8 マークの力
中野聡美は直立不動のまま固まっていた。
隣には同じ姿勢の古河芳子もいる。
ここは放送室。
一度は封鎖されたその場所で、とある人物がマイクを握っている。
彼は額に青筋を立て、顔を真赤に染めて、放送機材を睨みつけていた。
その鬼神のような姿を見ていると、聡美はさっきまで自分が抱いていた怒りはなんてちっぽけだったんだろうと思えてくる。
「お前ら、今すぐ中庭に集合だあ!」
男はもう一度マイクに向かって叫んだ。
防音壁に囲まれた放送室の中にすさまじい怒号が響く。
その怒りの矛先が自分たちに向いていないとしても身が竦むような思いだった。
恐怖の原因は声の大きさだけではない。
男の容貌にも原因があるのは明らかである。
胸元の空いた紫の和服。
プロレスラーのような体格。
深くそり込みの入ったパンチパーマ。
そして右眉から左の頬にかけて大きな傷跡。
どう見ても「その筋」の方にしか見えないのである。
男はマイクのスイッチを切ってこちらを振り向いた。
聡美は芳子と一緒に「ひっ」と短い悲鳴を上げてしまった。
てっきり怒られるかと思ったが、以外にも男は二人に向けて深く頭を下げた。
「本当にすみません。私の不徳のせいで、学園の人たちに大変なご迷惑をおかけしてしまいました。不肖この
そんな顔で丁寧な謝罪をされても、どう反応すればいいのかわからない。
いや、別に彼は本当に暴力を仕事にしている人ではないのだが。
そもそもそんな職業はL.N.T.には存在しない。
驚くべきことに、この人は保育園の園長さんなのである。
しかも「健全な肉体には健全な精神が宿る」をモットーに真摯な教育に励む熱心な教育者だ。
結果、園児たちにSHIP能力者と見間違えるほどの健全な肉体を与えてしまった、スーパー先生なのである。
それでいてスパルタというわけではなく保護者たちからの評判も良い。
しかし「園長先生を怒らせると怖い」という認識は園児たちの魂にまで染みついている。
薫園長は顔を上げ、ニカリとさわやかな笑みを浮かべた。
「これで子どもらも大人しくなるはずですわ。たまにはハメを外すこともありますが、気持ちを込めて語り合えばみんなわかってくれます。なんだかんだ言っても可愛いやつらですから」
※
「いそげー!」
「はやくしないとえんちょうせんせいにコロされるぞー!」
放送を聞いた園児たちは中庭に向かって一斉に走りはじめた。
どうやって上ったのか、隠れていた通気口から出てくる女子。
我先にと二階の窓から飛び出しては駆け出す男子もいる。
「すみません、なかにわってどちらですか」
生意気な態度を一転させ、涙を浮かべながら近くの学生に尋ねる子もいる。
誰もが憑き物が落ちたかのように大人しくなってしまっていた。
空人は綺と一緒にぽかんとしながらその光景を眺める。
「……どうする? とりあえず中庭に行ってみるか?」
さすがに放送が気になったので空人は綺に訊ねてみた。
「いえ、マークくんを探さなくっちゃ。たぶんまだどこかに隠れてるはずよ」
そう言えば最初の目的はその少年を捕まえることだった。
空人は事情がいまいち呑み込めていないのだが、この鬼ごっこ大会はどうやら悪い偶然が重なって起こっただけの、全く関係ない出来事らしい。
最初に挑発的な放送をして逃げた金髪碧眼の少年は依然としてどこかに潜伏中というわけだ。
「っていうか、そのマークって子は何者なんだ?」
「私もよくはわからないけど、なんかすごい偉い人の一人息子とかで、もしものことがあったらL.N.T.が壊滅するって美紗子さんが言ってたって聡美さんが言ってたわ」
「めちゃくちゃ大変じゃないか!」
又聞きの上に脈絡もなく、信憑性はかなり怪しいが、それは本気になって捕まえざるを得えない。
とにかく無関係な園児たちは大人しくなったのだから後は本物の金髪少年を捕まえればいい。
いくら学園が広いとは言っても、全校生徒が協力して探せばすぐに見つかるだろう。
「僕も手伝うよ。どうせ午後の授業はもうないだろうし」
「本当? そうしてくれると助かるわ。さっきから走りっぱなしで結構疲れちゃった」
とてもそうは見えないのだが、空人は相槌を打った。
「そういえばさ、その子を捕まえたら生徒会入りを認めるって副会長さんが言ってたけど、あれって本当なのかな?」
「流石にないと思うわよ。美紗子さんの許可もないし、頭に血が上って適当なこと言ったんだと思う」
ですよね。
まあ、それでも綺の助けになれるなら、空人としては協力のし甲斐はある。
今度こそ本物の金髪少年を探すため二人は第二競技場を後にした。
※
周囲に生徒がいないか確認しながらマークは図書室から廊下へと出た。
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下のガラス窓から外を見る。
中庭へ向かう園児たちの集団がいた。
どうやら園児たちをデコイに使えるのはここまでらしい。
急な放送にはびっくりしたが、彼らは十分に役に立ってくれた。
おかげで水学生徒の目を盗みつつ、校舎内の調査に専念できたのだから。
調査と言っても、半分は興味本位の探検ごっこだが。
人里離れた山奥に造成されたL.N.T.はそれ全体が大きな研究機関である。
その一翼を担っている最大機関、水瀬学園は少年の知的好奇心を刺激するには十分な魅力があった。
とはいえ、見たところ普通の日本の学校と大して変わらない。
大仰な実験機械やら、能力を促進するためのトレーニングルームなども見当たらない。
これでは期待外れもいいところだ。
逃げる園児たちを追いかけるために学生たちが能力を使うところでも見られるかと思ったが、そんなこともなかった。
しかし、全てが普通と言うことはあり得ない。
必ずどこかに能力トレーニングのための施設があるはずだ。
それさえこの目で見られれば、素直に戻ってやっても構わないのだが……
「それにしても広すぎだよ、この学校」
敷地内には一〇を超える棟が立ち並び、どの棟も最低五階以上はある。
高校と言うよりは総合大学に近い印象だ。
この広大な敷地内をくまなく歩き回っていたら、それだけで日が暮れてしまう。
園児たちに時間を稼いでもらっている間に探索できた棟はわずか二つ。
次の棟がダメなら大人しく戻ろうかなと考えていると、
「見つけたぁ!」
すぐ後ろから大きな声が聞こえた。
振り向く間もなく巨大な手がマークの肩を掴む。
「ふっはっはぁ、捕まえたぞぉ! これで生徒会役員の座は俺のもんだぁ!」
叫んでいるのは身長一八〇センチはあろうかという大男だった。
五分刈りの厳つい容貌で、なぜか柔道着を着ている。
「はぁ……」
考え事をしていたとはいえ、こんなやつが傍に近づくまで気づかなかったなんて。
不覚としか言いようがないが、ともかく耳元でバカでかい声を出されてかなり不快だった。
肩に食い込む手も痛い。
捕まったらそこでゲームオーバーと諦めて大人しくしようと思っていたが、マークはついカッとなって思わず『力』を使用してしまった。
「うごごごごっ!?」
五分刈り男が素っ頓狂な声をあげる。
その体が踊るよう跳ねた。
その隙にマークは拘束から逃れる。
振り返ると、柔道着姿の巨体はうつ伏せに床に倒れ、完全に意識を失っていた。
「……死んでないよね?」
脈を測ってみた。
心臓は正常に動いている。
どうやら気絶しているだけらしい。
ホッと息を吐く。
勝手に能力を使った上、万が一にも死なせてしまったら大問題だ。
JOYだかSHIPだか知らないが、ここの生徒が知っているのは
まったく別系統の能力が存在することを知られるわけにはいかない。
マークは自分の掌を見た。
開いた指と指の間で青白い電気エネルギーがバチバチと音を立ている。
この力は絶対に人に向けて使ってはいけないと、父や姉たちからも厳しく言われている。
怒りに任せて能力を使用してしまった自分の浅はかさをマークは深く反省した。
気を取り直して、もう少し校舎を回ってみよう。
切り替えの早さは好奇心溢れる若さゆえの特権である。
今後はさっきのようなヘマはしない。
さっきまでと同じようにあらかじめ進行方向に電磁波を飛ばし、動く者がいないかを確認した上で慎重に進もう。
「おっと」
曲がり角の手前でマークは足を止めた。
向こうから人が歩いてくるのに気付いたからだ。
近くの教室に逃げ込もうかと思ったが、近づいてくる気配に違和感を覚えて立ち止まる。
少し強めに電磁波を飛ばして相手の特徴をチェック。
学生にしては身長が低い。
たぶんこれは中庭に向かっている最中の園児だ。
水学の生徒じゃないなら見つかっても問題ないだろう。
マークはそう判断してそのまま進むことにした。
角を曲がった先に、マークと同じくらいの身長の男の子が立っていた。
「やあ」
手を上げて挨拶をする。
少年は反応をしない。
黒いジーンズと真っ白なシャツ。
やや長めの後ろ髪のせいか、少し暗い印象を受ける。
日本人がシャイなのは知っているので、返事がない程度で気分を害したりはしない。
すれ違いざまに少年の肩を叩き、
「早く中庭に行かないと、君もあの怖そうな声の人に怒られるぞ」
忠告した次の瞬間。
視界がグルリと回転した。
「……え?」
小声でつぶやいた直後、頭に激しい痛みが走った。
後頭部をしたたかに打ちつけたマークの意識は一瞬のうちに闇に沈んでいった。
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