10 白い翼の邂逅
ずっしりと重い荷物を背負って、江戸川ちえりは隠れ家のドアを開けた。
「それじゃ、あたしは行きますから。先輩たちはずっとここで震えていてくださいね」
「……ああ」
侮蔑を込めた言葉を吐く生意気な後輩。
しかし空人は何も言い返すことができなかった。
この一ヶ月、空人たちは何の行動も起こさなかった。
チャンスを待っていたと言えば幾分か聞こえは良いだろうか。
だが、実際にやっていたのはひたすら危険を避けていただけである。
ちえりが我慢の限界を迎えるのも当然のことだった。
大した力も持たない自分がこの戦乱のL.N.T.で何ができるのか。
答えは見つからないまま、時間だけが無為に過ぎた。
弱さを言い訳にして逃げ続けていた。
蜜や香織から頼まれたことも何一つ成し遂げていない。
「行っちゃったな」
気が付くと、すぐ隣に清次が立っていた。
「なあ清次」
「なんだ」
後輩の姿が見えなくなったところで、空人はつい弱気を口にした。
「ちえりちゃんの言う通りだよな。どちらの組織にも所属していないのに、僕らはそれを何も活かせていない。今はできることなんかないってわかってるけど、本当にいつかチャンスがくるのか――」
「空人」
肩を掴まれ強引に振り向かされた。
なんだと思った直後、力いっぱい横っ面を殴りつけられた。
地面に倒れた空人は顔を起こして、怒った表情で見下ろす清次を睨みつけた。
「なにすんだよ!」
「何にもできないのは仕方ない。ちえりちゃんを止められなかったことも何も言わない。けどな、弱気になることだけは許さないぞ」
握り締めた清次の拳は震えていた。
彼もまた、己の不甲斐なさに耐えているのだ。
「清次……」
「蜜師匠や香織が自由に動けない今、オレたちが正しい道を見定めなきゃいけないんだろうが。この狂った街で何ができるかなんてわからない。意地でも虚勢でもいい。自分たちにしかできない何かがあるって信じて待て。でなきゃチャンスなんて巡ってくるわけないんだ」
「そんなこと……っ!」
空人もわかっているつもりだ。
けれど、毎日は無意味にに時が過ぎていくばかり。
次々に犠牲者だけが増えていく現状に、空人たちの精神は限界に達している。
今にでも焦りと不安に飲み込まれそうだ。
「ちっ」
清次は何も言い返さない空人から視線を逸らしてドアの方へ歩いて行った。
「どこ行くんだよ」
「ちえりちゃんの様子を見に行く。本当に一人っきりにするわけにいかないだろ」
「……そうだな、頼む」
「まあ、一人でじっくり考えてみるんだな。もし帰ってきてもまだそんな風にウジウジしてやがったら、オレもいい加減に愛想尽かすからな」
出ていく清次の方を見ることはできなかった。
空人はドアが閉まる音を背中で聞いた。
※
弦架の住宅地が一望できる丘の上。
空人はひとり風に吹かれていた。
深呼吸をする。
手の中のジョイストーンを握りしめる。
目の前の大木が下から吹き上げた突風を受けて葉を散らした。
千切れ飛んだ木の葉が辺り一面に降り注ぐ。
蜜たちと別れた後も、空人は能力の修行を怠ったことは一日としてなかった。
今では自由自在に風を操れるほどに能力の扱いも上達している。
けど、これでは上位の能力者と戦うことはできない。
どんなに努力を重ねても届かない領域がある。
それを自覚してなお見ないふりをしてきた空人だが、いい加減に限界が訪れようとしていた。
結局、才能を持たない人間にできることなんて――
「きゃあっ!」
突然聞こえてきた叫び声に顔を上げる。
なんと、女の子が頭上から降ってきた。
「うぎゃあっ」
あまりに突然だったので受け止めることもできない。
空人は押し潰されて下敷きになってしまった。
「いたた……あっ、ごっ、ごめんなさい! 私、こんなつもりじゃ」
「いいから、早くどいてくれっ」
女の子は慌てて空人の背中から降りる。
「本当にごめんなさい。痛くなかった?」
「だ、大丈夫。痛かったけど」
「ごめんなさいぃぃ」
「いや、もういいけど……なんで空から落ちてきたんだ?」
「あの、私、木の上で休んでたんですけど、急に風が吹いてきて、それで」
要するに空人が突風を巻き起こしたせいで落っこちてしまったのだ。
なんで木の上にいたのかはともかく、踏まれたのは自業自得と納得することにする。
「わかったわかった、怒ってないから落ち着いて」
「うん……ありがとう、空人君」
女の子は落ち着きを取り戻してニコリと微笑んだ。
空人より頭二つ分ほど小柄で、良く見ればかなり可愛い娘である。
「あれ僕、名乗ったっけ」
「えっ、あっ」
空人が疑問を口にすると女の子は慌てて口を手で塞ぐ。
「前にどこかで会ったことある?」
「……うん、あるよ」
「え、そうなの?」
空人の方は彼女に見覚えがない。
こんな可愛い娘なら忘れるはずがないと思うのだが。
「忘れちゃっても仕方ないよね。あの時はドタバタしてたし、空人君も必死だったから」
「あの時?」
「それに名前も直接聞いたわけじゃないし」
「いつ会ったんだっけ」
「私が荏原恋歌さんに誘拐された時。空人君が助けに来てくれたんだよ」
「あ、ああ!」
そう言えば、一年半ほど前にそんな事件があった。
荏原恋歌が生徒会を失墜させるために企んだ誘拐事件のことだ。
クラスメートが誘拐される現場を偶然にも目撃した空人たち。
追いかけて行ったら、その子の他にも何人か人質が捕らえられていた。
「その時に一緒に捕らわれていた……」
「うん、そうだよ。あの時はどうもありがとうね」
「いやいや。お礼を言われるようなことは何もしてないし」
助けたと言っても、空人は乱入した直後に戻ってきた荏原恋歌にコテンパンにやられてしまった。
実際に人質を助けたのは後からやってきた綺だったと言った方が正しいだろう。
「確かにあの時は必死だったなあ。むしろ君はよく僕のことを覚えてたね」
「うん。だって、空人君のことが好きだから」
「えっ!?」
突然の告白に思わずうろたえてしまう。
だが、それ以上に彼女が続けた言葉に空人は驚いた。
「ずっと見てたんだよ、空人くんのこと」
「ず、ずっと?」
「そう。本郷蜜さんや小石川香織さんと出会った時も、弦架の北部自警団に入った時も、この一か月間、あちこち移動しながら修業を続けてた時も、ぜーんぶ見ていたんだよ」
「そんなの、一体どうやって……」
誰かに見張られていたという自覚は空人にはない。
そもそもこの一か月は誰からも見つからないよう逃げ隠れてきたのだ。
彼女の行動を不審に思うよりも、どうやって見ていたのかという手段の方が気になった。
「これで」
少女が微笑む。
その背中に真っ白な翼が現れた。
「JOY……?」
「≪
要するに遠視か、千里眼みたいなものだろうか。
「ずっと見てたから空人君のことなら何でもわかるよ。誰よりも努力してきたことも、いまの状況に悩んでいることも」
「努力なんて……僕はたいしたことをやってないよ」
「ううん、空人君はがんばってるよ」
女の子は空人の手を取って力を込めた。
「本当は姿を現さないつもりだったんだ。空人君には他に好きな人がいるって知ってるから」
彼女の言葉を受けて、空人の脳裏に赤坂綺の姿が浮かんだ。
あの誘拐事件の頃のように正しく正義のために危険に身を投じていた頃の綺の姿が。
「彼女を思う気持ちが空人君の力なんだよね」
空人は思い出した。
これまで修行を続けてきたのは一体なんのためだったのか。
綺に近づくため、いざという時に彼女を守れるような男になるためじゃなかったのか。
いま一番苦しんでいるのは誰か。
強大すぎる力に振り回されて暴走している綺自身じゃないか。
彼女を助けなくっちゃいけない。
弱音を吐いている場合じゃない。
空人の体に強い気持ちが戻ってくる。
同時に目の前の彼女に対して少し申し訳ない気持ちになった。
「空人君が木の上で寝てた私を起こしたのは偶然じゃないと思う。ううん、きっと運命だね。ばれちゃったなら仕方ない。これからは私も協力するから」
「協力って、君――」
そう言えばまだ彼女の名前を聞いていない。
「これから、よろしくね」
空人の手を握ったままニコリと微笑む白い翼の少女に、空人は少しだけ胸がドキリとした。
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