第57話 過去編 姉と妹 2


 寝ぼけながら楓は廊下を歩いていた。

 目をゴシゴシとしながら、裸足で冷たい床を感じていた。

 灯りが微かにあったため、それを頼りに楓は目的の部屋へと向かって行った。


 ――あの時の姉の反応。何かあるに違いない。

 自分と比べて優秀な姉が怯えていた。

 普段は聡明で冷静で優しい姉。いつもと比べて余裕がなかった。

 幼い楓にもそれが理解出来る程だった。感受性が豊かな楓は分かってしまった。


 知らない所で確実に姉は何かをされている。それに、あの父親の言動と姿勢。


「お前には別に何も期待してないが、姉の邪魔だけは絶対にするなよ? お前と違って優秀で……」


 動きが止まる。楓は悔しさを滲ませながらもう一度歩き始めた。

 何も期待してない? 邪魔だけはするな? 重みのある言葉は楓にのしかかる。

 いつも、姉に支えられて、姉に助けられてきた。

 今回だってそうだ。母親の機嫌を取って、父親の期待に応えているのは姉。


 でも、分からないが少しでも姉の重りを外すことが出来たら。

 現状よりも、自分の価値も姉の事を助けられる。

 いいじゃないか。楓は強い決意を瞳に込めて、姉の部屋へと向かって行く。


 そして、楓の悪い勘は的中する。


(……声? お姉ちゃんと、パパ?)


 足音も立てずに楓は立ち止まる。扉越しから確かに声が聞こえる。

 父親と姉の声。楓は生唾を飲んで扉に耳を当てる。

 バレちゃいけない。息を殺して楓は必死にその会話の内容を聞く事にした。


「……さてと、ここに呼び出した理由は分かっているよな?」


「はい、でも、楓だけには何もしないで貰いたいです! あの子は……私と違って」


「繊細とでも言いたいのか? 下らない! 私達はお前に全てをかけているんだ!」


 父親の言葉一つ一つに熱が籠っているように思えた。

 陽菜は怯えながら服の袖を掴む。楓はやはり状況が掴めない。

 心も体も小さく、まだ経験値が足りない楓にとって。

 二人の話の内容が理解が出来なかった。でも、地頭が良い為、何となくの雰囲気は察した。


 これは自分がどうにか出来る問題ではない、と。


 そして、さらに話は進む。


「楓がお前と違って優秀じゃない以上……私の後はお前が継いでいかなければならない」


「それは分かっています、けど」


「けど? けどは余計だ、どうやらお前はまだ自分の重大さが分かっていないようだな」


 椅子に座っていた父親は立ち上がる。

 体を震わせながらその場に立っている陽菜。

 静かに両肩に手を置いて父親は語り掛ける。


「陽菜、何の為に……お前を養子として家に引き取ったと思ってる?」


「そ、それは」


 楓は胸の高鳴りが止まらなかった。

 自分の知らない世界が広がっていくように。

 二人の会話の意味が聞き取れるが、真意は不明。

 ただ、陽菜が驚き、焦っているのは事実。

 楓は何とか姉の力になりたいと。だが、同時にモヤモヤとした気持ちが生まれてくる。


 世の中には知らない方が良い事があるように。

 楓にとってこの夜に聞いた話。それは、それに当てはまるだろう。


「妻は体が弱くて、子供を産むのは一人が限界だった、だから仮に生まれた子供が【使い物】にならなかった時の保険にお前を引き取ったんだぞ」


「……っ! そんな言い方!」


「ああ、やはり私達の判断は正しかった」


「やめて下さい! そ、そんなにも大事ですか、世間体や仕事が!」


「子供が親の為に尽くすのは当然だろ? 実際の所、誰がお前達の面倒を見るというのだ?」


 使い物? 楓は必死に言葉の意味を考える。

 断片的にしか伝わらないが言いたい事は分かる。

 父親の冷たい態度や姿勢。母親も楓に対しては怒るばかり。それも、楓自身を見ていない。

 楓は過呼吸を起こし、今にでもどうにかなってしまいそうだった。


 これ以上は聞いてはならない。だけど、この場から楓は動けなかった。


「そんな言い方は卑怯です! いや、確かに引き取ってくれたのは今でも感謝しています! ですけど……楓をそんな言い方するのはやめて下さい」


「元々、お前達は血の繋がっていない姉妹、それなのにお前は何でそんなにあの出来損ないの妹に肩入れをする?」


 思わず耳を塞ぐ楓。聞くにも堪えない父親の罵倒。心も体も崩れてしまいそうだ。

 だけど、姉だけは楓にとってそれを支える存在だった。


「……例え、血が繋がっていなくても楓は私にとってかけがえのない大切な妹なんです! だから、使い物にならなかったなんて言わないで下さい」


「そうか、なら、お前が元の生活に戻るか?」


 すると父親は陽菜を突き飛ばし、地面に尻餅を着かせる。

 悲鳴が楓にも届き、何が起こったか予測する。

 汗を手で拭い、楓は自分の胸に手を当てて何とか落ち着かせる。

 このままでどうにかなってしまう。

 しかし、それ以上に当事者の陽菜自身も限界に近付いていた。


 元の生活に戻る。それは、ここに引き取られる前の陽菜にとって地獄だった。


 容赦なく父親は陽菜に言葉を浴びせる。


「そもそも、本当は男が良かったんだが、碌な人材がいなかったから無理してお前を引き取ったというのに」


「だ、だったら」


「……何だ?」


「だったら、そうするべきだったんじゃないですか? 貴方の言う碌な人材がいないのなら……」


 陽菜にもどうして自分が引き取られたのか。

 この父親が望む事なら、確かに男の都合がいいと思う。

 だが、その陽菜の発言は地雷だった。

 次の瞬間。父親は陽菜の頬を平手打ちをする。

 バチンとした乾いた音が楓にも届くぐらいに。


「舐めた発言をするな……所詮、ゴミの中から拾ってやった【私達の子供】でもないのに、調子に乗るな」


「うぅ、酷い、酷いです!」


「これ以上私に歯向かうと本当に、元に戻すぞ」


 これで確定的だった。

 楓にも流石に姉が自分とどういう関係なのか。

 でも、この頃の楓には衝撃的で受け止められるものではない。


 姉が自分と血が繋がっていない。父親の目的。

 養子として引き取られ、父親の脅迫。

 楓は放心状態だった。ただ、もう止まらなかった。


 元に戻す。陽菜にとってこれが最悪で地獄の底に落とされる言葉だった。


 叩かれた頬を抑えながら。陽菜は父親と向き合う。

 その瞳は見下し、まるで陽菜自身を見ていない。

 道具として扱っている。

 そして、父親は低く威圧した声で。


「ふぅ、お前を引き取った時、親もいなくて服装も汚くて、会話もままならなかった……それをここまでしたのは誰のおかげだ」


「……ですけど、私も貴方達の期待にここまで応えています! それなら、少しぐらいこちらの意見を聞いてくれても」


「言ったろ? 私達の言う通りにしとけばお前は人生の勝利者になれると……そのチャンスを自分から潰しにいくのか?」


 黙り込む陽菜。

 生まれたて来た時から。陽菜の家はお金がなく貧乏だった。

 ただ、両親はとても優しく精一杯の愛を貰った。

 信じていた存在だった。


「お前の親の事何てどうでもいいが、金銭面が足りなくて逃げ出した何て……愚かだな」


「っ!」


「だが、このままではお前の才能が埋もれてしまう! だからこそ、出来損ないのお前の両親に変わって引き取ってやったんだ」


「それは、分かっています」


「あのまま施設にいたらお前はゴミのような日々を送るだけだった、だからこそ自分の状況を考えて発言と行動する事だ」


 もう頭の中がグチャグチャだった楓。

 悲しいというよりは全てに裏切られた気分だった。

 でも、同時に希望が湧いてきた。

 この頃から夏目楓という少女は少し可笑しかったのだろう。


 そして、父親は再び深く椅子に寄り掛かる。

 床に倒れ込む陽菜に向かって指を差しながら。


「こんな事はないと思うが、お前が楓よりも劣る時が来たら……お前には用済みだ! 当然だ、元々血も繋がっていない野良犬なんだからな」


「それは……」


「今日はこれぐらいにしといてやる、陽菜、お前には期待してるぞ」


 それだけ聞いて楓はヨロヨロと父親の部屋から離れて行った。

 自分の部屋に戻ると、入り混じった気持ちが自分を襲った。

 何で、聞いてしまったんだろう。知らなかったら、今までの関係を築けたのに。


 何よりも姉が実の姉ではない事実。

 でも、不自然な所はあったかもしれない。顔もあまり似ていなくて、年も離れていた。

 ただの偶然だったと思っていたのに。楓はベッドの枕に顔を付けながら。


「……嘘つき」


 ボソッとつぶやく。顔を上げて暗闇の中で映る自分を見つめる。

 鏡に映し出されている自分は泣く事もせず、怒ることもしてなかった。


「楓、ご飯だって」


「楓、おかえり」


「楓……勉強教えてあげよっか」


 今までの事全て嘘に思える。

 結局、姉が自分に優しくしていたのは自分の為。

 両親に良い顔をしてれば自分は救われる。

 いつも父親に気にかけられていたのはそう言う事だと楓が自己完結してしまう。


 そう思うと急に憎悪が湧いてくる。

 自分は要らない子扱い。対照的に姉は将来も約束されている。


【自分が姉より優れた存在になれば……もしかしたら】


 楓はベッドから起き上がる。

 その時に鏡に映る自分は今までに見た事ないぐらいに。

 醜く、むしろ笑っていた。


(そうだよ、それがいいよ! お姉ちゃんより自分の方が優れていると思わせたら……私が勝てる)


 それは小学生の夏目楓にとって辛く、とても険しい道のりの始まりだった。

 この日から、夏目楓という人物が歪になったのかもしれない。

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