7 空飛ぶ天使の噂

 入学から二週間が過ぎた。

 空人の学園生活は順調と言ってよく、とても満ち足りた日々を過ごしている。


 レベルの高い授業について行くのは一苦労だが友達も増えた。

 気になっていたクラスの男女差も仲の良い友だちができればたいした苦もない。

 数少ない男子生徒はみんな気の合う良い人ばっかりだった。


 赤坂綺との関係は別段なにか変ったところもなかった。

 しいて言うなら、以前より自然に話せるようになったくらいか。


「おはよう、空人君」

「おはよ、綺」


 お互いに名前で呼び合うようになった。

 気軽にあいさつを交わし、友達にまじって世間話をする。

 それ以上の進展は今のところないけれど、空人はそれでいいと思っている。


 この前の『事故』のことはどちらもあれから口に出さなかった。

 綺の中で本当になかったことになっているのなら、空人もそれに合わせようと思う。


 ビデオの貸し借りをしたり、趣味が合うだけで恋人関係になれるなんて……

 少しだけ期待していたけど、そうはならなかった。

 まあ、こんな離感も悪くない。


 少なくとも他の男子よりは自分が一番綺と仲が良い。

 それだけで十分だ。これから本当の恋人同士になれるよう頑張ればいいさ。


 唯一の気がかりは、まだDリングが光っていないことくらいか。

 空人は未だにJ授業の第二段階に進むことができていない。

 あれから数回授業を受けたが、リングはうんともすんとも言わないままだ。


 今も指にはめているが、どういう仕組みか、あの部屋以外の場所で光ることはないらしい。

 綺をはじめとする第二段階に進んでいる生徒の指輪も今は輝きを失ったままだ。


 まあ、第二段階に進んだ生徒たちも特に変わった様子はない。

 別に変な人体実験をされているわけでもなさそうだ。

 ゆっくり追いついていけばいいさ。

 学園生活は始まったばかりなのだから。




   ※


 そんなある日の昼食時。

 空人はクラスメイトの斎賀さいがから奇妙な噂話を聞いた。


「なあ、空飛ぶ天使の話って知ってるか?」

「空飛ぶ天使?」


 斎賀は端正な顔立ちのイケメン男だ。

 とはいえそれを鼻にかけたりしない、頭も良くて気さくないいやつである。

 ちなみに清次は昨日から風邪で休んでいる。


 空飛ぶ天使。

 一言では意味の理解しにくい漠然とした単語だった。

 まさか本当に天使がいるわけじゃないだろうし、宗教的な会話がしたいわけでもないだろう。


「女子たちが話してたんだけどさ、夜中に窓を見上げてたら、真っ赤な翼を広げた人間が飛んでるのを目撃したんだと」

「なんだそりゃ。鳥かなんかと見間違えたんじゃないのか」

「いやいや、間違いなく人間の形をしてたらしいよ。彼女たちの推測では、企業が秘密裏に開発している生物兵器の飛行実験なんじゃないかってことなんだけど……」

「アホらし。そんなのが目撃されたらすぐニュースになるだろ」


 いくら世界的大企業の実験都市とはいえ、空に蓋をできるわけではない。

 そんなものが飛んでいたら航空写真に写るか、近くを飛んでいる飛行機に発見されてしまうだろう。

 生物兵器の極秘開発などという夢物語を信じるほど空人も子供ではない。


「でもよ、おかしいと思わないか? 夜間の外出禁止令。きっと俺らが寝静まった後で何か秘密の実験をやってるんだよ、この街は」

「街の大半が学生だからだろ。別に深く考えることじゃないよ」


 L.N.T.では夜間の外出が禁止されている。

 コンビニはもちろん、自動販売機や街灯もすべて深夜には活動を停止してしまう。

 電力節約のためだと説明を受けているが、校則では夜間外出が見つかり次第一週間の停学と、かなり厳しい罰則を受けることになっている。


 まあ、別に罰がなかったとしても、灯りが消えた空き家ばかりの街にわざわざ出ていきたいと思う奇特な人間も少ないだろうが。


「寝付けなかったら窓の外でも眺めてみろよ。俺も今日からウォッチングを始めるからさ」


 どうやら斎賀はこの手の噂話が大好きなようだ。

 空人は話半分に聞き流して残る昼食を片付けることに集中した。




   ※


 空人が暮らすのは水瀬学園から歩いて二、三十分の所にある流瀬台るせだいと呼ばれる住宅街である。

 最初は面倒くさかった自炊も板に付き、洗たくと掃除を終えた後はひとり遅めの晩御飯を摂っていた。


 テレビを見ながら自作のチャーハンを食べていると電話が鳴った。

 現代人の必需品である携帯端末スマホはL.N.T.では使えない。

 持ち込みも禁止だし、街の中で購入することもできなかった。


 その代わり、すべての家に据え置き型の電話が備え付けられているので、普通に生活する分には特別不便はない。電話をかけてきた相手は二日連続で学校を休んでいた清次だった。


「よう」

「よ、元気か?」

「まだ熱はあるけど月曜には学校に行けると思う。ところで貸してたゲームのことだけど……」


 電話の用件は返却の催促だった。

 空人は清次からゲームを借りている。

 さわり程度に遊んで昨日には返す予定だったのだが、清次が休んだため機会を失ってしまったのだ。


 明日は日曜だ。清次も風邪が治ったのなら一日中遊んでいたいだろう。


「ああ、じゃあ――」


 明日の朝一で持っていく、と言おうとして空人は考え直す。

 時計を確認すると時刻は午後九時四十分。

 清次の家はここから二キロほど離れた流瀬中央るせちゅうおうのマンションだ。

 歩けば片道三十分ほどである。


「今から持っていくから、ちょっと待ってろ」

「なっ、馬鹿! いま何時だと思ってるんだ。帰る頃にはとっくに十時を過ぎちまうぞ!」

「ちょっとくらい平気だって。なんだったらそのままお前の家に泊めてくれよ」

「待てよ、おい――」


 空人は清次の返事を待たずに受話器を置いた。

 すぐにまた電話が鳴り出すが、放っておく。


 早く返さないと悪いという気持ちもあるが、空人は夜間の外出をしてみたかった。中学時代は門限が厳しく、九時を過ぎると夕食を抜きにされる家庭だったので、夜に外を出歩いた経験もほとんどない。


 やりたかったことを誰憚りなくできるのは一人暮らしの特権である。

 街灯が消えると街中とは思えないほどに真っ暗になる。

 とはいえ隣地区に行くだけならたいした危険もないだろう。

 一種の肝試しみたいなものだ。


 高校生にもなって夜十時くらいの外出を躊躇う必要もない。見つかったら停学なんて言っても、真っ暗な街中でどうやって出歩いている生徒を判別できるというのだ。


 着替えて借りたゲームを探しているうちに、時刻は九時五十分を回っていた。

 清次からと思われる電話は五分ほど鳴り続けていたが、無視し続けているとやがて鳴り止んだ。

 あまり心配させても悪いから早く行ってやろう。


 空人はコートのポケットにゲームソフトを入れて夜の街へと足を踏み出した。




   ※


 地名に「流瀬るせ」のつく地域はすべて区画整理された住宅地域である。

 別名『東部住宅街』と呼ばれているが、実際の所、半分以上は空き家だ。


 L.N.T.の夜の顔は昼間からは想像もつかないくらいに冷え切った印象がある。

 ところどころ明かりがついている家もあるが、話し声は外まで聞こえてこない。

 この時間は誰もが眠りにつくのが当たり前になっているのだ。


 ふと、視界が闇に包まれた。

 目の前の街灯が何の脈絡もなく消えたのだ。

 近くの家の明かりも次々と消えていく。


 一瞬にして視界からすべての人工の光が消失した。

 あたり一面の暗闇だ。


 まさか街灯のない街がここまで真っ暗とは。

 空人の住んでいた山梨県の端にある市も夜は暗かったが、さすがに街灯の一つもないってことはない。

 勢いに任せて出てきたことを少し後悔したが今さら引き返すのも悔しい。


 塀に手をつきながら恐る恐る前に進む。

 しばらくすると目が慣れてきたのか、少し離れた先の建物の輪郭くらいは判別できるようになった。

 なんとなく空を見上げると、空一面の星々が瞬いていた。


 空人の故郷もどちらかといえば田舎と呼べるが、ここはそれ以上に空気が澄みきっている。

 なんだか懐かしいような、嬉しいような気持ちで胸が満たされ、しばらく夜空を見上げていた。


「ん?」


 空に何か動くものが見えた。

 鳥か? と考えた直後に空人は昼間に斎賀が振ってきた話題を思い出す。


 空飛ぶ天使。


 まさかと思いつつも、空人は飛行する何かを目で追い続けた。

 どのくらいの高度かはわからないが鳥にしては明らかに大きい。

 飛行物体は山の方へ向って飛んで行き、やがて見えなくなった。

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