メリー・クリスマス
阿部善
本文
一二月二五日。盛岡駅を発車した列車は上野駅に到着した。つい四年前まで、北東京と呼ばれていた地区の、南端のターミナル。私は荷物を持って列車を降り、プラットホームに足を踏み入れる。その足取りは、重々しく、苦しかった。何故なら、私が上野駅へ来たのは決して楽しい理由などでは無かったからだ。
第二次世界大戦に敗北した日本は、北海道と東北地方、新潟県、旧東京市北部をソビエト連邦に、それ以外をアメリカとイギリス、中華民国に占領され、それぞれ前者が日本人民共和国、後者が日本国と、共産主義と自由資本主義という異なるイデオロギーを掲げる二つの国に別れて独立した。ソビエト連邦に単独占領され、朝鮮民主主義人民共和国という一つの国として独立した朝鮮半島とは対照的な運命だった。
だがその分断も永遠に続く訳では無かった。四年前に南北東京の境界線上に設けられていた関所が撤廃されたのを皮切りに、南北日本政府は交渉に交渉を重ね、三年前、ドイツに先立つこと二年、日本国が日本人民共和国を吸収する形での劇的な統一を果たした。西側の資本主義陣営の勝利と、東側の共産主義陣営の敗北を決定づける出来事だと、アメリカだかフランスだかは知らないがどこかの国の識者が言っていた事を思い出す。私のような一介の労働者には、陣営の勝ち負けなど至極どうでも良い話であるのだが。世界史的に見ると意義深い事かも知れないが、私には寧ろ迷惑な出来事だった。南北日本統一は、私には苦痛しかもたらさなかったのである。
そもそも私がここにいるのは南北日本統一のせいだ。南北日本が統一されると、南側の製品の流入等で北側の工業が壊滅的なダメージを受け、多くの工場が閉鎖される憂き目に遭った。私は工場の閉鎖に巻き込まれ、職を失ってしまった。共産主義の下では、絶対に失業することは無かった。その工業製品が陳腐化して、工場が閉鎖される事があっても、必ず別の職が保証されていた。けれども、資本主義社会ではそれが無いのだ。残酷なことに、自力で代わりの職を探さねばならない。北日本の工場が軒並み閉鎖される中、北日本で職を探しても見付かる訳など無いだろう。だから私は東京へ来た。東京ならば職が見付かるだろう、という淡い期待を込めて。
私はホームの階段を上り、ホームを跨ぐ形で設置されている連絡通路を渡る。通路の窓からは、さっきまで乗っていた列車と、御徒町を境に分断された山手線のホーム、それに営業再開に向けて工事をしている古びたホームが見える。あの古びたホームは、京浜東北線のものだ。東京が分断され、北東京が資本主義の海原に浮かぶ共産主義の孤島と化した時、両政府の協定で終点と始発が南日本領内の列車は客扱いをしない、という条件の下に北東京を通過する事を許された訳である。京浜東北線の電車は、北東京の上野駅を通過する事になったのだ。私が乗ってきたボロボロの列車をよそに、京浜東北線の電車が通り抜ける。電車の屋根にはクーラーらしき物が載っている。通勤電車にクーラーを載せているのだ。私の乗ってきた列車には、貧相な石炭暖房しか無かったと言うのに。ああ、これだけで何故東側陣営は負けたのか、と言うのが分かりそうなものだ。
私は上野駅を出る。山手線は知っての通り、御徒町で分断され、その先の秋葉原は旧南東京となるので電車で行く事はできない。環状運転再開に向けた工事はしているらしいが、まだ時間がかかりそうだ。だから私はバスに乗る。駅前のバス停から、南側の北端である秋葉原駅まで行くバスが出ているので、それに乗り込んだ。乗客の中には私と同じ夜行列車に乗っていた人も含まれていた。恐らく、同じ事を考えているのだな。
バスは秋葉原駅に着いた。バスから一歩出ると、町中はクリスマスのイルミネーションによって眩しいくらいに彩られていて、ジングルベル、ジングルベルとクリスマスソングがうるさいくらいに聞こえてくる。そうだ、今日はクリスマスだった。北側では資本主義の行事として禁止されていたが、私はクリスマスの存在も、サンタクロースの存在も知っていた。何せ、テレビを違法に改造して南側のテレビ番組を密かに視聴していたからだ。発覚すれば秘密警察に思想犯として捕まる事は間違いなかった訳で、非常にスリリングな行為ではあった。が、学校のクラスの皆が同じ事をやっていた。学校で、南側の番組の話題をする事も屡々だった。先生が知ったら捕まる、という認識で先生の前では話さない事にしていたが、先生が聞いていなかった筈はあるまい。恐らく、見逃してくれていたのだろう。その中で、南側で盛大に祝われるクリスマスと、その象徴としてのサンタクロースの姿を見ていた。ただ、クリスマスの日程は曖昧にしか覚えていなかった。何せ、プレゼントが貰える訳でも、ケーキが食べられる訳でも無かったからだ。
しかし、そんなクリスマスのイルミネーションやクリスマスソングなどは、私にはただ鬱陶しいだけだった。こんな惨めな思いでここに来ているのに、華やかな物を見せ付けられれば、神経を逆撫でされたような思いになるだけだ。
私は駅前の不動産屋へと入った。職を探す前に、住居を確保しなければ元も子もない。マンションの写真や価格がペタペタ貼られた不動産屋のドアを開けると、カウンター越しに受付嬢が私を出迎えていた。
「いらっしゃいませ、お部屋をお探しでしょうか?」
受付嬢は声を掛けた。私が「はい」と言うと、受付嬢は「では、お掛けになってください」と言った。私は受付嬢の指示に従ってカウンターの席に座り、受付嬢と一対一で話す事になった。
「どんな物件をお探しでしょうか?」
受付嬢は言う。今は住める事、それが先決問題であり、贅沢など微塵も言っていられない。何せ、職も、金も、今の私には無いのだから。私は「一番安いのでお願いします」と言った。
「そうしましたら…少々お待ちください」
受付嬢はカウンターの奥の、オフィスの方へと消えていった。暫くして、受付嬢は資料を持って帰ってきた。
「こんなのがありますが…」
そう言って見せてくれたのは五反田の安アパートだった。受付嬢は有りっ丈のアパートの悪口を言う。まるでもっと高い物件を契約してくださいと言わんばかりに。カビが生えているだの、狭すぎるだの、古すぎるだの、木造だの。私はこれを見て「これで」と言った。受付嬢は驚いた顔をして、「本当にこれで良いのですか?」と念を押すかのように聞いた。
「はい、これで良いです。ところで、いつから入居できますか?」
私は答え、更に聞いた。受付嬢は、「来週からです」と言った。来週からか。それまで何をすれば良いのか…。不透明だ。しかし、契約した次の日に入居できる、そんな甘い話があろう筈が無い。私は「では、ここに入居させてください」と言った。
「よろしいですね。それでは、こちらに必要事項を」
受付嬢は契約書を取り出した。私は口座番号だの、現住所だのと共に自分の名前を書き入れる。「及川顕治」私の父が、日本人民共和国初代書記長である宮本顕治に因んで付けた名前だ。書き入れると、細々とした説明を延々と聞かされ、それを飲み込めば不動産屋から出た。
「はあ、後一週間、何をすれば良いのだ…」
溜息は空気中で白く煙のようになっていた。気が付けばもう夕方。私は一晩を過ごす寝床を確保する為に、駅前のカプセルホテルなる宿泊施設に行き、チェックインして一室を確保し、近くのマクドナルドで夕食のハンバーガーとフライドポテトを買ってカプセルホテルへ戻り、狭い部屋の中で食べる事にした。包み紙を開けると、そこからは資本主義の香りが漂う。一口囓れば、資本主義の味が口の中に広がる。
「うめぇ」
私は思わず声を漏らした。この世の物とは思えぬ美味さだった。今まで食べた物の中で、一番美味しいと思える物だった。ハンバーガーとフライドポテトを食べ終わり、廊下に置いてあるゴミ箱に包み紙等を捨てて部屋へ戻ると、私は備え付けのテレビの電源を入れる。どこもかしこも、クリスマスに関する事ばかり放送している。ニュース番組から、子供が見るアニメ番組まで。人気のクリスマスのデートスポットはどこだとか、恋人に何をプレゼントしただとか。大凡私には縁の無い話ばかりだ。クリスマスの事を見ていると、憂鬱な気分になってしまう。私はテレビを消した。グッバイ・メリー・クリスマス。
私がソビエト連邦の崩壊を知ったのは、翌日の朝であった。
メリー・クリスマス 阿部善 @Zen_ABE
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