全ての原点

 そんな精神的な疲れが溜まっている中で、物理的に溜まっている全ての洗い物を終え、今日の業務日誌を書こうと受付デスクに戻った私は、人影を発見した。どうやら、若先生が残って何かを書いていらっしゃるようだった。お珍しい。

 いや、いらっしゃっても別にいいんだけれど、お説教される以外には何にも話さないし、な。ただ気まずいだけデス。


 音を立てずに歩きながら、診療中は着けているキャップを外している若先生の手元を覗き込むと、歯形取った人のオーダーを書いているようだった。


 イケメン且つ字も綺麗なのになぁ。

 ねぇ?


 少し気が進まなかったが、業務日誌を書かねばならないので、私は私で受付デスクに向き合った。


 …………。

 ………………。

 …………………………。


 何故か視線を感じながらも、業務日誌を書く手は止められなかった。早く帰りたいんだよ、私は。


 数分後、書き終わり、明日の予定を確認し終えた私はさあ、帰ろうと立ち上がった。更衣室へ向かおうとしたが、まだそこにその人はいた。じっとこちらを見つめている。コワイデス。

「あの……何か御用で?」

 私はぎこちなく若先生に話しかけた。すると、

「由良君はあれ、どう思うかな?」

 と、綺麗な低音ボイスで尋ねてきた。うん、声の破壊力がすごい。こりゃ若い女性の患者さんたち落ちるわ。

 だが、肝心の質問の意味が分からない。『あれ』とは何ぞや、と思って若先生の視線の先をたどると、その先には例の猪らしきマスコットがあった。

「可愛いですよね。あれ、どちらで頂いたんですか?」

 私がそう答えると、若先生は目を泳がせる。


 え、何か不味いこと言っちゃいましたか、私。


「ははは、だから言っただろう、政幸? 由良ちゃんがお前の意図なんか理解できないってな」

 突如聞こえてきたその声は、いつもならばこの曜日、この時間ここにいらっしゃらないはずの大先生だった。

 うん、待てよ?

 それ以上に今の発言はどう意味なんですか、大先生。

 私が若先生の意図を理解できないって。

 いや、確かに意図を理解できない時だってありますとも。例えば、無言でどこかのお土産を差し出されたときとか、誕生日でもクリスマスでもなんでもない今年の3月に、無言で可愛く包装されたキャンディー渡されたときなんかねっ。


「政幸がこのデザインをうちのイメージキャラクターにしようって言い出してね? で、由良ちゃんはどうかなって聞こうと思っておいておいたんだ」

 大先生が改めて解説してくれた。ありがたや。

 いや、だが、なんで『鹿』なのに『猪』なのかという疑問が残っているぞ。

 それを尋ねると、若先生が顔を赤らめた。なんでそこで赤らめる? 私なんか怒らせるようなことしたか? と、思って隣の大先生を見ると、こちらは大爆笑している。全く解せぬ。


「――――――由良君が来てくれたのが、猪年だからな。それからは『鹿野歯科』にとって良い事が多い」


 はい?


 解説をプリーズと隣の大先生を見たが、大爆笑が収まらないのか、役に立ちそうになかった。若先生に視線を戻すと、何かを言いたそうにしていたので、じっと耐えた。

 だが、耐え切れなくなり再び尋ねようとすると、若先生でも大先生もない声が聞こえてきた。

「政幸の言う通りですわ、由良さん」

 なんと奥様までやってきた。どういう状況なんだこりゃ。私は目を白黒させていると、奥様がため息をつき、

「あなたを雇って正解だったのです。ここまで長く続けてこれた人はいません。政則さんも政幸もそこそこ顔立ちが整っているだけに、バイトという立場であっても媚び売ろうとしてくる人がほとんどで、あなたほど純粋にこのアルバイトをしようとしてきた人はいませんのよ。

 それに、患者だって寄ってくるでしょ?それを角が立たないようにいなせるのはあなたが初めてです。なので、私たちは非常に感謝しているのですわ」


 奥様――江美子様は微笑んだ。六十歳近くのはずのお姿もお美しい事は分かったが、言われていることはよく分からなかった。


「それに、昨年、駅前に新しい歯科が立ったのに、鹿野歯科のお客さんも増えましたわ。あなたがいないときに、どうしてここの歯医者を選んでくださったのか、ちょっと聞いてみたんだけれど、ここの受付のお嬢ちゃんの感じがいいからって皆さん言ってくれているのよ」

『お嬢さん』っていったい誰のことだろうでしょうかね。まさか、私では――――


「ここの受付のお嬢さんはあなたしかいないのだから、あなたですよ」

 私の思考を読んだかのように、奥様からぴしゃりと言われてしまった。


 はぁ、さいですか。


「ですので、私たちにとってはあなたの存在が幸運を呼ぶ、あなたを雇い始めたのは猪年。猪年は幸運の動物ってなるのですよ。それに、由良さん、あなたは猪年生まれよね?」


 そうなのだ。私は諸々あって六歳ほどほかの大学二年生よりも上で、おととしは年女だった。頷くと、奥様は満足そうだ。若先生は無表情でよく分からないが、大先生は奥様に負けじと満足そうだ。

 何がそんなに満足なのか、未だよく理解できていないが、まあ、満足されているのならいいのか、と思うことにするよ。


「じゃあ、やっぱり猪は幸運を呼ぶのね。あなたが生まれてきてくれた年なんだから」


 奥様の言葉は私の中で何かがふっと憑き物が剥がれ落ちた気がした。

 今まではしぶとく生きてきた自分だ。

 幼いころに起こった両親の死亡事故。両親を失った私を助けてくれた『お兄さん』。そして、『お兄さん』に連行され、祖父母に引き取られた私が過ごした悪夢のような五年。


 そのどれも私にとっては忌まわしく、思い出したくない過去。だが、大学に入って、ここに雇われてから二年は楽しかった。

 だから、奥様のその言葉は私にとっても正しいのかもしれない。


 幸運を呼ぶ猪。

 反対に、私はこのマスコットにあやかることにした。

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