第九の頁:華胥の夢は散らさじ

 四十年よそとせち続けた桜が今朝、綻んだ。

 はつ雪の便りがあったばかりの、黄冬おうとうの朝であった。この地に根を張りてから莟ひとつも結ぶことのなかった桜だ。今春こそは咲くか咲かぬかと念じ続けてきた大老ろうやは、季節を違えて咲き誇ったその一華いちげに息をのみ、つぶやいた。


「なんとも其方そちらしい」


 しわに埋もれた糸のような瞳から涙があふれた。

 いまでは腰が折れた白頭はくとうの大老だが、かつては大陸統一という偉業をなし遂げた唯一の皇帝として諸処しょしょに威光を放った。戦線に赴いては敵を圧倒し、百の兵でよろずの軍をしりぞけたこともある。そのような男が久方振りに涙していた。


「……どれほど逢いたかったか、ああ、ようやっと」


 彼は愛しい女に語りかけるような声をだす。


 女。そう、娘だ。時が経つごとに昔日の景はぼやけていくというのに、かの娘の姿だけはいとあでやかに想いだせた。歌を乗せた唇の潤みも、涙で崩れた頬紅の果敢なさも、微笑むときに睫毛を傾ぐ愁いまでも。


 雪晴れの青に緩やかにそよいで、桜がまたひとつ、莟を綻ばせた。




           ◇



 時はさかのぼる。


 かの帝は、称を風帝ふうていといった。

 丁年より武芸に秀で、風を読むがごとく戦局を見定めるために敗けを知らず、政においても耳聡く民の声を聴き人望も厚かった。だが、彼は不惑になっても后を娶らず女遊びに耽っていた。それも年々見境がなくなるもので、重臣たちは頭を抱えていた。欲しいと想えば臣従の正妻だろうと構わず、ねやに呼び寄せるという放蕩ぶりである。


 ついに大陸統一を果たした祝宴には、津々浦々から万を超える美女が集められた。飲めや歌えや抱けや舞えやと宴が盛りあがるなか、舞を披露していた美妓がいっせいによけ、にわかに舞台が空となった。


 何が起こるのかと帝が盃をとめたところで、ひとりの娘が舞台にあがってきた。



 春のせいが娘のかたちを取って、祝賀に訪れたのかと想った。

 膚に張りつくような薄絹を纏い、錦の帯を締めた柳の腰。しなやかな脚は春の雪を踏む鶺鴒せきれいを想わせた。頬に挿す紅は果敢なく、丹唇は艶やか。袖さきから桜の枝を差しだして、娘は雅やかに舞う。

 椿から芍薬、菫に木蓮、梅まで、ありとあらゆる華をその腕に抱いてきた帝が、ひと眼で心を奪われた。


「お気に召されましたかな」


 重臣が帝に耳うちをしてきた。


「あれは百年に一度産まれる《華咲はなさき》という娘です。陛下に呈するべく、これまで育てあげて参りましたが、今春ついに咲きました。伝承によれば、華咲を散す者は不老となるとか。大陸統一の祝賀に御納めくだされ」


 帝は喜び、舞が終わるとすぐさま華咲の娘を房室に招いた。


「陛下に散らしていただくため、咲き誇った華にてございます。どうぞ御随意に」


 華咲の娘が微笑んで帯を解けば、華奢な肩から襦裙きものがするりと落ちた。


 帝は息をのんだ。

 娘の腕からは枝垂れの桜が咲き誇っていた。舞のために枝を携えているのかと想っていたが、二の腕からさきが枝になっている。いびつでありながら、ぞっとするほどに瑰麗かいれいだった。


 不躾な沈黙を羞じ、取り繕うように帝がいった。


「素晴らしい舞であった。時に其方、歌は謡えるか」


「歌でございますか。陛下がお望みならば」


 娘は戸惑いながらも歌い始めた。それはいかるの囀りのように心地よい歌声で、帝はその歌を聴きながらことりと眠ってしまった。女を抱かずに寝たなど、いつ振りだろうか。帝は長らく不眠に苛まれていた。戦を重ねるほどに安眠から遠ざかり、女を抱いた後だけは落ちるように眠れた。


 翌晩も帝は華咲の娘を房室に呼び、歌ってくれと頼んだ。


「其方のように麗しい娘と閨をともにして、肌に触れぬとは無礼なことをした。事の終わった後でよい」


 華咲の娘は睫毛をふせた。


「それはできかねます。華咲は散れば、命を終えますゆえ」


 皇帝はがく然とした。彼女は真実、皇帝に身を捧げるためだけにこれまで生き続けてきたのだと。哀れみを覗かせた皇帝に娘は頭を振った。


「華たるは、咲きてはかならず散るものです。私は華たるこの身に誇りをもっております」


「然れども、われは咲き誇る華を握りつぶすことは望まぬ。摘むには惜しい華ならばなおさらだ。側におき、愛でたいのだ」


 時に歌い、時に舞い、そのような華が傍らにあれば、どれほどに安らぐだろうかと想った。

 彼女はこころなしか、瞳を潤ませて、清かに笑った。


「優しき御方。されど風に乱されずとも、季節がゆけば花は散るもの。桜ならばなお迅し。七晩もてばよいところでしょう――いっとう綺麗な季節に摘んでくださいまし」


 眦を決し、壊れ物を扱うように娘の肩をつかみ、抱き寄せようと試みた。だが褥にはらりと落ちたはなびらをみて、彼は呵責に堪えられず、指を解く。


「なにか望みはあらぬか。なんでもかなえてやろう」


 華咲の娘は暫し考え、ほつといった。


「それでは都の話を」


「なんだと」


「ずっと扎敷ざしきにおりましたゆえ、都とはどのようなところかを知りたいのです」


 帝は他愛ないと想いつつ頷き、都の風景や民の暮らしぶりなどを語って聴かせた。娘はたいそう歓び、交替に歌をかえす。微睡んではまたつれづれに喋り――彼の人生のなかであれほど幸福な七晩はなかったと想う。

 だが時は無常だ。

 桜は日毎に散って、最後に一輪。葩の縁を凋ませながら紅の萼にしがみついているだけとなった。

 娘は息も細く、皇帝に縋る。


「最期に抱いてください」


 されど帝は華を散らすどころか、ついに接吻くちづけることすら、できなかった。

 ただ、震える指で確かめるように唇に触れただけ。綻んだ唇は暁に咲きたつ葩のように濡れていた。熱かった。


 それが、ふたりの艶事となった。


 散り終えた華の骸を抱き締めて、彼はいつまでも泣き続けた。



           ◇


 帝は都を一望できる地に華咲の娘を埋め、それきり女を絶った。

 大陸を統べ、仁政を敷いたのち、彼は政から身を退いた。古希こきの頃であった。それから十年に渡り、日がな咲かぬ桜を眺めて、齢を重ねた。娘の墓からは桜が芽を吹き育ったが、花だけは咲かなかった――このときまで。


「吾を眠りに誘ってくれるのはやはり、其方か」


 還り咲きした桜の幹にもたれて、老いた帝は眠るように瞼を重ねた。

 それきり醒めることはなく。然れども、彼の死に顔は、愛する女にいだかれているように安らかだった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



※ 額縁 なし

     しぼむことのない万朶の桜の根かたに横たわるように披かれている


  紙  木簡

     やわらかい桜の木板に古めかしい字で綴られている

     たくさんのひとに読まれ、愛された形跡がある



(「#新匿名短編コンテスト・再会編」に寄稿させていただきました)

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