10 別離
古大路偉樹は風のように去っていったエイミーたちを黙って見ていることしかできなかった。
気がつけば左右から抑えつけていた二人も姿を消し、後にはただ偉樹一人が残されている。
屈辱。
今の気分を一言で表せばそうなる。
作戦通りエイミー=レインを孤立させて追い込んだのに。
幼子のようにあしらわれ、あまつさえ止める間もなく乱入者に連れ去られてしまった。
何もできなかった。
エイミーにも、あの密偵たちにも。
どちらも偉樹の想像を大きく超えた力を持っていた。
戦十乙女と同等……いやそれ以上。
この街の裏側にはまだ計り知れない闇がある。
いや、嘆いていても仕方がない。
自分はそんな奴らと戦っていくと決めたのだ。
今回の失態の最大の原因は偉樹の詰めの甘さだった。
自らの力を過信しエイミーと一対一で相対すべきではなかった。
今後はこのような愚は犯さない。
予定とは違ったが、今の状況はなんら嘆くべきことはないはずだ。
エイミー=レインはいなくなった。
その事実だけで充分だろう。
「古大路さん! 大丈夫ですか!?」
廊下を駆けてくる複数の足音が聞こえた。
フリーダムゲイナーズの同志たちだ。
足音は学園長室の前で止まる。
ずいぶんと遅かったが、おそらく足止めを食らっていたのだろう。
「お怪我はありませんか……!?」
メンバーの一人が古大路を気遣う。
古大路はわざと平静を装って答えた。
「問題ない、作戦は完了した」
「廊下で学生ではない変な女に攻撃を受けました。一体あれは何者なんでしょう」
「学園側の最後の抵抗だろう。トップがいなくなった以上は気にすることでもあるまい」
「!? それじゃエイミー=レインは……」
偉樹は窓の外を振り向き、遠い目をして嘘の功績を語った。
「死んだよ。僕が殺した」
「おお……!」
同志たちが息を飲んだ。
学園創設者の最後の生き残り、水瀬学園の学園長だったエイミー=レイン。
その排除が作戦の目的だったとはいえ、やはり水学生は彼女の死に思うところはあるようだ。
ともあれ、これで生徒会は掲げるべき神輿を失った。
頼りにしていた生徒たちの信頼も地に落ちるだろう。
偉樹の目標は最強の能力者になることではない。
たとえ失敗を重ねようと、今ある状況を最大限利用して先へ進むことだ。
「ところで、エンプレスの本拠地に向かわせた深川花子たちはどうなった?」
偉樹は話題を変えた。
メンバーの一人が慌てて報告する。
「は、はい。無事≪
本隊が作戦行動を起こしている間も複数の密偵が常に走り回って連絡を取り合っている。
この混乱する戦局において何よりも重要視すべきはやはり情報である。
「新しい能力は役に立ったようだな」
偉樹は仲間に背を向けて口元を歪めた。
もはやさっきの屈辱など忘れている。
なにも失敗などしていない。
すべてはフリーダムゲイナーズに都合よく展開している。
後は荏原恋歌か麻布美紗子のどちらか、あるいはどちらも共倒れしてくれれば言うことはない。
どちらにせよ、水学生徒会は今日で終わりだ。
「よし、ただちに引き上げる。深川花子たちと合流したらすぐ新しいに本拠地に向かおう」
「こちら側に寝返った生徒会役員たちはどうしますか?」
「しばらく身を隠すように言っておけ。時が来ればこちらから連絡をする」
本当の戦いはこれからだ。
偉樹は最後にもう一度学園長室を振り返った。
窓の向こうに消えたエイミー=レインの、もう見ることのない後姿を思いながら。
※
さっきまで全身が焼けるように熱かったのに。
今では嘘のように熱を失っている。
寒い。
まるで真冬に裸で外にいるみたい。
感覚を失った右腕の先にまだ≪
床に寝そべって息を吸う。
むせかえるような血のにおいがした。
平和を願って戦い続けたはずが、自ら斬り殺した無数の死体と同じ部屋で倒れている。
悪夢にしても趣味が悪い。
自分の体のことはよくわかっている。
限界を超えた精神がまともに感覚を得ることを拒否していた。
迫る死を少しでも安らかにしようと、体が痛みをシャットダウンしはじめたのだろう。
これは報いなのだろうか。
自分はそれほど悪いことをしたのだろうか。
そうだろう、と美紗子は思う。
初めて≪
つまらない諍いで人を殺めてしまった日から、自分は決して許されない罪を背負った。
贖罪のためと言い聞かせ、平和を望む人々の願いを背負ったつもりだった。
がむしゃらに働き続けて今日まで精いっぱい頑張ってきた。
「私、がんばったよね……」
そう口に出してみるけれど、流れる涙は止められなかった。
責任を果たせなくて悔しいなどと殊勝なことを言うつもりはない。
こんなところで死ぬのは嫌だ。
まだやりたかったことはたくさんある。
もっと生きたい。
死にたくない。
美紗子の心が望むのは、普通の人となんら変わることのない願い。
ふと、体がやわらかな感触に包まれた気がした。
お迎えが来たのだと思った。
小さいころに見たアニメのように天使が自分の魂を連れていく。
そう考えると不思議と恐怖は和らいだ。
心地よい天使の温もり。
もしかしたらそれは、現世にしがみつきたい誘惑をやんわりと奪ってくれているのかもしれない。
「美紗子さん! 美紗子さんっ!」
天使が自分の名前を呼ぶ。
美紗子はその姿を見たいと思った。
張り付いたように重い瞼を開く。
視界が霞んでいる。
天国とはそういうものなのだろう。
目の前に長い黒髪の天使の泣き顔が見えた。
「……あ」
天国なんかじゃなかった。
美紗子の壊れかけた体を抱くのは現実の人間。
最愛の後輩である赤坂綺が、繰り返し美紗子の名前を呼び続けている。
「綺……」
掠れた声で彼女の名前を呼ぶ。
綺の口元がわずかに綻んだ。
「げほっ、げほっ」
喉が苦しくなり、美紗子は血反吐を吐いた。
「動かないでください! すぐに助けを呼ぶから、きっと良くなるから、だから、死なないで……!」
綺の声がずいぶん遠くから聞こえる。
大丈夫、心配することはないわ。
私があなたを置いて逝くわけがないじゃない。
いくときはいっしょ。
約束したでしょ、
また二人で秘密の楽しみをしましょうって。
いつしか目の前は真っ暗になっていた。
それでも綺の姿はハッキリと網膜に張り付いている。
彼女は微笑んでいた。
ちょっと厳しいいつもの目で。
本当は頼りない私をひっぱってくれる。
綺。
私の綺。
大好きな綺。
あなたに出会えて本当によかった。
この街では辛いことも楽しいこともたくさんあった。
けど、なによりもあなたと過ごした時間がいちばん楽しかった。
こんな気持ちになれただけで、私の一生は他人の五十年、百年にも劣らないと自信を持って言える。
でも、ごめんなさい。
ちょっと疲れたからひと眠りするね。
また目が覚めたらあなたと一緒に全力で走り続けるから。
あなたは私の隣で支えていてちょうだい。
好きよ、綺。
綺。
私の綺。
美紗子の意識は深い暗闇に落ちていく。
消えそうな感覚の中、流れに抗うように右手を挙げた。
手に柔らかな感触が伝わる。
綺の手が包んでくれる。
それだけで、きっと安らかに眠れる。
ねえ、綺。
後のことは、お願いね。
※
紗枝は溢れる涙を止めることができなかった。
目の前にはもう動くことない姉と、その体を抱きしめて号泣する赤坂綺がいる。
姉は不思議と穏やかな表情をしていた。
顔の左半分はひどい火傷を負っているのに、とても奇麗に見えた。
綺と紗枝がこの部屋に着いたのは美紗子が傷ついた体で十数人の敵を斬り殺した後のことだ。
誰が見ても手遅れだった。
美紗子は最後まで右手に≪
綺が美紗子を抱きかかえると、まるで最後の別れを告げるように手を伸ばした。
綺はしっかりと美紗子の差し出した形見を受取った。
誰よりも深くこの街を愛した水瀬学園生徒会長の遺志と武器を。
亡骸を抱きしめた綺と傍で見守る紗枝は、果てることない涙の海に溺れ続けた。
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