第56話 過去編 姉と妹 1
絶望の淵に立たされているのに。
夏目楓は暗闇の中から一筋の光を感じた。
手を伸ばせば、届きそうなのに。
直前でそれは遮られた。
掴めそうで掴み切れない。楓は羽の折れた鳥のように。ただ、地で這いつくばるだけだった。
――夏目楓には姉がいた。
成績優秀、それに運動神経抜群。
さらに誰もが振り向くと言われる容姿。
明るい性格も彼女の魅力に磨きをかけていた。
彼女、夏目陽菜(なつめひな)は、楓の憧れでもあった。
「楓! またこんなに汚して!」
「うぅ、ごめんなさい」
大人しい性格の陽菜と違い、楓の性格は元気でやんちゃだった。
今日は外で遊んでいて、服が泥だらけになったようだ。
元々、この夏目家は厳しい家庭だった。
父親は大企業のリーマン。母親も家がお金持ちのお嬢様だった。
だからこそ、子供も自分達と同じように立派に育てる。
それが、両親の使命でもあった。
しかし、それが子供の意志とは限らない。
いつになく厳しい口調に楓は瞳に涙を溜める。
幼い楓にとって辛く険しい母親の叱咤。
このままでは、号泣してしまう。楓が下を俯いた瞬間だった。
「お母さん、これ見て見て! テストの結果なんだけど」
すると、楓の前に現れた救世主とも言える存在。
答案用紙をペラペラと見せながら。主張してくる楓の姉。
陽菜のテストの結果を見るなり、母親の機嫌は一変する。
「まぁ! 流石は陽菜ね! また満点なのね」
「うん! あとさ、楓の事は、私に任せてよ! ほら、泥けだし……」
「そうね、私もやる事があるし、ごめんね、頼むわ!」
すると陽菜は楓の手を引っ張る。
泥だらけの状態の楓を何とかする為に風呂場に行く。
服を脱がせながら、陽菜は楓に語り掛ける。
「こんなに汚して……一体どうしたの?」
「ごめん」
「……なーんてね! お母さんみたいな事何て言わないよ!」
陽菜は楓の頭を撫でながら。優しく励ます。
楓は少しだけ気持ちが楽になり表情が柔らかくなる。
その後は風呂に入り、汚れを落とした楓。
陽菜はそれを見て笑顔になり、一緒にリビングでくつろいでいた。
ふかふかのソファの上で冷蔵庫から持ってきたアイスを食べている。
他愛もない事を話しながら。ふと、楓は陽菜に自分の胸の内の悩みを打ち明けてきた。
「お姉ちゃんは凄いよね」
「ん? いきなりどうしたの?」
「……私はいっつも怒られてばかりで、お姉ちゃんみたいにお勉強も運動も出来ないし、大人しくもないし……きっと、ママとパパは私の事が嫌いなんだよ」
既に食べ終わった陽菜とは違い、楓はまだアイスが残っている。
木の棒から垂れてくるそれは段々と量が多くなってくる。
そして、陽菜は楓の真剣な問いかけに少し口元を緩ませながら。
「アイス溶けるよ?」
「あ、あぁ! はやく食べないと」
急いで楓は口にアイスを入れる。
焦る楓を見ながら陽菜は悪戯っぽく笑う。
そして、ポンっと楓の肩の上に手を置く。
「楓は楓らしくいればいいのよ! 無理に私の真似なんかしなくても自分らしくしてればいいと思う」
「で、でも」
「それに、楓には私のような境遇を受けたくないし」
その瞬間。陽菜の表情が一変する。
楓にも見た事がない程に悲しみが伝わってくる。
握られたその手が冷たく感じる。
幼いながらもその微妙な感情の変化に楓は気が付く。
――自分の知らない所で何かがある。
楓は陽菜に踏み込もうとした時だった。
「ただいま、何だ……二人ともいたのか」
がっちりと握られた手が離される。
先程までリラックスしていた陽菜。それなのに、ある一人の人物の登場によってそれがなくなる。
緊張感と怖さが陽菜を襲っている。
ソファから立ち上がり、直立不動で怯えている。
冷徹な瞳で陽菜を見つめている男の姿。
彼こそが、陽菜と楓の父親で厳格な雰囲気がひしひしと伝わってくる。
冗談など一切通じない。
楓は口を開けながら唖然としていたが、陽菜は額に汗を流す。
少し間を開けた後。陽菜は震えた声で父親に挨拶をする。
「お、おかえりなさい……」
「あぁ、それよりも、前のテストは」
「はい! もちろん満点です!」
「そうか、ならいい」
楓にとってこれほど凶変した姉を見るのは初めてだった。
穏やかで優しい姉はそこにはいない。
この目の前の男に縛られ、怯えている姉。
こちらまで恐怖が流れてくるように。
楓は姉に近寄ろうとした時だった。
「楓」
「……! 何、パパ?」
「お前には別に何も期待してないが、姉の邪魔だけは絶対にするなよ? お前と違って優秀で……」
「お父さん! それは言わない約束でしょ!」
怒った姉。怒号を飛ばしながら実の父親に殺気を込めた瞳を向ける。
ただ、一瞬でその勢いは消え失せる。
男が全く動じずに冷酷な表情で陽菜を睨み付ける。
それが決定打。まだ、年齢が幼い陽菜にとって精神が崩壊してもおかしくないぐらいに。
強烈で苦しいものだった。
陽菜が呼吸を荒くしながら目の焦点があっていない。
その異常さに楓も気が付いたが、本人も気持ちの整理が追い付いていない。
別に何も期待していない。この一言が凄く重くのしかかる。
何故だろう。苦しくして、胸が締め付けられる。
同じ空間にいるのにまるで自分だけ取り除かれているような。
そして、父親は陽菜に最後の言葉を投げかけた。
「陽菜、お前は後で私の部屋に来なさい……まだ、お前はこの家に生まれた事がどういう事か分かってないようだからな」
「そ、それは」
「分かったな? あと、楓、お前は今日は早く寝なさい! 遊んできて疲れただろう?」
「う、うん」
「それじゃあ、待ってるからな、陽菜」
待っているという発言。
楓にはその真意が分からなかった。
しかし、ただ事ではないというのは分かる。
思わず、陽菜が床に座り込むぐらいに。
それ程に辛いものだったのだろう。
「お、お姉ちゃん?」
「……っ! 大丈夫、大丈夫だから」
「で、でも」
「楓、今日はお父さんの言う通り早く寝なさい……その方がいいから」
陽菜は楓の頭をもう一度撫でる。
ただ、力はなく弱弱しいものだった。
今にも泣きそうな表情の姉。
何か言葉をかけようと思ったが、かけられなかった。
何でも出来て憧れの姉。そんな存在がこんなにも変わり果てている。
楓にとって信じたくない光景。
そして、陽菜と父親の言う通りに。その日、楓は早く寝る事にした。
だが、ベッドに眠ってもなかなか寝付けなかった。
気になる。どうしても気になってしまう。
暗闇の中で楓は立ち上がる。姉のいる部屋に向かう。いや、行かないと駄目だと思った。
楓は本能のままにそこへと足を伸ばして行った。
この楓の判断。それが後々に楓にとって。そして、陽菜にとって大きく運命を変える事となってしまう。
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