【第8章 1】告白(いつか誰かの過去)

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「大丈夫ですか?」


 白磁のような透き通る素肌に、はらりと一筋の光のように輝く線が落ちる。その柔らかな線が、こちらの顔にもふわりと舞い落ちる。


 目の前で立膝をつき、こちらを覗き込んでいる男は、繊細な指を差し出すと立たせてくれる。華奢な見た目とは違い、力強い腕に支えられて、わたしは難なく起き上がることができる。


「ありがとう。これね…あなたに持っていて欲しいの」


 そう言うと、わたしは自身の首に掛かっている十字の首飾りを外すと、銀髪をかきあげながら男の首へと掛け直す。男は一瞬驚いた顔をすると、美しい顔をこれでもかと言うくらいくしゃくしゃにして、子供のような笑顔を見せる。その表情があまりにも無防備で、愛おしさが込み上げてくる。


「この首飾りが、あなたを守ってくれるはず」


 男は片膝をつきながらわたしの右手を取り、手の甲に軽く口づけを落とす。心なしか頬を赤らめて微笑むと、赤い瞳を潤ませながら囁く。


「どこにいても、お傍に駆けつけますから」


ーーーーー192ーーーーー






「...リ...ュリ...」


 遠くの方から...懐かしい...声が聞こえる。でも、もっと...このままでいたい...


「...いくな...戻って来い!」


 なによ蒼...もうちょっと寝かせてよ...う゛っ...な...に...


 胸の内側から、何かが込みあげてくる。さらに、胸の外側からも激しく圧力がかけられている。また、内側に温かい空気の塊が押し込まれてくる。喉元を何かが通り過ぎてすぐに、息ができないほどに噎せ返る。


 げほげほと咳き込み、肺が酸素を過剰に欲しているように...あたかも溺れたかのように...胸部の痛みで激しく喘ぐ。


 鋭い胸の痛みと息苦しさの中、ようやく目を開けると、すぐ側には今にも泣き出しそうな少年と、耳を垂れてうなだれている黒猫がいた。


ーーーーー193ーーーーー


 蒼は壊れものを抱くようにそっと樹里を抱き寄せ、背中を軽くぽんぽんと叩いてくれる。耳元で弱々しくかすれた声が聞こえる。


「もう...だめかと思った...本当に、良かった」


 それ以上、少年は言葉を発することができない。耳を垂れた黒猫...ルゥが少年の代わりに代弁する。


『ジュリは今、溺れかけていたんだ。さっきナギの母さんが危篤状態に陥った頃、急に何かの力に締め出されて、どうしようもなくって。ナギを探しに行こうと思ったら、ちょうどいいところにショウがいたから。こうして連れてきて...倒れてるジュリを発見したときは、目を疑ったよ!シヴィル...だよな?やったやつ』


《うん...たぶん。何が起きたか、正直分からなくて。ルゥと離れて1人になったときに、シヴィルが来たんだと思う。記憶が曖昧で、途中何が起きたかあまり覚えていないの...それに》


《嫌な気分じゃなかった。このまま安らかな気持ちでいくのもいいかな、って。でも、蒼を悲しませるのは、やっぱり間違ってるよね...》


「ごめんね、蒼。ありがとう」


「分かった。分かったから、無理して話さなくていい」


 その言葉を受け、黒猫が垂れていた耳をピンと持ち上げ、何かを思い出したかのように手を叩く。


『あ!そうそう!オレ、ショウから見えるみたいだ!会話もできる、ほら』


 そう言うと、手を大きく広げてから大袈裟なくらいにお辞儀をし、2人の前で敬礼してみせる。その姿を見たのだろう、さっきまでの掠れた声ではなく、すっかりいつも通りの低くて通る声に戻った少年がそこにいた。


「ありがとな、ルゥ」


『おうよ!オレについてくれば間違いないぜ。ショウ、ジュリを連れてついてきて』


ーーーーー194ーーーーー


 少年は黒猫の言葉を受けるより前に、事もなげに少女を軽々と抱き上げると、真っすく前を向きながら話し始めた。


「話さなくていいから、そのままで聞いてくれ。まず、翠淋は父さんを迎えに呼んで、任せてあるから安心していい。それから、ここ数日なんとなく様子がおかしかったのも、何かが周りで起きてた事も、実は気づいてた」


 それから、先導している黒猫に語りかけるように話を続けていく。


「黒猫も、さっき初めて見たわけじゃないんだ。2日前に学校で歩いてるのを見かけて、それ以来よく樹里の近くにいるのも遭遇してる。悪い“気”はなかったから、きっと樹里の守護霊か守護神か...と思って何も言わなかった。実際、俺の勘は当たってたみたいだしな」


 振り向いた黒猫に向かって少年は片目を瞬くと、驚いたルゥは少年の肩にぴょんと飛び乗る。そして、首に擦り寄って甘え始めた。


「樹里が黙ってるのは、何か理由があったんだろう?樹里が何も言わないなら、何も聞かないと決めてた...けど...!」


「蒼...ごめん」


「違うよ、樹里。君のせいじゃない。守れなかった俺のせいだ。俺の方こそごめんな」


 少女は咄嗟とっさに少年の首にしがみつく。さっきまでの苦しさが嘘のように、心の中に温かいものが満たされ、一気に溢れ出しそうになる。


 そうなのだ...蒼は何も言わなくても、分かってくれる。今までの10年間よりも、この3日間の方がずっと蒼を近くに感じる。


「あ、こら!そんなにしがみつくな。落ちるだろ」


「ありがとう」


『あ!2人とも!見て!』


ーーーーー195ーーーーー


 黒猫は少年の肩から華麗に飛び降りると、非常階段の方を指差す。


 病院の非常階段の防火扉が閉まりかけている。その中に消えていく後ろ姿が目に留まる。その瞬間、負傷した右腕が脈打つように痛み出す。痛みに気をとられた僅かの間に、人影はドアの向こうへと吸い込まれてしまった。


 何も言わずにルゥはドアへと走り出し、通り抜けて行ってしまった。


 濡羽色ぬればいろの腰まである髪の毛…いえ、まさかね…


「追いかけるぞ。つらいだろうけど、しっかり捕まってろよ」


 少年は少女を抱えたまま、階段前のドアを何とか開けると、1階分の階段を登りきったあたりで、目的の場所に辿り着いたことが分かる。


「待って。ここは、私が開ける」


 樹里は急激に増していく腕の痛みを顔に出さないように、ゆっくりと右手をドアノブにかける。そして、一気にドアを開け放つ。


ーーーーー196ーーーーー


 辿り着いた先は、病院の屋上であった。


 空は漆黒に落ちてはいるが、不穏な空気はない。ここは、夢でも異世界でもない…現実世界だ。


 広い屋上の上、30メートルほど離れた場所に長い黒髪をなびかせた後ろ姿と、今にも飛びかからんとする1匹の黒猫が見える。


「翠淋…お前なんでこんな所に…?」


「お兄ちゃん?迎えにきてくれたの?」


 黒髪の少女は、振り向きもせずにこちらに話しかけてくるが、髪以外は微動だにしていない。


何かがおかしい………


声だけはいつもと変わらないが、樹里の中の何かがおかしいと知らせている。胸の中のザワザワが止まらない。


「…父さんは?一緒じゃないのか?父さんが迎えにいっただろう?」


「知らない。会ってない。それより…」


 蒼も翠淋のあまりの変わりように、異変を感じているようだ。少女を抱える手に、腕に、肩に、緊張が走る。


ーーーーー197ーーーーー


「いつまでくっついてるの?そんな人置いて、私と一緒に帰ろうよ」


「…お前…誰だ?」


「やだな。かわいい妹の声忘れちゃったの?」



カカ…カカカ…



 黒髪の人物がゆっくり、ゆっくりと振り返る。その動きはカラクリ人形のように、歪な音をさせながら首だけを回している。首が180度回った所で、動きがぴたりと止む。大袈裟なくらい首は大口を開けると、それでも声は変わらず発せられる。


「あはは…そりゃそうよね…だって…」


『ショウ!下がって!!!』


 翠淋とおぼしき影に向かって唸っていたルゥが、突如口を開く。刹那…


「妹ちゃんは、もういないのだからな!!!」


 爆発音とともに周囲に閃光が走る。


 あまりの閃光に、樹里は目をつぶる。が、思ったほど眩しくはない。


 目を恐る恐る開けると、目の前に蒼の胸元があった。樹里はいつの間にか床に寝かされ、蒼に覆い被さられる形で守られている。寝かされている場所も、翠淋らしき人物からもっとも離れた対角線上にある屋上の端まで移動していた。


「し、蒼!」


「だい…じょうぶ…衝撃だけだ」


 “大丈夫”という言葉とは裏腹に、少年は苦痛で顔を歪めている。


「ジュリ!ショウ!無事か!?」


 小さく黒き生き物の面影もなく、漆黒の翼をはためかせると、ルゥは瞬時に2人の傍に降り立つ。


ーーーーー198ーーーーー


「おい!ポンコツ野郎。スイリンをどこへやった?」


「ガイコツ野郎だ!じゃない!ノートン様と呼べ、クロがあああ」


 長い黒髪を振り乱しながら、翠淋と見られる体は、大股を開いて地団駄を踏んでいる。だが、何かを思い出したのか、長い髪を掴むと腹を抱えて笑い出す。さらに顔や体を満足そうに弄っている。


「いやいや、愉快愉快。こんな若い体、何百年ぶりだろうか。ほら、こんなにフサフサと髪が生えてるぜ?しかもこの肉体…俺様の方が有意義に使ってやれるってもんよ」


「死に損ないのクセに気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ!反吐が出るぜ!」


「そんなことより!翠淋ちゃんをどうしたの?」


 楽しそうにやりとりしている好敵手同士には悪いが、こうしている場合ではない。樹里は思わず口を挟んでしまった。


「ほう…教えて欲しいのか?どうしようかなあ、教えてあげようかな?やめようかな?」


「もったいぶってんじゃねえよ!このエロガイコツが!」


「ルゥ!?」


 またもや言葉の応酬を始めそうなルゥに一瞥をくれる。黒い耳を垂れて、そのまま黙ってしまった。それでも、翠淋を睨み付けるのをやめることはない。


「ぐはははは!!!クロを黙らせるとは、気に入ったぜ。教えてやるよ、妹ちゃんがどうなったのか」


 黒い瞳を輝かせながら、翠淋らしき人物は大袈裟な身振り手振りを交えて語り始めた。


「ちょうど1年前に遡る。こっちで俺様の力を十分に発揮するためには、生身の身体が必要でな。霊力が強い器を探してたところに、これ以上はない憑代(よりしろ)を見つけてな。それが翠淋だったってわけさ。巫女として十分な素質があるのに、これだけ邪な魂はそうはいないからな…」


ーーーーー199ーーーーー


「そんなことはどうだっていい。翠淋…妹をどうしたんだよ!?」


「お前、自分の立場分かってんのか?俺様はそこの女と話してんの。続きが聞きたきゃ黙って聞いてるんだな」


 樹里は今にもブチ切れそうな少年と、痛みと怒りで吐きそうな自身とを制止すると、身体を起こして話し手に向き直る。


「この女はな、10年前からずっとそこの兄に邪な想いを抱いてたんだぜ。叶わない恋と分かってても、自分が大切に思われてるなら構わないと思ってたようだ。なのに、愛しの兄はお前しか目に入らない、父の関心すらお前が引き…お前への憧れが、憎しみに変わるのに、そう時間はかからなかった」


 苛立ちを隠せない少年と漆黒の天使を横目に、ますますご機嫌になってノートンは話し続ける。


「俺様はこの邪悪な感情が大好物でな、日増しに負の感情を募らせていく女を見てた。元々の霊媒体質だ…そりゃもう面白いくらいいろんな邪気を吸い寄せててな。やっと1年前に俺様の声が届くように…ぐふふ。それからは毎日寝ても覚めても眩惑し続けて、ついに今日………!!!俺に全てを委ねたってわけさ」


「そんなはずない!あんなに純粋な子が、あんたなんかに心許すはずが…!」


「お嬢ちゃん、お前は人間ってもんを分かってねえな。人間じゃねえ俺様が言うのもおかしな話だがな!翠淋を誘惑するのは、大して難しくなかったぜ?純粋ゆえに、悪意も純粋に飲み込むんだろう。だがこいつには僅かばかりの理性が残っててな…その中でも、罪悪感がとりわけ厄介だった。むしろ、お嬢ちゃんには礼を言いたいぐらいだぜ。結局…お前が最後の引き金を引いたんだよ」


「え…」


「樹里!聞いちゃだめだ!」


「お前が妹ちゃんの唯一残ってた罪悪感…これさえも奪ったんだぜ。一緒に消し去ったんだよ、お前が“鈴”で記憶を消したときになあああ」


ーーーーー200ーーーーー


『てんめえ!ゲス野郎が!適当なことぬかしてんじゃねえよ!』


「信じないのは勝手だが、そこの坊主は何か心当たりあるんじゃねえか?」


「それは…」


 少年は眉をひそめると、わずかに困惑した表情で言い淀んでいる。その様子を見て、翠淋の体に乗り移ったノートンは、勝ち誇ったようにせせら笑う。


「ほらな?坊主も俺と同じ意見のようー」


「違う!!!そうじゃない!…全て俺のせいだ…」


 蒼は食い気味で反論すると、せきが崩れたかのように次から次へと言葉を紡ぎ出す。


「俺とお袋が実家の神社を2人で出たのは6歳だった。妹はまだたったの3歳だったのに、俺があいつから母を奪ってしまった。その埋め合わせに、悪いことしても叱りもせず、すっかり甘やかして…。親父も兄貴も妹に無関心で、妹が愛に飢えてることは分かってた。両親に向けるべき愛を、俺1人に向けてくるあいつに、俺は悪い気はしなかったんだ。俺は都合のいいときだけあいつを可愛がって、それ以外は見て見ぬ振りしてた。そんな歪んだ家族なのに、結局何もしなかったのは俺自身が弱かったからだ!」


 こんなに動揺した少年を今まで一度として見たことがない。いつもどこか余裕があって、常に1歩先を歩いていて、誰に対しても優しく笑顔で接し、無邪気に人生を謳歌しているように見えた。今まで、こんな風に感情を露わにすることなんてなかった。それが…こんなに苦しんでいただなんて…


「妹の様子が少しずつおかしくなってるのにも気づいてた。家族に向けるべき憎悪を、樹里に向けるようになってるのも…。時間の問題だったんだ、最後の糸が切れるのも…だから」


 そう言うと、少年は少女に向かって頷くと、ノートンへ向き直り言い放つ。その表情に、一切の迷いはなかった。


「責めるなら俺を責めればいい!樹里には何の落ち度もない」


「信念は揺らがないってことか?気にくわねえな。貴様を一目見たときからいけ好かなかった。英雄気取りの外見も中身もなあ!」


ーーーーー201ーーーーー


 翠淋は大口を開けて天を仰ぐと、ドス黒い瘴気(しょうき)を口から放出する。瘴気の中では、大勢の人の叫ぶ顔や憤怒の表情、喘いでる魂が蠢いている。


 黒い瘴気の煙が、少しずつ融合していき、翠淋の右手へと集合すると…ひとふりの黒色大太刀が握られていた。


「ほう…さすがの想像力だな。自身の神社の宝刀を模(かたど)るとは…想像以上だぜ」


 翠淋は右手の大太刀を満足げに眺めると、数回試し振りをしてみせる。大太刀を一振りする毎に、人々の悲痛な叫び声があがる。


「苦しみながら死んだ者たちの魂さ…なんて心地いい響きだ」


『この…外道が…悪趣味なんだよ!!!』


 怒りに任せた一撃を浴びせんと、ルゥが天高く舞い上がり、以前よりもリーチの長くなった紅い炎を纏った剣を振り下ろす。


 それを真っ向から受けんとする翠淋も、大太刀を両手に握り直すと着地点へと走りだす。


ーーーーー202ーーーーー


 紅い剣と黒い大太刀が合わさる瞬間、天と大地に轟音と閃光が走る。


 その衝撃波で、屋上に小さな裂け目が生じる。2人が攻撃を繰り出す度に、地響きが起き、天空は霹靂し、亀裂が少しずつ大きくなる。


『貴様!ガイコツの時とは別人みたいじゃねえか!』


「クロちゃんこそ、よく俺様についてきてるな、感心感心♪」


 快音と轟音を交互に繰り返し、目にも留まらぬ速さで、2人は楽しげに技の応酬を楽しんでいるように見える。


 黒と赤い影の交戦をどうすることもできずに眺めていた時、右腕からふっと痛みが止む。それとほぼ同時に、現世では現れないはずの左腕のブレスレットが現れる。ブレスレットは振動し、何かを訴えかけてくるが、樹里にはそれが何か分からない。


ーーーーー203ーーーーー


 そして、先ほど生じた亀裂から黒い渦が流れ出したかと思うと、そこから少しずつ夢の世界が溢れ出してくる。


 黒い潮流はあちらこちらにぶつかりながら、次第に大きな空間を形成していき、その空間に支配された場所は夢の世界と融合してしまう。さらに流れ出した黒い渦が、交戦する2人だけではなく、蒼や樹里の周りにも充満していく。


 黒い空間に囲まれた蒼が頭を抱え、苦悶に満ちた表情をしている。


 樹里は次第に大きくなるブレスレットの振動に気を取られ、いつの間にか黒い渦に取り囲まれていることに気づかないでいた。


『ジュリ!!!!!』


 いち早く気づいたルゥが樹里に気を取られた隙に、翠淋がルゥを上空まで弾き飛ばす。その勢いのまま、少女の元に飛びかかってくる。


「おい、女!!!何をやっている!!!!!」


 そう叫ぶと、少女の両手を掴む。そして…


「女ああああ!お前は生かしちゃおけねえ!この場で息の根を止めてやる!」


 と呻きながら、両手を少女の首へとかけ、首を締め上げていく。ギリギリ…と首への圧力が増し、それでもブレスレットに気を取られ、少しも抵抗できずにいる。


 薄れゆく意識の中で、翠淋の後ろから2人の影が飛んでくるのが見える。




 どれくらい気を失っていたのだろうか………


 ようやく意識が回復した目に映ったものを見て、樹里は驚愕する。


ーーーーー204ーーーーー


 蒼が翠淋と思しき体を持ち上げている…いや…首を絞めているのだ。


 足が地についていない状態に、翠淋は苦しそうにもがいている。首だけで全体重を支えている少女は、何とか少年の腕から逃れようとしている。しかし少年の長い腕からは、少しも力を弱める気配が見えない。


 ルゥは遠くから黙ってその状況を眺めている。


「…だめ…蒼…」


 呼びかけても、少女の声は一切届いていないかのように、上方を睨みつけている。


「聞こえねえみたいだ…それどころか近づけねえ…どうなってんだ」


 樹里は何とか足に力を入れ、よろよろと立ち上がると、半ば転びそうになりながらも少年の元へ駆け寄る。


 少年まであと1メートルというところで、樹里の全身がドクンと脈打ち、足が前にそれ以上進まなくなる。見えない壁のようなものが、行く手を阻んでいる。


 樹里は無意識のうちに右手で首の十字のネックレスを掴むと、反対の手を見えない壁に押し付ける。ネックレスからは僅かな電流がチクチクと流れ、その痛みが右手から腕、肩、頭と全身を駆け巡り、反対の腕を通り壁に吸い込まれていく。


 すると、見えない壁は呆気なく消え失せ、壁を押していた手が空を切る。


「蒼!!!」


 出せる限りの声で名前を叫ぶ。しかし、少年からは何の反応も返ってはこない。腕を揺さぶってみても、たくましい腕はビクともしない。


 後方を振り返ると、ルゥが先程の壁があった場所で何かを叫んでいるようだが、こちらには一切声が届いてこない。どうやら、見えない壁は消えたわけではなく、樹里だけが通り抜けられたようだ。


「蒼、お願い…動いてえ」


 彫像になったかのように人の首を抱えたまま動かなくなった少年の懐に入り、頬を平手打ちしたり、くすぐったり、きつく抱擁してみるが、まったく反応がない。それどころか少年の瞳は、何も映し出してはいない。


ーーーーー205ーーーーー


「お…兄…ちゃん…た…けて…」


 翠淋の咽び泣く声が、後方から微かに聞こえる。その声はノートンに体を乗っ取られている少女のそれではない。


 “いけない!このままでは蒼が妹を…!”と思った瞬間、樹里は自身の首にかかっているネックレスを外すと、微動だにしない少年の首へと落とす。




…ドサリ…




 後ろを振り返ると、翠淋は少年の腕から解放され、床に横たわっている。すでにルゥが少女の額に手を置き、“大丈夫”と目配せをする。


「わたしは…俺は…何を…?」


 蒼の黒かった瞳が、不意に、赤く輝きだした。


「ショウ…いえ…」


 翠淋を介抱していたはずのルゥが、いつの間にか蒼の足元で跪(ひざまず)いている。


 それからおもむろに口を開くと、思いも寄らない名前を口にする。


ーーーーー206ーーーーー

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