記憶の箱の前で

 公務を終え、あっという間に22時になった。僕は5分前にテレパシーテレビの前で待機していた。妻のグロリオサも一緒だった。彼女は化粧を落とさないまま、凛とした表情で僕の横に座っていた。

「君、そういえばディーン王子とは面識があったっけ?」と僕は妻に聞いた。

「ほとんどないわ。そうね、結婚式で挨拶したくらいよ。なかなか童顔だけど純朴そうでいい人みたいだったわ」

「ああ、そう?」僕は何となくそれ以上言葉を発することができなくなった。胸のあたりが一瞬だけ痛い気がした。

「何よ、別にいいじゃない。私がディーン王子を恋愛対象にするわけないでしょ。あの人だって結婚してるんだから」グロリオサはけらけら笑ったが、なんとなく僕の気は晴れなかった。

「まあ、あの人も相当な愛妻家って聞くからね」

「あの人『も』、ね。自分が愛妻家って認めるのね」彼女は笑った。

「まあ、そうだろうね」と僕は力なく言った。なんだか今のやり取りだけで疲れてしまった。僕は目の前のテレパシ―テレビに集中する。もうすぐキッシンジャー様と話すと思うと、身が引き締まり、なんとなく姿勢も綺麗になった。

「ああ、やっぱり緊張するなあ」僕はため息をついた。

「何がよ」

「一国の王子を顎で使う人間と対峙するなんてやっぱり気が引けるよ」

「そんな堅苦しく考えなくてもいいんじゃないの?」

「そうかな」

「そうよ、ただキッシンジャー様の話を聞いていればいいのよ」

「そんなものかな」

「そういうものよ」さすが、彼女は肝が据わっていた。彼女の心臓の毛をわけてほしいくらいだ。手に汗が握る。

 時刻は22時になったが、テレビはすぐにつかなかった。

「むこうは忙しいのかな」と僕は言った。

「まあそうでしょうね」と彼女は淡々と言った。見ると、彼女は自分の胸にあたる宝石の位置を気にしていた。身だしなみを気にするなんて、余裕がある。僕は思わず自分の服を見返した。右のズボンに少しだけ汚れがあるような気がしたので、僕はそれを自分の拳で隠した。

 2分後にテレビがついた。

「ああ、すまない」とテレビの声がした。見ると画面には一冊の本があった。

「遅れてすまない。2分も遅刻だ」と画面から音がした。しかし画面が動かない。ただ本があるだけだ。

「あの、申し訳ございませんがキッシンジャー様、画面の方向をお間違えでは?」と僕は恐る恐る訪ねた。

「貴方のお姿が見えないのですが」

「そうか? いや、あっているみたいだぞ」と声がした。画面の中の本が一人でに動き、ページをめくった。本の中間部あたりのページがひとりでに開き、こう書かれた。

「汝、キッシンジャー・オータス」

その上にはキッシンジャー様が王位に就いた頃の写真が書かれてあった。よく教科書で見た写真だ。

「あっ」と僕は思わず声を上げた。

「大変な無礼を」僕は思わず膝まづいた。

「これはこれは、キッシンジャー様でしたか」なんと、今まで画面に出ていた本そのものがキッシンジャー様であった。これは大変な失態をしたな、と頭を下げながら思った。

「左様」と彼は例の厳かな声でしゃべり始めた。

「まあ、儂の姿を見たことのない奴はわかるまい。うむ。主の結婚式では儂も挨拶をしそびれたしな。そんなに悪く思うな。顔を上げよ」

 僕は恐る恐る顔を上げた。表情が無い分、彼が何を考えているのかいまいちわからない。そこがかえって怖い。

「そんなに気にすることでも無い。まあ、儂は見ての通りこんな姿だがな。儂はオータスに代々伝わる魂の保管呪文をかけられておるから、この身が亡びるまでこのままなのじゃ。厄介な呪文よ」

「そうなのですか、いえ無知を晒しました。非礼をお詫び申し上げます」

「硬くなるでない。それよりあいつは未だなのか、全く、おい、ディーン」キッシンジャー様が声を荒げた。画面から足音が聞こえ、未だ高校も出たばっかりとでもいうような幼い顔の男が現れた。

「遅れまして申し訳ございません」と彼は淡々と表情無く言った。相変わらずよくわからない男だ。

「まったく、お前が同席して欲しいからこの場を設けたのだぞ」とキッシンジャーは王子に向き直って言った。

「申し訳ございません。ギルのやつがちょっと駄々をこねていましてね」

「ああ、息子さんですか」ディーン王子には息子がいた。彼自身はまるでまだ学生みたいな顔をしているが、れっきとした父親なのだ。

「そうです。まあ面白いですよ、子供って言うのはね」

「だってさ」と僕はグロリオサに言った。

「そうね」と彼女は淡々と答えた。

「そうだ、僕の妻も今回の話を聞いてもいいかな?」

「無論じゃ」とキッシンジャーは答えた。ディーン王子は只頷くだけだった。

「ディーン様、キッシンジャー様、ご無沙汰しております」グロリオサは深々と頭を下げた。キッシンジャーは本に「ごきげんよう」と書き、ディーン王子は頭を下げた。

「積もる話は置いておこう」とキッシンジャーが咳ばらいをした。

「今回は儂の過去の話を聞いてもらうために集まってもらった。もう150年も前の話じゃ。これはそうじゃな、正直、儂の今の本体にも書いていないことじゃ。なんというか、儂の記憶はひどく入り組んでおる」

「記憶が無いのですか?」と僕は聞いた。

「いや、混とんとしている……と言った方が正しいじゃろう。時と言うものは不思議な物じゃ。いろいろなものが崩れ去るが、大事な物だけが残っていく。儂にはそう思っていた。無論、そういう側面もある。しかし時として、時は残酷にある一部の大事な物さえ奪ってしまう。そういうことがあるのじゃ」

「貴方の記憶はもしかしてどこかにあるのかしら?」

「もちろん、記憶はこの世のどこかにある。すべてはただ思い出せないだけなのじゃ。しかし必ずどこかにはある。儂はそれを今回引っ張り出さなくてはならなかった。そのために、少しばかり時間を頂いた」

「というと、キッシンジャー様には記憶の箱があるのね?」グロリオサがすかさず質問した。

「探しておった」と彼はゆっくりと言った。

「いや、正確には、とうの昔に儂の記憶箱の保管場所の目星はついておった。それは的中した。なぜ今までそれを掘り返さなかったかと言うと、そうじゃな、単純に必要が無かったからじゃ。儂が過去に向き合うことを、どこかで拒否していたのかもしれん。過去など、あればあるだけ重いだけじゃ。背負わずに捨ててしまえれば人生はうんと楽なのじゃ。場合によっては、じゃがの」

「その通りです」と妻は深く頷いた。僕もうなずいた。僕は未だに三十歳になってからの記憶しかないから、その気持ちはなんとなくわかる。きっと僕がすべての記憶を取り戻したら、今みたいに笑って生きていられる自信もない。

「記憶は、オータスの森の深く、人魚のいるラヴェナの湖の底にあった。儂は今日、久々に生前の頃の姿に戻り、まあこれは疲れるから本当にたまにしかやらないのだが、人魚を眠らせて記憶の箱を取り出してきた。ラヴェナの湖のことは知っておるかね?」

「いえ」と僕は言った。

「オータスの国のエネルギー源である記憶が湧き出る泉としか」

「無論そうじゃ。しかしあの湖は、入った者に試練が訪れるようになっておるのじゃ。まあ、これは一種の防犯システムじゃな。エネルギー源である記憶をやすやすと奪われるわけにはいかんからの」

「試練、とは?」

「入った者が一番後悔していることがその身に襲ってくるのじゃ。あの湖は不思議なものよ。あの湖には記憶を奪うシステムがあるからな」

「そんな」と妻は息をのんだ。

「そんなからくりがあったのですね」

「そうじゃ。潜っていたのはせいぜい5分くらいもせんかったじゃろう。しかしまあ、儂の場合は、もう想像がつくじゃろう、一番初めの妻と娘が出てきた」彼はそこで一度言葉を途切れさせた。誰も何も言わなかった。ディーン王子はずっと下を向いていたが、やがて

「だから僕が行くと言ったじゃないですか」と口を開いた。

「お前には仕事があったろう」とキッシンジャー様はぴしゃりと言った。

「それに儂はもうそろそろ、儂自身の過去に向き合わねばならんのじゃ」

「まったく、頑固なんだから……」ディーン王子はため息をついた。なんだか本当に、彼らはただの祖父と孫なんだな。

「それで、箱は手に入れたのですね?」妻が身を乗り出して聞いた。

「無論じゃ。あの湖に入って精神を病んだ者は数知れないが、なんとか儂はそうならずに済んだ。まあ、そうならない算段は元よりあったのじゃ。まあ……」と言って、彼はそこで一度言葉を区切った。

「まあ、とにかく儂はなんとかこうして皆の前で儂自身のことを話すことができそうじゃ」

「ああ」とグロリオサは安どのため息をついた。

「本当によくぞご無事で……」彼女はキッシンジャー様の勇気ある行動にいたく感動しているみたいだった。

「無論じゃ。礼はまあ、ディーンに言わねばならんのじゃろうな。しかしまあ、その話は置いておこう」

「え? 僕?」ディーン王子がびっくりしたように声を上げた。一瞬、彼の鉄面皮が剥がれた気がした。

「そうじゃ。また今度改めてそれについては話すとしよう。実はこれから、箱をあけようと思うのじゃ」

「え?」と僕は声を上げた。

「これから? まだ開けていなかったのですか?」

「開けていない。実は先ほど湖から帰ってきたところなのじゃ。何しろちょっと行くだけでも一苦労でな。魔法馬を使ってもこんな時間になってしまったのじゃ」

「でも僕たちはあなたと距離が離れていますし……」

「何、問題ない。そんなもの」

 キッシンジャー様のお身体に文字が浮かびがった。

「開けろ」

 ディーン王子が茶色の小さな箱を持ってきて、それを開けた。瞬間、僕たちは光に包まれた。重力がおかしくなる。耳が痛い。気持ち悪い。足の感覚がなくなる。ああ、あの時と同じだ。グロリオサの記憶の箱を開けた時と同じ感覚。

「これだけは毎回慣れないな……」つぶやくや否や、視界が白くなり、何も見えなくなった。

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