10 揺れ動く戦局

 キリキリと弦を引き絞る音が響く。

 遠くの壁に黒と白の的が並ぶ、広い射撃場。

 限界まで張り詰めた気が充満する中、古大路偉樹の心は静かに澄んでいた。


 ヒュ。


 空気を切る音。

 彼の持つ弓から矢が放たれる。

 矢はまっすぐ吸い込まれるよう的の中心に命中した。


 背後からパチパチと手を叩く音が鳴った。


「さすが古大路家のご当主さま。お上手ですわ」

「これくらいは当たり前だ」


 おっとりとした声の主は本所市、戦十乙女の最後の一人である。

 また、古大路家とはゆかりの深い本所家の一人娘でもあった。


「ハナちゃんは本郷さんを見逃したそうですわ」

「またのぞき見か。相変わらず悪趣味なことだ」

「これくらいしか趣味がありませんもの」


 市の喋り方は丁寧だが、どこか底冷えのする感じがする。

 偉樹は彼女との会話を続けながら次の矢を番えた。


 張り詰めた空気を断ち切るように二度目の矢を放つ。

 一射目で突き立った矢を弾き飛ばし、まったく同じ場所に命中する。


「お見事」

「エンプレスの動向はどうなってる?」


 偉樹は胸元に下げたジョイストーンを指先で弄びながら質問した。

 市は拍手の手を止めポケットから五枚の写真を取り出す。


「着々と勢力を伸ばしてますわ。数日以内には規模でもフェアリーキャッツを超えるでしょう」


 市はそのうちの一枚を無造作に放り投げた。

 写真はまるで糸で繋がれているかのように壁へと吸い込まれていく。

 偉樹は弓を構えると、先ほどまでとは打って変わった素早い動作で弦を引き絞った。


 トン。


 矢が写真を貫いてコンクリートの壁に突き刺さる。

 その写真には荏原恋歌が映っていた。


「本郷蜜にはああ言ったが、荏原恋歌の性格を考えれば仲間に引き入れるのは難しいだろう」

「私も学校で何度かお会いしたことがあります。とても人の下につくような方ではありませんわ」

「いつかは戦う必要があるか。しかし、できれば正面から挑みたくない」

「では、共通の敵を作った上でボロボロになっていただくのはどうでしょう」

「共通の敵か」


 市が二枚目の写真を投げる。

 先ほどと同じく、不自然な動きでふわりと浮かび上がる。

 その写真は偉樹が予備動作なく放った矢に貫かれて壁に張り付いた。


 偉樹はわずかに眉を釣り上げた。


「麻布美紗子ではないのか」

「ええ。水瀬学園生徒会における最大の脅威は彼女ですわ」


 二枚目の写真には水学生徒会二年生、赤坂綺が映っていた。

 嘘か真か荏原恋歌に勝利し、アリスや恋歌と共に『三帝』と称されていた人物である。


「注意深く観察していればわかります。普段は周りのサポートに徹していますが、もはや彼女なくして水学生徒会は成り立たない……それくらいの影響力があります。また、潜在的な能力においては麻布さんを上回っていると私は見ています」

「君にそこまで言わせるとは。やはり彼女は恐ろしい人物なのだろう」

「ただし、元々が争いを好まない性格なのか、戦いにおいては常に力をセーブしている節が見られます。自分の能力を扱いこなせていないだけの可能性もありますが」

「今は乱世。力を持ちながらそれを有効利用しないなど、それだけで罪悪だ」


 もはや弦を引く動作すらなかった。

 赤坂の写真に二本目の矢が突き立つ。


「当人たちは街の平和を守るために戦っているつもりだろうが、今の水学生徒会は運営の傀儡となっているだけだ。彼女たちには遠からず舞台を降りてもらわなければならない。深川君の言う通り、多少の犠牲は仕方がないのだ」


 偉樹の腕は下がったまま、弓も地面を向いている。

 どこからか放たれた三本目の矢が赤坂綺の写真に三つ目の穴をあけた。


「とはいえ、真の敵は生徒会ではない。倒すべき敵はあくまでその向こう――」


 二枚の写真が市の手からそれぞれバラバラの方向に飛んで行く。

 全く同時に二本の矢が撃ち出され、写真を天井と反対側の壁に貼り付ける。


 天井の写真には偉樹の祖父である故・古大路一志と彼の住んでいた屋敷が。

 壁の写真にはラバース社の社長、新生浩満が映っていた。


「僕らは街を運営する者たちと戦わなくてはいけない」


 天井の写真の下半分、古大路一志が映っていた辺りが、炎に焼かれたように灰になった。

 残った屋敷部分だけが矢に貫かれたまま天井に張り付いている。


「おじい様が亡くなった後も古大路家の呪縛はあなたを縛りつけているのですね」

「フン」


 生まれたときからずっと厳格な祖父の下で育った。

 だから偉樹は本当の自由というものがどんなものかを知らない。

 祖父に感謝する気持ちなど欠片もないし、死んだときも涙一つ流れなかった。


 元気だった祖父が急逝した理由は見当がついている。

 恐らくはラバースによる暗殺。


 しかし、それもどうでもいいことだった。


 ひとつ残念なことがあるとすれば、欲望のままに道を踏み外し、多くの人々の生活を狂わせてきた男に相応しい最期をこの手で与えてやれなかったことだけだ。


 ――新生隊長、いつか僕も隊長のような立派な人に――


 若き日の祖父の声が響いた気がした。

 偉樹が生まれる半世紀近く前。

 まだ純真な若者だったころの祖父の声が。


 関係ない。

 人は変わるものだ。

 そして、簡単に道を踏み外す。


 きっと誰もがそうなのだろう。

 何かを望む気持ちが人の心を変える。

 欲望によってあらゆる犠牲を正当化させる。


 それは自由を欲している自分もそう。

 ラバースという重荷を背負っている新生浩満も同じだろう。


「そう、僕らは同じなのだ」


 変わることのない負の連鎖を宿命づけられた人生。

 自分は被害者などと己を偽るつもりはない。


 真の自由などない。

 己を認めることさえ決してない。

 今度はしっかりと弓を構え、矢を番え弦を引き絞る。

 狙いは壁の新生浩満。


 古大路の手を離れた直後、矢が輝きを放った。

 直後、丸太ほどの太さの閃光に姿を変え、射場の壁に風穴を開けた。


「お熱くなるのは結構ですが、順番を間違えないように。一歩ずつ着実に進んでいきましょう」

「わかっているさ」


 最後の一枚の写真が市の手から離れる。

 偉樹はそれに背を向けたまま心で狙いを定める。


 彼のJOY≪虚真矢レイアロー≫によって作り出された矢が写真に突き刺さった。


 壁に張り付いた写真の中、彼らの最初のターゲットが――

 エイミー=レインが無邪気な笑顔を浮かべていた。

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