波乱の幕開け

 それは、初めての忘年会に参加させてもらった後の事だった。


「由良さん、今日から新しくここで働いてくれることになった子よ」

 バイトの始業前、奥様から紹介された小鹿のように小柄で、お目がクリンとしている子は見覚えがあった。


「――――よろしくね、由良さん」


 奥様にわからない程度に無愛想、かつ目を吊り上げ、敵意をむき出しにして挨拶する彼女の名は立花梨音。


 私が六歳上だということは入学式早々すでに知られたおかげで、気軽に話せる友人は学部内にはいなかった。例に漏れず、彼女もあまり親しくない学部内の知人の一人だったが、

その彼女とまさか、同じバイト先になるとは。

 今更イメージ改善、なんていっても無理だろうし、私も望まない。


 というか、初っ端から敵意むき出しって、私とそこまでの関わりありましたっけ? と思ってしまった。


 ああ、これは面倒なパターンになるやつだな。そうならないことを祈るしかない。


 だが、奥様が採用してしまった以上、バイトふぜいに拒否権はない。


「そうなんですか。よろしくお願いします」

 私はそっけなく返した。

 少しやりすぎた感が否めなかったが、これでいいんだ。

 向こうも私のことを相手にはしないだろうし、そのままにしておこう。また、大学で会った時に言われたら、その時だ。今は仕事に集中したかった。


 何せ、今日は若先生だからね。


「由良さん、会計と器具出しお願いしてもいいかしら」

 助手の準備に入ろうとした私を奥様が呼び止めた。


 ははん。


 二人体制は今までなかったから、これが初めてとなるが、なるほど。二人の時は年増古参が会計担当なんですね。


「分かりました」


 と言って、何かあった時のためのゴム手袋だけ準備して、会計室に入った。


 うむ。今日の予約は五人。

 なかなか強者が多いじゃないか。


 保険証忘れ常習犯(今月初めての受診)に遅刻魔、ドタキャン魔とコナ掛け女か。

 唯一の良心というか、善良な心の持ち主は相原さんだけか。

 今日は世も末伝説でも提唱されていた日か。


 だが、そうはいっても詮なき事なので、私は私のやるべきことをやるだけだ。



 三時間後、思ったよりもぐったりせずに済んだ。

 私は何事も起こらずにホッとした。


 いや、それが普通なはずなんだけれどねっ。


 遅刻魔やドタキャン魔も今日はいたって普通に来るし、保険証忘れ常習犯も今日はきちんと持ってきた。コナ掛け女は相変わらずコナ掛けていたが、あまり覇気がなかったような気がした(個人比)。


「お疲れさまでした」

 診療後の片づけをしている最中、私は立花さんに声を掛けた。


「ああ。お疲れ様」

 あれれ? なんだか、別の声が聞こえたのは気のせいか。いや、気のせいじゃないね。

 いつもは、ああ、とか、それさえも言わずにお小言だけの若先生が、声を掛けてくださった。


 しかも、滅茶苦茶近くにいらっしゃるじゃないか。いつもこの時間は金額の確認とかしているのに、なんでそれをせずにこっちにいるんですかねぇ。


 本当に天変地異の前触れだろうか。


 少し内心、身震いしながら、ありがとうございますって返した私は偉いよ、エッヘン。

 何はともあれ、最後のタイムカードを切るところまで無事に乗り切った。


 ――――この後、家に帰る途中で飛び出してきた車に轢かれて、どこか異世界に転生、なんてないデスよねぇ?


 少し物騒なことを考えたが、そうなったときはそうなった時だと思い、諦めることにした。



「由良さん」

 鹿野歯科を出て、敷地から一歩出たところで、立花さんに声を掛けられた。

「なあに?」

 できるだけ友好的に返した私だったが、彼女の顔を見て、背筋を凍り付かせた。彼女は勝ち誇ったような顔をしていたのだ。


「私はあなたと違って、鈍くさくないって滅茶苦茶褒められました」


 ほほう。自慢ですか、そうですか。


 実を言うと、あまりその言葉は私には響かない。なぜなら、私は『他人との比較』というものに興味がないのだ。だから、もし、彼女がそれを知っていたとしたら、そんなことをわざわざいう訳がない。


 私の反応のなさに、彼女は一瞬、怪訝な顔をした。だが、気を取り直して、こう続けた。


「あなたは私たちよりも六歳上だそうですが、あえて言わせてもらいます。こんなバイト辞めて、向いていることをやったら、どうなんですか?」


 ほほう。そう来ましたか。

 ならば、私も言わせてもらおう。


「ご忠告ありがとう。でも、あなたは私以上に永く続けられる自信はあるの?」


 そう。

 このバイトに必要なのは忍耐力。それは若先生にお小言を言われるだけの話じゃない。

 どう一癖、ふた癖もある患者さんたちを捌くにも労力が必要だ。


 過去の先輩たちは言いたいことをズバズバ言ったのが災いして、患者さんたちから奥様にクレームが入り、半年も持たなかったそうだ。


 最初、私にもそれは不安があった。だが、偶々、周りからの嫌味や妬みを回避するのかという術を習っていたからこそ、それをうまく躱し、時にはヒール役も買いながら、ここでバイトを続けている。


 だが、彼女にはそれはできるのだろうか。

 私はそれを彼女に訊ねたかった。


 もちろん、何をどうすればいいのかなんて具体的には言わない。言ってしまったら、彼女のためにはならないから。

 これは実地実際の診療時で学ばなければ、ね。


「まあ、明日以降、バイトでもよろしくね」

 私はにっこり笑って、彼女が向かう駅とは反対向きに歩き始めた。

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