砂上の楼閣

 それから丸一日は、彼女たちの接触がなかった。

 まあ、接触しようと思っても、愛理のガードが固くて近づけなかったっていうのもあるみたいなんだけれどね。


 だが、そのしばらくの平穏は、すぐに切り崩された。


「由良ちゃん、これ、どうしたんだい?」


 翌々日のバイト。

 戦闘服ナース服に着替えた後、いつも通りの作業を行っていたら、突然、大先生に呼び止められた。


 私は前回のバイトの時、何かをやらかした、という心当たりがなかった。

 というか、むしろ、あの立花さんが静かだったという方が怖すぎて、自分のうっかりミスがないようしたく、最終チェックの時に、何度も何度も見直したはずだ。


「何か、間違いがありましたか?」

 おそるおそるそう言うと、大先生はうん、そうなんだよねぇと言って、ティッシュを取り出す。

「これさ、オートクレーブの中に入り込んでいたみたいでねぇ」


 私に見せたのは、歯科治療の時に唾液を吸うための道具、バキュームの歯に充てるクッションゴム――――


        ―――――の残骸。


 ひゅっと息をのむ音が聞こえた。


「そ、んな馬鹿な」


 確かに、最後にオートクレーブを触ったのは私だ。

 だが、何回もそこも見たはずだ。


 金属製品以外の異物が紛れ込んでないか、を。

 特にバキュームで使うゴムは熱で溶けてしまうから、絶対に紫外線照射での殺菌にするのだと、鹿野歯科に雇われてから最初に学んだはずのことだ。


 それなのに。


「すみません」

 私の頭の中はいろいろな考えが浮かんだが、今はただ謝ることしかできなかった。

「いや、謝ってもらいたいんじゃないんだよ。どうして、ベテランの由良ちゃんがこんな間違いを犯すんだろうって思ってね」


 いつも陽気な大先生が真剣な目をしている。

 それだけ、これが大きなことなのか理解できる。


 そうだ。ベテランなんだよね。

 どこのアルバイトにも『研修期間』というものがあると思う。

 鹿野歯科でも初めてから三か月は研修期間として割り当てられ、給料は五十円引き。


 だが、すでに私は鹿野家で働き始めて六か月。

 ありとあらゆる治療の助手をしてきて、ほとんどの器具出しや処方箋の書き方もできると自負できる。


「まあ、今回はうっかり、ということもあるだろうから、次回は気をつけてくれればそれでいいよ」

 大先生の優しさに私は少し涙が出そうになった。

 はい、気をつけます、ともう一度頭を下げ、業務を開始した。


 その日のバイト中も、立花さんは静かだった。

 必要なことがあれば話す。だが、それ以上の接触はしてこなかった。



 だが、事態が一変したのは一週間後の事だった。


 もちろん、大学でも、アルバイトでもこの一週間、私にとっては針の筵のような毎日だった。

 大学ではあからさまに連絡を忘れられ、提出物があることを締め切りの数時間前になってようやく知ったりとか、教室変更の連絡があったことを気付かないまま、いつもの教室に行ったりとか。

 アルバイトでも最初のバキュームのパッキン事件を皮切りに、治療時に使うエプロンなどの洗濯物の入れ忘れとか、様々なうっかりミス・・・・・・が続いた。

 しまいには、出納表の紛失まで起こった。結局、出納表は場所的にあり得ないはずの棚から出てきたものの、当時、担当だった若先生の背後では本気で猛吹雪だったような気がした。



 その日は初めて本気で、辞めたくなった。



 家に帰ってからも、ずっと悶々としていた。このまま続けてよいものかと。

 初めて出来た居場所。

 だが、ここまで記憶のないミスをするのはもういやだ。


 テレビをつける気にもならず、ソファの上でじっとしていた。


 その時、普段かかるはずのないスマホに電話がかかってきた。

「登録されていない携帯の番号――――?」

 表示されていたのは見たことのない番号だった。

「もしもし」

 本来ならば、名乗るべきなんだが、間違い電話だった場合、あまり名乗りたくない。

 だが、その杞憂は一瞬で吹き飛ばされた。


『由良だな』


 その声は、少し高さが違っているが、間違いなく若先生の声だった。

 驚きに声を出せなくなっていた。


『しばらく休め。ここで働き出してから、休み取ったことないだろ?』


 私の返事を待たずに言われたことに、違った意味で驚いた。

『有給扱いにしておく。だから、休め』

 それだけだ、と言われ、一方的に電話を切られた。


「どういうこと?」

 電話を切られた後、若先生に言われた言葉を反芻した。やはり、辞めろという意味なのだろうか。そうだったら、いやだな。

 でも、その可能性だってある。


 休んでいる間に新たなバイトを探そう。


 私は決意した。

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