【3】静寂と脆弱

キー………



 静かにタクシーは病院の玄関前に横付けをする。ドアが開くと同時に、ルゥはぽんとタクシーを飛び降り駆けていく。蒼は運転手さんに手伝ってもらい、妹を背中に負っている。


 樹里はまず正面玄関前に立ってみるが、案の定自動ドアは反応しない。時間が時間だけに当然である。目を凝らして中を覗いても、緑色の非常灯が僅かに光っているだけで、人の気配が感じられない。


 “救急搬送口から入れるんじゃないですか?”と言い残し、タクシーの運転手はそそくさと病院を後にする。その言葉通りに、正面より左手に下った所に“救急搬送口”と書かれた赤い標識が光っていた。


「そう言えば、さっきの救急車はどこに行ったんだろう。こっちの方角だと思ったんだけどな」


 確かに…救急搬送口は開いてはいたが、人の気配が全くない。時折標識はチカチカと点滅をしており、中に樹里たちを招き入れようか迷っているかにみえる。


『おかしい…人のニオイはぷんぷんする…なのに気配はねえ。警備員室もカラだ』


「…おかしいな。やっぱり搬送した気配もない。インターフォンも…ほら。切られてるみたいだ」


 黒猫は樹里の肩に乗ると体を硬直させ、碧の目をシャッターを切るように赤く変えながら中を透視している。対照的に蒼は手応えのないブザーを押した後、ずんずんと中へ進んでいく。


 突然、赤く点滅していた標識が消えた。と同時にサイレンが目の前で鳴り、周囲が白衣を着た人達で溢れかえる。忙しなく動く人達に圧倒され、樹里は目を白黒させる。


ーーーーー182ーーーーー


「ああ!蒼たちが!」


『しまった!オレらだけコッチに来ちまった!』


 喧騒の中でひときわ大きな声で叫んでしまう。そんな1女子高生(と1猫)の叫びなんてお構いなしに、救急隊員や看護師たちはバタバタと駆け回っている。


 どうやら蒼たちを残し、樹里とルゥだけが現世へと来てしまったようだ。そして、今のところ向こう側に行く方法が分からない。とにかく凪のことが一番心配だ…探さないと…そう思ったとき―


「…バイタル血圧50です!依然危険な状態です!」


 ガラガラガラとストレッチャーを転がす音がし、甲高い救命士の声が響く。どうしようもなく声がした方が気になり、樹里は救急処置室のドアを勢いよく開ける。


 処置室の硬いベッドの上には、居てはいけない、ここに居るはずもない人物が横たわっていた。


『ナギ!?』


……いや……似ているけど……


「凪のおばさん!!!」


 忙しなく動き回っている人々を掻き分け横たわっている人物に駆け寄ると、血の気のない真っ青な顔をしたその人は意識はあるようだが、危険な状態にあるということは素人目にも明らかだった。


「ご家族の方ですか?」


「いえ、違います。親友の母親なんです。大丈夫なんでしょうか?」


「この方は大変危険な状態です。すぐにご家族の方をお呼びください!」


 急いで処置室を出て行こうとする樹里の手がいきなり掴まれる。目も開いておらず意識があるのかさえ分からないが、その手の主は必死に樹里の手を握りしめている。樹里は振り向くと凪の母の手を両手で包み込む。


ーーーーー183ーーーーー


 口元が微かに動いている。耳を口元に近づけてやっと聞き取れるほど弱々しくかすれた声が…


「あの子を…なぎを…助け…」


 あれほど力強く樹里の手を握っていたものから、ふっと力がなくなる。その手からはみるみると体温は失われてゆく―


そして、決して聞いてはいけない機械音が鳴り響く―


「ナギーーー!!!どこなの…!!?」


 樹里は渾身こんしんの力を振り絞って目を閉じると、ありったけの声で叫んだ。


 自分の割れんばかりの悲痛な叫びを受け、鼓膜が悲鳴をあげている。全身を味わったことのないほどの熱気と不快感が包む。目の裏ではちらちらと火花が散り、激しい頭痛と吐き気を覚えたが、樹里は目を閉じたまま耐え続けた。


 頭の中で反芻はんすうを繰り返す絶叫が、1つ…また1つと重なっていき、収束する。まとわりつく熱気と不快感は次第に薄れ、息苦しさから解放されていく。


 耳障りな機械音が…ふっと止む。音という一切の音が、周りから消えていた。それから人の気配も―


「...ル...ルゥ?」


 一緒にいたはずの黒猫は、目の前から忽然と消えていた。凪を探しに行ってくれたのかもしれない。


《それにしても、冷えるなぁ》


 音とともに、周囲の熱気すら消えてしまったのだろうか...少女はブルっと身震いすると、真っ暗になった処置室から出て行こうとする。


「いい加減学ばないやつだな、お前は...」


ーーーーー184ーーーー


 第一声を聞いただけで、全身から一気に血の気が引く。凍りついて一歩も動けなくなった体とは対照的に、体の末端だけが小刻みに震えだす。


「くっくっく…いい反応するじゃないか。名乗るまでもないようだな」


 頭の中に冷酷な響きがこだまする。その振動は頭から始まり、全身へ…毛細血管の隅々にまで駆け巡る。通り過ぎた箇所は凍結し、もはや自分の意志では動かなくなっていた。


「へぇ…昨日とはまるで別人のようにおとなしいじゃないか。昨日までの威勢はどこへいった?」


 声に反論する余地なんてどこにもなく、少女はただただ、意識を失わないように固く唇を噛むことしかできない。


「抵抗する気力すらなくなったのか?ユメクイのお気に入りは、とんだ期待外れだな」


 夢喰…というキーワードを聞き、ほんの一瞬…指先に自由が戻る。


 しかし、完全に自分の意志で動かせるほどではない。


「ほら、虚勢のひとつでも張ってみろよ。それとも何か?諦めるのか?」


 冷たき声は絶対零度の如く、有機物、無機物に関わらず、全ての活動を停止させる。樹里は活動停止しそうな意識を留めるのがやっとで、体の自由はすっかり手放してしまった。


「言いなりな女ほどつまらないものはない。私の手で終わりにしてやろうか?」


 冷酷無比な声は、幾分語気を和らげると、少女の耳元で囁く。


「とは言え、あいつのお気に入りを籠絡ろうらくするのも悪くないな。おい、女。私がいい提案をしてやる」


《てい…あん…?》


ーーーーー185ーーーーー


「そうだ。犯人を殺すのは忍びないんだろう?だったら、運命の変わるより前に遡ればいい。そう…お前が6歳だった頃に」


《…え?》


 少女はあまりにも唐突な内容に、声が何を言っているのか理解できなかった。口調の優しくなった声は、さらに独り言に近い会話を続けていく。


「お前の幼馴染が死にかけたことがあっただろう。あの時に、何かが終わり、全てが始まりを告げたんだよ」


《…終わり?始まり…?》


「そう。お前が背負うべきものを、幼馴染が肩代わりしたのさ。本当に...何も知らないとは言え、10年間もよくのうのうと生きてこれたもんだよ」


 自分のせい…と言われてもあまりピンとこないが、10年前の記憶がすっかり抜け落ちていた事実を考えると、納得出来る部分もある。



 間違いなく、あの時に、何かが起きたのだ。


ーーーーー186ーーーーー


「へえ…なかなか物分りがいいじゃないか。いい子にしてたら、特別に私が手助けしてやろう。教えてやるよ…誰も死ななくていい方法をさ」


《...教えて...欲しい》


「くっくっく…いい子だ」


 この頃には、声は聞こえてくるというより、自分の考えじゃないか…と錯覚するほど、頭の内部にすっかり浸透してしまっていた。このまま、声の通りに行動していたら間違いない…とさえ思えてくる。


 前日まであれほど不信感を抱いていた相手の言うことを、少女はあっさりと受け入れてしまった。


「いいだろう。お前の左手に着いてる腕輪、その中に“奇妙な時間を示す時計”があるだろう?」


 いつの間にか動くようになった右手が、左手に装着されている腕輪に触れる。すると、右手には2日ぶりに見る時計が握られていた。


ーーーーー187ーーーーー


 それは手にするとひんやりとして、でも仄かに温かみもある。押すとわずかに押し返してくるほどの硬さを持ち、重みも程よく手にすっぽりと納まる。おそらく現世には存在しない素材であろう。


 その時計を手で包んでいると、不思議な感覚に囚われてくる。懐かしいような...切ないような...それから何故か、“帰りたい”と。


「使い方は、説明不要だろう?ほら…何も怖がらなくていい。想いをイメージにするだけで、お前の望む場所が見えてくるはずだ」


 恐ろしかったはずの声はそこにはなく、今や甘い囁きとともに、少女の頭の中にすっかり根付いている。魅惑の響きは甘美な調べを奏で、忘却の想いへと誘惑する。


「さあ………願え」


——————————————————


 真っ暗な中目をつぶると、まぶたの裏に真っ白な空間が広がっていた。そこに赤...青...緑の光が加わり、鮮やかな色をパレットに散りばめていく。それからほぼ一面薄紅色に染まった景色へと収束する。


 吹き抜ける風に乗って、桜色の花びらが蝶のように軽やかに舞う。その後に、楽しそうな小鳥...つがいだろうか...が、囀りながら、お互いに啄み合うように楽しげに飛んでいく。さらに遠くでは楽しそうな子供達の声と、12時を告げるアナウンスが鳴っている。そして、周りの景色が少しずつ奥行きを持って、360度に広がっていく。


 不意に、風が樹里の体を勢いよく吹き抜ける。あまりの勢いに、その場に立っていられない。風に煽られた体をなんとかとどめ、思い切って目を開けてみると…



 目の裏に映っていたはずの場所に、いつの間にか降り立っていた。


ーーーーー188ーーーーー


 足の裏に当たる地面の感触や、穏やかな春の陽光、時折吹きつける柔らかい風…周りで起こっていること全てがリアルに感じられる。


 暖かい日差しの中で、樹里は1本の桜の木に焦点を合わせる。


「…リちゃーん…降りてきてよ」


 桜の木の下に、小さい男の子が1人立っている。まぶしそうに見上げている少年の視線の先には、これまた同じくらいの年代の女の子が、足をぶらぶらさせながら木の上から下を覗き込んでいる。


《あれ…蒼と…わたしだ!》


 記憶の中よりも鮮明な映像として、6歳の頃の樹里と蒼が目に映っている。小さい蒼は天使のように無垢な笑顔で、少女に向かって手招きをしている。すると、少女は3mほどもあろうかという高さの枝から、ひょいと事もなげに降りてくる。自分のことながら、あまりの身の軽さに目を疑った。


「ショウくん、また幼稚園抜け出してきたの?なぁに、おもしろいとこって?」

「こっち」


 色が薄くてふわふわした髪の毛の男の子が、さらに色素の薄い女の子の手を引いて、神社の方へと向かっていく。樹里は6歳の頃の自分と蒼の会話を、恥じらいながらも微笑ましく眺めていた。


 どう見ても仲睦まじい小さなカップルは、身長の5倍は優にありそうな鳥居の下を潜り抜けると、脇目も振らず本殿へと向かっていく。そして、本殿の横に長年根を下ろしている檜を足場にして、屋根に登ろうとしている。


「あっ…きみたち」


 樹里は思わず声を発してしまった。


 その声に反応して、真っ先に少女がこちらを振り返る。


 まさか声が届くと思っていなかったのもあり、16歳の樹里は言葉を失う。対照的に、6歳の樹里は曇りのない瞳で、まっすぐこちらを見据える。


ーーーーー189ーーーーー


「お姉さん、どうしたの?」


 汚れのない瞳で、少女は瞬きもせずに見つめてくる。少女の声を聞き、ようやく6歳の蒼が後ろを振り返るが、焦点が合っていない。どうやらこちらが見えていないようだ。


「ジュリちゃん、どうかした?」


 その時、突然腰のあたりに振動を感じて、樹里はギョッとする。


 次の瞬間、見つめていた2人と周りの景色全てがぼやけて滲んでいく。


 右ポケットをまさぐると、硬い感触がある…携帯だ!


 16歳の樹里は鈍っていた頭をはっきりさせるべく、自らの頬を平手打ちする。快音を響かせると、痛みと振動とでやっと意識が戻って来る。自由に動いていたはずの右腕が、激痛で動かない。仕方なく左手で右ポケットに手を突っ込むと、携帯を取り出す。着信しているようだ…充電が切れていたはずであったが………


「ううん。気のせいだったみたい」


——————————————————


ーーーーー190ーーーーー


 幼い少女の一言を最後に、現実世界…真っ暗な世界に引き戻される。それから、左手に握られていた携帯の通話ボタンを押す。


「樹里?樹里か!?良かった!やっと繋がった」


 変声期を経た低い声音を聞き、ようやくこちら側へ帰ってきたのだと分かる。安堵のため息を漏らすと、張り詰めていたものが切れ、急にがらからと崩れ落ちる。そして、込み上げてくるものをかろうじて留めると、囁くように一言を告げる。


「...ああ…無事で良かっ…た…」


「えっ…おい!大丈夫か?今どこにいる!?」


 樹里の足からはすっかり力が抜け、その場に倒れこむ。やっとの思いで携帯を握り直すと、そのままの姿勢で床に落ちていく。


「馬鹿なやつ。お前はせっかくのチャンスをフイにし、みすみす面倒な道を選ぶのだな」


 冷たい声は、遠ざかっていく少女の意識と共に、少しずつ遠くに消えていった。


ーーーーー191ーーーーー

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