決別
「良かった」
レストランを飛び出し、若先生に連れ込まれたのは、いつも綺麗にされている若先生の車だった。
そして、開口一番、若先生がそう呟いた言葉に私は驚いた。
「どういう意味ですか?」
動き出す前、そう尋ねた。すると、初めて、若先生は表情を少しだけ緩めた。
「美香君が、あの男についていくのではないかと心配した」
え――――?
その言葉はまるで、私があの人についていってしまうことを何としてでも回避したかった、ということ?
私がそう尋ねると、若先生は顔を赤くした。
あの時、猪のマスコットの時と同じ?
「ああ。そうだ」
しばらくしてから、若先生は頷いた。
「ずっと、美香君のことが好きだった」
そして告げられた言葉に、私は目を瞬かせた。
「君が初めてうちを訪ねてくれた時から、ずっとな」
若先生が初めて私の目の前で笑った。
「いつか、君は去ってしまう。だけども、なんとしても君をとどめておきたかった。そんなところにあの男が来た」
そう言いつつ、不意に顔を曇らせた若先生。
「君が食事会に招待されたと、昨日親父から聞いた。ちょうど、君の過去を調べていた時だったから、そのついでにあの男に確認したら、本当だと聞いて、慌てて駆け付けた。
私はその言葉に泣いてしまった。
嬉しかったのだ。
若先生にそんな風に思ってもらえていたなんて。
「――――ありがとうございます」
私は素直に感謝した。
「私も好きです」
そして、私も先生にそういった。
「最初、入った時は怖い印象しかありませんでした。でも、あの三年前の事件の後から、ずっと先生のことを目で追っていました」
そう告白すると、若先生はそうだったのか、とため息をつきながら、言った。
「最初、瀬良さんのことを名前で呼んでいたのは、多分、昔の癖が抜けていなかったからでしょう。でも、もうそれは私の中で決着をつけましたし、二度と名前で呼ぶことはあり得ません」
それも断言できた。
「でも、あともう一か所、行かないといけないところがあります。それが終わるまではこのネックレスの力を借りてもいいですか?」
私は気が重かったが、あそこは避けても通れない場所だろう。
一度だけ行ったことのあるあの建物を思い浮かべながら、そう呟いた。若先生はもちろんだ、と小声だったが、ちゃんと返してくれた。
そして、翌日の月曜日。
私は名古屋駅前にある超高層ビルのエントランスにいた。この建物を所有している会社の社員たちが、忙しそうに歩いていくのを少しだけ眺めていた。
そして、受付を通らず、以前、瀬良さんに教わった方法で目的の部屋を目指した。
人っ子一人いないその場所は文字通り、社長室までの秘密の経路だった。
木でできた扉をノックした。
『どうぞ』
中からくぐもった声が聞こえる。
ああ、間違いなく、あの人はそこにいる。
失礼します、そう言って、私は部屋の中に入った。部屋は前に入った時と変わっておらず、普段ならばそこにいないはずの男もそこにいて、突然の乱入者に驚いていた。
正面に座っている部屋の主も私の声に驚いて、読んでいた書類から目を上げていた。
「どうしたのですか?」
しかし、祖母の口調から、どうやら瀬良さんからまだ、何も聞いていないようで、私の突然の来訪に驚いているようだった。
私はというと、やはりこの人たちを目の前にすると、やはり怯みそうで逃げ出したくなったが、なんとか踏みとどまっていた。
席を促され、来客用のソファに座らせてもらった。
「今回の件は、あなた方の差し金ですか?」
単刀直入に私は訊ねた。何のことかは言わなかったが、この人たちならば、言わなくてもわかるだろう。
「ええ。そうですわ」
やはりか。
「一体何のつもりでこんな真似をなさるのですか?」
私は最も訊ねたかったことを口にした。もちろん、返答によっては瀬良さんとの婚約話を受ける、なんていう甘い考えは持っていない。
どちらかと言えば、答えによっては本当に大事にしてもよいとさえ思っている。
「あなたは私の孫で、
まだその考えを捨てていなかったか、この人は。
ため息をつく代わりに私は深く深呼吸し、言いたいことを頭の中でまとめた。
「私はあなたたちにこれ以上、関わるつもりもありません」
私が祖母の言葉で簡単に頭下げると思ったら大間違い。
もう、二度と同じ間違いはしない。
「そもそも、私を一方的に縁切りしたのはそちらですよね?」
よく言えた、私。あのころとは大違いだ。
目の前の祖母も祖父も驚いている。
「陽ノ国屋製薬の社長さん?」
はっきり言おう。
私は祖母の名前さえ知らない。ましてや、祖父なんて。
そう。一方的に陽ノ国屋家に連れてこられ、一方的に平凡な生活で必要のない教養を身につけさせられ、一方的に婚約者をあてがわれ、一方的に縁切りされ。
そんな私に見向きもしないのは、両親の死後、私の『世話』をしてくれた親戚と同類だ。
そんなあなたたちに私は、奉仕する義務はない。
「私はあなた方の名前すら知りません。それはあなた方が私という存在を目に入れていない、私という存在はただの玩具程度だったという証拠なんですよ」
私は自分の祖父母らしい人たちに情けなさ過ぎて、うっかり同情してしまった。
でも、もうこれで、今度こそ終わりなのだ。
「瀬良雄太郎さんとの婚約はすでに破棄しています。今後一切、私に関わらないでください。関わった場合、私のできる範囲で、あなた方と戦わせていただきます」
そう。私は法学部出身。ある程度のことはできるだろう。
私の言葉に、静かになった祖母。
では、さようなら、と言って、私は部屋を出た。
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