頁一枚の物語を《掌編集》

夢見里 龍

はじめに:図書の塔と《頁一枚》の物語

 見まわすかぎりの壁には本が収められていた。

 長い時を旅してきたのか、黄ばんで紙魚の喰った古書があれば、真新しい革の背表紙に覆われた幻想文学がある。てのひらに収まる程度の文庫の詩集があって、妖精と人魚が表紙に画かれた童話があった。史実に基づいた記録も、現実では起こりえない幻想も、ここでは平等にならべられている。世界中のありとあらゆる書籍が、この場所に集まっているのではないかと想われた。

 美しいバロック建築の、栄華の幻想を模る塔の吹き抜けに私の靴音だけがいんいんと響きわたる。振り仰げども果てはない。何階層まであるのかは想像もつかなかった。この塔の蔵書をすべて読み終えるにはひとの蝋燭はあまりにも短い。

 緩やかな曲線を描くまわり廊下の天井部には、様々な小説の挿絵が画かれている。螺鈿の竜が雄々しく吼え、油絵の騎士が剣をかざし、金細工に縁取られた女神は廊下を進む読者ものに慈愛の微笑みを振りまく。ひとつひとつの書物を紐解かずとも、廊下を通るだけで物語が垣間見える。

 塔のなかは紙のにおいに満ちていた。ふるびた紙と新しい紙のにおいがまざり、呼吸する度にからだのなかに幾多の言の葉が巡る。


 木製の手すりを握り、階段をあがっていく。階段の踊り場の壁にも本棚がある。真鍮の聖人像が幾多の物語を見護るようにともしびを掲げていた。なめらかな革張りの背表紙。光沢のある厚紙の背表紙。青、緑、赤、黒、また緑。

 私は導かれるようにして本棚に手を掛ける。

 すると本棚が横に動き、扉があらわれた。洋書の表紙のような、赤い革に黄金の縁取りが施された扉。触れずにはいられない。古書を開くように扉を押せば、中庭のようなところに出た。


 薔薇の咲き誇る庭のなかに緑の葉を繁らせた樹がある。樹のまわりをかこむように心地のよい調べを奏でる水路が流れている。庭のあちらこちらには額縁の掛かった画架があった。ちかくにある額縁のなかを覗く。


 そこには頁一枚の小説が飾られていた。


「図書の塔にようこそ、読者さま」


 振りかえれば、美しい娘がたたずんでいた。

 水銀の髪を結い、金刺繍の施された群青の衣裳を身に纏っている。透きとおる肌に薄紅の頬と唇だけが映えていた。彼女は膝をまげ、綺麗に辞儀をする。すそに施された刺繍に視線を落とせば、それらは文章になっていた。どこかの小説の引用だろうか。刺繍を読み解く暇もなく、娘が静かに歩み寄ってくる。


 娘は語る。


「ここに飾られているのは小説になれなかった物語です。小説のきれ端、走り書きの紙屑、永遠に書きはじめられず書き終えられることもない幾多の原稿。何者にも感動をもたらさず、昂揚をあたえず、没入させることもできない。されどこれらは確かに、物語るべく産まれたもの。故に、ここにあるのです」


 あたりに飾られた幾多の額縁をみまわす。羊皮紙に綴られたもの。なめらかな洋紙に書かれたもの。藁半紙や和紙まである。物語られるは、結ばれぬ恋の囁きに恐ろしき死者の誘い。騎士の武勇伝に復讐劇。されども、どれもが頁一枚。物語の全貌は知れず、始まりもなければ終わりもない。

 それでも。


「よろしければ、お好きな頁をお読みになって」


 額縁をみてから振りかえると、娘はすでにいなかった。

 暖かな木洩れの日差しのなかに、木陰のひんやりとした風のなかに、画架に立て掛けられた物語は静かにたたずんでいる。せせらぎの調べと駒鳥の囀りが心地よい。

 まずはこの頁から読みはじめようか。

 私は、ざらついた紙の表に触れた。


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