LOVEJETCOASTER



   2



 携帯電話のアラームが耳元で鳴り響くと、その音量に驚き、慌てて停止させる。

「あーっと、いっけね、つい二度寝しちまった」

 言葉とは裏腹にゆっくりと布団から出る。

 なぜ慌てないかというと、携帯電話のアラームは寝過ぎないようにするための保険であり、大切な用事のためではないからだ。寝る時間には寝て、起きる時間には起きる、という普遍的な行動をするための措置である。

 携帯電話で思い出す。

 昨日、掛かってくるはずだった電話を確認するが、通知はないようだ。

「やっぱりな…………」

 画面に表示されている日付は一月二十日。季節が過ぎるのは早いもので、あっという間に一月になってしまった。寒さも本格的になり、布団をもう一枚増やそうか検討中。

「今回も駄目なんだろうな」

 アルバイトの合否判定が昨日までであり、電話が掛かってこなかったということは暗黙の不合格通知ということだ。これで八連敗。

 落ちること、そして、履歴書の記載、証明写真、面接、反省点の沈思黙考には慣れた。

 やはり、原因は自分自身のセールスポイントを問われた時の受け答えだろうか。

 何度同じ質問をされても、セールスポイントだけは頭に思い浮かばず、ウィークポイントだけが頭を過ぎってしまう。

「俺のセールスポイント、ねぇ…………」

 簡単に思い浮かばないからこそ悩んでいるわけだが、答えの見つからない難題なので放り投げる。人間、諦めが肝心な部分があるのだから、面倒なことは放棄するのが一番効率がいい。そもそも、面接で落ちる原因はそれだけじゃないと思っている、が、思いたくはない。

 さて、やることがない。

 貯金を食い潰すことだけは避けたかったが、その生活から抜け出せずにいる。魅力的な生活ではあるが、希望がなく、待っているのは一文なし地獄だ。一刻も早く、泥沼のような現状から抜け出さなければいけないというのに、取っ掛かりがなくて這い上がることはできず、藻掻けば藻掻くほど身体はズブズブと沈んでしまう悪循環を生み出す。

 そんな気分を一新するために、散歩をすることにした。モッズコートを羽織り、マフラーを乱雑に巻いて、携帯電話や財布、鍵を忘れずポケットに押し込んでから家を出る。

 空を仰ぐと曇っていて、厚着をしているにもかかわらず寒さが身体を突き刺す。ポケットに手を突っ込みながら歩いていると、時折、自分の息が視界を白く覆い、肌寒さを助長させる。

 いつもの公園へ向かいながら、携帯電話の液晶を点灯させる。待ち受け画面に通知はなく、何もせずに消灯させる。そんな行動は現代病の一つといえるだろう。

 いつもと違う道で向かうと新鮮な感覚がしていたけれど、今はもう真新しい道はなく、悄然たる姿で歩くしかない。

 今日は片や新築、片や畑の舗装されていない砂利道を選択した。



 何の苦もなく公園へ到着する。

 子供のころ好きだった地球儀型の回るジャングルジムは、過去の事故から動かないように固定されてしまっている。回してみようと触れるが、当然回らず、固定金具と本体の錆びた鉄が擦れる音が聞こえる。まるで遊具への弔鐘が鳴っているかのようで、沈痛な面持ちになってしまった。

 それにしても冷たい。芯まで冷えている。鎖も冷たいだろうから、ブランコに乗るのは思い留まった。

 結局、埃っぽいベンチへ腰掛けることにした。

 空を仰ぎながらわざとらしく息を吐き、白い息で視界を弄ぶ。雪でも降ってこないかな、と思いつつも、今降られると濡れてしまうから嫌だなとも思った。

 目を瞑ると眠ってしまいそうで、しかし、肌寒さがそれを許さない。その絶妙な感覚が冬という季節を感じさせ、堪らない。自分自身が小さくて、世間や世界の広さを実感するようだ。

 それにしても、子供を見かけない。いくら小さい公園だからといって、一度も見かけないのはなぜだろうか。俺だって子供のころにあまり外で遊んだ記憶はないけれど、週に何度かは外で遊んだはずだ。

 やはり、時代だろう。テレビゲームの普及率が上がって、一家に一台は当たり前と言っても過言ではないし、不審者の目撃談も増え、過敏になっているのだろう。

 今は道を聞いたり、挨拶をしただけで不審者扱いされてしまうと聞いた。それほど閉鎖的で息苦しくないのかと思うけれど、我が子を守るためなら仕方ないのだろうと少し控えめに納得する。

「それに、寒いしなぁ」

 寒さで赤くなった鼻を擦りながら啜ると、感覚が鈍くなっているにもかかわらず痛い。冷たそうなブランコを眺めながら切に思う。

「…………………………………………」

 再度、目を瞑ると思い出す。

 彼女を。

 ――――御沓沙絵を。

 最後にここで会ったのは七月二十九日の夜。今でも鮮明に思い出せる、あの時の夜を。

『――――あとでメールするからその時に! じゃあね!』

 あれからメールは届いていない。もちろん、電話も。

 彼女から送ると言ったことを尊重して、自分からは一通も送っていない。本当はメールを送信しようか迷ったけれど、あの日のやりとりは何かの間違いで、拒絶されるようなことを言われたら、と考えると何もできなかった。

 その時、携帯電話が震えた気がした。

 携帯電話を取り出して画面を注視するが、メールは届いていない。

「さすがにこのタイミングでドンピシャに届くわけないよなぁ」

 本当に震えているわけではないのに、着信に敏感になっているせいで、衣服と携帯の擦れなどを振動と勘違いしてしまう現象。確か、幻想振動症候群という名称だったと思う。

 携帯電話をポケットに戻し、彼女の顔を思い浮かべる。

 今思えば、楽しかった。美化されているから余計にそう感じる。

 途端、音が聞こえる。

 携帯の音色、ではない。もっと、自然な音だ。

 公園の出入り口を見る、誰もいない。御沓沙絵との再会を思い出す。反対の出入り口を忘れてはいけない。

 振り向くと、影が迫っていた。

 洗髪剤の宣伝で見るような、艶があって澄んだ川のように流れる真っ黒なセミロングの髪、ウエストベルト付きのハーフコートからでもわかる華奢な身体、そして何より、伏し目がちな左目と眼帯をしている右目に瞠目してしまう。

 麗しい、けれど普遍的な秀麗さではない。病的なオーラも纏っている彼女は、純粋なカワイイやキレイとは言い難い。例えるならば、人形。完璧な目鼻立ち、完璧なプロポーション、ゆえに人間らしさを感じず疎遠してしまうような、それに似た感情を抱く。

 しかし、嫌いではない、むしろ好きだ。

「あっ」

 緩んだ口元から無意識のうちに言葉が漏れてしまう。

 俺の中で、価値観が一変してしまった。それほど衝撃的な出会いだった。

 彼女は足音を立ててこちらへ歩いてくる。伏し目だったので、目は合っていないし、俺に気づいていないのかもしれない。

 どうしようか。

 俺から声を掛けようか、それとも彼女が声を掛けてくるだろうか。いや、無言で過ぎ去るに違いない。

『……どうしようか?』そもそも何か行動する必要があるのか、ただ歩いている一般人相手に何を思っているのか、だが、この衝動を抑えるのは困難だ。

 双眸を見開き、挙措を注意深く監視する。

 未経験の緊張が身体を駆け巡り、冬にもかかわらずじんわりと汗を掻く。

 一歩一歩がスローモーションのように感じられ、時間の感覚が曖昧になる。

 足元に木の枝があり、それを避けながら前を向いた。当然ながら俺の存在に気がついて、視界に入った瞬間こそ他人行儀で無表情だったが、何を思ったか二度見した。普段から二度見されることが多いので格別な驚きはなかったけれど、彼女のような人間がまるで漫画のように大げさな二度見をするのは珍しくて、微笑ましく感じた。

 そのまま立ち止まって、全身を舐め回すように見入っていた。何が珍しくて凝視しているのか問い質そうにも、距離があって不恰好な会話になってしまいそうだから口にできない。

 ならば、待つ以外方法はないだろう。

 しかし、彼女の時は止まっているようで、一向に動く気配がない。

 さすがに痺れを切らし、彼女の元へ向かうことにする。それでも彼女は微動だにせず、身体を左右に動かしても目線は動かない。本当に時が止まっているようだ。

 ゆっくりと一歩ずつ、「あのー」なんて言葉を掛けながら近づいていく。

 手を伸ばせば触れられそうな距離だというのに、未だに彼女は固まっている。いったい何が原因で硬直しているのだろうか。

 目の前に立ちはだかる麗しき彼女。

「ねぇ、大丈夫?」

 驚かせるためにと言われても過言ではない。突如、彼女が動き出し、両腕を広げた。咄嗟の出来事に避けられないと感じ、観念して目を瞑る。

「な、なっ」

 何が起こったかわからなかったが、目を開かずとも、感触で現状を察することができた。

 俺は今、抱きしめられている。

「ずっと……」

 声が震えているのは冬の寒さか、それとも恐れか。

「会いたかった…………」

 どうすればいいのだろう、反応に困ってしまう。御沓沙絵と初めて会った時もそうだった。

「い、一旦離れよう。何がなんだかわからないんだけど」

 半ば強制的に身体を引き離すと、彼女は左目が潤んでいた。

「私だよ、私。もしかして、忘れちゃったの…………?」

「えっと……ごめん、わからない」

 いったい彼女は何を言っているのだろうか。

 彼女は呪詛めいた言葉を続けているが、消え入りそうな声なのでうまく聞き取れない。まさかとは思うが、見た目通り、毒電波を受信しているような人なのだろうか。

「もしかして、俺と何かあった? 初対面の人に言うことじゃないんだけど、七月以前の記憶が数ヶ月分なくなっているんだ。その間に君と接点があったのかな…………?」

「あ、あぁ……そうなんだ、やっぱりそうなんだ…………うん、大丈夫。私は全然気にしてないから」

 誰が見ても気にしてるとしか思えないけれど。

 気になる点がある。『やっぱりそうなんだ』という言葉。彼女は記憶の在り処を知っているのだろう。それならば彼女のことを知る必要がある。今更思い出しても、抜け落ちた時間は戻らないだろうけど。

「えーっと……いきなりなんだけど、連絡先とか、教えてよ」

 口にして気がついたが、見ず知らずの女性と思っているにもかかわらず、それでも連絡先を聞ける神経の図太さに、我ながら驚いた。大胆不敵である。

「うん、喜んで」

 両者携帯電話を交換して、電話帳に電話番号とメールアドレス、それと名前を打ち込んでいく。

「ども」

「うん」

 彼女の名前は江利川彩(えりかわあや)。前回と打って変わって、今回は素直に読めた。御沓という苗字は名乗っていなかったら読めなかったと思う。

「寒いし、どこか別の場所に行かない?」

「まだ飯食べてないし、ちょうどいいや。そこで話そうか」

 そして、共に歩き出した。目的地は歩きながら考えればいいだろう。




 結局、コンビニ弁当を買って自宅へ招くことにした。ほぼ毎日のように掃除はしているし、嫌がられるほど心地悪い空間ではないだろう。

「お邪魔しまーす…………」

 自画自賛ではあるが、シンプルで綺麗な部屋だと思う。

「適当に座ってよ」

 とりあえず、買ってきた弁当を電子レンジに突っ込んで、テレビのスイッチを入れる。

「もしかして、一人暮らし? 不便じゃない?」

「まぁ、一応。料理とかは簡単なものしかできないから、弁当で済ませちゃったりだけど」

 男の部屋に初めて来たのだろうか、彼女は忙しなく目線を動かしている。見られるとまずいような本やビデオはないけれど、なんとなく、そわそわと落ち着かない。

「じゃあ、ご飯作りに来るからいつでも呼んでよ」

「え、マジで? でも、食材とかないよ?」

 言って後悔する。食材がないからなんだというのだ。そのくらい自分で買って、料理してくれることに感謝するべきだ。そもそも本当に、初対面であろう俺のために料理を作りに来てくれるのだろうか。

「買っていくから大丈夫、任せて」

 ピーッ、と温め終わった合図が電子レンジから鳴り、その音に少し驚きながら振り向いた。

「温まったみたい、取ってくる」

 キッチンへと向かい、弁当を取り出して、コップにお茶を注いでテーブルへ持っていく。ちなみに彼女はペットボトル飲料を買っただけだ。

「いただきます」と小声で言い、黙々と食べ始める。彼女は相変わらず部屋のあちこちを見ていて落ち着かないので、普段よりも食べる速度を上げる。

「そういえば……さ、何て呼べばいいのかな…………なんて」と、ふと思いつぶやき、様子を窺うと、彼女はちょっと笑顔になった。

「なんて呼びたい? 私はそれでいいよ」

 呼びたい名称。「うーん」江利川さんが妥当だろう。彩さんでは、年上感がどうしても先行してしまうし、彩ちゃんだと馴れ馴れしい感じがする。

 呼び方を考えていると、希望を告げる前に、彼女が口を開いた。

「特に希望なし? なら、彩って呼んでよ」

「え、ええっ!」

 予想外だった。名前を呼び捨てられるほど親睦が深いとは思っていないのだが、それを断るほど、嫌な提案ではない。素直に受け入れて、彩と呼ぶべきだと納得する。

「あ、彩って呼んじゃっていいの?」

 つい言葉が詰まってしまう。女性の名前を呼び捨てることなんて、今までなかったからだろう。そんな俺が、自宅に女性を招いているわけで、人生とは複雑怪奇なものだ。

「あなたが嫌じゃなければね。私はなんて呼べばいいかな? 同じように名前……雄斗って呼んでもいい?」

「んー……、いいよ」

 名前で呼ばれることにこそばゆさを感じるが、対等な立場に立つという意味も込めて承諾する。そういえば、御沓沙絵も俺のことを名前で呼んでいた。

 御沓沙絵、か。公園に行けば会えると思い何度も立ち寄ったけれど、あの日から未だに会えていない。その代わりといっては失礼だが、江利川彩と出会った。

 それが偶然なのか、必然なのか。

 不意に彼女を見ると、まるで長年飼ってきたペットを手違いで殺めてしまったような、抗えぬ現実を強制的に見せられて、途方にくれているような、そんな顔をしていた。

 褒めているのか貶しているのかは定かではないが、儚げな表情が似合う、率直な感想がそれだった。

 彩は、過去に何かあったのだろうか。人生観を、人格さえも変えてしまうような重大な出来事が。しかし、それは、俺にも該当するのかもしれない。

 失った記憶を取り戻すため、彼女に尽力してほしいと思っていて、彼女も俺に少なからず、何かを期待をしているのだろう。けれど、俺に期待しても得るものは少ないはずだ。自分の追求するものさえ明確ではないのだから。

「このあとどうする? 何か用事とかあるの?」

 落ち着かないのはもちろんだが、彼女を待たせるのも悪いと思い、弁当はあまり噛まずに飲み込んでしまった。

「ないよ。もう大切な用事は済んじゃった」

 俺も用事はない。かと言って、このまま自宅にいても、退屈極まりない。

「どっか行くって言っても、外寒いしなぁ」

「……外、行こうよ」

「マジっすか」

 わざわざ寒い外に出向くのは正直嫌だが、このまま家で過ごすよりいいだろう。再びモッズコートを羽織り、マフラーを探すが、なぜか彼女が微笑みながら身につけていた。

「まぁ、いいか。行こう」と促し、彼女を引き連れるような形で玄関へ向かう。

 俺は行く宛もなく一人で彷徨うのが好きだ。

 一人で、だ。

 誰かとこの時間を共有するのはあまり好ましくない。矮小ではあるが自分の世界であり、壊されたくないからだ。

 でも、彼女だったら許せると思えた。理由はわからないけれど、本能が彼女を許すのだ。

 鍵を閉めて家を出る際に携帯電話が震えたので、アパートの階段を下りながら携帯電話を取り出し、通知内容を確認する。

 ――――御沓沙絵と表示されていた。

 慌てて通話ボタンを押し、携帯電話を耳へ押し当てる。

「もしもし! 今まで何してたんだよ!」

『今どこー』

「家の前だよ。ていうか、質問に質問で返すな!」

『会いたーい、公園来てー』

「無視するなよ。わかった、公園にいるんだな! 行くから待ってろ!」

『やっ……』

 発言を聞き終える前に終話ボタンを押した。

 いつもの公園に行けば、また御沓沙絵と会える。そう思うと心が昂ぶり、血液の循環は何倍にも早くなったと感じる。身体が軽く、延々と力がみなぎるようだ。

「やっと、やっと…………また、会えるんだ!」

 寒さなんて気にせず地面を蹴る。途中転びそうになりながらも、止まらずに。



 公園へたどり着くと、ベンチで横たわる御沓沙絵の姿を発見する。付近には缶が散乱していた。あの缶が何なのか、様子を伺う限り、おそらく酒だろう。

「おい、大丈夫か?」

「もう、遅いよー立てないー抱っこー」

「馬鹿言ってないでしっかりしろ」

 彼女を抱えてベンチへ座らせる。記憶ではセミロングの茶髪だったけれど、金髪になっていて、セミロングからショートカットになっている。俗に言う、ボブカットだろうか。それ以外は特に変化はなさそうだ。強いて言うなら、顔色が悪い。

「私に会えなかった期間、寂しくなかったかい?」

 無視して缶を拾う。ここにあるのは飲み終えた五本の缶チューハイだが、これ以上飲んでいそうなほどに酒臭い。どれほど飲めば臭うのかさっぱりわからないので推測の域を出ないけれど。

「今まで何やってたんだよ」

「知りたいなら耳貸して」

 若干迷いながらも耳を近づけると、顔を掴まれ、強制的に向かい合う形にされ、そのまま口で口を塞がれた。

「…………ん、んんん!」

 簡単に状況を説明するならば、キスをされた。

 俺は現状を理解し整理するのに時間を要し、その間に俺の口内は、御沓沙絵の舌に犯され続ける。唾液を送り込まれては吸われ、熱を帯び、いつまでも耽溺していたいと思わせるほどの接吻。そして、ようやく現状を把握して我に返り、離れようとするが、御沓沙絵はそれを許さず、首に腕を絡めて俺を離さない。力尽くで離せばよかったものの、淫猥な音で体力気力をも吸っているようで、俺の身体はすでに力を失っていた。それでもこのキスには気持ちよさが綯い交ぜてあり、拒絶できない。つまり、現状を受け入れ、御沓沙絵に委ねるしかなかった。

「何やってるの!」

 悲痛な叫びが耳を通過したところで口と口が離れた。

 声の発された方向を見ると、沸き立つ怒りを態度で全面に押し出しながらも、裏切られたと言わんばかりの悲しそうな表情で彩が立っていた。

 そういえば、すっかり忘れていた。

「あ、彩…………」

 激しい剣幕で迫る彩に、ただ立っていることしかできない。

「ねぇ、何なの! 雄斗から離れてよ!」

 勢いよく腕を伸ばし、肩に掴みかかる。しかし、御沓沙絵は酔っているとは思えない動きで彩の腕をかわし、そのまま掴んで抱き寄せる。

 そして、俺と同じように、彩へキスをした。

 唾液で光る舌を彩の口へ侵攻させていく。彩は突然の出来事に驚いて目を丸くし、同じように驚いた俺は、ただ二人の深いキスを目の前で眺めることしかできなかった。

 時折漏れる吐息が実に婀娜やかだ。彩は顔を真っ赤に染めて、手をパタパタとさせている。

 満足したのか御沓沙絵は、口を離して一礼した。

「ごちそうさま。いくつか聞いていいかな? 名前は? 歳は? 二人の関係は?」

 彩はもちろん、俺も答える気になれなかった。御沓沙絵のウイルスに苛まれ、眩暈を起こしながら恍惚の境地に陥っているからだ。

「二人ともー戻ってきてー。質問、質問してるのー無視禁止ー」

「…………………………………………」

 意識しないと焦点が合わない。ボンヤリと彩の横顔が目に入り、キスの衝動に駆られるが、それはさすがに抑制することができた。

 怠惰な時間が流れる中で、不意に携帯電話が短く鳴り、意識を取り戻す。

 送信相手は御沓沙絵だ。短時間で打ち込んだメールだろうか。

 しかし、本文は何も書いておらず、写真が添付されているだけだった。ダウンロードを開始すると、数秒で完了した。

 その写真は江利川彩と御沓沙絵が顔を赤く染めて舌を絡めている場面だった。

 これを、どうしろというのか。というか、いつの間に携帯電話のシャッターを押したのだろうか。相変わらず、することが早い。

 ……いいな、この写真。

 駄目だ。煩悩が俺を支配しようとしているので、平常心を叩き起こす。でも、せっかくなので待ち受け画面にしておこう。

 このメールのお陰でようやく我に返れたようだ。御沓沙絵に感謝しなければいけない。原因を作ったのも御沓沙絵だが。




 俺はブランコに、彩はベンチ、御沓沙絵は滑り台の天辺へそれぞれ座った。

「まずですねぇー、二人の関係をお聞きしたいのですが……出会いはどのようにして?」と、御沓沙絵が俺へ問う。

「いつものように散歩してて、ここで休んでたんだよ。そしたら、あ、彩がやってきてさ、俺を見るなり停止して、ずっと会いたかったとかなんとか…………」

 こんな説明で伝わるのか定かではないが、こうして言葉にすると、おかしな出会い方だなと思った。それに、名前を口にするのはまだ抵抗があるようだ。

「なるほどぉ、彼女さんは雄斗に運命を感じたということですか?」

 彩は相変わらず俯いたままで、コンビニで買ったペットボトルをぺこぺこと潰しては戻している。まだ御沓沙絵へ心を開いていないのか、返答の言葉を選んでいるのだろう。

「…………感じたわけじゃなくて、解けつつあった糸を結び直しただけです」

「それはどんな関係やねーん、っていうのが感想」

 関係。それは俺にもよくわからない。

 突如現れて涙した彼女は一体、俺の何を知っているのか。

 そして、俺は彼女に何をしてあげていたというのか。

 記憶を取り戻すことで、俺は何を掴むことができるのだろうか。

 聞いたことがある。あまりに辛い記憶は、無意識のうちに忘れてしまいたいという葛藤に駆られ、忘却の欲求が打ち勝ってしまうと、すっぽりとその記憶を失ってしまう。しかし、頭から抜けてしまった辛い記憶と相反して、身体は忘れることができず、覚えのない倦怠感、心の奥底に眠る記憶が日々を蝕む、と。

 徐々に脆弱化していく身体に止めを刺されるのはいつの日か。

 何かをきっかけに、欠けた記憶のピースを手にして嵌めてしまうと、完成する。

 ――――死への道筋が。

 全部思い出した、最低だ、最悪だ、死にたい、生きたくない、殺して、と。

 俺は思い出していいのだろうか。辛く悲しい現実を思い出した結果、最悪の結末を迎えるくらいなら、今を生きていたい。一年後、十年後の心配をするよりも、今の自分を楽しめればいいのではないだろうか。

 もちろん、失った記憶を取り戻したいという意思もある。だが、記憶を掴もうと夢中になってしまったら、それこそ“今という時間”を捨てることになるのではないだろうか。

 それは駄目だ。

 結局、結論を出せずに二人のやりとりを見守ることしかできない。時の流れに身を任せて、都度正しいと思う方向へ今は動けばいい。

「そちらこそ、雄斗とどういったご関係なんですか」

 会話が途切れてしまったような雰囲気に、彩が質問を切り出した。

「え? 知りたい? 知りたいの? うーん、どうしよっかなー。教えようか迷うなー」

 御沓沙絵は馬鹿にしたような態度で様子を窺っているが、彩は憤慨せずに冷静だ。

「別にどちらでも構いません。さっきの、雄斗とのキスも……許します。いきなりの出来事に自分を抑えられなかったみたいです。そもそも、糸で繋がれているとはいえ、それは望んだ産物ではないんです。だから、雄斗のすることに首を突っ込むのは筋違いなんです」

 どういうことだろうか。事の根本が抜けているので、理解に苦しむ話だ。

 しかし、御沓沙絵は真剣な面持ちで彩を見据える。

「そんな風に自分を殺しても、雄斗を好きなんでしょ? 私には痛いほど伝わるよ」

 彩は顔を上げ、御沓沙絵を射抜くかのように見据え返す。

「はい、この話はやめやめ! えっと、彩ちゃんだっけ? 私は御沓沙絵。彩ちゃん、私と仲良くなりましょ!」

「おいおい、随分急だな…………」

 会話に割って入れない湿った空気を一掃するかのような自己紹介だ。

「…………仲良く、ですか」

「まず、その話し方をやめよう!」と、御沓沙絵が嬉々として提案する。「それが一番近道だと思う!」

「そう、だね」

 彩は少し嫌そうな表情だ。「乗り気じゃなさそうだけど」

「タメ口ってあんまりしたことないから……、喋り方を意識しないで喋ればいいんだよね」

 彩は再度俯いて、頭を掻いている。

「ん……気持ち悪い、かも…………」

 その発言を聞いて、御沓沙絵が酔っ払っていることを思い出して顔色を窺うと、目をグッと瞑りながら俯いていた。

「おいおい、こんなとこで吐くなよ、頼むから!」

 介抱しなければいけないが、滑り台の上に大人二人が入ることは難しい。というか、滑り台の天辺で吐かせるのは不味いだろう。

 ならば、どうすればいい。

 逡巡していると、すでに彩は御沓沙絵の背中をさすっていて、咄嗟の行動力に驚いた。

「大丈夫? 出そうなら無理しないで吐いちゃってね」

「うぅ……うぅー…………気持ち悪い……………………」

 彩に任せておけば大丈夫だろう。

 そして、今必要なものを考える。水やエチケット袋は間違いなく必要だろうから、両方を得るために、近くのコンビニへ向かうとしよう。

「コンビニ行って水とか買ってくるから、安静にしておいて」

 返事も待たずに駆け出していくその時、御沓沙絵は笑っていたような気がした。




「さて、雄斗も行ったことだし、私たちは場所を移そうか」

 大げさな演技だったが、二人に通じたようで安心した。アルコールを摂取したのも、体調が悪いのも事実だが、青ざめるほど吐き気を催してはいない。これは、彩と二人きりになるための演技だ。

「…………え、あれ? 体調は?」

 うぶで可愛い。嘘と欺瞞が蔓延る大人の世界に染まらないでほしいと切に願う。

「えっへっへ、実はうっそー! 戻ってくる前に、さぁ!」

「いや、でも、雄斗が……」

 彩はおどおどと落ち着かない様子だ。

「大丈夫大丈夫、またいつでも会えるじゃん! 今日は私と、ね?」

 人差し指で彩の唇を弄ぶと、徐々に頬を染めていく。熱いキスを思い出したのだろうか。目を合わせるのが辛いようで瞑ってしまう。

「いいでしょ……?」

 両手で頬を摘み、その柔らかさに肩を落とす。

「ね? いいでしょ?」

「…………うん」

 彩はこれでもかと顔を赤く染めて頷いた。その姿にますます惚れてしまいそうだ。率直に可愛すぎる。

「やった! 本当に大好き!」

「……………………」

 滑り台から発射するように滑り落ち、付着した埃を払いながら立ち上がる。冷たい空気を一気に浴びて、アルコールは飛んでしまったかのように清々しいが、さすがによろけてしまうので、酔いは覚めていない。

 そして私は、彩にも酔っていく。




 コンビニで水と温かいお茶を購入して公園へ戻ると、そこはもぬけの殻だった。

 吐瀉物の形跡なんてない、普段通りの寂れた公園には風が吹いていて、ブランコの鎖が揺れている。

「…………………………………………」

 どうすればいいのかわからず、とりあえずベンチに腰掛け、吹き続ける風に身体が震え、もう必要ないであろう温かいお茶の蓋を開けて口を潤す。

 もしかしたら、と現実的ではないけれど、思う。

 まるでリアリティのない物語が展開されていて、江利川彩に出会ったこと、御沓沙絵と再開したこと、それら全ては夢じゃないのだろうか、と。

 しかし、これを夢だと証明できる術はないし、道端で眠っていたあの日以前の記憶は、今もどこかを彷徨っていて、夢なんかじゃなくて、何かが原因だと悟る。

「…………ふぅ」温かいお茶が身体に染み渡るようだ。

「つーか、呼んでおいて放ったらかしかよ。そもそもあいつ気持ち悪かったはずだろ? あれは演技か? でも、本当に顔色悪かったしなぁ」

 空を仰ぎながら独り言つ。彩にマフラーを取られたせいで、首元が寒い。

 そういえば、彩はどこへ行ったのだろうか。

 恐らく、御沓沙絵とここから立ち去った。それならば早い話、彩に電話をすればわかる。騙してここから立ち去ったのだから、御沓沙絵に電話しても無駄だろうが、自ら望んで御沓沙絵と行動を共にしているとすれば、彩も電話を無視する可能性がある。

 しかし、迷っていても埒が明かないので、電話帳から江利川彩を探すと、あ行の一番上に登録されていた。えりかわあやというよみがなで一番上なのは単純に登録数が少ないからだ。俺は友達が少ない。

 しかし、呼び出し音が鳴り続けるだけで、彩の声は聞こえてこない。やはり、意図的に無視していると予想して、携帯電話をポケットへ突っ込む。

 時刻は午後一時を過ぎたところだ。無意味を嫌っているのにもかかわらず、無意味な時間を過ごす。ここに座っていることで何かが起こり得るのだろうか。そんな自問自答を繰り返しているうちに、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。




 道路の開発が進むグラウンドへ向かって半ば強制的に腕を組みながら歩く。

 時折吹く強い風に顔をしかめながらもつい緩んでしまう。

 私は彼女に一目惚れしてしまった。雄斗のことを忘れたわけではない。彼だって好きだし、好きでいなくちゃいけない。

 でも、一目惚れという衝撃の強さが違う。雄斗は誰もが憧れるような造形ではないし、けれどコケにされるわけでもない。中、いや中の上レベルの見た目。

 でも、彩は違う。

 例えるなら、スズメバチに刺された衝撃。毒が塗られた鋭い針で神経をズタズタにやられたような度合い。一瞬にして彩の毒が身体を巡り巡ったのだ。

 中枢は麻痺している。だからこうして、果敢な行為に走れる。道なき道を、突っ走れる。

「さぁ、どこ行こっか! 今日ならどこでも行っちゃうよ!」

 組んだ腕を引っ張りながら、思い切り駆け出す。

「わかった! わかった、から! 走ら、ないで!」

「ダーメ! 今日という時間は始まった時から終わりに向かってるんだから、全力で楽しまないと! 後悔なんて、したくなーい! でも、いつか失うってわかっているからこそ価値があるのかなー!」

「意味、わかんない!」

「私もわかんなーい!」

 そして、笑い声を上げる。脇腹が痛くて堪らないけど、今を生きている実感そのものだから耐えられる。

 つい最近まで丁字路だった道を左折する。そのまま進むと、私が幼い時から営業している散髪屋があり、その先には優等生ばかりを輩出する男子校がそびえ立っている。

 校庭が見えたところで、ぜえぜえと喘ぎながら膝に手を置き、休憩する。

「はぁ……、はぁ、ふぅ…………しんど」

「はぁ、はぁ、息が、苦し、はぁ」

「これから、小学校の、時、へぇあ、はぁ」

 息が苦しくて、まともに喋ることができないので、息を整えてから喋ることにしよう。それにしても、体力が落ちた。




 思い切り走ったのは久しぶりだ。身体のあちこちが悲鳴を上げている。

 沙絵は何かを言いたそうにしているけれど、苦悶の表情で息を整えている。ついさっき何か言っていたけれど、理解不能だった。

 それにしても暑い。しかし、汗だくの状態で身体が冷えると、風邪をひくと聞いたことがあるから、汗が全身を覆っている今、コートを脱ごうにも脱げない。

 結局、胸元を掴んでボフボフと冷たい空気を送り込む。一緒に巻こう、なんて思いながら我が物顔で奪い取ったマフラーも取り外す。これのせいで余計に暑い。雄斗への思いも熱いけどねって、少し赤面する。

 いや、それはおかしい。だって私は、そんな思いを抱いているはずの雄斗を置き去りにしている。なぜ、沙絵に付き合っているのかわからなければ、私の熱いはずの思いは嘘なのか。

 そんなはず、ない。今すぐにでも雄斗の元へ戻りたいはずなのに、説明できない沙絵の魅力に引き寄せられ、羨望すらしている。あの唐突なファーストキスがあったから、だろう。そう考えるとまた、顔が火照ってしまった。

 感情の整理をしながら息を整えていると、沙絵は相変わらず苦しそうで、公園での迫真な演技なんて比べるに値しないほど真っ青な顔をしている。

 まさか、とは思うけれど。

「ホントに、吐きそうかも…………」

 酒気を帯びた状態で全力疾走したのだから当然の報いだろう。物陰にゆっくり移動させながら背中をさする。

「だ、大丈夫?」

 涙目になっている沙絵が肩を組んできた。どんな意図かわからなかったけれど、直後判明する。これから吐く、という合図だった。

 肩を少し痛いくらいに掴んで、地面へ向かって盛大に吐瀉する。靴や服へ飛び跳ねないように配慮し、呼吸を気にしなかったため、酒の臭いが強い吐瀉物を鼻で感じてしまった。誘発しないように息を止め、自分自身を落ち着かせる。

 沙絵は口の中に残存する胃液を唾液と一緒に吐き出しながら涙を零す。宥めながら、涙で濡れた涙堂を指で拭いたのだが、ここまで立場が逆転するのかと私は少し微笑む。

「もう、大丈夫?」

 吐瀉物は砂や泥で隠し、饐えた臭いを再度嗅ぐ前にこの場から立ち去ろうと促す。沙絵は頷きながら、覚束ない足取りで歩き始めた。

「やっぱり、公園戻る? 多分雄斗が待ってると思うよ」

「……ううん、大丈夫。それに、騙してまで別れたのには理由があるんだよ」

 何か思惑があるようで、踵を返すことはしなかった。

 吐瀉したことで体調が回復したようで、再び腕を組まれる。喜怒哀楽が激しく移り変わる人だと思った。ついさっきまで嗚咽していた御沓沙絵はどこへやら、だ。

「それじゃあね、これから昔できなかったデートを再現したいと思います。お相手はその時の数倍数百倍大好きな彩ちゃん! きゃーぱふぱふぱふー! おっと、行き先は聞かないで。小学生の行き先なんてたかが知れてるでしょ? だから都度のお楽しみってことで、ね?」

 口を出す合間なんてないのに意図を絶やして、絶やすことなく饒舌に喋り続ける。

「いやーあのころは若かったね。実はその時好きだったのも女の子だったんだけどね、好きな理由とか言ったら嫌われそうで“普通の友達”を続けてたの。どこに行っても離れずで、その子は正直嫌だったんじゃないかなーって、もう、そういう次元だったわけ。嫌われたくない気持ちよりも、好きっていう気持ちが強かったんだと思う」

 ゆっくりと歩を進めていた身体を停止させ、振り向いた沙絵は凛々しい表情だ。

「だから、あの日できなかったデートを…………」力強い目だ。「彩としたい」

 返答を待たず再度歩き出す。誇らしげなその態度に心を打たれるようだった。

 自分は同性愛者です、と同性の目を見て言えるほど、私は図太くない。そう、昔の沙絵のように、嫌われることを嫌って言い出せずにいるだろう。

 私は生まれ変わった。硬い殻を破り、解き放った心。それでも、階段の一歩に過ぎず、沙絵は遥か上で私を見下ろしている。いや、見下ろしているのではない。ここまで登ってこいという私への目印なのだ。そして、共に駆け上がろうと待ち続けている。

「私でいいなら、付き合うよ」

 多少の差異ではあるが、歩く速度が増したような気がした。

 見通しの悪い十字路を右折して進み、男子校の正門を横切ると、全国大会への出場を祝う垂れ幕がいくつも見えた。

 この男子校は、身近な高校の中で一番の進学校であり、中学校の優秀な同級生も幾人かここへ進学した。確か、サッカー日本代表のゴールキーパーも輩出していたはずだ。

「もしかして、彩と中学一緒? ここだよね?」

 歩いていると、今度は中学校が見えてきた。その中学校とは、我が母校である。

「そうだよ」

 当時の私は可もなく不可もなくで、どこにでもいる、目立たない静かな生徒だった。頭が悪かったものの、私のような生徒は勉学以外にやることがなく、勉強を多くした甲斐あって平均レベルの成績を収めることができた。

「へぇー! てことは、小学校もここ?」

「うん」

 中学校に突き当たり、左折するとすぐ小学校がある。これまた母校。自己評価はもういいだろう。小学生も中学生も、変わらず暗い生徒だ。

 そんな、懐かしくもあまり思い出したくない記憶に浸りながら同行して行き着いた先は駄菓子屋だった。

「どう? 懐かしいでしょ? 昔はいつもここで道草してたなぁ」

 当たりつきの十円菓子や棒状の蒟蒻ゼリー、どれも懐かしい。駄菓子屋に立ち寄ったのは小学生の時以来だろうか。この歳で立ち寄るとは思いもしなかった。

 商品を眺めていると当然だが、どれも安いと感じる。小学生のころ、千円、いや百円でさえ重大な出費だったと思うけれど、それが今ではただの小銭に過ぎなくて、価値観の違いを思い知らされる。あの時の駄菓子一つに対する胸の高鳴りはどこへ行ってしまったのだろう。これが子供から大人へと移ろう、ということなのだろうか。

 とりあえず私は、一口サイズのチョコを買うことにした。正直な話、あまり食欲がない。

 沙絵は小さな箱にこれでもかとお菓子を詰めていて、その横顔は微笑ましさを感じる、無邪気な笑顔。外見そのものは大人で間違いないけれど、まさしく子供だ。

「彩はそれだけでいいの? せっかくだからもっと買いなよぉ。私が奢っちゃうからさ!」

 チョコ一つで充分なのだが、それでは沙絵に悪いので、真剣に迷う素振りを見せながらうまい棒を数種類と蒲焼さん太郎を手に取る。この程度なら負担にはならないだろうし、今食べずともあとで食べればいい。

「確かに懐かしい…………けど、今はお腹空いてないんだよね。ごめん」

 嫌なことを言ったのかもしれない。けれど、沙絵は悲しい顔なんてせずに、次こそは喜ばせようと表情を引き締めた。

「…………………………………………」

 何か変な感じになっているけれど、笑わない私を笑わせるために頑張っている主人公御沓沙絵、なんて物語が繰り広げられているわけではない。私は普通に笑うし、これから先、ドラマティックな展開が待ち受けているわけでもない。…………ないはずだ。

「私は久しぶりで結構楽しいよ。これとか懐かしくない?」

 桃色の小さな餅がいくつも入っている駄菓子を差し出す。こざくら餅、だっただろうか。一粒ずつ味わって食べた記憶が蘇り、懐かしい。

「じゃあ、それも買う」

「よーし、買お! お会計!」

 ガラガラと音を立てながらガラス扉をスライドさせて、記憶と差異のない、昔と変わらない姿でお婆さんが出迎えた。

「全部で四百八十万円だよ」と、お決まりの冗談を言ってきたので、御沓沙絵も「はい、五百万円」としっかり返す。

「相変わらず元気だったね、お婆さん」

 会計を済ませて店の前へ出ると、袋の中からグミを取り出して食べ始めた。昔、買い食いをしていたことを思い出す。それが原因で夕飯が進まなかったりした。

「ほら、彩も食べよ。家で食べるよりも絶対美味しいって!」

 袋を受け取り、一口チョコを取り出して口の中に放り込むと、唾液と糖分が満遍なく広がった。強烈に甘いが、小さいからちょうどいい。

「うん、美味しい」

 口の中に詰め過ぎて喋れなくなっている沙絵は満足そうに笑った。

 期待に答えられてよかった、と思いながら、私も一緒に笑った。




 次の行き先は中古ゲームショップだった。小学校と一緒に卒業したテレビゲームは、今の私には全く接点がない。強いてあるとすれば、携帯電話やパソコンに初期から入っているようなものだけだろう。

「私は今でもゲームやっててさー、彩はどういうのが好み? いや、好みだった?」

 好みを聞かれても、答え方がわからない。RPGが好みじゃないのは確かだけれど、それ以外のジャンルの略がわからない。

「た、戦わないゲーム? かな」

「おぉ、平和主義」

 沙絵はゲームソフトをいくつか手に持ち、尚も選定に勤しんでいるようだ。

「でもさ、最近熱が冷めてるんだよね。欲しい、やりたい、って思って買ってみても……つまらないとかじゃないんだよ? 面白いんだけど、続けられなくなっちゃって」

 私にはその気持ちが理解できない。面白いのなら続ければいいし、つまらないならやめればいい。ゲームなんて、ただの娯楽なのだから、無理にプレイする必要なんてないはずなのに。

「でもさ、最近その理由がわかった気がするんだよね。今身近な人にゲームやってる人が少なくてさ、同じゲームを友人とやるってことが減ったから、そのせいなのかなって」

「あぁ……それはわかるかも。昔やったゲームも流行りがほとんどで、一人がやめれば連鎖的にやめていった気がする。友達と一緒に遊ぶから意味があるっていうか」

 私に当て嵌めると少し差異があるけれど、話題を共有するために同じゲームソフトを購入してプレイした。もちろん、プレイしている間は面白かったが、義務的だったのは否めない。

「そうそう、そんな感じかな。今もゲーマーがいないわけじゃないけど、大人になると案外同じ嗜好の人がいないの。ゲームって一言で片づけられるものでもないし。まず本体。据置機と携帯機があって、アーケードゲームなんかもあるし、今じゃ携帯電話で手軽にできるソーシャルゲームなんてものもあるじゃん? それでいて、アクションやRPGっていうジャンルまであるから、その膨大な種類の中から合致することなんて珍しいことなの」

 好きなことになった途端、饒舌になる人がいるけれど、沙絵はその典型のように思える。しかし、普段から口数が多いので、気のせいかもしれないし、そんなことを言えるほど沙絵について知っているわけじゃない。

「でさ、彩と一緒にやれそうなゲームを買おうと思ってるわけなんだけど」

「でも私、本体何も持ってないよ? 押入れとかに眠ってるかもしれないけど、古いし」

「いいよいいよ、私の持ってる本体を雄斗の家に持ってってやろうよ。雄斗の家の場所知ってる、よね? ささ、ソフト探そー」

 相変わらず勝手気ままだ、雄斗の許可もないというのに。

 でも、そこに惹かれるのかもしれない。

 ボーダーラインを巧妙に形成している。通り越せば“ウザい”彼女だが、通り越さないギリギリのラインを見極め、人を惹きつけているのだ。

 私はそんな感情を抱かれない人生を送ってきたので、憧れてしまう。

「これとかどうかなぁ……いや、こっちの方が簡単かなぁ」

 ゲームをやらない私でもわかるような有名作品を進めてくるけれど、賛否を発する前に自問自答して棚へ戻してしまう。無我夢中で探しているからだろう。

「よし、決定! 雄斗もプレイすると仮定して、パーティゲームにしたよ」

 いずれも知っていて、プレイしたことのあるゲームソフトだった。

「得意じゃないけどやったことある」

「よっしゃ! 買ってくる!」

 ニコニコと笑みを浮かべながらレジへ向かった。

「えっ、お金は…………? 私も出すよ」

 しかし沙絵は、そんな必要はないと財布を取り出す手を制止させる。

「お嬢さん、ここは私が…………すっ」

 自身の財布から一万円札を取り出し、キザに店員へ差し出した。店員は少し戸惑っていたものの、スムーズに購入することができた。

 店を後にすると、相変わらずの寒さが身体を震わせた。

「ささ、雄斗の家行こ。道案内は任せた! あ、一応公園寄ってみよっか。違う、雄斗の家行く前に私の家行かないと駄目なんだった! まず公園行って、私の家に行って、本体取ってきて、それで雄斗の家に行こっか!」

「あぁっと……うん? 公園行って、沙絵の家行って、雄斗の家…………でいいんだよね」

 整理整頓してから喋ってくれないだろうか。




「あっはっは、やっぱりいた! しかも寝てるよ! 無防備だなぁ」

 ベンチで座りながら俯いている雄斗の姿がそこにあった。厚着しているとはいえ、風邪をひいてもおかしくはない寒さだ。家を出る時に奪い取ったマフラーを巻いておくことにした。

「鍵がないと家に入れないじゃん? だから頂戴しようかと思ってねー。でもまさか、寝てるとはね」

「まさか、盗るの?」

 私の糾問に対して、少しの否定も見せずに身体を弄っていた。

「あ、あった」

 コートの左ポケットに入っていたようで、見つけることは容易かった。ドヤ顔で私に振り返られても、苦笑いしかできない。

「でもこれは、さすがに不味いんじゃ……」

「うーん、雄斗なら許してくれると思うけどなぁ。鍵の代わりにこのお菓子袋をプレゼントしておこう。これなら間違いなく平気でしょ。一応メールもしておくか」

 食べかけやゴミも詰まった袋を添えて、起こさないようにゆっくりと離れていく。

 そういうことではないと思うのだが、行動を止められずにいる。

「じゃあ、行こっか。次は私の家ね。ここから近いから安心して」

 沙絵は私の表情を汲み取らずに行ってしまう。

 平常心、平常心。こういうことに昔から弱いな、とつくづく思う。

 例えば喫煙。自慢気に一本パクってきたと言って、恐る恐る火をつけ吸ってみた同級生を見たことがある。そんな、“学生だから許されるだろう”という、甘い考えの先行した犯罪を目撃すると、無関係でありながらも不安になる。

 今回も、歴とした犯罪に違いないし、無関係でもない。“雄斗なら大丈夫、許してくれる”というのは甘い考えでしかない。私だって、雄斗を信頼しているし、心の中では咎めず大目に見てくれると思っている。でも、それはただの期待でしかなくて、実際どうなるかなんてわからないし、そう考えるようになってしまったら、将来歯止めが効かなくなるとまで危惧している。

 ならば、ここで力尽くにでも沙絵から鍵を奪い返そうと思うだろうか。

「…………………………………………」

 私は、思えない。

 過去の私であっても、今の私であっても、恐らく未来の私であっても。

 流れに身を任せて、沙絵の敷くレールを進むしか道はないと思い、何も口に出さず、心の奥底で言葉を留めた。

「はーい、ここね。ちょっと待ってて、すぐ取ってくるから」

 沙絵の姿を追っていると、気がついた時には自宅へ辿り着いていた。

 彼女からは想像できないほど無駄の少ない、悪く言う必要はないけれど、言わせてもらえば没個性な一軒家。外観からして、建って数年だろうか。

 駐車スペースが三台分あり、今は一台だけ駐車されている。黄色の小さな車で、二人乗りのようだ。趣味性の高さや内装の雰囲気からして、所有者は沙絵だと思われる。

 もしも本当に沙絵の車なら、雄斗の家まで乗せてもらおうと思ったけれど、飲酒運転になってしまうし、雄斗の家へ行って、どこへ駐車していいのかもわからないので思い留まった。

 それにしても、今日はやけに事柄が進む。まるで走馬灯のように、印象的な事象を一日で費やすような、マッチが燃え尽きる瞬間を味わっているような気分だ。

 雄斗と、沙絵と、会えたこと。連絡先の交換も済ませ、今はこうして沙絵と遊びに興じている。いや、沙絵とは連絡先を交換していなかった。携帯電話は雄斗の家に置いてあるから、あとで交換すればいいだろう。

 ドアがゆっくりと開き、沙絵が荷物を重そうに持って現れた。両腕が塞がっているにもかかわらず、ドアクローザが取りつけられているのでゆっくりと閉まっていく。

「ごめんごめん、待たせちゃったね。結構重いから早く行こ」

「私も一緒に持つよ」

 バッグの中に詰めたゲーム機本体を確かめてから、二人で手に持ち歩き出す。

 まだ出会って数時間。出会い方も最悪。猜疑心の塊と化したあの時。

 ――――けれど。

 あの魔性のキスが、全てを忘却させて陶酔させた。身体中にひびが入り、その隙間から御沓沙絵が溢れんばかりに侵入してくる。拒絶はできないし、その気も既に朽ちている。

 そうなってしまえば、私は彼女の言葉を飲み込む以外選択肢がなくなって、“拒否”という行動を一切取れなくなる。

 だから、今もこうして仲良く雄斗の家へ向かっている。

 守られていたが故に守りたい、雄斗自身を等閑にして。

「道順なんだけど、説明する必要ないかも。ここを左に行って、十字路を左に曲がれば到着だから。結構新しげなアパートがあるでしょ? あそこに住んでる」

「えっ、めっちゃ近いじゃん! …………なんであの時わかんなかったんだろ」

 あの時がどの時かなんて聞かず、適当に受け流す。

 この辺りは、正直近づきたくない場所だ。墓地だらけでありながら、街灯の数も少なく、道も狭い。暗く、狭い、この場所は、死を連想させて、過去を思い出す。

「な、なに?」

 沈思黙考の最中、凄まじい音が後方から響いて右耳に突き刺さると、直後に危険だと知らせる声を左耳が捉えた。身体は左方向へ引っ張られ、転びそうになってしまう。

「うっわー、かっけー! でもこんな場所で飛ばすなっての!」

 その轟音の正体は車だった。騒音としか思えない音を奏でながら過ぎ去っていった時、沙絵は憧憬の眼差しで怒号を発していた。

「車、好きなの?」

「人並み以上に好きだけど、詳しくないって感じかなぁ、内部の事なんてさっぱりだし。エアクリーナー? エキゾーストマニホールド? ラジエーター? なーにそれって感じ。友だちが車好きでさ、その影響かな」

「ふーん、そうなんだ。私にはその単語すら意味不明だけど。あ、そこね」

 十字路を左折すると、雄斗の住むアパートが見える。それを指差し、先陣を切る。

 緊張の面持ちで歩み、部屋の前へ呆気なく到着してしまう。ゴクリと音を鳴らしながら唾を飲んだ。

「ここが……雄斗の…………」

 さすがの沙絵も、私と同じように唾を飲んでいる。犯罪行為と自覚しているようだ。

「よし、入ろっか。彩は共犯者なんだから、鍵をお願い」

 私の顔を見つめながら、鍵を差し出してくる。躊躇したものの、その熱い眼差しに身体が応じてしまい、意思とは相反しながら受け取る。

 挿しやすいようにブレード部分をドアへ向けたあと、深呼吸をする。

「ふう」

 意を決して鍵を挿し込み、解錠する。

「開いた…………」

 もう後戻りはできない。けれど、今更戻る気はない。開示された道を歩もう。

 ドアノブを捻って、ゆっくりと音を立てないように開く。しかし、それから足が鉄棒のように固まってしまっている。先ほどと異なり、肉体が拒否反応を示しているようだ。

 意思と身体は曖昧なものだ。決意したはずなのに、進めるはずなのに、この一歩の重さは何だろう。やはり、良心を捨て切れていないのだろうか。

「おっじゃまっしまーっす!」

 私の重くて動かなかった足は、沙絵に腕を引っ張られることで見事、動作し始めた。

 足りなかったのは、吹っ切れる覚悟と思いのままに動く勢い。発進してしまえば、動きは軽快。靴を脱いで小さくお邪魔しますと玄関に言い残して部屋へ上がる。

「ほえーこんな部屋なんだ、悪くないじゃん。むしろ、いい! じゃあ、早速始めますか!」

「私、ゲーム機のセットできないから、お願いね」

 すると、沙絵は目を見開き、手を広げながら予想外なことを言い放つ。私はその言葉にやれやれと思いながら、賛同はせずとも阻止もせずにただ座って見守っていた。

「ゲームなんてあとあと! 部屋の探索が先でしょ!」




 倒れ込みそうになった瞬間、体制を立て直すと同時に目を覚ました。

 辺りは暗く、日が落ちかけていた。携帯電話の液晶を点灯させるが、通知はない。

 痛みを伴うほど顔が乾燥していて、軋む身体を無理矢理伸ばすと左手に何かが触れる。そこには白い袋が置いてあった。

「なんだ、これ? ゴミ袋……じゃないな」

 袋の中を確かめると、駄菓子とそのゴミが詰まっていた。誰かが忘れた、もしくは俺へ渡すために置いたのだろうか。後者ならば、考えられるのは二人しかいない。

「まぁ、受け取っておくか。夕飯の代わりにでもしよう」

 ベンチから立ち上がって、付着した埃を払いながら歩き出すと、向かい風が身体を強く刺激する。突き刺すような風の刃だ。ガタガタと震えるが、負けじと顔を上げる。

 首を縮めて震えていると、マフラーが巻かれていることに今更気がついた。

 やはり、二人がここへ来たのだろう。少しキツめに首へ巻きつけて、その場を後にした。





「うーん、寒いな。暖かい飲み物でも買って帰るか」

 駄菓子の詰まった袋を持ちながら、近くの自販機へ向かう。

 日が落ちているので辺りは暗く、街灯も少ないので正直怖いが、自販機が近づくにつれて明るくなっていく。

「ここだと百円で買えるんだよなぁ」

 袋の取っ手を腕に通して、ポケットに入っている財布へ手を伸ばすと、たまたま百円玉が一枚ポケットに入っていたので、それを自販機へ投入し、甘くて温かいコーヒーを選択する。

 自販機から取り出して、プルタブには指をかけず、カイロ代わりに持った。熱いくらいの缶が今は丁度いい。

 そのまま腕をポケットへ入れて、再び歩き出した。

「……………………?」

 違和感が脳裏を過るが、そんなことを無視できるほどに寒い。いくらカイロ代わりの缶コーヒーを持っていても、この寒さでは意味を成さないだろう。ポケットの中で、熱くて常時握れなかった缶コーヒーをグッと持つ。

「……………………あ」

 違和感の正体に気がつく。

「何かおかしいと思ったんだ。左ポケットに入れてたはずの鍵が、ない。深いポケットだから落とすとは考えられないし」

 一通りのポケットを探したが、やはり見つからない。となると、落とした可能性が高い。

「いや、待てよ…………」

 駄菓子の入った袋が視界に入り、嫌な予感がした時には駆け出していた。

 焦燥感に包まれながら息を切らし、ものの数分で自宅に到着した。

 そのままの勢いでドアノブを回すと、予想通り鍵はかかっておらず、ドアは開いた。初見の靴が二足あって、どちらも女物だ。

 間違いない、あの二人だ。

「おい、お前たち」

「おかえひー」

 こちらには目もくれず、口の中に何かを詰め込んだままの御沓沙絵が答えた。

「色々と聞きたいことがあるんだけど、とりあえず一つ。なんでゲームやってんの」

「彩とやろーってなって、家から持ってきたー。んで、彩は疲れて仮眠中。彩が起きたらまた死闘が始まるわけよ」

 彩はこたつで、コントローラーを手に持ちながら眠っている。いわゆる、寝落ちだ。こたつの上には酒の空き缶が何本も乱雑に放置され、いかの燻製や柿の種まで置いてある。

「今日泊まっていくわ」と、唐突に御沓沙絵が宣言した。

「…………はぁ?」突然の宿泊に唖然とし、それでいて、御沓沙絵は俺を気にしない。

「着替えとか、すぐ取りに行けるし平気平気。彩はどうしよう……私ので大丈夫かな」

「そういう問題、なのか? すぐ帰れる距離なら素直に帰ればいいと思うんだけど」

「…………………………………………」

 無視された。

 ファンヒーターなどは、光熱費削減のために使用しないと誓っていたのに、我が物顔で使っている御沓沙絵を見て、色々と心配になる。宿泊を許すことで、最悪の場合、生活すら危ういのではないかと。

 さすがにネガティブ過ぎるだろうか。

 それよりも冷静に考えてみよう。一つ屋根の下に、男一人と女二人が寝泊まる、と。

「あ! 雄斗、今やらしいこと考えてたでしょ?」

 図星だった。

「べ、別に考えてないし…………先行きを懸念してたんだよ」

「へぇー、ふぅーん」信じていない様子だ。「てか今何時? この部屋、時計ないの?」

「時刻はテレビとか、携帯で確認してる。……時計の音が嫌いでさ」

 理由は一切わからないが、幼いころから苦手だった。規則的で無機質な針の音を耳にした途端、身体がその音を拒否するように鳥肌が立つ。生理的嫌悪、だろうか。

「デジタル時計買えばいいじゃん」

「的確な答えをどうも。でも、わざわざ買うほど必要としてないしさ」

 働きもせず、用事があるわけでもない。時間に縛られた生活を送っていないからだ。

「よぉし……泊めてあげるって言わない雄斗よ、覚悟!」

 そう言って携帯電話を操作し始め、笑顔で“音の刃”を俺へ向ける。

 身体を襲うこの寒気は、決して部屋の温度云々などではなく、心から伝える電気信号だ。

「や、やめろ…………」膝から崩れ落ち、呼吸を荒らげるが、御沓沙絵はニタニタと笑ったままで、止める素振りさえ見せてくれない。

 苦しいかと、辛いかと言われて、全力で頷くだろうか。しかし、針の音による原因不明の嫌悪感が身体中を支配した結果、全てを拒否するかのように震えることで均衡を保っている。

「泊めるって言えば止める! なんつってぇ!」

 俺の震えと打って変わって、彩が苦悶に満ちた表情で汗をかいていることに気がつく。ファンヒーターとこたつの併用で暑いのかもしれないが、今、それを停止させることはできない。

「楽になってしまえよ雄斗」

 意識さえも震えるかのように、朦朧としてきた。さすがに限界と、御沓沙絵へ要請する。

「と、泊める、泊めます。いつでも泊まっていい! だから、早く、それを…………」

 ここまで大げさに言う必要はなかったかもしれないが、今の俺にそこまで余裕がなかった。

「わかったー! じゃあ毎日来ちゃおっかなぁー、彩も呼んじゃお」

「はぁ……はぁ…………くっそ」

 時計の針の音が嫌いなのは自覚していたが、ここまでひどい症状を患っていたのだろうか。せいぜい、気持ち悪いと鳥肌が立つぐらいの可愛いものだったはずなのだが、悪化している。

「あっはっはっは、私の勝ちだね。価値ある勝利。そう、価値ある勝ち!」

 記憶を失ったことが関係しているのではないだろうか、と直感が告げた。やはり、早急に取り戻すべきなのだと自分自身を促進する。

「前言撤回はしない。でもなぁ、節度は守れよ」

「はーい」と、やけに素直だったのは、嬉しさのあまりだろうか。

「……………………う、うぅ」

 汗をかくほどの暑さのせいか、彩が微かに声を出して目を覚ました。

「あれ、彩、おはよ。雄斗うるさかった?」

「俺のせいかよ」

 目元を軽く擦りながら、こたつから身体を出す。

「あれ、私寝ちゃってた……あ、あれ、雄斗がいる。おかえりなさい」

「た、ただいま」

 その言葉を聞いて、未だに着用していたコートを脱いだ。御沓沙絵はこたつへ潜り、顔だけ出して笑っていた。

「おいおい、付き合いたてのカップルか!」

 ニタニタと笑いながら、ちょっかいをかけてくる。御沓沙絵は、この笑顔がよく似合う。

「勝手に部屋へ上がってごめんなさい。沙絵の提案とはいえ、拒否しなかった私も悪いよね」

「大丈夫、そこまで気にしてないから。本物の泥棒だったらあれだけど」と口に出してから、盗まれるような品もないな、と自嘲する。

「ていうか!」御沓沙絵が声を荒らげる。「エロ本もなければ、ビデオもなかった! 弱みでも握ってやろうかと思ったのに!」

「そんなもの買ってられるほど余裕はないし、そもそもいらねーよ」

「うわ、つまんねー男!」

 なぜそれだけでつまらない男になるのか理解できない。

「男という男、全員が持ってると思うなよ」

「はいはい、もうその話はいいや。お腹空かない?」

「は、話の切り替え早すぎ。確かに空いたけどさ……」

 ずっと眠っていたせいで、ほとんど何も食べていないことに気がつく。

「じゃあ、夕飯にしますかー!」と言って、こたつから元気に飛び出した御沓沙絵が、こたつの上にあった酒を一気に流し込んだ。




「じゃあ、行ってくる。本当は彩と行きたいところだけど、これを一人で置いておいたら何されるかわかんないからな」

「そんなこと言って、本当は私と一緒にいたいくせに、なんで正直に言えないのかなー。あ、そうか、好意を寄せている相手に突き放すような態度をとってしまう、すなわちツンデレか」

「詳しい説明を交えてツンデレって言うな!」

 そんな会話を交わしながら、雄斗と沙絵はコンビニへと家を発った。私は雄斗が言ったように、一人で留守番を任された。

「あの二人、仲いいなぁ」

 テレビゲームをしている最中に二人の関係を聞いたのだが、親しげな印象とは裏腹に、二人の関係は浅く、数ヶ月、連絡さえもしていなかったらしい。

 浅い関係の二人が久しぶりに再会したのにもかかわらず、なぜ笑いながら会話することができるのだろうか。それができないから、今の交友関係の乏しさがあるのだろう、と反省する。

 そして、私が一緒に行かなかった本当の理由は、雄斗の気遣いである。本来なら三人で行くべきなのだが、調子が悪そうに見えるらしく、それは叶わなかった。

 私ならば、家に一人でいても信頼できると言われて留守番を任されたけれど、正直、複雑な気持ちだ。信頼されていることは嬉しいが、雄斗と沙絵が二人きりで外出していることはあまり好ましくない。簡潔に言うと、嫉妬である。

 しかし、それは雄斗の選択なのだから、私は頷くしかない。嫉妬しているのは間違いないけれど、わがままで雄斗を困らせたくない。

「それにしても、帰ってくるまでどうしよう」

 ぼんやりとテレビを眺める。コンビニへ向かってどのくらいの時間が経過したのか気になるが、現時刻を確かめる気力なんてない。こたつに入っていることで、睡魔が襲ってきているからだ。徐々に身体と瞼が重くなり、このまま眠ってしまいそうになる。

 すると、携帯電話が振動し、我に返る。

 着信だ。恐らく、雄斗か沙絵だろう。私に電話をかけるような友人は、二人以外にいない。

 名前を注視せず、通話ボタンを押す。

「もしもし」

『もしもし、あ、彩? あのさ、料理作れるって言ってたよね? せっかくだから作ってほしいなぁと思って電話したんだけど…………』

「えっ……あ、うん。作る」

 そういえばそんなことを言った。まさか、言った初日に作るとは思っていなかったけれど。

『何が作れるってか、得意料理ってある? コンビニに行くのはやめて、スーパーに行って食材買ってくるからさ』

「うーん……って言われても、手軽にパスタとか?」

『あ、いいね。じゃあ決まりで。材料は沙絵と相談しながら買っていくから、それじゃ!』

「わかった、ばいばい」

 終話ボタンを押すのが惜しいけれど、既に通話は切れていたので、そっと携帯を置いた。

「よし、準備しよう」と、意気込んでキッチンへと向かう。

 材料は買ってきてくれるから問題ないとして、調理道具や皿を用意しなければならない。しかし、料理をした形跡がなければ、道具一式見当たらない。

「おっかしいなぁ、いくらなんでも、お皿くらいはあるよね」

 キッチンの戸棚を開くと、まず目に入ったのが積もった埃だった。空気を取り込んだことによって、その埃は舞い、吸い込んでしまった。

「ごほっ、ごほっ、なにこれ。全然使ってないのかな」

 埃にまみれたフライパンや片手鍋を発見することができたが、その汚さに思わず苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。

「簡単な料理ならするって言ってたのになぁ。数年は使ってない感じだ、これ」

 渋々調理器具を取り出して水で流すと、意外にも、それだけで綺麗になった。あまり使用されておらず、埃を被っていただけなのが理由だろう。

 調理器具を洗いながら二人の帰りを待つが、それだけでは時間を潰せなかった。

「このまま掃除でもしようか」

 初めて部屋へ入った時は綺麗だと思ったのだが、目に入りづらい場所は汚いようだ。簡単な掃除なら近所迷惑にはならないだろうと、取り掛かることにする。




「たっだいまー! はーい、おっかえりーん! って、彩寝ちゃってるよ!」

 こたつへ入り、机へ突っ伏して眠っている。

「だったら、うるさい声で自作自演するな」

 この部屋の主である雄斗はまだ気がついていないようだが、目立っていた埃がなくなっている。彩は、掃除をして疲れ、待っている間に眠ってしまったのだろう。

 しかし、親密になりたい気持ちはわかるけれど、ただ後を追うだけでは駄目だ。少し距離を置いて、相手を思うことも大切だから。それを何度か繰り返すことで、必要とされるべき部分と、そうでない部分が明確になる。

 これが、素晴らしい関係を長続きさせるための手段の一つだ。

「再度おじゃましまーす」

 足首をブルブル震わせながらブーティを乱雑に脱ぎ捨てる。雄斗は私の脱ぎ捨てたブーティを整頓してから自らのスニーカーを脱いだ。一見すると、嫌々やっているようにも見えたが、幼稚な行為に対して、やれやれと微笑んでいたので、本当は嫌じゃないのかもしれない。

 全くもって、素直じゃない。

「どうする? 材料とか調べてまで買ってきたのにさー」

 きのこを使った和風パスタを作ってもらう予定だった。

「寝ちゃったんだから仕方ないだろ」

 調理器具もしっかり用意してあり、眠っているものの、やる気が感じられる。

「腹と背中が表裏一体寸前って感じなんですが!」

「言いたいことはわかるけど、意味わからないし」

 彩の身体へ触れないように、中を覗いて、足の位置をしっかりと確認してからこたつに侵入する。「うーん」天国だ。元々一人で使っていたはずのこたつは、二人でちょうどいいサイズだ。なので、雄斗はこたつの使用を許されない。

「あぁ、俺も寝たい。お前のせいで疲れた。なんだよあの質問攻めは」

 雄斗はこたつの横であぐらをかいて座った。

「聞きたいことはまだまだあるよ! 雄斗のことをもっと知りたいし、私のことだって、もっと知ってほしいじゃん? 彩だって同じ気持ちだと思うけどなぁ。てか!」

「なんだよ、急に」雄斗は驚きながら私を見るが、今にも眠りに落ちそうな目をしている。公園で寝ていたはずだというのに、睡眠時間が多すぎるのではないだろうか。

「私のことをお前って呼ばないで、沙絵って呼んで! 彩だけ名前で呼ぶとかズルい。お前って呼ばれて女が喜ぶと思うなよぉー」

「んー、なんか馴れ馴れしいっていうか、恥ずかしいっていうか、色々あって呼べなかったんだよ。名前で呼んでいいなら、呼ぶ……けど」

 否定されることもなく、呼ぶと言ってくれたことが素直に嬉しい。

「ほら、呼んで」と催促をする、が。そのまま名前を呼ばれることはなかった。

「あぁ、寝ちゃった…………。名前で呼んでもらうのは、明日でいいか」

 体勢を変えて、彩を見つめる。

 彩が雄斗を求める理由は、テレビゲームをしている時に聞いた。彩自身、多くを語らなかったが、私の少ない脳で整理し、多少は現状を理解できた。

 雄斗は記憶を失っている。

 だからこそつけ入る隙があって、今もこうして会話をできている。それは私にとって僥倖であると同時に、雄斗の不憫な現状を示していることにもなる。

「うーん」ならば、記憶を取り戻さないといけない。真実を受け入れることができる強固な型に仕上げてから、劇薬を含んだセメントを流し込む。それが雄斗として機能し動作するかは、型の完成度によって左右される。

 そして、新しい雄斗を正しい道筋へ導いて、勝利へのショートカットを築く。

 それが、彼と彼女の唯一救われた未来になるはずだから、心血注いで尽力する。

「うーん、私もなんか眠くなってきたかも…………」と、誰かに向けたわけでもなく、言葉を漏らす。考え事をするのは性に合わないので、拒否反応を示し、その結果眠くなった。

 手料理は明日作ってもらうとしよう。

「おやすみー……………………」




 俺は今、夢を見ているのだろうか。神のような視点で世界を見下ろしている。

 見下ろす先で存在している人間は、特例なく全員何かが“欠けている”のは何かの暗示だろうか。正常な人間が視界に映らない。

 眼を抉られ、腕や足を切り落とされ、骨を砕かれ、心を壊されている人間数多が俺の視界で跋扈している。

 惨憺たる絶望の淵では異質な、笑顔を振り撒く少女の姿が目に入り、自嘲する。

 なぜなら、少女の気持ちを理解できないから。

 こんな腐敗した世界で笑える少女は、一体何を思って生きているのだろうか。

 あぁ、徐々に視野が狭窄してくる。俺の世界が閉幕しようとしている。

 消散していく世界を最期まで刮目すると、辛うじて一瞬映った、彼女と同様に笑顔の少年。

 ――――俺はああやって笑えていたのだろうか…………。

 静寂が流動する闇の中で、俺はそっと双眸を開いた。




 普段と違い、非常に寝苦しい。呻きながら目を覚ますと、端的に言って窒息死寸前だった。

 沙絵は唸りながら俺の首を絞め、その力は一向に弱まらない。たった今目覚めたのにもかかわらず、再度眠りに就いてしまいそうだ。しかも、永遠の就眠。

 しかし、暗い未来が待っているであろう俺の人生だが、今ここで終える気はない。未だに首を絞め続ける沙絵を、足で無理矢理剥がす。

「ん、あ、痛い、痛い! 痛いって!」

「……んぐうう、はぁ、はぁ、おえっ」

 急激に酸素を取り込んだせいで嗚咽し、口の中が酸味に溢れ、吐瀉してしまいそうだ。

「何、何なの? 急に何すんのさ!」

 俺を殺し損ねた張本人は知らん顔で激昂している。怒りたいのはこっちだと言いたいところだが、面倒なことになりそうなので省略、冴えた判断だ。

「無視すんなー! 暴力振るっておいて無視とか、信じられない…………!」

 結局面倒なことになった。

「沙絵が俺を殺しかけたんだよ! 人殺しにならなかったんだから感謝しろ!」

「あ、沙絵って呼んでくれた! 嬉しいー!」沙絵は満面の笑みだ。

「…………あ、あっそ」

 そういえば、ベッドが使われていない。ベッドなら邪魔されずに眠れそうだ。

「よっこらしょ」と立ち上がり、よろよろとベッドへ向かい、倒れ込むように横たわる。しかし、沙絵がそれを見逃さなかった。

「あーベッドずるい! 私にも使わせろー!」

「使うなら一人で使えよって、うわっ!」

 忠告は遅かった。「飛び込んでくるな!」ダイビングボディプレスを食らい、情けない声を上げる。

「うわっ、いってぇー!」

「いたたたた…………そしておやすみ雄斗ぉ……………………」

 首と胴を攻められ、ボロボロの身体はこのまま動くことはなかった。

「うぅ、このまま、寝る、か…………」

 朝になって、ちゃんと目が覚めることを祈りながら、意識を彼方へ飛ばした。




 あれから数週間、数ヶ月が経過していた。

 毎晩のように二人が訪問することで、睡眠は阻害され、身体が悲鳴を上げ始めている。

 しかし、それを嫌なことだと、駄目なことだと思わない。率直に嬉しい気持ちが心を占めている。今の今まで、これほど友人と時間を共有したことはなかったからだ。

 果たして、それは事実だろうか。記憶を……楽しかった記憶を失っているだけなのかもしれない。だが、そんな友人がいれば、記憶を失う原因を簡単に追求できるはずだし、そもそも失うことだってないはずだろう。事実、携帯電話の連絡先には、数えるほどの、もう連絡することのない人間ばかりが記載されているのだから。

 ポジティブに考えれば、二人と親睦を深める絶好のチャンスではないだろうか。他人に邪魔されることはない。そう考えるだけで、日々の楽しさは加速していくようだ。

 一人と出会い、一人と再会した冬のあの日から、季節は移ろっていく。

 そして、二人との日々を思い出す。




「はーい、そこの少年! 一緒に旅をしようか!」

 空吹かしをして、唸るような音を発している二人乗りの黄色いオープンカーが自宅の前で停車している。その運転手は、バタフライ型のサングラスを掛けて手招きしている。

 断ったとしても断れないだろうな、と簡単に支度をして、忘れず鍵を閉めて部屋を出る。気持ちが昂ぶっているのか、車まで早歩きで向かっていた。

「おそーい! もっと早く出てきてよ!」

「遅いって言われても、家着で外出るのは嫌だろ。最低限の身支度させてくれよ」

「平気平気、雄斗はどんな服着ててもイカしてるからさ!」

「…………ていうか、急に何だよ。外を見ろってメールがきたと思ったらこれか」

 すると、車ではなく沙絵自身が空咳をして、胸を張りながら言う。

「私たち人間の一生は短い。うむ、非常にひじょーに短い。ならば、その短い一生を楽しまなければいかんなぁ。そうは思わぬかね? 少年よ! さぁ、終わりなき旅へ行こうぞ! 時間は限りなくあるようで、あっという間に過ぎてしまうんじゃ!」

「いや、お前は誰だよ。……まぁ、行くけど」

 車に乗り込んで返答した。

 うっすらと沙絵は笑い、アクセルを踏み込んだ。ほどよい圧迫が身体を覆う。

「ところで、どこへ?」

「秘密」

 まぁそれもいいか、と深く考えず沙絵の運転に身を任せた。




「ノンブレーキ右折! ぎゅいーん」

「うわああああ! 怖いって! スピード抑えて! ブレーキ! ブレーキ!」

「何ビビってんのさ! 制限速度守ってますけどー! タイヤちゃん鳴かしてやるぜぇ!」

「泣かせるの間違いだろー!」

 こんな女に免許を持たせたのは誰なんだ、と恐怖心に苛まれながら切に思った。

 多く喋ると舌を噛みそうで、目を瞑りながら早く終われと祈る。ジェットコースターに乗っているような気分だ。安全装置を抱きながら気絶してしまいたい。

 歯を食いしばりながら耐えていると、左右から襲う身体への重圧がなくなり、恐る恐る目を開くと、住宅街だらけの地元では拝むことのできない光景が広がっていた。

「どう? 綺麗でしょ。私のお気に入りの場所なんだ」

 有無も言わずに、俺は車を飛び出していた。

 どこまでも見渡せそうな高台。周りには木々が生い茂り、目を凝らせば動物が発見できそうな、自然そのものみたいな場所だ。空気も非常に澄んでいて、深呼吸をするたびに身体中の血液が高速で循環していくようだった。

 灼熱の砂漠で水分を根こそぎ奪われ蒸発寸前の俺に冷たい水を差し出すような、無限に湧き出るミミズが蠕動している暗い穴へ投げられた梯子のような、例えるならばそんな感じだろうか。車の恐怖に怯えていた俺へ、突如絶景を誇る。上げてから落とすのではなく、どん底に突き落としてから救いの手を差し伸べるのだ。

 だから余計、心に植えつけられたのかもしれない。この、景色を。

「こんなの、卑怯だ」

 だから、沙絵は面白い。

 だから、沙絵が好きなんだ。




「今日、どこ行こっか? 行きたい場所とか、ある……?」

 一通りの準備を済ませ、手に汗を握りながらテレビを眺める。

 彩と遊びに行こうと約束した日ではあるが、正直、遊びに行く場所がわからない。沙絵と違い、車があるわけではないし、バスや電車を使ったところで、行く場所がわからないのだから意味がない。結局、家で一日を過ごすか、散歩や買い物しかやることがないのだ。

「うーん……どうすっかー…………」

「…………………………………………」

 テレビの音声だけが部屋に響く。

 こうなってしまうと、悪循環の始まりだ。下手に話しかけられなくなる。そうして時間が過ぎて、余計に喋りづらい。

 家で過ごすと決めたなら話は別だが、どこかへ行こうとしたまま、この状態が一日続いたことがある。その日はさすがに気まずかったし、彩も悲しそうな面持ちだった。

 しかし、こんな俺によく連れ添ってくれるなぁと感心する。俺のような男、最低だろう。嫌われてもおかしくないはずなのに、と思ったところで彩が重い口を開く。

「じゃ、じゃあさ、ケーキでも食べに行こ? 甘いもの食べたい」

 再び夜を迎えてしまうと感じていた矢先の一言だった。沙絵とならば友達感覚で気軽に話せるのだが、彩とはどうしても話せない。異性として相手のことを意識してしまうから、思ったことを口に出せないのかもしれない。

「どこか、ある? 美味しいケーキ屋。俺そういうの疎いから」

 顔を綻ばせながら、彩は大きく頷く。まるで俺の発言を待ってましたと言わんばかりに。

「うん! 私のおすすめ教えてあげる!」

 こうしてこの日のデートは始まりを迎えたのであった。




 徒歩数十分で辿り着いた場所は、俺の知らないケーキ屋だった。この道を通ったことはあるのだが、気に留めたことはなかった。外観からして高級そうな店であり、ただでさえ薄い財布が余計に薄くなってしまうことが気がかりだ。

「ここね、すっごい美味しいの! 駅前のデパートにも二号店ができたくらいだからね」

 店内へ入ると、甘い香りが鼻孔を刺激し、食欲が湧く。

 陳列窓を覗き込むと、比較的小さめで小洒落たケーキが並べられていた。その大きさに対して少々値が張るような気がするが、ケーキ屋のケーキと考えれば納得できる値段だ。

 そして、日本ケーキショー作品と銘打って豪華に飾られたケーキと呼ぶべきかわからない、立派な芸術品が展示されていた。当然だが、外観だけでなく、実力も折り紙つきなのだろう。

「何が美味しそうだった? 私は一応、全種類食べたことあるから、気になったやつあったら聞いてね。って、あれ? これ新メニューだ、美味しそう」

 気づかれないように彩の顔も覗くと、純真無垢で穢れを知らない子供のように、キラキラと目を輝かせていた。この顔を見れただけでも収穫があったと言えるだろう。

「何がオススメなの? 俺はそれにしようかな」

「私が特に好きなのはブルーベリーチーズケーキ! ティラミスも好きかなー」

「じゃあ、その、ブルーベリーチーズケーキで。彩は新メニューでいいんだよね」

 注文するケーキが決定しているにもかかわらず、彩はケーキに対して漏れなく批評し、店員がどう対応していいのかわからずに頭を掻いている。好きなものに対して饒舌になる気持ち、俺にもよくわかる。

「…………とまぁ、そんな感じかな。あとね、チーズケーキ専門店とタルトの専門店知ってるから、あとでそっちのお店にも行こうね」

 長いご高説を終えて、最終的に三つのケーキを注文することにした。少し痛い出費だが、彩のおかげか、ケーキへの欲求が抑えられないし、何より男としてのプライドがある。

 しかし、財布の中から千円札を二枚取り出そうとすると、その手を掴まれ制止された。

「私が払うよ。雄斗は一人暮らしで生活厳しいでしょ?」

「えっ、でも…………生活は厳しいけどさ、格好がつかないっていうか」

 その台詞を口にすること自体が格好悪いのだが、彩の制止を振り切るには、それしかなかった。しかし、手を掴んだまま離さず、彩は切り返す。

「何言ってるの。私のことを忘れている時点で格好なんてついてないんだから」

「…………………………………………」

 その言葉に何も言い返せず、彩の厚意に甘えることとした。




 そういえば、すっかり忘れてしまっていた。“江利川彩”という存在を。

 いつから俺と共に過ごしたのだろうか。公園で出会った日よりも以前に、俺たちは出会っているらしいが、俺にはそんな記憶、ない。

 小学生のころや、それ以前ならば確かに記憶が希薄だが、曖昧模糊になってはいけないほどの出来事を共有しているような様子だったことを思い出す。

 ならば、俺は、いつ彩と出会ったのだろうか。

 ――――あぁ、すっかり忘れていることを忘れていた。

 本格的な夏の始まりを告げると共に、近所の歩道で俺は目覚めた。その日以前の記憶を失った状態で、だ。期間で言えば半年、いやもっと短い期間か、明確な日数はわからないが、その失った記憶の間に彩と出会っているのだろう。

 しかし、沈思黙考しても、想起に至らない。俺の身に何かが起こったのは明確なのに、頭が拒否してなかったことにしようとする。どんな思念さえも、自分で絶ち切ってしまう。

 それは現状のみを鑑みれば、最適な手段なのかもしれない。けれどそれでは、今を生きるだけで、一歩も未来へ進めない。そして、今が永久に続くわけじゃない。今という時間はいつしか終える。過去に生きること、未来に生きること、今を生きること、どれも大事だけれど、一つに縛られてしまっては駄目だ。着実に、一歩ずつ明日へ向かうことが一番大事だ。俺はそれができておらず、今という時間に縛りつけられ、それでいて満足してしまっている。刹那主義であるから、仕方ないのかもしれない。

 でも、俺は今、変わることができる。彩と出会い、沙絵と再会したおかげで、変化を求め歩き出すキッカケができたのだから。

 そのキッカケを今の今まで忘れてしまっていたのだが。

「…………………………………………」

 今日は誰も宿泊に来ていない。孤影悄然にもかかわらず、寝苦しい。

 明日、今まで躊躇していたが聞いてみよう。彩との本当の出会い、そして、夏のあの日以前に何があったのかを。

 そうして俺の世界が一変しても、後悔なんて、ない。

「…………くっそ。頭いてー」

 重苦しい空気を拭い去るべく窓を全開にして、乾燥した冷たい風を取り込む。寝苦しさを訴える火照った身体は急激に冷やされ、頭を苛む熱も取り除くことができた。

 再び布団へ潜り込むと、月の微かな光に照らされ、ぼんやりと部屋全体が見える。部屋の扉を開くと、キッチン付きのリビングが出迎え、玄関の方へ向かうと、廊下の両端に扉がある。

 右の扉を開くと物置と化している部屋があり、左は二つの扉。手前がトイレで、奥が脱衣所に繋がっている。もちろん、脱衣所の奥は風呂場だ。

 正直、俺一人では広いかもしれない。

 せめて家賃代だけは、と毎月都会に住む親戚が家賃代を送ってくれている。家賃代だけと言いながら、それ以上に送ってもらっているのは、単に世間知らずなのか、この地域の家賃の相場を知らないからだろうか。そのせいで調子に乗ってこの部屋を借りたが、後悔している節もある。もう少し狭くて、もう少し安い賃貸にしておけば、毎月ギリギリの生活を強いられずに済むからだ。両親の残してくれた貯蓄には、できることなら手を出したくない。

 ならば、変化を求めて引っ越すのも悪くないのかもしれない。

「あーあ、寝つけねぇ」

 このまま寝ずにいても、いいだろう。

 色々と巡らせて何時間も布団で過ごしていると、少し広めの貸家に朝日が差し込んでいた。

「この日差しは、俺を導く光になってくれるはずだ」

 自分の失った過去を見つけ出すべく、布団を蹴り飛ばして眩しい朝日を浴びた。




 それからしばらくして、非通知番号から着信があった。誰からの電話か気にはなるが、特に躊躇せず通話ボタンを押す。

「もしもし」

『いやーもしもしぃ? 久しぶりじゃねーの。元気にしてたか? 間賦口雄斗』

「…………誰だよあんた」

『おいおい、目上の人間に対する口の利き方がなってねえな。幼稚園からやり直せ』

「お前こそ口の利き方がなってねぇ。初対面の人間に対する口調がそれかよ?」

『はっはっはっ! 滑稽だ! 耳にはしてたが、本当に滑稽だ。現実逃避かよってな!』

「何だ。何がおかしいんだよ」

『彩ちゃんとは仲良くしてんのか?』

「お前、彩のことも…………一体何なんだ、何が目的だ、訳がわからない」

『まぁまぁ、焦るなよ。時間はいくらでもある。お前だって暇を持て余しているだろ? 仕事なくなっちゃったんだろ?』

「…………………………………………」

『生活は苦じゃないか? もう慣れたか? それとも、気づいていないのか?』

「気づいて、いない?」

『まっ、そんなのはどうでもいいんだけどよ』

 主語がなくて何が言いたいのかわからないが、直感が告げている。

 記憶喪失を、彩との関係を、この男は知っている。

『さて、もう少しで春が訪れるわけだが……何か思うこと、感じることはあるか?』

「別にねぇよ」

『そうかい。まぁ、せいぜい頑張れや。あと郵便受け見とけ。贈り物だ』

 そうして終話する。一方通行な会話をする威圧的な口調の男が誰なのか、未だにわからないが、本来なら知っているのだろう。

「なんで俺は忘れてるんだ!」

 自分への怒りを壁へぶつけるが、鈍い音が響いたあと、痛みと虚しさだけが残った。

「何なんだよ、誰なんだよ、俺はどうなっちゃったんだよ!」

 虚日が続くことを望んでいるのに、どうやら世界はそれを許してはくれない。微量の毒を散布し続け、苦しませながら殺そうとしているようだ。

 でも、俺は抗うと決めた。

 失った記憶を求める理由は、バラバラのピースを一致させるために。

 間賦口雄斗と江利川彩の関係を明確にするために。

 曖昧な感情で揺れ動く俺の心は、モヤモヤと曇り、晴れ渡ることがない。それらを全て取り除いて、光り射す明日に向かって走ろう。大切なものだけは、なくなることはない。

「郵便受けに何かあるって言ってたな。…………つーか、家まで知ってるのかよ」

 電話の主が、現時点で俺の知りうる人間じゃない。だから素直に受け取れない。気を張っているが、寒さも相成って身体がガタガタと震える。小心翼々と、畏怖の念に似た感情が纏わりつくのを取り払いながら郵便受けへ向かう。

「…………………………………………」

 郵便受けに到着すると、深呼吸をして、強く拳を握って目を瞑る。

「よし」と気持ちを固めて郵便受けを開くと、小包が置かれていた。差出人や住所は一切書かれていないので、直接投函されたのだろうか。

 身体を震わせながら開封する必要がなければ、格好も悪いので、急いで部屋に戻ってこたつへ潜り込む。

「うっはぁ…………生き返る。とと、いけない。この小包を開けないと」

 一体、何が入っているのだろうか。考察してもわからなければ、送り主が敵か味方かさえ定かじゃない。そう考えると、開封を躊躇ってしまう。

「あぁ、悩んでも仕方ない、開けよう」

 ガムテープと共に、包みの端を乱雑に破り捨て、中を覗くと黒く小さな、しかし重量感があるリングケースのようなものが入っていた。

 これだけでは中身が何かわからない。指輪……では安直過ぎるだろう。

 恐る恐る黒い小さな箱を開けると、そこにあったのは予想を遥かに超える物だった。

「何だ……これ…………」

 紛い物か定かではないが、紛い物にしては精巧過ぎる。ならば、本物だろうか。いや、有り得ない。有り得るわけがない。

 彩の顔が過る。

 普通ならば眼帯の下に眠っているはずの眼球。それと瓜二つの“何か”を俺の眼球が捉え、離さない。あまりにも常識から逸脱している現状に何を思い、何を感じたか。

 答えは簡単。只々、呆然と見つめるしかなかった。

 深呼吸を繰り返して、早くなる鼓動を落ち着かせる。頭では全てが綺麗に抜けてしまっているのにもかかわらず、身体は正直で汗が止まらない。背筋が凍るというのは、今この時のことを言うのだろう。思考は全て凍りつき、その氷を苦痛で歪む身体が徐々に溶かしていく。そうして、冷や汗が生まれるのだ。

「これって……彩の、じゃないよな…………?」

 それならば、電話の主は誰だろうか。仮定の話だが、この眼球が彩の物だとして、自由に持ち出せる人物がいるとすれば……本人、もしくは家族だろうか。しかし、自由に扱えるとしても、俺に送る理由がない。惨憺たる象徴でもある、肉体から取り除かれた眼球を。

 ――――これは、何かの警鐘だろうか。

 電話の主は俺と彩を結ぶ媒介者なのだろうか。だから両者を熟知している。彩の眼球だと仮定すると、欠損した記憶のピースも持っている可能性がある。

 関わらないほうが良い人間の典型ではあるが、自分自身のために、自ら危ない橋を渡らなくてはならない。

 とはいえ、渡ろうにも橋が見当たらない。

 電話番号は非通知なので不明であり、この贈り物だって直接郵便受けに投函されている。あの男を追おうにも、追う方法がまるでない。

「そうだ、彩に電話を」

 携帯電話を取り出して通話を試みるが、果たして電話していいのだろうか。彼女にどうやってこの眼球について聞けばいいのだろう。デリカシーに欠けている発言で相違ない。かと言って、遠まわしに質問できるほど口巧者ではない。

 結局、電話はやめた。

 下手な会話で関係を悪化させるなら、今のままで維持していたいし、願わくば、昇華させたい。だから、電話はできなかった。変わると決意しても、この関係だけは悪化させたくない。

「なら、どうすれば…………」

 思考を全力で巡らせても何も思い浮かばない。

 今できることが限られているから、手段を選ぶことさえできないでいる。このまま考えて、考えて、考えるだけでいいのだろうか。何も生まれやしないというのに。

 時間は待ってくれない。今も、時を無機質に刻んでいる。

 ふと窓を見ると、薄暗いオレンジ色が目に入った。つまり、こうしている間に数時間も経過していたのだ。電話をしたのは午前中だったというのに。

「もう、今日はいいや…………疲れた」

 空腹も満たさないまま、そのまま寝入った。頭が全てを拒否して、倒れ込むように。




 寒煖饑飽を共にした身体の一部は、昵懇な異性の手によって分離された。当の本人には自分の身に何が起こったのか理解できていないようだ。悶え苦しみながら双眸を全力で見開くが、既に視野が曖昧で、物の区別さえできない。悲惨な絶叫が部屋に反響し、疼痛が全身を伝う。

 加害者は、装着していた目隠しを、加害を指示した者の手によって外され、目に入る光景を必死に消去しようとのた打ち回っているが、視野も思考も狭窄し、慙愧の念に駆られる。

 強烈に焼きついた記憶が、華奢な体躯へと染みつき、行為の感覚を全身に刻まれ、尚も苦痛に顔を歪ませる。

 そして、世界に終焉を告げ、新たなる世界の扉を開く。その時、自分の不甲斐なさに口角を上げながら、目を虚ろに死を思い浮かべた。

 俺には耐えられない。人間の黒い部分だけを抽出すれば、こんな外道が生まれるのだろう。こんなことを強制され、抗うことでより虐げられ、なぜ生きていられるのだろうか。

 ――――生かされているからか。

 こんなもの、死よりも辛い。

 常闇の世界で、見るに耐えない光景と別れるべく双眸を開いた。




 あれからかなり眠り込んでしまったようだ。外は明るく、日差しが眩しい。

 こたつから出ている部位が寒く、乾いた空気が肌寒さを助長している。口の中が乾燥していて、変な体勢で寝ていたからか、身体中が痛い。

「うあぁ…………だりぃ」

 体制を変えて再度眠ろうと試みるが、眠れなさそうだ。仕事や学校の日なら、簡単に二度寝できるのだが、どちらも俺には関係ない話だ。

 こたつの上に置いてある携帯電話の液晶画面を覗く。時刻は午前九時過ぎで、つい先ほど着信があったようだ。

 八時三十六分。非通知設定。

 八時四十一分。江利川彩。

 八時四十二分。江利川彩。

 八時四十二分。江利川彩。

 彩から立て続けに着信がある。そして、またしても非通知から。

「非通知は、まぁいい。どちらにせよ、かけ直せないからな。問題は彩だ。なんで引っ切りなしに電話してきたんだろう。…………非通知からの着信のせいで、嫌な予感しか」

 最悪のパターンを想像してしまう。「くそ、邪念は取り払え」と、彩へ電話を掛けてみるものの、出ることはなかった。

 一応、メールを送っておこう。何もなければいいのだが、動機が収まらない。

 ただ、ただ、心細い。一人で震えるよりも、と沙絵へ電話しようと決めた。

 発信すると、ほぼ同時に沙絵の声が聞こえる。

『もしもし、どしたーん?』

「あ、もしもし、電話出るの早いな」

『雄斗の電話を待っていたからね! ……まぁ、ちょうど携帯弄ってたからなんだけどさ。にしても雄斗から電話だなんて、珍しいね。何かあった? 会いたくなったとか?』

 その言葉を聞いて、俺は沙絵と会いたいのだと、会うべきなのだと感じた。

「そう」

『えっ?』

「そうだよ。会いたいんだよ」

『よし、行く! すぐ行く! ちょっと待っててねぇ!』




「つまり、昨日非通知の男から電話があって、郵便受けに眼球が入っていた。本物かどうかはこの際置いておくけど。そして今日、再度非通知の着信。寝てて電話に出れず。その後、彩から連続で三回も電話があった。何かあったのかと彩に電話してみるけど出ない。メールの返事も届かない。不安が募った結果…………私を呼んだわけね」

 長々と状況を整理していく。探偵でも気取っているのか、少し鼻につく喋り方だ。

「ん、まぁ、そんな感じで……」

 沙絵は握り拳を唇に添えて唸り始める。

 それにしても意外なのは、眼球を見せても特に驚かないことだ。落ち着いた反応でジロジロと眺めるだけで何も言わなかった。見慣れているのか、耐性があるのか、それとも、紛い物だと信じて疑わないからだろうか。

「どうしよっか…………彩が心配だね。家に行ってみる?」

「あぁ、そうか。すっかり頭から抜けていた。家に行ってみるのが一番早いな」

 ネット社会の弊害だろうか。ネットワークに頼ってしまって、それに慣れてしまった結果、現実世界の生身を忘れてしまっている。電話やメールが通じないのなら、直接会ってしまえばいいのだと、気がつかなかった。

「じゃあ、すぐ行くから外で待ってて」

 クローゼットから特に変わりない、馴染みの洋服を取り出す。履き慣れたジーンズに、少し奮発して買ったお気に入りのモッズコート。

 さて、服を着替えて何を持っていくか確認しよう。携帯電話。家の鍵。眼球の入った黒い小さな箱。

 そして、不安に打ち勝つ勇気。

「さぁ、行こうか」

 家を飛び出して外の空気を吸い込むと、鼻が痛くなるけれど、清々しい。新鮮な空気が細胞を活性化させて、身体中がじんわりと熱くなっていく。冬の空と一体化した気分になるまで何度も深呼吸をしてから、鍵を閉めて階段を降り、そこにいるはずの沙絵に向けて出発の合図を送る。

「急いで彩の家に向かおう。もしも、を考えたら、早ければ早いほどいい」

 駐車してある沙絵の愛車から、聞き慣れたアイドリング音が響いている。

「ささ、乗って乗って」

 車に乗り込んで、シートベルトを着用する。何度乗車しても、視界の低さには慣れない。大型トラックと並ぶと、恐怖さえ感じるほどの低さだ。沙絵曰く、この低さが素晴らしいのだと言っていたが、まだ俺には理解できないでいた。

「こういう時の車って本当に頼りになる」

「おっ、惚れちゃったかな?」

 異性として惚れているわけではなく、人として惚れている。生き様や、人間性、もちろん並以上の見た目だって好きだけれど、やはり根底は、憧れに似た全体像だ。

「飛ばすぜー! シートベルトは装着したかい? 舌噛むなよぉ!」

 アクセルをこれでもかと煽り、クラッチを一気に繋いで急発進した。




 彩の家に到着し、ドアチャイムを鳴らすと、四十代の母親らしき人物が顔を出した。

「えっと、どちら様ですか? 何かの勧誘だったらお断りなんですが」

「自分は間賦口っていうんですけど、えっと、彩さんは今いますか? 電話とかメールしたんですけど、全然返事なくて」

「うーん、彩は……多分いないと思うけど。なにか用事でも?」

「いない…………んですか。わかりました。すみません、ありがとうございます」

 軽く会釈をしてその場を立ち去る。

 どうも引っ掛かる。なぜ自宅にいるにもかかわらず、娘が在宅か明確にわからないのだろうか。さすがに部屋行って確かめろとは言えないけれど。

「家にいないってさ。よくわかんねーけど」

 車に乗り込みながら不貞腐れ、念のため、再度電話を掛けてみる。

「これからどうしようか? 家にもいない。電話もメールも駄目。これじゃあどうしようもないじゃん、って、もしもし? あれ? もしもし!」

 諦め半分の電話だったが、通話状態になっている。

「もしもし! 彩! 今どこにいる? 電話全然出ないから心配した――――」

『雄斗…………いい加減にして』

 彼女の声に覇気や抑揚がなく、まるで感情を失った人形のように思えた。

「いい加減って、どうしたの? 俺が電話出れなかったのは……謝るよ」

『そんなの、もう、どうでもいい。雄斗はいつまで忘れているの? 私は、忘れたことなんてない。しっかりと身体へ刻まれた記憶を糧に、私は成長したと思っているし、思いたいから』

 嗚咽しながら彩は呪詛を吐く。難詰される覚えはないが、ないからこそ責められる立場なのだろう。

『ねぇ、何か言って。記憶を失ったことに対して同情はするよ。でも、現実から目を背けたままなのは許せない。私だって、隻眼に慣れるまで時間はかかったし、それなりに努力した。でも、雄斗は何もしていない。見て見ぬふりをして、飄々と生きているまま、今だけを淡々と生きている。それは許せない』

 相も変わらず、言葉を発せないでいた。彩が述べる言葉の一言一言が無機質でありながらも重く、そして、事実だったからだ。

『支え合いたいんだよ。雄斗には私の片目になってほしかった。でも、対等な立場に立てていないから、それはできない。私はいつでも雄斗のために生きたいし、雄斗が私のために生きてくれるなら、最高に幸せ。ただ、それだけなんだよ…………』

「…………………………………………」

『今家に来たんでしょ? 降りるから待ってて』

 彩に何も言えず、通話は途切れてしまう。記憶を、現実を、俺は見ていなかった。見る意思はあったのに、それを忘れてしまっていた。記憶を取り戻すと決めたのが、遅すぎた。

 運転席に座る沙絵は、俺の表情を汲み取ったのか、静かに俺の頭を撫でた。

 優しくされたせいで目が潤んでしまうが、目を瞑って涙を堪える。

 記憶も現実もわからないまま展開していく日々に取り残された俺へ残るのは、疑問と喪失感だけだ。そんな俺へ温もりをくれる沙絵のやさしさに、安堵する。

「ほら、彩が来たみたいだよ。行ってきな」

「ありがとう」と素直に感謝して、涙ぐむ目を見せないように俯きながら、玄関に立つ彩の元へ向かう。

「…………彩」顔を見ることができず、言葉が詰まってしまう。「その、俺」

「突然だってわかってる。でも、一番効果的なカードを切るタイミングが今なんだって助言されたから、雄斗のために、私は決意した」

 その助言は誰にされたのだろうか。考えられるとすればあの男だが、彩との繋がりを今問えない。それほど電話と打って変わって、力強さを感じた。

「雄斗。私と手、繋いで」

 彩が左手を差し出しながら近づいてくる。それに応じるため、顔を上げて彩の左手を握る。手と手を繋いで、勇気を振り絞っているようだ。

「温かい雄斗の左手」

 彩の左手はとても冷えていて、その冷たさに全身が緊縮する。

「こっちの手も」

 今度は右手を差し出してきた。左手の時と同じように右手を差し出し、冷たい右手に触れようと試みる。

「……………………え?」

 しかし、彩の右手に触れることができず、あの冷たさを感じ取ることができない。その理由はわからないが、事実、触れられない。

「…………………………………………」

 彩は何も言わずに、俺を見つめる。

「なんで握れない……どうして触れないんだ…………」

 何度も彩の右手に触れようとしても、それは叶わない。一足す一が二であるのはこの世の常識だが、それは間違っていると錯覚するような違和感。

 冷静に思考を巡らせても、右手に触れられない意味がわからない。考えれば考えるほど、泥沼に浸かって、抜け出せない。

「あ、彩………………助けて」

 思わず、助けを求めて懇願してしまう。そんな必要のない、なんてことのない行為に、救済を求めてしまう。

 彩は左手を離し、両手で俺を抱きしめる。そして、耳元でそっと囁いた。

 優しく甘い声色のそれは、あまりに残酷で、忸怩たる思いにさせた。無意識のうちに行なっていた忘却。その刹那の治癒が結果、深く傷を抉るとわからず、今に至った。

 忘れることで忘れ去ることなんて、できるわけがなかった。

 知りたかったのに、知りたくないと拒否してしまう、これが現実。

「雄斗にはね…………」

 やめてくれ、聞きたくない、続けないでくれ、と反響するように、脳内へ何度も繰り返される悲嘆。


「右腕が、ないんだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る