3 宿命のライバル
「神田さん」
とつぜん背後から声をかけられ、和代は手に持っていたカップを落としそうになった。
幸い中身をぶちまける愚は避けられたが、溢れた紅茶が足にかかって熱かった。
もちろん取り乱したりなんかしない。
やせがまんは上に立つ者の宿命だ。
「何かしら?」
何事もなかったかのように振り向くと、生徒会のメンバーではない女生徒がいた。
この奇妙な名前のクラブを設立させたのは他ならぬ和代である。
他校の様子や街の事件を調査させる生徒会の下部組織。
別の言い方をすれば専属の諜報部隊である。
「ご命令を受けていた
制服の胸ポケットから取り出された写真をひったくるように奪い取る。
その写真を手にして時恵に背を向け、和代は肩を震えさせた。
「ご、ごくろうさまですわ……これは報酬です」
和代は写真から視線を外さないまま財布を取り出すと、万札を数枚掴んで時恵に渡した。
「う、受け取れません! 神田さんと美隷女学院のために尽すのが私の仕事であって、決して個人的な報酬を望んでいるわけでは……!」
「学院のために危険を冒してくれたのです。貴女の働きにはそれだけの価値があります。それに報いたいと思う私の気持ちを、どうか受け取ってくださいな」
「は、ははぁ!」
時恵は床に片膝をつくと、時代劇のようなかしこまった礼をした。
気がつけば愛理と翔子が和代の後に立って写真を覗き込んでいた。
「水学の四谷千尋。最初期からのJOY使いですね」
「『穏やかな剣士』と呼ばれる水学トップフォーの一角。神田さんの宿敵……」
写真の中で額の汗を拭う袴姿の女子高生、四谷千尋。
彼女と和代の間には浅くない因縁があるのだ。
※
和代が水瀬学園中等部に在籍していた頃。
クラス内の成績で常に後塵を拝し続けた相手がこの四谷千尋だった。
入学時には全く目立たない地味な存在だったにも関わらず、あっという間に和代を追い越してトップの座を奪い取った女。
それはいい、自分の努力が足りなかっただけだ。
問題はその後の学園対抗試合である。
水瀬学園を離反した和代は、美隷女学院の代表者として学園対抗試合に出場することになった。
恋歌に次ぐナンバー2として過去に引導を渡すつもりで戦いに臨んだ。
その第二試合で和代は四谷千尋に敗北したのである。
当時の美隷女学院は水瀬学園よりもずっと高度で厳しい能力者要請プログラムを行っていた。
確実に勝てるはずだった学園対抗試合は、和代が負けた後、引きずられるように連戦連敗した。
結局は恋歌の一勝を除き、美女学は水瀬学園に敗北した。
負ければ閉校の危機と言われてた生徒たちの落胆は見るに堪えないほどであった。
大勢の前で不様な敗北姿をさらした和代は、その後しばらく人生のどん底を味わうことになる。
みじめな思いをバネに、和代は存続を許された新生美隷女学院で再起を図った。
必死の努力の甲斐もあり、高等部に入学するころには周りの信頼を取り戻していた。
過去を知らない生徒が増え、生徒会長の椅子を手に入れて学園中の憧れの的となった今、かつての試合を覚えていたとしても和代をバカにする生徒はいない。
けれど、あの学園対抗試合は和代の栄光の歴史における唯一の汚点としていつまでも残る。
そのことは当時を知っている生徒にとっては明白な現実だった。
時恵や愛理や翔子もそのうちの一人である。
「ついに四谷千尋との再戦の日が来るのね……この日をどれだけ待ったことか」
「今の神田さんなら負けるはずがないわ。いいえ、あの時だって本当は勝っていた」
二人の言葉には反応をせず、和代は写真を眺めたまま震えていた。
やがて彼女は写真を制服の胸ポケットにしまうと、机の上に置いたカバンを手に取った。
「ごめんなさい。今日は先に帰らせていただくわ」
他の三人に表情を見られよう、顔を伏せて部屋を出る。
「おいたわしいこと……神田さん、震えていらっしゃったわ。どれだけ悔しい思いをされたことか。私たち凡百の者には想像もつかない辛酸を嘗められたことでしょう」
「できるなら代わって差し上げたいけれど……いいえ、信じましょう。私たちの神田さんは誰よりも強く素敵な美隷女学院の誇りなのだから」
「神田さん、頑張ってください」
遠ざかっていく三人の声を背を聴きながら、和代はこらえきれずに走り出していた。
※
自宅に戻り、階段を駆け上がって自室に入ると、即座にカバンをベッドに放り投げる。
慕ってくれる生徒たちには絶対に見せられない乱暴な振舞いである。
が、今の和代はそんなことを気にしている余裕はない。
勉強机の椅子に腰を下ろして胸ポケットから四谷千尋の写真を取り出す。
はかま姿で汗を拭う、かつて自分をどん底に突き落としたライバル校の少女。
写真を持つ手は震え、穴があくほど見つめていた和代に、ついに我慢の限界が訪れた。
ゆっくりと顔を近づけ、今にも溢れだしそうな想いを込めて、
「ちーちゃん、愛してるっ!」
写真の中の四谷千尋にキスをした。
※
俗な言い方をすれば、和代は千尋のことが好きなのである。
学園対抗試合での敗北後、和代が千尋に対して抱いた感情は怒りや復讐心などではない。
それは純粋な感謝の気持ちであった。
小学校時代からずっと周りの誰よりも優れていると思っていた。
その鼻っ柱をへし折ってくれたのがほかならぬ千尋であった。
すべてを失ってはじめて気づいた自分の驕り。
それはきっと己の成長をも阻害していた。
おかげで和代は何もかも捨てて一からやり直すことができた。
千尋に負けなければつまらない虚栄心で塗り込めていた人間のままだろう。
どん底の日々だって、今の自分の成長を思えば決して否定すべき過去などではない。
感謝の気持ちは次第に変化していく。
地位と名誉を取り戻し、美女学の伝統にも慣れ親しんだ頃。
最も尊敬する女性は最も愛すべき女性に変わった。
同級生や下級生を可愛がってはいても、夜になれば千尋を思って悶々としながら過ごす。
そんな自分を恥ずかしくも思うが、一度自覚した恋心は決して消えはしない。
生徒たちの見本となるような才女を演じられるのも彼女を思えばこそ。
今の自分の心の支えと言っても過言ではない。
けれども美女学生徒会長という立場ゆえ、千尋と仲良くすることはできない。
想いを伝えることはもちろん、気軽に話しかけることすら周りは許さないだろう。
なにせ周りの生徒たちは和代が今でも千尋を憎んでいると思っている。
まあ、そのおかげで調査の名目で写真を手に入れることができたんだけどね。
本棚から豪華な装飾の施さされたアルバムを取り出す。
表紙には「ちーちゃん☆めもりある」と可愛らしい文字で書いてある。
和代はその中に三十二枚目になるちーちゃんコレクションを丁寧に張り付けた。
「ああ、ちーちゃん……だいすきですわ」
アルバムを胸に抱きしめ、和代は乱れた服装を直しもせず、再びベッドに倒れ込んだ。
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