何だ、こりゃ?

 何だこりゃ。

 というのが、私の目の前に置かれたものに対する疑問だ。


 事の発端はこうだ。

 あの愛理の爆弾発言を聞いた翌日のバイト。おとといほどの憂鬱さはなく(とは言いつつも今日は今日で若先生の診察なので気は重い)、そこそこ気分よく私はいつもの時間に鹿野歯科へ赴き、戦闘態勢を整えた。

 そして、珍しく始業前に患者さんがいない時間が少しあったので、奥様から引継ぎを行えた。それでもまだ少し時間があったので、受付で予約している人の名簿を確認した私だが、それ以上にデスクに置かれているインパクトのある物に目が釘付けになってしまった。


 で、何なのかって?


 猪のマスコットだよ。


 うん、猪のマスコット。


 普通の紙に印刷されたものが1枚と、ゴム製と思しきマスコットになっているその猪はデフォルメされていて、ずいぶんと可愛くなっている。そして、手? 前脚? には歯ブラシを持たされている。井の中の蛙なのだろうが、私はそのマスコット、イメージキャラクターを使っている歯科や絵本、アニメなどを見たことがない。ここで、このマスコットが存在している理由を考えてみた。


 1.私の知らない歯科、絵本、アニメなどでこのマスコットを使っていて、これをモデルにして当院のマスコットを作ろうとしている(最有力)。

 2.前半は1番と同じだが、後半は違って、ただ誰かからもらってきて、それを置いてあるだけなのか。

 3.その他。


 …………。

 やっぱり猪に見立てた鹿なのだろうか。だって、この歯科、『鹿野歯科』なんだもん。



 まだまだエイプリルフールには程遠い。だが、季節外れのジョーク?



 ないか。

 じゃあ、やっぱり何だろうか。


「こんにちは」

 しばらくその猪のマスコットについて考えていたが、最初の患者さんが扉を開けた時、気持ちを切り替えた。


 そうだった。今日のトップバッターは相原さんか。幸先がいいスタートだな。しかし、相変わらず、あの筒は運ぶのに大変そうだな。

 最初に見た時は理系男子どもが遊んでいる黒い筒のカラーバリエーションかと思ったけれど、よく見たら違うようだった。後日、名古屋駅に遊びに行ったときにジャージの背中にデカデカと“弓道部”と書かれた子たちが同じような筒を持っていたので、あとからグーグル先生に訊ねたら、“矢筒”というものだそうだ。

 それを毎回のように持ってきている彼女は小柄だ。自分の背よりは低いだろうが、荷物がかさばるだろうに。ご苦労なことだよ。

 というか、弓道女子だったのね、相原さんは。矢筒を検索した時に弓道についても調べてみたのだが、礼節を重んじるという。

 そっか。だから、あんなに若いのにしっかりとしているのね、と深く感慨したものだ。

 ――――私は絶対に無理だろうね。


 若先生を呼び出し、待っている間に患者さんの受付を済ませ、診療台に案内した。


 ここからは真剣モードに切り替えた。私は頭の中ですべきことの順番を組み立てて、動き始めた。



 相変わらず、仕事終わりに私はぐったりとしていた。とはいえども、今日は私の失敗のせいじゃないんだよ。

 元々予約として入っていた歯石除去二件、石膏での型取り一件に虫歯治療三件(そのうち重度な虫歯治療が一件)は、予定通りだった。だが、空いた時間に歯が痛いという駆け込み診療で三件ほど写真撮影も行ったので、洗い物が増えて困った。というか、途中で洗うタイミングがなくて困った。

 まあ、患者さんとのトラブルっていう意味でも、久しぶりに面倒なことになったんだけれどね。

 その駆け込み診療の人の一人はドタキャン魔(ブッチ魔でも可)で、つい先日、一週間前に予定されていたはずの診療も当然のようにブッチしていた。何回か『電話でも予約できますので、予定が確実になったら、お電話していただくのはどうですか?』って言っているのに、院内で予約して、連絡なし、もしくは診療時間の終了間際で電話が来ることがしばしば。何回、キレそうになったことだか。というか、今回もキレそうだった。


 あとは、保険証忘れ。

 診療が続いている最中に、月が変わっている場合でも当然、保険証の提出は必要なのだ。まあ、そこは裁量で、と言われればそうなんだろうが、一応指摘はしなくてはならないが病院の務めなのです。

 まあ、患者さんにとって最もかわいそうなのは初診患者さんだ。

 何回も(問題起こさずに)通われている方は、次回持ってきてくださいねぇっていいんだが、初診患者はそうもいかない。というのも、信頼関係がないのだ。なので、当日は全額負担してもらい、次回(もしくは翌日)以降、保険証を持ってこられた時に患者負担金以外を返金することになっている。

 ということで、今日はバイト勤めで何回も遭遇するかしないかレベルのレアケース、初診患者さんの保険証忘れがありました。

 その患者さんに、『何で保険証がないと全額負担になるんだ』とかみつかれたが、文句があるならお上に言ってくれ給え。うちだけの慣習じゃないんだよ。一応、月初めや初診時に病院側へ見せるのは大原則、当たり前なんだよ。

 と、心の内で文句を言いつつも、笑顔で軽く『いやぁ。私だって好きでそうしているわけじゃないんですよぇ』なんて言っておいた。ああ、面倒だ。

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