第11話 パパと大きな翼
1 少女アリス
その日、『少女』はいつものように学校へ向っていた。
優しいパパと美人のママに手を振って、いつものように元気よく家を飛び出す。
友だちが待ついつもの曲がり角。
そこで見知らぬ男性に声をかけられるまでは、昨日までと何ひとつ変わらない朝だった。
「○○ちゃん、こんにちは」
その男性が『少女』の名前を呼ぶ。
後にも先にも男から本名で呼ばれたのはこの時だけだった。
そしてこれが他人の口から自分の名前を聞いた、最後の時でもある。
「ぼくはさやかちゃんのパパだよ。今日はさやかちゃんが風邪でお休みだから、ぼくが代わりに車で学校まで送っていってあげるよ」
男の優しい言葉を『少女』は疑いもしなかった。
傍らに停めてあった車の助手席に乗ると、男は学校と逆の方向へ走りだした。
そっちは學校じゃないよ、と『少女』は告げるが。
「いや、いいんだよ。家に帰るんだからね」
振り返った男性はニィ、と嫌らしい笑みを浮かべて『少女』を見た。
そのあまりの醜悪さに『少女』は短く悲鳴をあげた。
身の危険を感じ、赤信号で停まった隙にドアを開けて逃げ出そうとした。
しかし、鍵は開かない。
「ダメだよ。大人しくしておいてね、でないと……」
ばちん。
大きな音が車に響いた。
遅れてやってきた痛みに、自分が殴られたのだと気づく。
突然の暴力に『少女』は声をあげて泣いた。
「泣くんじゃねえよ! ぶっ殺されてえか!」
胸倉をつかみ上げられた『少女』は怯えて口を噤む。
しゃくりあげながらも、何故こんなことをするのかと尋ねた。
「あはは。ごめんね。実はぼく、さやかちゃんのパパじゃないんだよ」
男はさっきまでと変わらぬ調子で、あっさりと白状した。
その時になった初めて『少女』は自分が誘拐されたことに気づく。
「待っててね。すぐにお家につくから。パパとこれから暮らす、あたらしいお家にね」
※
『少女』を乗せた車が走る。
窓の外の景色はもう、全く知らない風景だった。
すすり泣く『少女』に男は何も語らない。
ただ緊張した面持ちで運転を続けている。
「やっちまった……もう後戻りはできねえ。やるしかない、やるしか……」
時折、そんなつぶやきが『少女』の耳に届いた。
幼い『少女』はランドセルを抱きしめ、誰かが助けてくれることを祈った。
やがて、車はとある住宅街の一角で停止する。
「ほら、着いたよ。ここがパパと『アリス』が一緒に暮らす家だ」
『少女』はすでに泣きやんでいたが、その言葉が自分に向けられたものだとわからなかった。
「降りるよ、アリス」
男が『少女』の手を引く。
逃がさないため、運転席側のドアから一緒に降りさせようする。
「どうしたんだアリス。なにも怖いことはないんだよ。パパが一緒なんだから」
男の声にはわずかな苛立ちの色が含まれていた。
わたしはアリスじゃない。
この時、少女の胸にはわずかな希望が浮かんだ。
この男の人は自分を誰か別の子と間違えているのかもしれない。
だから自分がアリスという名前じゃないとわかれば、すぐに家に帰してくれる。
それは少女の勘違いでしかなかった。
頬に二度目の痛みがやってくる。
強烈な痛みに『少女』は再び泣き叫んだ。
「ごめんね。でも、アリスが悪いんだよ」
男がダッシュボードを開ける。
液体の入ったビンと布を取り出した。
布に液体を染み込ませ、それを『少女』の顔に当てた。
「ほんとうはこんな乱暴なことはしたくなかったんだけどね」
急速に眠気が襲ってくる。
呆然としていく意識の中で『少女』は男の声を聞いた。
「目が覚めたら、パパと本当の家族になろうね、アリス」
※
いつもより重い瞼を開く。
そこには見慣れない天井があった。
普段使っているベッドよりも大きいサイズのベッドに『少女』は寝かされていた。
窓一つない部屋。
蛍光灯の明かりだけが頼りなく輝いている。
「ようやくお目覚めかい? アリス」
傍らには椅子に座った誘拐犯の男がいた。
その男の姿を見た瞬間『少女』は「ひっ」と短く悲鳴をあげた。
男は服を着ていなかった。
腹は肉がぶよぶよで体中を覆う体毛は濃い。
その姿は『少女』に本能的な嫌悪感と恐怖を与えるに十分だった。
「アリスがなかなか起きないから、パパも我慢の限界だよ。やっぱり眠らせたのは失敗だったね」
男は両手を広げて『少女』に近づいてくる。
とっさに逃げようとした『少女』は、とある事実に気づいて絶望する。
自分の腕は手錠でベッドの縁に繋がれていた。
何が起こっているのかはわからないが、ひどいことをされるに違いない。
そう感じた『少女』は必死になって男にやめるよう懇願する。
「怖がることはないんだよ。ぼくはアリスのパパなんだから」
わたしの名前はアリスじゃない。
あなたはわたしのパパじゃない。
いくら言っても男は聞き入れてくれなかった。
「アリスは今日からアリスなんだよ。そして、ぼくは今日からアリスのパパだ。これからずぅーっと、二人で一緒に暮らすんだからね」
ちがう。
本当のパパはこんなことしない。
私を怖がらせるようなことは絶対にしない。
声の限りに叫んだが、それに対する男の答えはさらなる暴力であった。
「ガタガタうっせえんだよっ!」
男は『少女』を拳で殴りつけた。
これまで味わったことのない本気の痛みに『少女』は頭が真っ白になる。
痛みと絶望的なまでの恐怖。
もう『少女』は半狂乱になった。
「泣くんじゃねえよ、うっとおしいガキがっ!」
泣きわめく『少女』を男はさらに二度、三度と殴りつける。
「殴られたくないなら泣くんじゃねえ。いい加減にしねえと、本気でぶち殺すぞ」
泣き叫んでもやめてはくれない。
声を抑えることだけで暴力を止めてくれる。
それに気づいた『少女』は必死になって涙をこらえた。
殴られた頬がズキズキする。
これ以上殴られるのはもう嫌だ。
歯を食いしばり、懸命に痛みと戦う。
「泣きやんだね。いい子だ」
別人のようににこやかな顔で、男は『少女』に微笑みかける。
「本当はパパもアリスをぶったりしたくなかったんだ。大丈夫、おとなしくしてれば、何も怖いことはないからね」
男のごわごわとした手が『少女』の体に触れた。
「それじゃあ始めようか。パパがアリスの本当のパパになるために、必要な儀式を」
男は『少女』に覆いかぶさった。
自分の倍以上もは大きい体に物理的に逃げ道を塞がれる。
さらなる恐怖が『少女』を襲う。
「アリスにとっても良いことを教えてあげるからね。これからアリスとパパは本当の家族になるんだ」
気持ち悪い感触が肌の上をはいずり回る。
男はビンを手に取り中身をアリスの体に垂らす。
冷たくてぬるぬるした液体がたまらなく不快だった。
直後、耐えがたいほどの激痛が走った。
アリスは我慢することも忘れて泣き叫んだ。
「我慢してっ! パパも辛いけど、パパとアリスが家族になるために必要なんだよっ!」
腕を振り回そうにも拘束されていて動けない。
声を上げる以外に『少女』は痛みを訴える術を持たなかった。
「黙れよっ!」
唯一の抵抗も男の手によって塞がれてしまう。
痛みは鋭さを増し、引き裂かれるような衝撃が『少女』を襲う。
『少女』は自分の体が壊されてしまったのだと思った。
「はははっ、やった、やったぞ! やってやった! やったーっ!」
男の歓喜は『少女』には理解できないものだった。
裂かれるような痛みが『少女』を襲い続ける。
覆いかぶさる男が揺れる。
「はっ、はっ。あははっ! ああ、誘拐してよかったぁ!」
あまりの痛みに『少女』は塞がれた口の端から泡を吹いていた。
焦点の定まらない白目を剥いて虚空を見つめる。
抵抗する気力すらなくなっていく。
「おほっ、うおおおおっ!」
薄れゆく意識の中で『少女』は自分の中で何かがはじける感覚を味わった。
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