第九の頁:華胥の夢は散らさじ
はつ雪の便りがあったばかりの、
「なんとも
いまでは腰が折れた
「……どれほど逢いたかったか、ああ、ようやっと」
彼は愛しい女に語りかけるような声をだす。
女。そう、娘だ。時が経つごとに昔日の景はぼやけていくというのに、かの娘の姿だけはいと
雪晴れの青に緩やかにそよいで、桜がまたひとつ、莟を綻ばせた。
◇
時はさかのぼる。
かの帝は、称を
丁年より武芸に秀で、風を読むがごとく戦局を見定めるために敗けを知らず、政においても耳聡く民の声を聴き人望も厚かった。だが、彼は不惑になっても后を娶らず女遊びに耽っていた。それも年々見境がなくなるもので、重臣たちは頭を抱えていた。欲しいと想えば臣従の正妻だろうと構わず、
ついに大陸統一を果たした祝宴には、津々浦々から万を超える美女が集められた。飲めや歌えや抱けや舞えやと宴が盛りあがるなか、舞を披露していた美妓がいっせいによけ、にわかに舞台が空となった。
何が起こるのかと帝が盃をとめたところで、ひとりの娘が舞台にあがってきた。
春の
膚に張りつくような薄絹を纏い、錦の帯を締めた柳の腰。しなやかな脚は春の雪を踏む
椿から芍薬、菫に木蓮、梅まで、ありとあらゆる華をその腕に抱いてきた帝が、ひと眼で心を奪われた。
「お気に召されましたかな」
重臣が帝に耳うちをしてきた。
「あれは百年に一度産まれる《
帝は喜び、舞が終わるとすぐさま華咲の娘を房室に招いた。
「陛下に散らしていただくため、咲き誇った華にてございます。どうぞ御随意に」
華咲の娘が微笑んで帯を解けば、華奢な肩から
帝は息をのんだ。
娘の腕からは枝垂れの桜が咲き誇っていた。舞のために枝を携えているのかと想っていたが、二の腕からさきが枝になっている。いびつでありながら、ぞっとするほどに
不躾な沈黙を羞じ、取り繕うように帝がいった。
「素晴らしい舞であった。時に其方、歌は謡えるか」
「歌でございますか。陛下がお望みならば」
娘は戸惑いながらも歌い始めた。それは
翌晩も帝は華咲の娘を房室に呼び、歌ってくれと頼んだ。
「其方のように麗しい娘と閨をともにして、肌に触れぬとは無礼なことをした。事の終わった後でよい」
華咲の娘は睫毛をふせた。
「それはできかねます。華咲は散れば、命を終えますゆえ」
皇帝はがく然とした。彼女は真実、皇帝に身を捧げるためだけにこれまで生き続けてきたのだと。哀れみを覗かせた皇帝に娘は頭を振った。
「華たるは、咲きてはかならず散るものです。私は華たるこの身に誇りをもっております」
「然れども、
時に歌い、時に舞い、そのような華が傍らにあれば、どれほどに安らぐだろうかと想った。
彼女はこころなしか、瞳を潤ませて、清かに笑った。
「優しき御方。されど風に乱されずとも、季節がゆけば花は散るもの。桜ならばなお迅し。七晩もてばよいところでしょう――いっとう綺麗な季節に摘んでくださいまし」
眦を決し、壊れ物を扱うように娘の肩をつかみ、抱き寄せようと試みた。だが褥にはらりと落ちた
「なにか望みはあらぬか。なんでもかなえてやろう」
華咲の娘は暫し考え、ほつといった。
「それでは都の話を」
「なんだと」
「ずっと
帝は他愛ないと想いつつ頷き、都の風景や民の暮らしぶりなどを語って聴かせた。娘はたいそう歓び、交替に歌をかえす。微睡んではまたつれづれに喋り――彼の人生のなかであれほど幸福な七晩はなかったと想う。
だが時は無常だ。
桜は日毎に散って、最後に一輪。葩の縁を凋ませながら紅の萼にしがみついているだけとなった。
娘は息も細く、皇帝に縋る。
「最期に抱いてください」
されど帝は華を散らすどころか、ついに
ただ、震える指で確かめるように唇に触れただけ。綻んだ唇は暁に咲きたつ葩のように濡れていた。熱かった。
それが、ふたりの艶事となった。
散り終えた華の骸を抱き締めて、彼はいつまでも泣き続けた。
◇
帝は都を一望できる地に華咲の娘を埋め、それきり女を絶った。
大陸を統べ、仁政を敷いたのち、彼は政から身を退いた。
「吾を眠りに誘ってくれるのはやはり、其方か」
還り咲きした桜の幹にもたれて、老いた帝は眠るように瞼を重ねた。
それきり醒めることはなく。然れども、彼の死に顔は、愛する女に
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 額縁 なし
しぼむことのない万朶の桜の根かたに横たわるように披かれている
紙 木簡
やわらかい桜の木板に古めかしい字で綴られている
たくさんのひとに読まれ、愛された形跡がある
(「#新匿名短編コンテスト・再会編」に寄稿させていただきました)
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