デッドライトライフ

@youtc88

明日に向かって走れ



   1



「……ん、…………どこだ、ここ」

 意識が戻り、重い瞼を開くとそこは、自宅から歩いて数秒であろう見知れた場所だった。しかし、こんな場所で眠っていた理由はわからない。

 日が昇る直前だろうか。辺りは薄暗く、肌寒さも若干感じる。

「なんで、俺、こんな場所で…………」

 身体を起き上がらせようとしたが、言うことを聞かない。それだけでなく、痺れているような痛みさえ感じる。

 動かないのなら、と起き上がることを放棄して、時折通過する車両に怯えながら歩道に横たわり、徐々に明るくなる空を見ていた。

「…………………………………………」

 汚れなんて気にせず歩道で横になっている、そんな今の状況に、どうしようもない心地よさを見出だしていたが、昇り始めた太陽の日差しがそれを邪魔する。

 こうやって、世界に光を与える偉大な太陽に今日も、目を細めて生きるのだろうか。

 身体の痺れが太陽の熱によって取り除かれたようで、いつの間にか身体の痛みが和らいでおり、すんなりと上体を起こすことができた。

 そのままの勢いで立ち上がると、なぜか急に眠気が襲い、大きなあくびが止まらない。

 ここで眠っていた理由を究明したいが、この睡魔に勝てる見込みが皆無なので、素直に自宅へと歩き出した。あちこち汚れていると思うが、シャワーなんて浴びず、洋服を着替えて布団へ潜ると決めた。




 窓から差し込む光が顔を照らし、眩しさから避けるため、否応なしに布団から抜け出す。

 身体の怠さは相変わらず残っていて、特に腕がとても重い。しかし、一睡もできなかったのはなぜだろうか。

「うーん……暑い」

 今はまだ春のはずなのに、ジメジメと蒸し暑い。まるで梅雨明け直後のような湿度だ。じんわりと額に汗が浮かんで気持ち悪い。

「今、何時だ? リモコンは…………」周りを見渡し、テレビのリモコンを探す。

 それにしても、この身体の怠さはなんだろうか。暑さと相俟って非常に居心地が悪い。

「おっ、あったあった」とリモコンを見つけ、重い身体で地べたを這いつくばって腕を伸ばすと、フローリングが冷たくて気持ちがよかった。

 テレビの電源を入れると、まだ春でありながら、夏のファッション特集を映し出していた。

「まぁ、こんな暑い日だったら夏の格好でもおかしくないかもなぁ…………」

 ボンヤリとテレビを眺めていると、あまり参考にならないファッション特集は終わった。続いて、天気予報に変わる。

 しかし、アナウンサーの言葉に疑問を呈する。

『本日七月二十八日の天気は昨日と打って変わって快晴で――――』

 今、確かに七月と言った。しかし、まだ四月だったはずだ。

 高校一年生の時に両親を失い、年齢も年齢だったので、自ら望んで一人暮らしを始めた。そして、今年で高校を卒業し、就職先が決まらず、大学に行く金もなければ、行く気持ちさえなく、ただアルバイトを続けていた。

 三ヶ月の間、何をやっていたのだろうか。記憶が全くない。

「店…………に、電話してみるか。でも、まだ営業時間じゃないな」

 アルバイト先は喫茶店だ。しかし、今は店が閉まっている時間なので、仕方なく店長に直接電話をしようと、登録されている番号にかける直前、画面左上の圏外という文字が目に入る。

「そうか、携帯止まったのか」

 電気代や家賃は口座振替なので、おそらく勝手に支払われたのだろうが、携帯電話に関しては毎月請求書が届くようにしている。毎月の請求額がいくらかウェブを通して逐一見なくても済むからだ。それが裏目に出てしまった。

 三ヶ月支払っていなければ、使用できなくてもおかしくはない。

 電話が使用できないので、開店準備中で誰かがいることを願って、直接店に出向くことにする。徒歩で十分強。走れば、十分以内で到着するだろう。

 服を着替えて家を飛び出す。

 身体の怠さはいつの間にかなくなっていて、焦燥感だけが巡るようだ。

 失われた三ヶ月という時間と記憶。ゲームや漫画ではないのだから、これは現実ではない、悪い夢なんだ、と夢から抜け出すために全力疾走する。




「嘘、だろ…………?」

 息を切らして辿り着いた場所は喫茶店ではなかった。お世辞にも繁盛している店ではなかったけれど、まさか店を畳んでいて、別の店舗になっているとは思わず、驚きを隠せない。

 余計に混乱する。

 四月から今日に至るまでの記憶が一切なくなっていて、何も思い出せない。それに、四月以前の記憶も曖昧だ。記憶力が著しく低下したのか、それとも、記憶することをやめてしまったのだろうか。

 呆然と立ち尽くしても仕方なければ、店が潰れてしまってはどうしようもない。コンビニへ立ち寄って帰宅することにした。

「病気、なのかな」

 アルバイト先、イコール収入、そして記憶。気づけば、今日だけで三つも失った。荒唐無稽な現状を理解しようとするのが馬鹿馬鹿しく感じる。

 どうすればいいのだろうか。

 重い足取りで俯きながら歩くが、コンビニへの道は身体が記憶しているからか、難なく辿り着くことができた。

 コンビニに入ると、店員がだらしなく接客をしていたけれど、目が合った途端に作業が辿々しくなる。

「…………何だよ、急に」

 目が覚めてから何も食べていないことに気がつき、弁当を購入して帰宅しようと思ったけれど、急いで家を出たせいで財布を忘れてしまった。そもそも収入がない今、後先考えずにお金を使うのは如何なものだろうか。

 今後の生活を考えると、頭が痛くなる。

 一応、親戚から家賃代以上の仕送りがあり、生活はできる。だが、死ぬまで仕送りが続くわけではないし、それだけでは本当にギリギリの生活を強いられるので、貯蓄に手を出す以外、方法がない。もちろん、別の仕事先を見つければ話が早いのだが。

 結局、何も購入せず帰宅することにした。

 帰る途中、乾いた喉を潤すために公園へ立ち寄る。錆びて不快音の鳴る遊具ばかりで、人は見当たらない、相変わらず寂れた公園だ。

 蛇口を捻ると盛大な勢いで水が溢れるので、頭から水を被る。汗ばんだ顔を軽く洗い流し、最後に水を口へ近づける。お世辞にも美味しい水ではなく普通の水道水だが、喉が乾いているおかげか、ゴクゴクと喉を鳴らして飲めてしまう。

 頭を豪快に振り回し、水を飛び散らせ天を仰ぐと、太陽の光が眩しく照らしていた。

 本当に、これからどうすればいいのだろうか。

 職業安定所に行って職を探すか、それとも、この生活を何日、何十日と続け、未だに混乱したままの頭を落ち着かせるか。

 砂埃を被ったベンチに座り、独り言つ。

「あぁ……こんなことなら、子供のころに戻りたい…………」

 子供のころに憧れを持った大人という存在。

 大人と簡単に言っても様々で、子供のころに映った大人は一体どんな大人だっただろうか。偉大であり、自由であり、勉強をしなくて、好きなものを買えるから羨ましいだとか思ったものだ。子供じゃ何もできなくて、大人なら何でもできる。その絶対的な違いを求めていたのかもしれない。

 しかし、大人は揃って子供に戻りたいなんて言ってきて、理解できずにいた。

 でもそれは、ただの勘違いだった。大人になってやろうとしても、できないことはいつまでもできない。そんな夢を見るだけ損だ。

 平凡な日常をいつしか追い求めていて、夢なんてすっかり見なくなってしまった。非日常なんて、フィクションだけで充分だと悟ったのだろう。

 現実世界は大人の言う通り甘くないし、甘くなかったのだ。

「……………………」

 ベンチから飛び出し、錆だらけのブランコへと向かった。鎖に触れると手が茶色に染まり、独特の金属臭が立ち込める。

 身体を上手く使ってブランコを前後に揺らし、鉄が擦れる音を響かせ、そのまま立ち上がると、途端に世界が矮小に見えた気がした。

 今なら、ここから飛ぶことだって容易だと思わせるほどに。

 羽ばたくように、鬱屈した日々から脱却するために、意を決して勢いよく跳躍する。

 全身が粉々となり、水となり、空気と同化するその刹那、視界は空を映し、眩しい水色が目を焼くように射し込まれる。その熱が、自分自身を、全ての概念さえも焼き殺すようだ。

 しかし、当然飛べるわけがなく、現実へと引き戻すための痛みが尻と腰を中心に伝わって、痛覚と共に地面を転がり、その痛みに耐えかねて呻き声を漏らしてしまう。

「うぅ、うあぁ……はぁ、あ…………はぁ…………ああぁ……………………」

 空を飛べなかった。わかっていたはずだ、そんなこと。

 滑稽な姿を晒し、眩しい太陽に照らされ、心も身体も浄化されて澄み渡るようだ。誰かに見られていたら警察を呼ばれてしまうだろう光景、だとしても寝転がる。

 今なら眠れそうな気がして、目を瞑る。

 起きたら四月に戻っていて、アルバイト先も健在で、夢なんて見るだけ損だとわかっていても、そんなことを巡らせているうちに意識は遠くなっていった。




 寂寥感で満ちていた人生の器を、充実で満たすことを望んでいた昨今。

 青春時代という高く硬い壁を乗り越えられず、壊すことさえできなかった自分自身の気弱さに肩を落とす。そして、その姿を俯瞰すれば、不恰好で情けない男が視界に入り反吐が出る。

 部活動に精を出して友情を深めたり、大好きな恋人との甘酸っぱい日々を耽溺したり、将来のことを優先して勉学に勤しんだりできたはずだ。

 なぜ、何もできなかったのだだろう。

 恥じることを、痛み伴うことを、涙落とすことを避けてきた結果、その報いは孤独という形になって降り掛かってくる。

 本気を出さない愚かしい自分が中途半端な道筋を進んだ結果だ。本気を出しても結果はわかりきっているけれど、結果ではなく過程が大事だ。

 試合に負けて勝負に勝つことに意味がある。もちろん、試合にも勝負にも勝つことが一番だけれど、二兎を追う者は一兎をも得ず、だ。

 進むべき道が曖昧ならば必然ではあるけれど、明確な道は見えていたはずだった。それを自ら外れていく。その誤った決断をするのは、過去の自分自身そのもの。なぜかと問われても、今となっては理由なんてわからない。

 矮小な事柄の決断であろうと、道を提示しないで後悔するのだけは駄目だと学んだ。行く末が天国か地獄かなんて、その時点ではわからないのだから。

 とどのつまり、立ち止まることだけは避けなければいけないのだ。明らかに道を外していても、そのまま落ちていくことはない。

 人生は博打と同義だ。

 一発大逆転の手は、どこから生まれ、どこで消費するのか。あるいは、浪費するのか。それがわからないから、人生は愉快痛快なのだ。

 しかし、大きな賭けをして万が一、誤ってしまったら、底から這い上がることができるのだろうか。幸運にも、俺は最底辺まで堕ちてはいないので、まだ上へ昇華できると信じている。

 ターニングポイント。

 今、俺の道が転換しようとしている。昨今の記憶を喪失するという理不尽な欠損を通して。

 再度誤った道を進んでしまったら、俺は――――

 どうなる?




「……………………はぁ」

 一人、鏡の前で項垂れ、ため息を漏らす。感覚以上に身体はボロボロのようだ。顔色が優れなければ、髪も傷んでいる。こんな姿ではきっと嫌われてしまうだろう。

 彼を探す前に色々とやることが多いので、優先順位をつけて、一つ一つ処理しよう。やりたいことを大まかに行なっていたら果てしない。

 どんな顔かわからないけれど、彼が私を見つけた時の表情を想像して、思わず顔が綻びる。

 顔の良し悪しは重要ではないけれど、誰もが羨む美男子だったら嬉しい。

 誰だってそうだ。汚いものより美しいものを、不幸を望むよりも幸福を望む。

 痛んだ髪を少しでも、と帽子で隠し、外の天気に合わせた格好をして家を出る。

 すっかり雨は上がり、眩しい太陽に目を細める。しかし、気温は然程高くないため過ごしやすい。

 今日は七月二十一日、時刻は午前十一時。ボロボロの身体は疲れ果て、休息が必要だったにもかかわらず眠れなかったけれど、近い未来の光景を頭に浮かべると身体は軽かった。




 とても長い期間眠っていないような気怠さを感じるこの身体で、ようやく睡眠を取ることに成功したようだ。日は暮れて、心地よい風が吹いている。

 今回は無事に起き上がることができた。目脂を擦り落としながら、キョロキョロと辺りを見ると、ベンチに座る女が、平然と俺を見ていた。

「…………な、なんだよ」

「ふふ、おはよ」

 何を話していいのか困り、固まる。初対面の人間、そして異性だから尚更だ。白のポロシャツにジーンズの、率直に言って野暮な格好をしている。

 すると、困った俺に見兼ねたのか、女が喋りかけてくる。

「君さ、何でこんな場所で寝てたの?」

「…………………………………………」

 アルバイト先が潰れていて、途方に暮れた結果、ブランコから飛び立ってそのまま眠りました。と話せば、この変わり者だってさすがに顔をしかめるだろう。いや、既にそう見られているのだろうか。

「まぁ、理由なんて何でもいいんだけどね」

 女はベンチから立ち上がり、埃を払いながら近づいてくる。高低差もあってか、威圧的に感じ、後退ってしまう。

「運命の出会いに感謝して、うちに来なよ。ささ、行こう行こう」

 妖艶な微笑みを浮かべ、甘言蜜語を弄して俺を取り入れようと女は手を差し伸べる。

 この女は、何が目的で初対面の俺に対して自宅へ来いと言っているのだろうか。

「うちに来いって言われても、まず、誰だよ。それに、運命の出会いって…………」

「変わった趣味のお姉さんってことで、この場を収めたいなぁ。細かいことは気にしない気にしない! って感じで」

 自分で変わり者だと認めてしまった。間違ってはいないと思うが、変わり者だと知って、普通に接せると思っているのだろうか。

 困惑の表情を浮かべ、返答の言葉を詰まらせる。美人局などの可能性もある。何も考えずについて行った結果、男集団に金品を巻き上げられ、怪我を負うことは避けたい。だが、巻き上げられるような金品は持ち合わせていないし、それなら眠っている間に財布を奪えばいい。中身の少ない財布すら家に忘れたけれど。

「…………何が目的なんだ?」

 女は意外にもきょとんとしてしまった。

「あはははは、参ったなぁ。変な勘違いしてない?」

 そう言って俺の腕を掴み、行こうと催促してくる。それを振り払い、一歩下がり身構える。「いやいや、おかしいだろ。何を求めてるのか知らないけど、俺はそれに答える気はないし、そもそも無理矢理なんだよ。少しは説明するとか、希望を述べるとかしろよ」

「理由は明白、なんだけどー…………それを全て説明するのはちょっとねー」

 悲哀に満ちた顔をして、肩を落としながらベンチへ戻り、俺の耳にも届くよう、故意に大きくため息を漏らす。同情を誘っているのだろう。

「そ、そんな風にされても行かないからな。俺は帰る家があるんだ」

 顔を合わせないようにして、そそくさと立ち去ろうとすると、足音が聞こえる。気にせず歩き続けるが、音は止まない。

 数秒静止してから振り返ると、片目を瞑り、舌を出す女の姿があった。苛立ちのような感情を抱いたのは言うまでもない。

「てへっ、ついて来ちゃった」

 俺は返答せずに、全速力で道を駆けたが、息が続かない。日頃の運動不足が祟ったようだ。

 苦労しながら家へ到着し、周りを見ても人一人存在しないので、逃げ切ったと言い聞かせて安息する。

 一体、何だったというのか。人の気持ちをまるで考えていない、我が儘そのものと言うべき女。言いたいことやりたいことをして、迷惑をかけているという考えに至らず突き進んでいるようだった。

「本当……疲れた…………」

 しかし、ドアに手をかけると同時に冷や汗が溢れる。

「鍵が、掛かってない…………!」

 既に自宅を把握していて、合鍵まで手にし、先回りをして俺を待っている、という最悪の可能性を思い浮かべ、身体が震える。

「迂闊に家へ入らないほうがいいか? いや、でも、ドアを開いた音が聞こえてしまったか……? って、いやいや、警察に電話すればいいのか! って携帯止まってる!」

 ノリツッコミをしている場合ではない。下手の考え休むに似たり、だ。

 来るなら来い、と何が起きても対処できるように、細心の注意を払いながらゆっくりとドアを開くが、何も起こらない。現状を強いて言うならば、テレビの電源を入れたままで、出演者の笑い声が聞こえる。

「あれ、誰もいない…………?」

 確かに鍵は掛かっていなかった。しかしなぜ、鍵を使わずに家の中へ入れたのだろうか。

「いや、待てよ。俺は家を出る時に鍵を…………」掛けていない。

 考えてみれば、鍵を掛けるどころか、アルバイト先に慌てて向かったので何も持たずだ。現に財布は机の上に放ってある。

「あぁー! びびって損した」

 一つの懸念が消失するが、先ほどの女が本当にストーキングしていないか気がかりだ。

 念のためにもう一度家を出て、しっかりいないことを確認してから鍵を閉める。

「…………………………………………」

 記憶喪失と、変人女。

 何か関係しているのだろうか、と頭をよぎる。俺は何らかの手術で記憶を抜かれ、変人女は術後の俺を観察しているのではないだろうか。

「……………………は、はは」

 まだ疲れているのだろう。

 明日は貯金を下ろして、携帯電話の支払いを済ませる予定だ。伸びた髪も切らないといけない。他にも、やることはたくさんある。

 一息吐くと、朝から何も食べていないことに今更ながら気がつく。

 何か簡単に食べられる物がないかと冷蔵庫へ向かう途中、嫌な予感がし、見事的中した。大抵の物が賞味期限切れだった。

 それはつまり、必然的に、この部屋で生活を送っていなかったということになる。この部屋で生活し、何らかの出来事で数ヶ月の記憶を失ったという説は消え去り、そんな思考も空腹に勝てず泡となって消え去る。

「どうしようかな…………」

 今外出をして、変人女にばったり会うのは不味いので、空腹を堪え眠ろうと試みた。

 数十分前まで眠っていたので、眠るのに苦労すると思っていたが、箍が外れた如く就寝することができた。

 睡眠という壁を公園で破壊できたからだろう。溜まりに溜まっていた疲労は、今日一日の睡眠では癒えなかったけれど、身体の調子はみるみる回復していった。




「…………………………………………」

 睡眠障害は未だに継続していて、数十分しか眠れなければ、些細な音で目覚めてしまう日々が続く。それでも、不眠が続くより幾分、身体は調子を戻しつつある。目を瞑るだけでも多少の睡眠効果があると聞いたことがあるので、一応休めてはいるのだろう。

 目を覚まして時計を見ると、午前四時だった。昨日も同じ時間帯に目が覚めた。恐らく、体内時計が四時に起きろと命令しているのだろう。早起きは健康的だけれど、睡眠不足は如何なものだろうか。

 少ない睡眠時間でも、夢を見る。出演者はもちろん私、そして彼。夢は潜在的な願望だと聞いたことがあるので、それほど彼を思っているのだろう。しかし、見た夢の内容は目が覚めると忘れてしまっていて、思い出せないのが残念だ。

 今日から彼を探すために、市内を彷徨する。手掛かりはないに等しいけれど、一歩一歩着実に、自分の足で愛を求めて歩き続ける。

 相変わらず無関心な家族。私が家に戻らない日は何日続いたのだろうか。私が受けてきた悪意に何の感情も示さず、ただ一言「帰ってたんだ」と言って、愛情を振り撒くことさえしてくれない。それゆえに、疼痛が酷い。曖昧な感情で誤魔化すのなら、躊躇しないで蹴落としてほしいとさえ思える。

 誰へ告げるわけでもなく、「行ってきます」と言い残して家を出る。

 今日は、どこへ行くとしようか。

 顔色が優れないのは諦めたが、身嗜みは整えたつもりだ。

 ただ彷徨うだけでは見つからないのかもしれないけれど、私にはこの方法以外わからない。

 だから、歩く。歩き続ける。




「んん……あぁ、あっちぃ…………」

 寝苦しいほどの暑さに耐え切れず布団を剥ぐ。カーテンの隙間から日が射していて、その眩しさに目を細めながらゴシゴシと擦り、頭の中の整理整頓をする。

 記憶は保たれているか、今は何日、何時何分か、携帯電話で確認する。

 七月二十九日、午前十一時。しっかりと一日後だ。

 カーテンを豪快に開き、身体にこれでもかと日光を当てる。当然、身体は汗ばんでくるが、まるで神に今までの悪行全てを焼かれたかの如く清々しい気分で今日を迎えられそうだ。

「そういえば、あの女」

 あれから、どうしたのだろうか。会いたいわけではないけれど、少し気になる。もしかしたら、記憶喪失についてなにか知っているかもしれないと思うと、尚更だ。

『――――運命の出会いに感謝して、うちに来なよ。ささ、行こう行こう』

 女が見ず知らずの男に言う台詞だろうか。性別が逆なら辛うじて納得できるかもしれないけれど。よほど変わった感覚を持った“お姉さん”なのだろう。

「うーん」お姉さんと呼ぶほど年齢は変わらないと思う。二つ三つ上が関の山だろう。

 それにしても空腹だ。空腹を睡眠で忘れていたことを思い出してしまうと、思考は食欲で溢れかえり、胃が疼く。再び眠るという選択肢を選べないほどに身体は活発であり、要するに何か食べたくて、その欲求を抑えられない。

 億劫ではあるが、手っ取り早く着替えて食べるものを買いに行くとしよう。財布を必ず忘れず、それと貯金を下ろし、携帯電話の滞納料金を払うことも忘れてはいけない。

 Tシャツにカーゴパンツというお決まりのラフな格好に着替え、忘れ物がないかもう一度確認してから家を出る。もちろん、鍵も忘れずに掛けた。

『――――てへっ、ついて来ちゃった』

 あの女とは会いたくないと思いつつも、心の奥底では再開を望んでいるような気がした。




 今の時代、コンビニがないと、人は生きられないのではないだろうか。

 預金を下ろすことや、様々な支払いが可能。何より種類豊富な弁当や菓子、飲み物。こんな便利で融通が利く建物は他にあるだろうか。

 断言しよう、ない。コンビニたった一つで普遍的な生活を送ることができるだろう。

 そんなことを店先で考えながら唐揚げを食べていた。迷惑行為なのは承知だが、腹鳴が止まらないので、今日だけは勘弁してほしい。

「あれ、もう終わりか」といつもの数倍の早さで唐揚げを平らげ、ゴミを捨てる。

 唐揚げと一緒に買った炭酸飲料を煽り、満腹感に浸ったところで、再度過る疑問。

 あの女は今、何をしているのか。

 あらゆる予想をしては否定し、思考を膨らませていたが、気づくと俺は、昨日の公園へと向かっていた。速度も徐々に増していくのがわかる。明確な理由はないけれど、説明できない感情が沸き上がっているのは事実であり、記憶喪失との関連も気掛かりだ。

 呆気なく、名前も知らない小さな寂れた公園に数分で到着したが、そこに女がいるはずがなかった。わかりきっていたのにもかかわらず、歯痒さが残る。

 昨日の状況を思い出し、地面へ横たわり目を瞑る。このまま眠って目を覚ませば、不敵な笑みで俺を見ているかもしれないと思ったからだ。

 しかし、眠りに眠った俺の身体が直射日光を布団にして眠れるはずがない。一分も経たずに暑さに負け、砂埃を払いながら立ち上がった。

「都合よくここに来るわけないよな…………」

 当然と思っていても納得できず、気分の悪さに辟易するが、それを振り払い、女がここへ来る条件を改めて思考すると一つ思い浮かぶ。

「そうか、時間だ」

 あの女は昼間からいたと勝手に思い込んでいたが、ひょっとすると偶然、目が醒める寸前にベンチへ座ったのかもしれない。

 それならば話は別だ。昼間出会うことが不可能ならば、夜に再度ここへ来ればいい。おそらく、七時前後だったはずだ。

 一度家に戻り、改めてこの公園へ向かうとしよう。

 勝負は七時。

 俺は絶対にあの女と出会う。ただそれだけのために、今を粉骨砕身の覚悟で邁進する。




 彼を探し始めて一週間が経とうとしている。すなわち、私が日常を取り戻し、生きる意味を見出してから、一週間が経つのだ。

 なのに。

 なのに。

「なのに…………!」

 何一つ見つからない。

 やはり、無差別に歩き続けて見つかるものではないのだろうか。

 しかし、それを否定する。理屈ではない。見つからない、ではなく、見つける。たった一週間で意気沮喪している場合ではない。気を引き締めて日々を費やさなければいけない。

 時間は無限ではない、有限だ。過去に生き続けることはできない。過去に縛られ続けることもできない。このまま彼を見つけることができなければ、私は彼を忘れてしまう日が訪れるだろう。それが現実であり、抗えない、人間の性質なのだ。深く刻まれた傷も、自然に癒えて浅くなる。例え、どんなに深くとも、塞がっていく。そして、傷跡が残り、記憶の片隅に眠る過去の産物となる。

 だから、過去のものとなる前に、私は彼を見つけ出さなくてはならない。

 私はどれだけの数、地面を蹴ってきただろうか。

 明確な数値はわからないけれど、彼を探すために東奔西走しているので、かなりの歩数だと思う。その一歩一歩が、深く刻まれた傷を治癒させまいと、抉っていくのだ。

 見知れた場所、見知らぬ場所、そんなことは気にせず歩き続ける。彼を求めて、体力気力、命の続く限り。

 七月二十八日。本日も晴天なり。さぁ、今日も一日歩き続けよう。




 午後六時半。辺りを見ると、日が暮れている途中で、夕方独特の雰囲気を放っている。

 俺は現在、公園の外で身を隠している。あの女がどこからここへ向かうのか見落とさないよう注意し、公園を見守る。

 来るか否か、正確な時刻さえわからないのにもかかわらず、時は感覚以上に経過していく。

 何が俺をここまで動かすのだろうか。

 明確な答えを必死に探しても、何も思い浮かばない。言葉で表せない“何か”があるのだろう、と半ば無理矢理に納得して、その答えを探すためにも女を待つ。

 長期戦に備えて買っておいた棒状のメロンパンを一つ頬張ると、口内の水分を根こそぎ吸い取るので、飲み込むと同時に紙パックの牛乳を流し込む。

 このまま、どの程度の時間を待てば、あの女は来るのだろうか。

 遠足や運動会の前日はワクワクして眠れない、そんな子供のころを思い出すようなこの高揚感は、何ものにも代えがたい稀有な感情だと個人的に思っている。いくら高揚しようと、繰り返せば、惰性化してしまうからだ。

 携帯電話の液晶を見ると、七時になろうとしていた。やはり、こういう時の時間の経過は凄まじく早い。

 しかし、そろそろ遠くを歩く人間の顔を判別するのが難しくなってきた。例え見つけたとしても、どこからここへ向かうのか、という疑問を解決するための光量が足りない。諦めてベンチに座り、堂々と女を待つことにした。

「やっぱり、たまたま来ただけなのか?」

 溜息混じりに今の心情を吐露する。もしも今日、目の前に現れなかったら、一体俺は何をしていたのだろう、と狼狽え、弱気になる。けれど、それ以上に高鳴る気持ちを抑えられない自分も確かに存在している。

 携帯電話の液晶を点灯させ、時刻を確認しては消灯する。その行動を今日だけで何度行っただろうか。来るのか、来ないのか、俯きながらただ、時の流れを甘受する。

 俯いたままでいると、意識が矮小化する。周りを全く気にしなくなり、何か物音がしてもわからないだろう。

「…………………………………………」

 時刻を確認するのも億劫になり、眠っているわけではないが、意識が薄れていくようだ。

「だーれだ? 元気ないね」

 夏の暑さに対して、妙に冷たくて気持ちいい何かが目元を覆い、視界を奪う。

「うわっ!」突然の出来事に驚きを隠せず、情けない声を出してしまった。

 あまりにも聞き覚えのある声色を捉え、全身が痺れるように鳥肌が立つ。

「あんたは、昨日の!」

 俯いていたせいで、どこからやってきたのかわからなかった。そもそも、真後ろに立っていることさえ気がつかなかったのだから、そんなこと、わかるはずがない。

「大正解! もしかして、私のこと、恋しくなっちゃったからここにいるの?」

 見知らぬ他人に恥じらうことなくそんなセリフを吐く人間。間違いなく昨日の変人女だ。

「こ、恋しいっていうか、なんていうか…………」

 衝動に駆られた、という理由が一番妥当な言葉だが、それは理由に値しない。衝動に駆られる根本こそが理由と呼べるものだろうと考察するが、納得のいく言葉が浮かばないので諦めて有耶無耶に済ませる。

「ていうか、いつまで手で隠すんだよ」

 腕を掴んで取り払う。

「あ、ごめんごめん。つい触っていたくて」

 一日ぶりの顔を拝もうと振り向くと、なぜか顔が迫ってきていた。咄嗟に避けることは叶わず、額同士が直撃する。

「「いったー!」」

「ちょっとー、急に振り向かないでよ!」

 痛みに悶えながらも再度振り向き、怒声を浴びせようと意気込むが、「抱きしめてあげようと思ったのに」と言われ、対応方法に思いあぐねてしまった。

「どうしたの、黙り込んじゃって。もしかして想像した?」

 女の思い通りに遊ばれているようだ。女のにやにやとした表情で確信する。

「仕方ないなぁ、ほらほら」

 覆いかぶさるようにして俺を包むと、思考はうまく定まらず、世界は止まったかのように急速で停止していく。

「…………ち、ちょっと、まずいって!」

 理性が保てなくなる前に、無理矢理身体を引き離した。どうしてこうも恥を知らないのだろうか。何を考えているのか、一層興味がわく。

「もう、照れちゃって! 顔真っ赤だよ」

 こんなはずじゃなかった、会わなければよかったと思わせるほどに鬱陶しい。聞きたいことは山のようにあるけれど、うまく喋れない。

「あ、あのさ、名前」

 駄目だ、異性として意識してしまって口ごもってしまう。ちゃんと伝わっていることを願うしかない。

「え? 名前? 私の名前は、御沓沙絵(みくつさえ)。沙絵って呼んでいいよ。君は?」

 みくつ、さえ。聞きなれない苗字だな、と率直に思った。

「俺は、間賦口雄斗(まぶぐちゆうと)」

 名前を告げると、キョトンと不思議そうな表情になる。

「君さ……」

 緊張感で身動きが取れないまま、固唾を飲んで言葉を待った。

「…………君の名前さ、漢字でどう書くの?」

「…………………………………………は」

 予想外の言葉に拍子抜けしてしまう。

 携帯電話を取り出し、新規メールのタイトルに自分の名前を打ち込み、御沓沙絵へ差し出すと、どうも、とそれを受け取り、慣れた手さばきで自前の携帯電話に打ち込み始めた。

 手持ち無沙汰になり、ふと空を仰ぐと、辺りはすっかり暗くなっていた。真夏の夜は少し青みが増していて、好きだ。星が輝き、月が妖しく光っている。

 壮大な夜の空はとても遠くて、手を伸ばしても届きそうにない。伸ばせば、こっちが吸い込まれそうになっていくようだ。御沓沙絵の魅力に飲み込まれるように。

「はい、おっけー」

 何の特徴もない無機質な待ち受けになって携帯電話が手元に戻ってきた。御沓沙絵は満足そうにこちらを窺っている。

「電話番号、それとメールアドレスもいただきましたよ」

 そう言うと同時に通知音が鳴ったので、一応通話を試みる。

「もしもし」

『雄斗ですか?』

 終話ボタンを押すと、御沓沙絵の口が尖った。

「目の前にいるのに電話する必要ないだろ」

「着信音何かなーとかちゃんとかかるかなーとか、あるじゃん。じゃあ、次はメールね」

 続けてメールを送り始めた。一見乱雑に扱っているようだが、正確なタッチで文字を打っているようで、素直に感心する。

「ほい、完了」

 簡素で短い音色と共に、ほんの数秒で届けたとは思えない量の文章を受信する。

 主に御沓沙絵の詳細が記されているようで、名前や電話番号は当然のこと、好きなブランドや歌手まで書いてあるようだ。

「ちゃんと登録しておいてよね!」

「ん……あぁ」

 嫌そうに返事をしたのだが、内心嬉々としてはしゃぎたい気分だった。こうやって連絡先が増えることになんとも言えない達成感を得る。

 ここへ来て、御沓沙絵と再会することができ、連絡先の交換までできた。今まで待った時間を帳消しにできるほど豊作だ。この際、鬱陶しさを感じたのは忘れよう。

「じゃあ、私は帰ろっかなー。来たばっかなんだけど、まさかいるとは思わなかったし」

「それは、俺も…………そもそもなんでここに?」

 少しでも長く、帰らないよう引き止めるために質問を繰り出す。

「うーん、もちろん雄斗に会いたかったのもあるけど、夏恒例の帰宅ルートなんだよね。ここで小休憩してから家に帰るのが一番気が落ち着くっていうか」

「仕事の帰り、とか? 近くで働いてたり? 格好もそんな感じ」

 御沓沙絵はすぐそこだよ、と北西を指差す。となると、衣料店……いや、薬局で働いているのだろうか。

「そこの薬局? ふーん、俺あんまり行かないしなぁ」

「訂正させてもらいます。あれは薬局ではなく、ドラッグストアです。薬剤師ではなく、登録販売者しかいないのです。処方箋を持ち込まれても困るのです、まる。って、そんなこと言ってる場合じゃないんだった。これから用事あるから、帰る!」

「そっ、か…………」

 延命虚しく、断りの言葉を告げられる。そこまで言われたら頷くしかない。

「なんか、本当ごめんね。私が絡んだくせに。今日もいるとは思わなかったんだ。あとでメールするからその時に! じゃあね!」

「あぁ、また」

 笑顔で手を振りながら去っていく。前を見ずに走ったので一度転びそうになりながらも、それを笑いの種にして、より一段と相好を崩しながら駆ける姿に俺自身も顔が綻ぶ。

 御沓沙絵を見送り、ただ立ち尽くす。

 メールはまだか、電話はまだかと待受画面を点灯させ、無意味だと悟りながら繰り返す。その行動を一度するだけで、つい顔が綻んでしまう。

「じゃあ俺はコンビニ行ってから帰るとするか。ていうか、帰る方向一緒なら……ってもう遅いか」

 楽しい日々の始まりを願って、俺は歩き始める。

 記憶を失ったという記憶を忘れてしまうほど充実感に溢れ、足取りは軽かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る