第二の頁:《翡翠》吐き
細い喉がはねる度に口端から翡翠があふれた。
畳に幾多の翡翠の
細い鼻梁にかたちの整った顎の輪郭。普段は白磁のような頬がこの時ばかりは紅を帯び、下睫毛は涙に濡れて眼縁に張りついている。だがその涙も頬を滑り、顎から瀝ると翡翠になる。彼の身は、苦痛の涙ですらも、美しいものに変えてしまう。悲しみひとつ、悲しみのままではおけない。それは、不幸だ。
呼吸を詰まらせて吐き続ける背よりも、涙が絹を濡らさぬことが。
たまらなく、憐れだった。
齢は知らない。視線はおとなびているが、まるみを帯びた額には壊れ物の如き、幼けなさが漂っていた。半元服である十三詣りを終えたばかりか、まだなのか。
薄氷のような躰を折り、彼は息を接ぐ暇もなく喉を震わせる。椿の舌から滴る露は澄んだ常緑。無香の春蘭だ。幾度も嘔吐くうちに襦袢が肌蹴け、やせ細った肩から背までの輪郭が、薄暗い座敷のただなかに浮かびあがった。あまりにも白い肌だ。日のあたらないところに根を張ってしまい、それでも咲こうとする菫の果敢なさ。いつかは散るというのに。
髪は嘔吐の際に邪魔にならないよう、ひとつに結えられている。項に垂れた後れ毛が侘しげだった。畳に拡がった襦袢のすそから、細い脚が露わになっている。投げだされた脚はおそらく、生まれてから一度たりとも下駄も草履も履いたことはない。
彼は翡翠を産む為だけに、座敷牢に飼われている。誰の仔かもさだかではなかった。幾度も嗚咽し、涙を滲ませながら、彼は翡翠を吐く。
ゆらりと、なんの前触れもなく、少年の視線が動いた。陰りを帯びた瞳が《俺》を捉える。彼は切れた唇の端を持ちあげて笑った。
「ひとが、吐いているのを、そんなふうに眺めていて、なにか楽しいの」
俺は、彼が喋ったことにひどく戸惑った。彼はさきほどから獣のような呻きをあげるばかりで、言葉など知らぬ様であったからだ。だが昨昼も一昨日も、彼とは幾度か言葉をかわしている。彼は喋るのだ。翡翠を吐くばかりではない。
「別段楽しくはない。だが残念なことに君を見張るのが俺の仕事なんだ」
素知らぬふりをしてそらうぶけば、少年は紅潮した頬をくしゃりとゆがめた。
「悪趣味」
脈がはねる。
子猫がたわむれに爪をだすような、細やかな抵抗じみた悪態を残して、彼はまた襦袢の胸もとをつかんで、吐きはじめる。
「つらくはないのか」
尋ねかければ、呼吸ひとつおいて、彼は眉根を寄せた。
「つらいよ。つらくて、嫌だ。けれど、こんなものでしょ」
彼は静かに喋る。嗄れた喉で、唾液に濡れた唇で。
「嫌なことはおかねになるんだから」
微笑んで細められた瞳が、急激に歳を取る。老いさらばえたひかりを漂わせてなお、彼の横顔は美しく、頬の輪郭は幼けなく、その不調和が私を惑わせた。
唇の端を持ちあげて、彼は影のなかに瞳だけを爛然と輝かせる。
「あなたもそうだよね」
「俺はそれほど嫌なことをしているわけじゃない。君を見張って、事が終われば翡翠を集めるだけだ」
見張り役につくまでは拷問吏だった。
それを娯楽としたことはない。ただの職務だ。この齢まで、幾度か職を転々としてきたが、まっとうな職にはついてこなかった。いまだにそうだ。座敷牢の見張り番など、碌な輩の役職ではない。
だがこの職は、嫌ではない。つらくもない。
「そうだね、別段楽しくはない職だよね」
彼はからかうように毒づき、突然喉に物を詰まらせたようにうめいた。背をまるめて、壊れそうに軋む
かきんと、翡翠が畳を転がり、俺のもとまで転がってきた。
湖も森も知らぬ、幼いこどもが産み落とすには、深すぎる緑だった。
或いは、この骨の浮きあがった頼りのない身のうちに、緑の湖を宿しているのだろうか。絶えまなく震える、背の。そりかえり、酸素をもとめる喉の。その何処かに、湖を。
「それ、おじさんにあげるよ」
俺がまじまじと翡翠に視線を落としていたからだろう。息も絶え絶えになりながら彼がいった。俺は数秒戸惑い、首を横に振る。
「いや、遠慮する」
少年は意外そうに柳眉の端をあげた。
「寡欲なんだね。だいたいの奴は、翡翠のひとつやふたつだったらいいだろうと懐にいれるのに」
「見張り役がひとりも残らなかったのはそのせいか」
翡翠を懐におさめて、この役職をはく奪されたものは愚かだ。翡翠をかき集めろと命じた雇いぬしもまた。
彼等は本物の翡翠を知らぬのだ。
俺は寡欲ではない。
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※ 額縁
水の流れを模った彫が美しく 額縁の角には大顆の翡翠が嵌まっている
紙 和紙
日のあたらない畳のような香りがする
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