そして②
それから少し、目の前の人――政幸先生の前からどうして去ったのか、思い出していた。
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あの騒動後、政幸先生は奥様に付き合うことを正直に話した。
すると、
『とうとうこの時期が来てしまいましたか』
と、渋い顔で言われたものの、なんとかそれを認めてもらえた。
のだが。
卒業する直前の三月の初めの日のことだった。
午後診の前に政幸先生が綺麗な女の人とにこやかに喋っていたんですよ。
ええ。見間違えじゃないのかって?
私も最初見た時はそう思いましたよ。ですがね、何度、目をこすっても同じ光景なんですよ。
そう。
あの政幸先生が応接間で綺麗な女の人と
すごいですよねぇ。
しかも、美男美女ですから、絵になるなぁ、なんて見惚れてしまった。私なんかとは比べ物にならないくらいの美女でしたよ。ええ。決して嫉妬ではありませんとも。
政幸先生が私に告白したのは気の迷いで、本当はああいう女の人の方が良いですよねぇ、なんて思ってしまった私はそれを見なかったことにして、静かにその場を立ち去った。
その後は大先生の診療だったので、私は平常心に戻ることができた。
だが、翌日もその女の人が来ていた。
女性である私でさえ、その女の人は目の保養になるんですよねぇ。
だから、目の保養になるイケメン先生と目の保養になる女の人の組み合わせはもう最高でって、二回目だね、アハハ。
まあ、そんなわけで私は政幸先生と顔を合わせるのが苦痛になった。
不幸というかなんというか、私にとっての不吉なことは続けて起こった。
その女の人――蔵人美紀さんというらしい――は、その日から鹿野歯科に助手として入ることになった。助手をしている最中、大先生も奥様もその女の人とざっくばらんに話していた。
ちなみにその女の人はすでにどこかで学んできているようで、今までのバイトでの後輩たちと違って、私が一から教えるということはなかった。
なので、私の業務内容はただ受付業務をこなせばよくなった。
業務中は向こうから喋りかけてくることもなく、こちらからも必要以上にしゃべることをしなかった。できなかったのだ。
だが、それ以上に私が孤独に感じたのは、どうやら彼女が鹿野家に寝泊まりしているということを知った時からだった。
たまたま何かのタイミングでそれを知った患者さんがいたらしく、患者さん同士の間で『あの美人さんはあの若先生の婚約者さん!?』という噂が広まった。
その噂を聞いた翌日、私は本人に確かめたかったが、診療後、当の蔵人さんが若先生を連れて奥に入ってしまい、奥様も大先生も二人を止めないので、本当にそうではないのかと思ってしまった。
そんな生活が三週間ほど続き、私の卒業式の日がやってきた。
式典自体は大学近くのホールだが、祝賀会は名古屋市内のホテルに移動して行われるので、式典後、着慣れないカジュアルなドレスで交通機関に乗り込んでいた。
「マーメイド・ホテルかぁ」
これから行く先のホテルのことを考えると、非常に憂鬱な気分になった。
名古屋市内では有数の老舗ホテルであり、かつて鹿野歯科の忘年会を行ったレストランがあるホテル。
再び私はため息をついた。
この祝賀会の後、鹿野家へ四年間のお礼に行く予定ではあったものの、どうも気分がのらない。原因はあの女の人なんだろうが、それを認めたくない自分もそこにはいた。
目的のホテルに着き、受付を済ませた私は時間もあったので、ロビーで人の観察をしていた。
やっぱり老舗ホテルっていうだけあって多くの観光客が利用しているんだなぁ。
いつかはこんなホテルに一回くらいは泊まってみたいもんですよ。なんてことを考えていたら、ホテルの出入り口付近が騒がしくなった。
芸能人でも来たのか? と思って見たが、そうではないらしい。じゃあ何の騒ぎだろうかと思ってよく見ていたら、周りから『かっこいい』だの『綺麗』だの聞こえてくるんですよねぇ。
こういったところには合いますもんねぇ、煌びやかなホテルを背景に美男美女が愛を囁き合うなんて。
ドラマの見過ぎ? いやいや。お決まりでしょ。お・決・ま・り。
まあ、ともかく、騒ぎの輪はどんどんこちらの方に近づいてきた。うっかり人の波に飲み込まれないようにと思ったが、時すでに遅し。
美男美女を取り囲む集団に飲み込まれてしまった。
うっ。苦ちい。
短距離を全力疾走した時くらいの息苦しさです。私はせっかく新調した服を着崩さないように注意しながらもがいた。
「――――っくぅ」
ようやく呼吸が楽になったので、改めて状況を見ると、とんでもないことが分かった。
…………。
………………。
…………………………。
そこには件の美男美女がいました。
私は逃げ出していた。
まさかこんなところで、政幸先生と美紀さんが腕を組んで歩いているところを見てしまうとは思わなかった。
言い逃れはできませんよ。なんて言っても、ばっちし目が合いましたからねっ。
いつか政幸先生は言っていたはずだ。
パーティーは極力参加しない。しても、女性と同伴することはないって。
あれは私に夢を見させるための嘘だったの?
私はその光景を見て何も考えられなくなったが、ここまで来てしまっている以上、祝賀会には参加した。だが、そのあとのことは全く覚えておらず、気づけば自宅のベッドの上に呆然と座っていた。
すでに新居に移る準備はできている。
挨拶もしない人間だと思われたくないが、心の整理がつかなかった私はすぐに鹿野家へ挨拶に行くことができなかった。
結局、翌日も私は動けず、動き出したのは卒業式から二日後の夕方だった。
若先生が診療されている時間帯を見計らって、鹿野家へ赴き、奥様に挨拶した。
本当のことを確かめる気にもならず、私はただ昨日休んだのは、熱で起き上がれなかったから、とだけ言った。それについて、奥様は何も詮索せず、緊張していたんでしょうね、とだけ返してくださった。
私はそんな奥様の気遣いに非常に感謝した。
それ以上、私は何も言わず、ただ今まで働かせていただいたお礼を言って退出した。奥さんは何度か政幸先生を呼んで来ようとしたが、私はもう、あの人に会うつもりはなかった。
「また、ここに遊びに来て頂戴ね」
最終的に、奥様は私を引き留めることを諦めてくれたようだった。私は本当の理由を言えなく、ただそれだけが心残りだったが、そんな自分を心の中で叱り飛ばした。
「はい。また、時間のある時にお邪魔させていただきます」
何度かここでのアルバイト中に作った笑みを浮かべたこともあるが、今日ほどきちんと笑みを作れているかどうか不安な日はない。もう一度頭を下げ、退出した。
その足で新居に向かい、今まで若先生にもらったすべての物をクローゼットの奥にしまい込んだ。
幸いというか、今まで貯めてきたお金のおかげで、一般的な新社会人よりもいい部屋で、ウォークインクローゼットという素敵な収納部屋がついていたので、そこにごっそりとしまわせてもらっていた。
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