第二の頁:《翡翠》吐き

 細い喉がはねる度に口端から翡翠があふれた。

 畳に幾多の翡翠のつぶが転がる。質のよい、あざやかな緑の翡翠だ。まき散らされた結晶は畳を濡らすこともなく、光と影のあわいをはねまわる。格子窓から差す日影に融ける翠。六畳の糸魚川に溺れながら、《彼》は翡翠を吐き続ける。

 細い鼻梁にかたちの整った顎の輪郭。普段は白磁のような頬がこの時ばかりは紅を帯び、下睫毛は涙に濡れて眼縁に張りついている。だがその涙も頬を滑り、顎から瀝ると翡翠になる。彼の身は、苦痛の涙ですらも、美しいものに変えてしまう。悲しみひとつ、悲しみのままではおけない。それは、不幸だ。

 呼吸を詰まらせて吐き続ける背よりも、涙が絹を濡らさぬことが。

 たまらなく、憐れだった。

 齢は知らない。視線はおとなびているが、まるみを帯びた額には壊れ物の如き、幼けなさが漂っていた。半元服である十三詣りを終えたばかりか、まだなのか。

 薄氷のような躰を折り、彼は息を接ぐ暇もなく喉を震わせる。椿の舌から滴る露は澄んだ常緑。無香の春蘭だ。幾度も嘔吐くうちに襦袢が肌蹴け、やせ細った肩から背までの輪郭が、薄暗い座敷のただなかに浮かびあがった。あまりにも白い肌だ。日のあたらないところに根を張ってしまい、それでも咲こうとする菫の果敢なさ。いつかは散るというのに。背肋はいろくの溝には影が溜まり、背骨の窪みにそって澱むことなく流れている。発作じみた震えにともなって、影は絶えず流動し、時に濁流となって畳にあふれるようであった。実際にあふれているのは翡翠で、糸魚川の流れなのだが。

 髪は嘔吐の際に邪魔にならないよう、ひとつに結えられている。項に垂れた後れ毛が侘しげだった。畳に拡がった襦袢のすそから、細い脚が露わになっている。投げだされた脚はおそらく、生まれてから一度たりとも下駄も草履も履いたことはない。

 彼は翡翠を産む為だけに、座敷牢に飼われている。誰の仔かもさだかではなかった。幾度も嗚咽し、涙を滲ませながら、彼は翡翠を吐く。

 ゆらりと、なんの前触れもなく、少年の視線が動いた。陰りを帯びた瞳が《俺》を捉える。彼は切れた唇の端を持ちあげて笑った。

「ひとが、吐いているのを、そんなふうに眺めていて、なにか楽しいの」

 俺は、彼が喋ったことにひどく戸惑った。彼はさきほどから獣のような呻きをあげるばかりで、言葉など知らぬ様であったからだ。だが昨昼も一昨日も、彼とは幾度か言葉をかわしている。彼は喋るのだ。翡翠を吐くばかりではない。

「別段楽しくはない。だが残念なことに君を見張るのが俺の仕事なんだ」

 素知らぬふりをしてそらうぶけば、少年は紅潮した頬をくしゃりとゆがめた。

「悪趣味」

 脈がはねる。

 子猫がたわむれに爪をだすような、細やかな抵抗じみた悪態を残して、彼はまた襦袢の胸もとをつかんで、吐きはじめる。

「つらくはないのか」

 尋ねかければ、呼吸ひとつおいて、彼は眉根を寄せた。

「つらいよ。つらくて、嫌だ。けれど、こんなものでしょ」

 彼は静かに喋る。嗄れた喉で、唾液に濡れた唇で。

「嫌なことはおかねになるんだから」

 微笑んで細められた瞳が、急激に歳を取る。老いさらばえたひかりを漂わせてなお、彼の横顔は美しく、頬の輪郭は幼けなく、その不調和が私を惑わせた。

 唇の端を持ちあげて、彼は影のなかに瞳だけを爛然と輝かせる。

「あなたもそうだよね」

 牢籠たぢろいだ。だが戸惑いを韜晦して、坦々といった。

「俺はそれほど嫌なことをしているわけじゃない。君を見張って、事が終われば翡翠を集めるだけだ」

 見張り役につくまでは拷問吏だった。

 それを娯楽としたことはない。ただの職務だ。この齢まで、幾度か職を転々としてきたが、まっとうな職にはついてこなかった。いまだにそうだ。座敷牢の見張り番など、碌な輩の役職ではない。

 だがこの職は、嫌ではない。つらくもない。

「そうだね、別段楽しくはない職だよね」

 彼はからかうように毒づき、突然喉に物を詰まらせたようにうめいた。背をまるめて、壊れそうに軋むおとがいから翡翠を産み落とす。

 かきんと、翡翠が畳を転がり、俺のもとまで転がってきた。大顆おおつぶの翡翠だ。拾いあげる。微かに熱を帯びた、芍薬の莟ほどの翠。たったいま、あの細い喉から産まれたばかりの結晶。ひかりを透かす。眺めていると沈んでいくような心地になる。翠の渕に。

 湖も森も知らぬ、幼いこどもが産み落とすには、深すぎる緑だった。

 或いは、この骨の浮きあがった頼りのない身のうちに、緑の湖を宿しているのだろうか。絶えまなく震える、背の。そりかえり、酸素をもとめる喉の。その何処かに、湖を。

「それ、おじさんにあげるよ」

 俺がまじまじと翡翠に視線を落としていたからだろう。息も絶え絶えになりながら彼がいった。俺は数秒戸惑い、首を横に振る。

「いや、遠慮する」

 少年は意外そうに柳眉の端をあげた。

「寡欲なんだね。だいたいの奴は、翡翠のひとつやふたつだったらいいだろうと懐にいれるのに」

「見張り役がひとりも残らなかったのはそのせいか」

 翡翠を懐におさめて、この役職をはく奪されたものは愚かだ。翡翠をかき集めろと命じた雇いぬしもまた。

 彼等は本物の翡翠を知らぬのだ。

 俺は寡欲ではない。



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※ 額縁 山毛欅ぶな製のなめらかな額縁

     水の流れを模った彫が美しく 額縁の角には大顆の翡翠が嵌まっている


  紙  和紙

     日のあたらない畳のような香りがする

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