郷愁
またあたりが明るくなった。気づけば目の前に、先ほどの老人が軍服を着てやけに煌びやかな椅子に鎮座していた。
「いつまでも悲しんでいる暇はないぞ、オータス」と彼は言った。
「はい、総理」若き日のキッシンジャーは深々と頭を下げ、膝真づいた。見ると少しだけさきほどより顔に皴が刻まれている。額には傷もある。彼はこの間に急に老けてしまったような気がした。
「レメディオスとはうまくいっていないのか?」
「彼女は私にはもったいないくらいの人物です」と彼は言った。
「ほお」と総理は身を少しだけ乗り出した。
「彼女は私にとても良くしてくれます。しかし私にはまだ……」
「失ったものを数えるでない」と老人は言った。その声はやけに響いた。
「……と言いたいところだが」と彼は急に声を落とした。
「主の気持ちもわかる。お前はまだ前妻を忘れられないのだな」
「はい」とキッシンジャーは言った。
「そんなにはっきり言われるとな……こちらとしてもどうも、ちょっとな」老人はバツが悪そうに頭を掻いた。
「はい……」キッシンジャーは唇をかんでいた。
「いや、主は悪くない。急かす儂が悪いのだ。しかしな、この国のエネルギーである『血の記憶』を絶やさないためにも、主には子をうんでもらねばならんのだよ。申し訳ないとは思うがこればっかりはなあ……。儂にもどうすることもできん、いや、主にしかできないのだ。この国を作りし人物の記憶を受け継ぐ者の血筋を絶やしてはならんのだ。それは国が亡びることと同義だからな。しかしなあ……主の気持ちもわからないわけではないのだよ、うむ。儂も苦しいのだぞ。わかるな?」
「はい、心遣い有難うございます」キッシンジャーは深く頭を下げた。
「謝ることのほどでもないがの……」
「はい……」
「……それで、レメディオスは何と言っておる?」
「それで、おじい様はなんて?」黒髪の女性が、ベッドの中で目をつむりながら言った。うんと若い。今のグロリオサよりも若いかもしれない。まだ20代前半と言ったところだろう。目を開けたりつむったりしている。キッシンジャーが寝るのを待っているのだ。
「子供をできれば生んで欲しいって……」キッシンジャーは机に向かっていた。彼はまだ寝る気配がない。
「そう」と黒髪の女はベッドの中でつぶやいた。その声は宙に舞い、やがて消えた。
「それだけ?」
「心苦しいってさ。こう、子供を産んで欲しいと急かすのは」
「本当に? おじい様が?」
「ああ」とキッシンジャーは彼女に振り返って言った。
「ふうん、意外ね。おじいさまに人の心があったなんて」
「あるさ」とキッシンジャーは言った。
「そう」と彼女は目をつぶりながら言った。
「それで」と彼女は頭を上げた。
「あなたは、どうしたいわけ? キッシンジャーさん」
「今日はやることがある」
「いつでもやることなんてあるでしょう?」彼女はぴしゃりと言った。キッシンジャーは何も言わなかった。
「私とは寝たくないのね」
「今はね」
「永遠によ」と彼女は言った。また頭を下げ、布団の中に潜った。
「永遠に来ないわ。そんなもの。夢なんか見ないで」
「そうかな」
「そうよ。バカみたい」
「そうか」
「あなたの気持ちもわかるけどね……」彼女はいきなりがばっと起き上がり、キッシンジャーの首に腕を回した。
「わかるのよ、あなたがただの責任だけで私と結婚したってね。私に恩義は多少感じてはいるかもしれないけれど、それはあくまで感謝よ。あなたは私を愛してなんかいない」
「愛しているよ」とキッシンジャーは振り返えらずに言った。彼女の手を振りほどきはしなかった。
「愛しているよ、ちゃんと」
「いいえ」と彼女は優しく言った。
「それはただの感謝よ。あなたは今悲しみで何もかも見えなくなっているの。現に今、私なんかと別に寝たくないでしょ? 私が隣の部屋にいれば仕事ができると思っているでしょ? そういうとこよ」
「前の妻といたときも仕事ばかりしていたよ」
「そうよ、貴方は仕事がなけりゃ、生きていけないのよ」と彼女は強い声で言った。彼女は少しだけ強くキッシンジャーの首に腕を絡めさせた。
「貴方には仕事しかないのよ、そうでしょ。わかっているわ。私と結婚したのも仕事の一部よ。全部全部仕事なのよ」
「それの何が悪い」とキッシンジャーは言った。彼は只目の前をまっすぐ見つめていた。
「仕事を愛している、君も愛している。それで何が悪い?」
「いい悪いなんて言っていないわ」と彼女は冷たく言った。
「ただあなたは間違っているだけよ。ただの色眼鏡。あなたは私を愛してなんかいないわ」
「それならば君は?」
「愛しているけれど、私も仕事人間なの」と彼女はキッシンジャーの耳元でささやいた。
「私が愛しているのはこの国とお金だけ。それでいいでしょ? 何か悪いことでもある?」
「ないね」
「そう。なら話は早いと思うけれど」
「悪いけど、気分じゃないんだ」とキッシンジャーはひたすら前を見て言った。
「今日はだめなんだ」
「じゃあいつになるのよ」と彼女はぴしゃりと言った。
「いつもいつも仕事を言い訳にして私から目を背けて。私と寝たい日なんて永遠に来ないわ」
「そんなこと誰も言っていないじゃないか。ただ震災があってから君も知っているように仕事が、」
「私と寝ることだって仕事よ!!!」と彼女は涙声で言った。
「そんなこともわからないわけ? 何度も言っているじゃない。結局あなた、ただ飛び込めないだけよ。義務感で女と寝ることもできないくせに義務感で結婚したのよ、あなたは。わかるわ。私にはわかるわ。貴方、とても正義感が強いものね。わかるわ。私、わかるわ」彼女は彼の首を絞めんとしていた。しかしキッシンジャーは顔色一つ変えなかった。ただ前だけを見ていた。あるいは本当に殺されてもいいとさえ思っているのかもしれない。
「……バカね」
「君には悪いが」と彼はいつもの調子で彼は言った。
「睡眠薬なら入っていないよ。実は薬の入った箱の中に、砂糖でできた塊を詰めておいたんだ。ちょうど4日前に薬品庫から盗んだんだよね? 肌身離さず持ち歩いてくれたおかげで、かえって僕には手に入れやすかった。申し訳ないが、君は死んではいけない」
彼女の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。
「……バカにしないでよ」
「していない。君は生きるに足る人物だ。君は生きるべきなんだ」
「馬鹿にしないで。私とは寝ないで、偉そうに私に価値があるなんて口を利かないでよ」
「いや、君には価値があるね。君は国を愛している。だから僕と結婚したんだろ? 君はもっと生きるべきなんだ」
「私に何ができるって言うのよ」と彼女は泣きながら言った。
「子供を産むこともできない私に、旦那と寝ることもできない私に、何が、できるっていうのよ」彼女はいっそうキッシンジャーの首を絞めて言った。
「女に生まれた私に何ができるって言うのよ、男が偉そうに」
「形は一つじゃないさ」と彼は冷静に言った。
「男女雇用機会均等部門を作ろう。そこで君はできることをすればいい」
「それで、私とは寝ないのね?」
「私は君と寝ることができないんだろう? 君の理屈だと」
「知らないわよそんなの」と彼女は泣きながら言った。
「あんたが決めることじゃない」
「そうだね」
「馬鹿死ね」
「確かに私には死ぬに値する人物だがまだ死ねないんだ。残念ながら」
「バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ」彼女は腕を振りほどき、キッシンジャーの頭を殴った。彼はただそのままひたすらに彼女の暴力に耐えていた。
「子供をうまないくせに、何も役に立たない、くせに」
「ああ」と彼は言った。彼は只ひたすらに彼女の拳を受けていた。
「そうだね」
「バカ」
「ああ」
「バカ、言い返せバカ」
「その通りだからさ」キッシンジャーは表情を変えずに言った。
「馬鹿死ね」
「まだ死ねないんだ」
「死ね」
「ああ、ゆっくり死ぬよ」
「死ね」
「ああ。でも君は生きるんだよ」
「死ね」
「死ぬよ。でもまだ死ねないんだ」
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