたことに今更気がつく。
「あ、あなたたちが」声が震えている。それは、怒りのせいであり、それ以上の恐怖が原因だろう。「犯人…………」
部屋には歯科医院で使用されるような椅子が一つ設置されているけれど、治療するための道具は見当たらない。
「…………その、首にぶら下がっている物はなんですか?」
用途不明の道具について尋ねると、特に躊躇せず、返答が帰ってきた。
「あぁ? これか。これはノクトビジョンという、暗闇でも視界を確保するための物だ。これがなければ何も見えないだろう?」
「………………………………」
暗視装置を使ってまで、暗闇に追いやる理由があるのだろうか。
白い部屋の明るさに慣れ、次第に男たちの風貌がハッキリとしてきた。
共に若く、私とそれほど変わらないだろう。男は細身で身長が高く、髪を立たせているせいか、高さが助長されている。大きく、二重の目が印象的で、威圧感が凄まじい。
女はセミロングの茶髪にナチュラルメイク、ロングスカートの着用により女性らしさが増しているが、首元の暗視装置で足し引きゼロだ。しかし、単刀直入に容姿を述べるなら、端麗。職業モデルと言われてもさして不思議ではない。
「ちなみに俺は松長宗真(まつながそうま)、で、こっちが瀬山志穂里(せやましほり)だ」
顔を晒し、名乗るということは、私たちはもう自由になれないという暗示だろうか。解放された時のことを考えれば、顔を晒すのは疎か、名前だって知られない方が得策のはずだ。その真意を知りたくても、犯罪者の腹案なんてわからないし、わかりたくもないので、考えることを放棄した。
二人の関係はよくわからないけれど、瀬山は松長を見ては微笑み、それを悟られないように目線を外しては見つめなおす。第三者の人間だったなら、とても絵になる二人だと感じるのだろうけれど、今の私が見た場合、犯罪者というレッテルが大きすぎて、そうは見えない。
すると、ギラギラとした目で松長が近づく。
「よし、もうさすがに一人で歩けるだろ? そこの椅子の肘掛けにちゃんと腕も乗せて、しっかりと座れ」
抵抗できるはずもなく素直に頷き、椅子へ座る。すると、肘掛けに置いた腕を動かせないように、肘掛けごとベルトのようなもので固定されてしまう。
『――――ここから出してやる』
監禁からの開放を待ち望んでいて、その言葉の意図をうまく汲み取れなかった私は羞恥を覚える。地下の暗闇から部屋を移す、ということだったに過ぎないのだ。
「なんだ? そんな悲しそうな顔をして」
松長は嘘つきじゃない。
「誰もお前を開放してやると言ってないし、助けるとも言ってない。勘違いして何を落ち込んでいるんだか」
そして、教訓にもなった。言葉の意味と意図を考えなくてはならないこと、その言葉を発するのは、卑劣な犯罪者だということを。
また苦痛を味わう、と地下の生活を思い出し始めると気がついた。左目だけを瞑ると何も見えない。幾度となく傷ついた目は、既に視力を失っていたようだ。
見なければいけない現実を見ることができなくなって、見えるようになったのは、既視感だらけの深淵。その深淵が徐々に身体中を蝕んで、全てを飲み込むのかもしれない。
「……………………っ」
腕だけでは飽き足らず、脚、胴体、首、頭にまでベルトがきつく巻かれ、頭は上向きで固定されてしまった。天井を見ると、照明があるのはもちろんのこと、頭の真上に何か設置されている。握り拳より一回り大きいそれは、設置することを義務化された火災報知機だろうか。
「んじゃ、ご達者で」
松長たちは部屋を出ていくようだ。足音が遠くなっていく。部屋を出る直前だろうか、照明のスイッチを押し、部屋の明かりを落とした。
唯一見えていた左目も、光を失い何も見えなくなってしまった。
一人残され、彼を思い描く。彼は今、何をして、何を思うのだろうか。
生。死。救済。逃亡。家族。犯人。未来。そして、願わくば…………私。
少しでも私を思ってくれているのなら、幸せだ。
彼一人がいないだけで、不安な気持ちはより一層増幅していく。
身体の自由を奪われたまま、仰向けになって目を瞑っている。
異質なほど白で覆われた部屋に連れられ、仰々しい椅子に座らされ、身体は固定された。ここで例えば、彼と同じように右腕へ針を打ち込まれても、抵抗すらできないほど強固に。
ノックの音が聞こえる。
扉が開くと薄い光が差し込み、コツン、コツンと、死への序曲が響き渡る。
ヒールのような音色、軽快感、近づくのは瀬山だ。
何をされるのかと気を張っていたら、延命のための点滴注射だったので拍子抜けする。口を一切開かず黙々とこなし、何も言い残すことなく部屋を出る。
技術のない医者ならば多少の痛みが伴うけれど、眉間にしわを寄せることなどなく、技術的なことは一切わからないが、率直に上手だと思った。瀬山は注射の扱い方を熟知している。一般人が普遍的な生活を送っているだけならば、注射器を扱う方法はもちろん、調達だって難しいはずなので、医療に携わる人間だと考えるべきだろう。
「…………………………………………」
監禁されてから考える時間が多くなった。思考を働かせること以外、何もすることがないと言ってしまえば終わりだけれど。
「ひっ!」
突如額に冷たい水滴が落ちた。考えごとをしていたせいで、声を出してしまうほど驚いてしまった。暗くて確認できないが、天井から落ちてきたのだろうか。
「水漏れ?」そうだとしても、ピンポイント過ぎる。「いや、故意に落とされている?」
何日も洗っていない顔に何滴も、清涼剤として定期的に額へ落ち続けている。慣れてしまったのか、一滴目以外は温く感じ、今の私には心地いい。
落ちる。ポタリ。
落ちる。ポタリ。
落ちる。ポタリ。
おちていく、おちていく、おちていく。
堕ちて、逝く…………?
催眠術にかかるとは、こういうことなのだろうか。身体が重く、頭も重く、思考することさえ億劫になる。今、何か命令されたら、迷うということさえ頭からすり抜け、実行してしまうのだろう。
身体が砂になり、サラサラと流れ、私という型が崩れていく。気持ちいいのに、その感覚がどこかへ飛んでしまった。
私が、私でなくなるような錯覚に陥る。
落ちる。ポタリ。
落ちる。ポタリ。
落ちる。ポタリ。
おちていく、おちていく、おちていく。
「…………………………………………!」
早くも遅くもならない、規則的に落ち続ける水滴に再び驚き、我に戻る。
「な、なんで、今のだけ冷たかったの?」
現在落とされている温い水滴と違い、その冷たさに慣れたわけではなく、今の一滴だけが冷たかった。だが、それを断言できるほど、意識が明瞭だっただろうか。
しかし、この冷たい一滴で疑問が取り払われた。これは故意だ。何かの意図で冷たい水滴が落とされている。そのおかげか、私は私を取り戻し、落ちていた水滴を気持ちいいと感じていた、私ではない何かを取り払う。そして、時計の針が一秒感覚で鳴り響く以上に苦痛と感じるようになった。
ポタリと額に落ち、右へ左へと滴り、忌々しい。そう思ったところで変化はなく、規則的に落ち続ける。突如落ちた冷たい水滴はただ一滴なのに、身体全体が電気ショックを受けたように伝った。
この等間隔の水滴の中で、いつ落ちるかわからなくて、また落ちてくるのかすらわからないのに、拒みたくても拒めないただ一つの冷たい水滴を待つ。
あの男、松長が言ったことは既に実行されているのだろう。
『――――壊れちまえ』
ただ一滴の繰り返しが崩壊へのカウントダウンとなって、蹂躙されていく。
壊れていく心では、その欠片を拾うことさえできず、助けを乞うことさえ意味を成さない。
それでも、一滴を待ちながら彼を思い、未来を描いた。
「……たすけて」
「おい、狂っちまったのか?」
頬を叩かれているが、それをはっきり感じられず、無痛。ぼんやりと松長の顔が見えるけれど、焦点を合わせられず、表情を汲み取ることさえできない。
何度かまばたきをして、焦点を合わせられない理由を思い出す。「あぁ、そっか、右目見えなくなっちゃったんだ…………」左目だけと意識すると、徐々に視界が鮮明になった。
その場にいた二人が少し驚いた表情を見せ、「失明してしまったのね…………」と初めて瀬山が口を開く。その表情は真剣そのものだ。
「やっぱり弱いもんだよなぁ、人間って。呆気ないったらありゃしない」
弱々しい私にぼやきながら、にたりにたりと松長だけは笑っている。
このあと、松長たちが今回の事柄について説明をしていたのだけど、頭を介してすり抜けていくようだった。しかし、それに気がついたのか、何度も何度も語ってきたので、嫌でも頭に残ってしまう。
水滴責め拷問。精神破壊の拷問として有名らしい。しかし、噂が先行しているだけで、果たして人間を壊すほどの力があるのか疑問だった。
そこで、私だ。
禁忌を犯すために、自らの疑問と欲望を晴らすためだけに人間を監禁する。その基準が既に狂っている。このようなおかしな基準を持った人間が、罪を犯すのだろうと改めて思った。
松長は異常の中の異常である。
そして、その松長に協力している瀬山も只々おかしい。
二人は狂っているし、そんな私も狂わされてしまった。
そういえば、彼は今どうしているのだろう。
「彼は……、どうしてるの?」
「俺が今言わなくても、すぐにわかるだろうよ」
数々の拘束具が取り外され、自由になったはずの身体は不自由で、瀬山の肩を借りて立ち上がるが、立ち眩みがひどく、瀬山の力では支えきれずに崩れ落ちる。
「…………はぁ、はぁ、あぁ」
消耗しきった身体では、一つのことしか処理できないようだ。意識を保とうとして、焦点を合わせようとして、立ち上がることを意識した結果が四つん這いだ。
「ほら、いつまでへたってるんだ。行くぞ!」
松長が腕を掴んで無理矢理立たせ、よろよろとしたところを瀬山が受け止めた。
意識朦朧の中、ゆっくりと歩いて部屋を出る。どこへ向かうのかわからないけれど、恐らく今まで監禁していた、光が一切ない、もう戻らないと思っていたあの部屋だろう。
「着いたぞ。ちゃんとただいまって言えるか?」
扉を開く音がする。見たことはないけれど、見覚えのある部屋に辿り着いた。この部屋へ初めて来た時のことがフラッシュバックして激しい嘔吐感に襲われるが、吐き出せるのは絶望だけだった。
「ただいまの挨拶も言えねぇのかよ!」と、私は乱雑に放り出されるが、反撃する気がなければ、できる体力も残されておらず、そもそも動くことさえままならないのだから、汚れた床に頬をつけて、二人が去るのを待つしかなかった。
早く錠を嵌めてくれと言わんばかりの格好をして、私は二人にとって都合がいいだろうな、なんて自嘲めいたことを考えている途中に、今までと同様に拘束具を嵌められた。
「……………………ねぇ、大丈夫? ちゃんと、いるよね?」
無事ならばここにいるはずの彼に言葉を投げかける。
しかし、言葉のキャッチボールは失敗し、返球はない。
「お前には水攻撃、こいつは電気攻撃だ!」松長が嬉々としてその理由を説明していた。
要約すると、心室細動を起こさないように繊細な強弱で通電し続けていた。彼の身体は今も震えており、随意運動能力が低下する可能性もあるそうだ。
鬼畜、この一言ではあまりに易しい。
「今日は疲れたから、お前たちとはさよならだ。また明日な」
松長たちが去ったあと、彼に喋り続けた。
「ねぇ、大丈夫?」
「………………………………ん」
意識を取り戻しつつあるようで、途切れることなく喋り続ける。
「身体は動く?」「今も震えは止まらないの?」「無理はしなくてもいい、今じゃなくてもいい。でも、いつかは声を聞かせて」
自分が自分じゃなくなったかのように、一方的に何度も会話を試みる。彼が心配で、今か、今かと返事を待ち続ける。
「心配してくれてありがとう。俺はもう大丈夫だから。そっちこそ……平気なの?」
通常営業へ戻るには時間が必要だったけれど、以前と同様に言葉を発することができるようになった。諦めずに支え、絶えずに声を掛け続けた結果、彼を取り戻すことができた。
そう、思いたい。
「私は大丈夫。だけど、私は私じゃなくなったみたい」
足枷の鎖を少し鳴らし、彼に吐露する。
「感情の出し方とか、思考回路、物事の優先順位……要するに、性格が変わったのかも。成長の過程において形成されていくって聞いたことあるけれど、私はまだ完成形への過程途中だったのかな」
これが成長と呼べるものかわからないけれど。
「でも、変わらないものだってあるよ。それは、あなたへの感謝の気持ち」
今までの私なら、顔を熟したトマトのようにして俯き、か細い声で発するような言葉だ。しかし、この変化は僥倖。積極性が増した私は、浮かぶ言葉を臆することなく発言できる。
「いつでも、どんな時でも、私に勇気を与える言葉をくれた。現実的じゃない、助かるわけがない……そう思っていたのに。けど、あなたがいなくなって気がついたの。私は助かりたいんだ、あなたと一緒に助かりたいんだって。無事に助かったら、あなたのくれた言葉を返していきたい」
返して、“生きたい”。
「だから、ここから出よう」
絶望から抜け出すための決意と、生きていくための希望と、守り、守られるための存在と。
過去の私は影が薄く、友達も少なく、憐憫に思われ、退屈に、卑屈に、鬱屈に生きてきた。
でも、今は違う。
「俺の気持ちも同じだから! 頑張って、生きて、ここから出よう!」
彼の気持ちに応えたいし、私の気持ちにも目を向けてもらいたい。その願いを叶えるためには、この絶望を振り払って、自由になる必要がある。
薄々と気づいてはいたけれど、今、間違いなく理解した。
私。
――――好きに、なったんだ。
松長たちの責め苦は続いたけれど、私たちは冷たい骸にならないように、歯向かわず、脱出できる日だけを夢見て生き続けていた。死のうと思えば、即座に死ねただろうこの環境で。
通電や水滴責めはもちろん、リストカットの強要、ツボもへったくれもない鍼治療、爪剥がし、強制的な嘔吐、指の骨折など、数多くの非道な行為を受けた。
もちろん、ほぼ不眠不休で。
しかし、死に至るほどの拷問はなく、傷跡を残さないためだろうか、処置を受けることもある。つまり、拷問を楽しみながら、私たちの心を殺すために真綿で首を絞めているのだろう。
簡単に耐えられるわけではないけれど、彼がいるから耐えられる。これが俗に言う、愛の力なのだろうか。愛が世界を救うとは思えないけれど、人っ子一人救うのは容易く、心の力を漲らせる一番の栄養こそ愛だと感じた。
「トントン、ガチャン、キィー」
そんなことを口にしながら松長がやってきた。基本的に気分屋なのは経験上悟った。気分が悪ければ問答無用で暴行を加えたりもするし、何もしない日だってあった。
「やぁやぁお前たち。今日はいい知らせがあるぞ、よーく聞け」
ファンファーレのような音を口笛で鳴らし、言い放った。
「おウチへ帰ることができます。晴れて自由の身になります。美味い飯、暖かい布団、待ち望んでいたものが日常に舞い戻るわけだ!」
言葉を理解するのは簡単だったけれど、その言葉の本質を見抜かないと以前と同じように痛い目に合うのは実証済みだから黙考する。
「おいおーい、喜ばないのか? 嘘じゃないぞ? 嘘ついたことないだろ?」
彼は理解する時間が必要だったらしく、家に帰れるという言葉を反芻してから喜び混じりで口にする。
「…………本当に。本当に、帰してくれるのか?」
「おう、帰れるぞ」
簡単に帰れてしまうほど、上機嫌なのだろうか。私たちを解放して後々後悔したとしても自業自得であり、そもそも松長を憂える必要だってないけれど。
「ただし、簡単な作業をしてもらーう」
そう言うと準備を始めた。私に首輪を装着し、手錠を追加してから部屋と繋がっている拘束具を外し、ベッドのようなものに寝かされる。
「首、苦しい…………」
私の言葉には耳を傾けず、準備は進む。首輪の引き綱をベッドに括り、頭にもベルトを取りつけられた。辛うじて下半身は動かせるが、上半身は強固で動かすことができない。
嫌な予感しかしなかった。
「な、何をする気なの? 待ってよ、私、まだ何も言ってない」
しかし、言葉は届かない。
「よし、開放の手筈が整った」
「い、いやだ! やめて! 離して!」
途端、猿轡で口を塞がれ、耳にはヘッドホンが取りつけられる。大音量のヘビィメタルが耳をつんざき、視覚と聴覚は完全に機能していない。それなら、触覚も奪ってほしいと切に思った。
何かが迫っている。鋭くなった触覚が、気配を、熱を、空気を知らせるが、私は何もすることができない。顔に何かが触れる。手だ。暖かい手が、顔を探る。気持ち悪いが、拒否を懇願することはできない。足をバタバタと動かすが、それも押さえつけられた。
なにも、できない。
その手は右瞼に触れると、動作が落ち着く。目当ての箇所を見つけたかのように。
顔に生温かい水が垂れ、必然的に水滴責めを思い出してしまうと、身体はピタリと動作を止める。そして、手の指が瞼を撫でたその瞬間、暴風雨のような痛覚が私を襲った。
苦しんで、絶望して、悶えて、それでも最後には顔を上げて破顔したい。そうすれば、傷だらけになった彼の希望になれるはず。
私が変わって、私たちが変わって、世界が変わっていく。
今まで培ってきた経験全てを攪拌して、私を生成する。
完成した私は間違いなく私で、何者でもない、私自身だ。嘆く必要なんてなくて、これが私なんだと胸を張れる。
この世界に生まれ落ちて十数年、何を失って、何を得ただろう。
とても大切な物を失って、とても愛しい者を得たとは思う。
もしも、失っていなければ、得ていなければ、私じゃない。
紆余曲折した人の道だからゆえに、望まない事柄だって起こるし、思いがけない転機だって訪れる。
これが私の通り過ぎてきた軌道なのだ。
過去は変えることができないけれど、未来の道は那由他に広がり、進んだ先で後ろを振り返ると、やはりこれが私の行くべき道だったんだと改めて実感する。
そう。
だから、何を失っていても私は私であり続ける。
例え、右目を失っていても。
右目を、失って、いても?
「うああああああああ!」
嫌な回想を振り払いながら意識を取り戻し、身体を起こす。
「おはよう」
目覚めの挨拶を交わすのは瀬山志穂里。病院のベッドのような場所で私は眠っていた。
そうだ、と思いながら左目を瞑ると当然何も見えなくて、右目に触れようとすると眼帯をしていることに気がついた。
「やっぱり、右目が…………」
「一応後始末はしたの。眼帯を外してみて」
「後始末?」
瀬山は手鏡を渡し、眼帯を外すよう促す。言われるがまま眼帯を外し、恐る恐る鏡を覗いてみると「あ、ある…………」左右で色が若干異なる右目がそこにはあった。
「これは、義眼?」
「そう。だって、もったいないよ。かわいいんだから」
「……………………か、わいくないよ」
傷つけている本人がどの口で言うのだろうか。それでも、こんな些細な会話で、この人、実は悪い人じゃなかったりするのかな、なんて思い始めた。単に褒められて、気を許してしまったのか、俗に言うストックホルム症候群なのだろうか。
いや、この人に悪意なんてない。これは女の勘だ。
何も言わない私に痺れを切らしたのか、瀬山が椅子から立ち上がる。
「さて、と…………目を覚ましたし、戻ろうか」
半ば強引に私をベッドから引き摺り出す。見た目に似合わずがさつだ。
「ちょ、ちょっと待って、まだ、身体痛い」
節々が悲鳴を上げ、どことなく頭が重い。
「少し歩くだけだから、ね?」
痛む関節を見ると、心配されそうなほど痩せていることに気がつく。必要な肉さえ削がれてる身体は、今まで生きてきた中で一番貧相に思えた。
「少し歩くって、一体どこへ? ここって、病院じゃないですよね?」
今思えば、ここは水滴責めを行った部屋ではないだろうか。異質なほどの白に覆われ、窓はない。天井を見ると、火災報知機のようなものがしっかりと設置されている。
「病室に似せた部屋って言えばいいのかな。この日のために、処置室だって用意したんだよ」
つまり、右目を失って監禁を終えるのは、当初からの予定だったということだ。
「そろそろ到着するから、その前に目隠しさせてね」
「また目隠し…………?」
そういえば、向かっている先はどこだろうか。前回は意識がはっきりとせず、いつの間にか監禁部屋に戻れていたので、道順を完璧に覚えているわけではないが、違う部屋へ向かっている気がする。目隠しをするのも、別の部屋……見られると不味いものがあるからなのだろう。
完全に視界を奪われたあと、少しだけ違う道のりで部屋へ到着すると、扉が開く音がする。
「おう、起きたか。早くこっちに来い」
部屋の中にいたのは、声から察するに、松長だ。その言葉に呼応し、瀬山が身体を押す。
私は松長に腕を掴まれ「これを持て」と、何か棒のようなものを渡されたのだが、これがとても重い。今の私でなくとも重く感じるのではないだろうか。
「これ、重い…………私には持てないよ」
「生温い決意なこった。両手に全身全霊を込めろよ」
「決意なんて、私してない」と言ってから、その言葉の選択は間違いだと気がつく。
「それはお前だけじゃないか? ここから出れると喜んで、俺の指示を全うした人間を忘れたのか? 最後の最後まで喚き、手は震え続けていた。だがな、与えられた指示をしっかりと遂行したんだ」
彼がどんなに叫んでも、私の耳が捉えることはなかった。その絶叫は、松長が欲する最高の快楽であり、当初から追い求めていた集大成なのだ。
「脱出するために決意した大好きな彼の意思を無下にしたくないなら、今まで受けてきた仕打ちへの感情を全て込めて、このまま一気に振り落とせ」
耳元で囁かれ、こそばゆい。
この行動が何を意味するのか理解してはいけない。理解してしまうと躊躇してしまうし、もしかしたら身体が動かなくなるかもしれない。しかしそれでは松長の言うように、彼の決意を無下にし、右目の失い損にもなる。
振り落とす場所を正確に指示してくる。「それでいい」私は両手の力を最大限駆使し、振りかぶる。「有終の美を見せてくれ!」
思案しては駄目だと理解した。私が今すぐ動くべきだと、抗っても勝てない相手には従うべきだと、彼のために生きるべきだと、猶予なんてもうないのだと。
この部屋に入ってから、音楽が聞こえていた。ヘッドホンから漏れているような音質の激しいギターリフ、高速のバスドラム、金切り声。
出せる力全てを落下に込めると、私はいずれ後悔するのだと直感が告げた。
「うああああああああああああああああああ!」
直後、鈍い音と呻き声が耳の中で残響し、顔や腕に液体が付着する。松長は笑いを抑えられず、崩壊したダムのように大声で笑っている。
「急がないと」
二人の大声が反響する部屋で瀬山の声が聞こえると、ガチャガチャと音を立てながら何かを始めたが、私への指示は一切ない。
「わ、私は、どうすれば…………?」
振り下ろした直後から忙しなく動いている周りの空気、その中で異質なのは私だけだ。呆然としている中、まだ手に持っていた棒を取り上げられ、松長が話しかけてくる。
「これでお前は何も思い残すことなく家に帰れるぞ」
そう言いながら私の目隠しを取ると、視界に入るのはナツメ球のぼんやりとした光だけで照らされた一室だった。不審がられないように少しだけ周りを見ると、彼はもちろん、瀬山の姿もなく、相好を崩した松長が私を見ているだけだった。
「………………………………」
思い出したかのように、頬へ付着した液体を拭った手の甲を見ると、平静を装うのが難しくなってきた。
――――この現実を容認して、耐えるべきだ。
例え一瞬でも、視界に入ってしまったら崩壊してしまう。それでも、現実からは逃れられないと、私は足元を直視する。
そして、左目に映る罪を右目の罰に変換して、均しい関係だと自分に言い聞かせたかったけれど、そんな粗略なことをできるわけがなくて、膝を落としながら頭を掻き毟る。
鈍く光る数々の銀色に私は透明な涙をこぼし、その涙の落ちる先に付着したものと混じり、濁る。その色は、手の甲の色とよく似ている。
「ああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
気づけば私は叫んでいた。
不条理な現状をどうやって打破すればいいのか考える気にもなれず、現実と人間の表し切れない酷さに対して、私は叫ぶ。
この惨状を予想していなかったわけじゃない。わかっていて、私は実行に移した。しかし、自分を苦しめようと、罰を与えようと思っても、そんな勇気なんてなくて、ただひたすらに心の中で私自身を殺し続けることしかできなかった。
謝った。謝った。謝った。私は、謝った。
でも私は、誤っていた。
壊れかけた心の器は元の形がわからないほど粉々になってしまっていて、補修する気力さえも砕いてしまっている。気概の感じられない操り人形のようだ。
この罪と罰の等価交換が、私と彼を結ぶ頑丈な糸となり、私を自由自在に篭絡するような離れられない関係を裏づける。
私を殺しても構わないから、恨むなら私を恨んでほしいと願う。それが贖罪となり得るのなら、私はとても幸せだ。
あぁ、眠りたい。
全てを有耶無耶にして、塵一つ残さず忘却して、平凡な昔の日常に戻るため、眠りたい。
結局、彼を苦しめることでしか自分を助けることができない不甲斐なさを呪う。
目を覚ますと見知れた場所で眠っていた。
眠っていた、というより眠らされていたような気もするけれど、どちらか結論づけても何も生まれないと思い、思考を停止する。
「私、自由になったんだ」
所々痛む身体に鞭を打ち、起き上がる。
今は明け方で人影はなく、寒いとも暑いとも思えず、過ごしやすい気候だ。
ふと、顔に触れる。
「やっぱり、私…………」
相変わらず眼帯が右目を隠していて、外しても視界に差異がない。この目は完全に機能していない、いわゆる義眼だ。
落胆、というよりは案の定か、眼帯をつけ直す。
立ち上がる途中、クラクラと眩暈がして倒れてしまう。痛覚が鈍いのは、感情が麻痺しているからなのだろうか。
今度は倒れてしまわないように、ゆっくりと立ち上がる。
無事に立ち上がると、息を吸って、吐いた。呼吸がこれほど気持ちいいと思ったのは初めてで、何度も呼吸をする。生きているという実感を存分に味わうかのように。
空気を堪能し終え、服の汚れを払い、これからどうするか考える。
そういえば、私が拉致された日はどんな日だったのだろうか。季節が春なのは間違いないけれど、何月何日までは正確に覚えていない。そして、どのくらい時間が経過したのだろうか。
すると、独特の音を鳴らしながら新聞配達のバイクが通る。
新聞配達のバイクを見て、精神的、肉体的苦痛を与えた忌々しい監禁事件が世間を騒がせているのか気になり、テレビや新聞を見たい衝動に駆られると、家路を歩む速度が増す。
見慣れているはずの家路は季節の移り変わりと共に変わり、既知の道でも新鮮な気分で歩ける。それほど監禁期間が長く、世間は変わっていったのだろう。
ふと、私のいない世間とは、と思う。
空き地だった場所に新築が建ち、その逆も然り、記憶と現実の差異を様々な場所で感じる。しかし、その変化の経緯を私は知らず、あらゆる情報を遮断されていた期間、世間から死んでいたのと相違ないのではないだろうか。
空を見上げると雨雲が漂っていて、意識しないとわからないほどの雨が降っていた。
立ち止まり雨を乞うと、それへ呼応するかのように徐々に雨脚が強くなり、雨粒を額に受けると、必然的に監禁を思い出す。
「私は、自由になれたんだ…………自由に」
泣いているのがわからないように顔を濡らして、全ての絶望を洗い流すように、身体中から浄化するために、私は嗚咽する。何度も、何度も、咽ぶ。
家に帰って、深い眠りに就いて、身嗜みを整えたら。
「行こう。彼のところへ」
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