日の名残り
僕たちはどこかの大きな庭にいた。様々な種類のバラが咲き誇っている。
「お父さん、これ何かわかる?」と後ろから声がした。見ると黒い髪で黒い眼をした利発そうな女の子が立っていた。年はまだ6つか7つか、そこらへんだろう。眉が太く、目が鋭い。大きくなれば美人になれるだろう、きれいな顔立ちをしている。
「わからないな」とそのまた後ろから声がした。振り返ると、オレンジの髪の、たくさん勲章を方につけた青年が立っていた。
「お父さんにもわからないことがあるんだ」と女の子が言った。
「無論だよ」父と呼ばれた男は笑いながら答えた。目を細めると、確かに教科書に出てきた人に似ている。
「わからないことだらけさ」
「ふうん。たとえばなに?」
「魚とかかな。まだ川で泳いでいる魚を見て、名前を答えることができないんだ」
「ふうん。私もわかんない」
「なら父さんに教えてくれよ」若き日のキッシンジャーは跪いて彼女の頭を撫でた。
「父さんにはわからないことがたくさんあるんだ」
「変なのお。父さんってこの国の『かんぽうちょうかん』なんでしょ? えらいんじゃないの?」
「官房長官、な。まあ偉いのかどうかはわからないけれどね」
「ふうん。いっつもお父さん家に帰ってこないから、せっかく今日は色々聞こうと思ったのに」
「ごめんって」と若き日のキッシンジャーは笑った。意外だ、彼にも頭の上がらない相手がいるのだな。
「シャルルドゴールよ、それ」茂みの中から声がした。がさがさと草のこすれ合う音がした。見るとそこには黒髪で眉が太く、黒い瞳をした女性が立っていた。顔の彫りが深く、歯きりしている。まちがいなく美人の部類だった。
「なにそれ」と幼子は言った。
「薔薇の名前」女性は面白くもなんともないように答えた。
「ふうん」と彼女はバラを見て言った。
「シャルルドゴール」
「そう」
「また一つ賢くなったな」と若きキッシンジャーが言った。
「お母さんはなんでもしっているもん」
「お母さんにもわからないことはあるわ」と黒髪の女性が笑って言った。
「そうかな、母さんはなんでもしっているもんように思えるけど」キッシンジャーも笑う。彼が笑うと、ああ、こんな感じなのか。
「わかりませんよ、貴方の仕事のことなんて」
「そうかな」
「ええ」その言葉には多少冷ややかな響きがあった。
「あなた初めは2、3日仕事場に泊まりきりかと思えば一週間帰ってこなくなって、それが今や一か月も帰ってこないんだから」
「ああ」と彼は口を結んでバツの悪そうな顔をした。
「娘の成長がいやに早く感じるね。それは本当に寂しいんだ、実際」
「あの子のことは新しく雇ったお手伝いのアシュリの方が詳しいわ」
「そうか」
「そうか、ね」女性はため息をついた。
「このままだとすぐ結婚するわよあの子」
「そうかもな」
「馬鹿」女性は怒って背を向け、どこかへ行ってしまった。
「ローズ、帰るわ。アシュリがまた今日新しいパズルを届けてくれるみたいだから」
「庭の花、とっていい?」ローズと呼ばれた女児は声を張り上げた。
「いいわよ」
「あ、」とキッシンジャーが言うや否や、幼子はバラを素手で掴もうとしていた。
「危ない」キッシンジャーがローズの手を遮った。彼の指が棘に刺さり、血が噴き出した。
「棘があるんだ。気を付けないと」
「あ」とローズが言った。キッシンジャーは棘をものともせずにバラを一本折った。
「ほら」
「あ……」ローズはバラを受け取った。
「お父さん血、こわい」
「ああ、これくらい大丈夫だよ」
「こわい」ローズは怯えていた。血は苦手らしい。
「ローズ早く。お父さんなんか何しても死なないんだから大丈夫よ」
「ふうん」
「まあね、ははは」キッシンジャーが妻の背中を追って茂みの中へ消えていった。
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