【第7章 1】熱戦と熱視線

 3日目の夜は、特に静かであった。



 まだ20:20を回ったばかりだというのに、近隣からは音という音が何ひとつ聞こえてこない。いつもなら階下から聞こえてくるピアノの旋律も、外からの喧騒も……


 まるで世界中に1人と1匹しかいないように、静けさに包まれている。


『さぁ…決戦へと向かうか…。お嬢さま、準備はよろしいですか?』


 黒猫は聞いたこともないほど丁寧な言葉遣いでそう言うと、大きな耳を少女の前で傾ける。


《大丈夫…私にはルゥも夢喰さんも…待っていてくれる人達もいるもの。覚悟はできた…行こう!》



 無音の空気の中、樹里は鮮やかな鈴の音を鳴り響かせた。


ーーーーー157ーーーーーー


 やわらかな鈴の音が辺り一面に木霊する……それから音は静かに収束し、視界は闇に包まれる……すると、心を躍らせるような旋律がどこからともなく聴こえてきた。そして歓声があがる。



ワアァァァァ!!



 音の正体に気づくと視界も完全に開け、周囲は激しい喧騒と熱気に包まれた。この独特の空気感、間違えるはずはない。少女はとあるライブ会場に来ていた。


 カーテン1枚を隔てた先から、樹里の愛してやまない音色が聴こえてくる。どうやら少女と黒猫は舞台袖のカーテンの後ろにいるらしい。


《イントロを聴いただけで分かる…毎日聴いてるもの》


 胸の高鳴りを抑えきれずカーテンを握る手が震えるのを感じながら、樹里は舞台に躍り出た。


「やっぱりそうだ!!」


 歓喜の叫びを上げた樹里の視線の先には、某バンドメンバーの後ろ姿があった。ずっとずっと楽しみにしていたライブが目の前で繰り広げられている。


「夢みたい!彼らのライブがこんなに間近で見られるなんて!」


『いや、夢だし』


「まぁそうなんだけど♪夢だと思えないくらい素敵な演奏だと思わない?」


『確かに割とリアルだな。オレまでワクワクしてきた♪』


 そう言うと、ルゥは音楽に合わせてタンタタンとリズムを取り始める。華麗なステップを踏む黒猫はさらに乗ってきたのか、猫にしとくにはもったいないくらい見事な舞踊を踊り始めた。


ーーーーー158ーーーーー


 1曲…2曲…と素晴らしい演奏は奏でられてゆく。ボルテージは最高潮に達し、会場全体が感動に湧いている。


「もう夢でも何でもいい…。この瞬間はいつも“思い残すことはない”と思っちゃう。本当に私幸せだ~!」


『おいおい。縁起でもねぇこと言うな』


 そう言いながらもルゥは満更でもなさそうに音楽に聴き惚れている。樹里はしばらく輝くばかりのステージを夢心地で眺めていた。


《せっかくチケット取ってくれた蒼には申し訳ないけど、この夢のライブで満足しちゃった。本物は見れないかもしれないし》


 ふと…彼らの顔を間近で見たいという衝動に駆られた。樹里は生唾の飲むと、1歩ずつボーカルに近づいていく。


『お…おい…やめとけよ。何か嫌な予感する』


「一瞬!一瞬だけだよ!せっかくのチャンスだもん。見とかないと死んでも死にきれない」


『だから!縁起でもねぇこと言うなって!まじでやめとけ』


 樹里は制止するルゥには耳を貸さず、ずんずんと近づいていく。ドラマーを越え…ギタリストを過ぎ…ボーカルの前に立ちはだかった。



!!!?!!??


ーーーーー159ーーーーー


 艶やかな衣装に身を包んだ男の顔は青白く、目は虚ろで唇は全く血の気がなく紫色に変色していた。


「なっ…!どうしたの!?」


「…ショウタイム…」


 紫色の唇から囁かれた言葉を合図にして、演奏は中断される。静まり返った場内で耳障りな音が響き始める。



カチ カチカチ


カチカチカチカチ



 耳を塞ぎたくなるほどの煩わしい空気の振動に、樹里とルゥは顔を歪める。


 みるみるうちに男の顔は白骨化していき、剥き出しになった歯から音が発せられているのだと分かる。目は完全に落ち窪み、鼻の穴も露わになる。顔面がふっと…笑った…気がした。


「……ノートン…船長……」


「冥土の土産は気に入ってもらえたかいお嬢さん?」


 骸骨船長は不敵な笑みを浮かべながら、自分の演出に酔いしれるように派手に敬礼する。実際には骸骨なので、笑っているかは定かでないが。


『おい!骨ヤロウ!何カッコつけてんだよ?前回散々いたぶられたのに、まだ懲りてねぇのか?』


 いつの間にか、ルゥは樹里と骸骨船長との間に滑り込んできていた。ルゥが腰に手を当てながら小意地悪く挑発をする。


 しかし船長も負けてはいない。少女に見せていた紳士的な態度とは打って変わって、黒猫を見下ろすとイヤミの応酬を繰り出す。


「誰かと思えばただのチビクロちゃんじゃないか。お前こそお友達の鳥さん無しで大丈夫か?怖かったら素直に泣いていいんだぜ?」


ーーーーー160ーーーーー


『はぁ?貴様こそお仲間いないと何にもできねぇ弱虫じゃねぇか。逃げたかったらいつでも逃げていいぜ。今なら見逃してやるよ』


 ノートン船長は白い顔をますます白くさせていく。悔しそうに歯をカチカチ鳴らしていたが、思い出したように指をパチっと打ち鳴らす。すると他のバンドメンバーはおろか、観客席までもがザワザワと動き出す。それから船長の前にひれ伏すように集結した。


「くっ…ぶはははは!確かに俺には従う下僕しもべが大勢いるな。だがなクロちゃん、俺は弱虫だから仲間がいるんじゃないぜ?仲間が自然とついてくるんだよ…。第一今の俺は前の俺とは比べ物にならないほど強い。果たしてお前に俺の相手が務まるかな?」


 そんなことを言われた黒猫はたまらない。完全に全身の毛を逆立て、尻尾も平常時の5倍くらいに膨れ上がっている。爪と牙を剥き出しにしながら、唸り始める。瞳は碧色から赤色へと変貌していく。それからルゥらしからぬ冷淡な口調で話し始めた。


『お前こそ気づかないのか?オレは前のオレとは違うぜ。以前はパワーが十分に満たされてなかったからな…本気出せなかった。そんなオレにお前こそ勝てるわけねぇよな?』


 樹里はあることが閃いた。ずっと疑問に思っていた答えが見えてきた。


「…あっ!だから時々“偵察に行ってくる”って出掛けちゃってたのね!」


『そう。しばらく獲物を探して力を補充していたんだ。その間、ジュリには寂しい思いさせちまったかな?』


 そう言うと、黒猫は一層美しく輝く赤い瞳を片方瞬いてみせる。いつにも増してルゥには自信と力が満ち溢れているようにみえた。


『今日はジュリの手をわずらわせることもないだろ。本気のオレに惚れんなよ?』


ーーーーー161ーーーーー


 見つめ合う1人と1匹に、たまらず船長が声を掛ける。


「おいおい!2人の世界に入ってんじゃねぇよ!クロちゃんの本気とやらを見てやろうじゃねえか」


 ノートン船長は下僕達の前に歩み寄ると、手をかざしてブツブツと唱え始めた。すると、その内の何十体かは立ち上がり黒猫に向かってきた。


 ルゥは面倒臭そうに右手を上げると、事も無げになぎ倒していく。死屍は積み重なって山となっていく。それ以上に立ち向かってくる死屍はいなかった。


「なっ…なんでこれしか動かないんだ?お前ら、どうした!?」


『あ、わりい。言うの忘れてたけど、オレが食ったのはお前のシモベだった。残ってるのは抜け殻だぜ』


 ノートンは骨ばった体をわなわなと震わせて、怒りを全身で表現している。突然、ふっと動きを止めると嘲り笑いだした。


「ぶっ…ははははは!そういう事なら話は早い。こっちも本気を出すとするか…」


 ノートンは佇まいを正すと、骨の手を目一杯上空へ向けて掲げた。それから一言“ー我の元へ集結せよー”と呟く。


 すると、周りに散らばっていた下僕達が1体…また1体と船長の体に吸い込まれていく。周囲がスッキリと何もなくなると、みすぼらしい骨の体はすっかり面影をなくしていた。


 ノートンはすっかり血の通った人間へと変貌を遂げていた。彫りの深いラテン系の美しい顔立ちに整った口ひげ、長く編まれた濃茶色に輝く髪。思わず見とれる風貌に、樹里は息を飲む。


ーーーーー162ーーーーー


「ふぅ………この姿になるのは久しぶりだ。驚いたかね?これが私の本来の姿だ」


 声色まで変わってまるで別人である。久々に見る自身の血色のいい肌を見て、ノートンは満足そうにほくそ笑んでいる。



 しばらく静観していたルゥだが、盛大に伸びをすると“気にくわねぇ”と言いノートンに向かって飛びかかる。



ギャん…



 あまりの速さに、樹里は状況を把握できなかった。飛びかかったと思った次の瞬間、10mほど離れたところに黒猫は倒れ込んでいた。


「…ルゥ!大丈夫!?」


 駆け寄ろうとする樹里に“…来るな!!!”と制止をし、よろよろと立ち上がる。小さな黒い体は今にも崩れ落ちそうに震えている。


『ふっ…さすがにこの体のままじゃキツそうだぜ』


 美しい毛皮を逆立て、天を仰いで口を大きく開ける漆黒の生き物。全身の毛はまるで天から注ぐ光を浴びるように輝きだす。耳の先から尻尾の先まで光が行き届いた直後、轟音と共にルゥの姿は見えなくなる。


「る…ルゥ!?」


 突然消えてしまった黒猫を樹里は目を凝らして探すが、どこにも見つからない。それはノートンも同じようだ。


「クロちゃんはもしかしてご主人様を置いて逃げたんじゃないか?」


「ここだよ。オレはどこにも逃げない。貴様と違って臆病者ではないからな」


 遥か上空から美しく澄んだ声が聞こえる。普段ルゥが発する思念派とは全く異なり、しっかり空気を振動させて聞こえてくる声だ。


ーーーーー163ーーーーー


 顔を上げた途端、樹里は言葉を失った…



 そこには、漆黒の両翼を持った天使がいた。正確には猫の耳がついているので天使ではないかもしれないが…


 恐ろしく整った顔立ちをした天使には、まだ少しあどけなさが残る。しかし、少年というにはあまりにも色香が漂っている。夢喰とは対極にある美しさである。


「ルゥ…だよね?」


「そうだよ。そして、これが本来の夢式神の姿でもある。耳だけはジュリの趣味で残ってるがな」


 そう言うと、ルゥは耳をしなやかに動かしてみせ、お得意のウィンクをする。樹里はなんら変わりない相棒を見て、ホッと安堵のため息をつく。


「く…クロちゃんもなかなかやるじゃないか。それでも俺の相手ではないがな」


 言葉とは裏腹に、ノートン船長の足はがたがたと小刻みに震えている。変身したルゥに畏怖を感じているのは明らかだ。それでも闘争本能に掻き立てられてか、ルゥに飛びかかっていく。


 ルゥは頭からすっぽりと被っている黒いフードから出ている耳を僅かに動かす。ただ…それだけで…


 ノートンの体は縛られたかのように押し留められ、手は虚しく空をきる。ルゥはノートンに一瞥をくれただけで、敵に興味はなさそうに樹里の元へと舞い降りる。


「さぁ、次行こうか」


 樹里の背中を押しながら、ルゥは出口の方へと促していく。扉に手をかけたところで、ノートンが不気味な笑いを投げかける。


ーーーーー164ーーーーー


「何が可笑しい?」


「…くっく…。何かお忘れじゃないかな?俺の得意技は何と何だったかな?」


「そんなの分かりきったこと。蘇生術と幻惑術だろ?」


 ルゥは尚も面倒臭そうに顔をしかめて答える。ノートンはそれを聞いて、ますます不気味な笑みで顔を歪ませている。それから右手の人差し指を左右に振る。


「チッチッチ。残念でした。催眠術も得意なんですね~♪ダメだなぁクロちゃんは。前回まんまと眠らされたのを忘れたのかい?」


「前回は油断しただけだ。第一今回は何も食べても飲んでもないぜ?そっちこそ力が発揮できなくて残念だったな」


 気味の悪い顔を崩さず、ノートンは口ヒゲを指でいじりながら舌なめずりをしている。ノートンは何かを待っているようだ。


 相手にしてられない、とばかりに早々に踵を返したルゥだが……振り返ると同時に床に突っ伏してしまう。


「な…にを…した…?」


「わははは!驚いたか?お前はすでに俺の術中にはまっていたのだよ。どうだ?意識はあるのに手足はびくともしないだろ」


「いつの間に…!?」


「お前が猫の姿で飛びかかってきたときさ。抜かったな」


 拘束のとれた船長は、わざとらしく伸びをして体を大きく仰け反らせると、床に力無く倒れている黒天使の翼を片手で掴む。それからいとも容易く体ごと持ち上げると、勢いをつけて天井に叩きつける。


ぎゃあ…!


 床に再び戻ってきたルゥにはすでに意識はなかった。


ーーーーー165ーーーーー


「たわいもない。やはりお前はただの猫だよ、つまらん」


 そう言うと、ルゥの耳から鈴状のピアスを取り、自分の耳に着けてみせる。


「さぁ、邪魔者はいなくなった。女!今すぐ楽になるか、さるお方の元で玩具にされるか…どっちか選べ。どっちにしても、お前は天国には行けないがな」


 樹里はゆっくりと歩いてくるノートンを見ながら後退りをする。恐怖のあまり足はもつれて思い通りに動いてくれない。


「ん?どうした?口もろくに利けないのかな?」


 意地悪く笑いながらノートンは迫ってくる。


 樹里は壁際に倒れ込むようにして尻餅をつく。


 1歩ずつ迫りくる恐怖…船長の伸びてくる腕…樹里は思わず目を固く閉じた。



どさり……



 何かが落ちる音がした。それから苦しそうに呻く声。のたうち回る音が続く。樹里は恐る恐る、目を開けてみる。


 目の前には黒衣の天使…ルゥが背を向けて立っていた。広い背中に遮られ、何が起きているのかは分からない。しかし、いつの間にか立場は逆転したようだ。


「たわいもない。ノートン、お前こそ期待外れだよ。もう終わりか?」


「くっ…う゛っ…どうして…」


 冷笑を浮かべながら、ルゥは淡々と話し始める。


「ピアスだよ…。ジュリのように美しい心の持ち主が使えば素晴らしい効果が…逆にお前のように醜い者が身につければ、ピアスに力を奪われ支配されていく。お前は夢魔としてはもはや無力だ。さぁ、許しを乞え。さもなくば…死を」


ーーーーー166ーーーーー


「ば…かな…。誰が…お前なんかに許しを…クロちゃんごときに…屈するものか!」


 ルゥの舌打ちする声が聞こえる…恐ろしい台詞とともに…


「貴様と遊ぶのは飽きた。…死ね…」


 細く長い腕をノートンの頭にかざし、ルゥは目を閉じた。黒いフードとマントの裾をはためかせ、どこからともなく発生した風が次第に全身を包んでゆく。その風がかざしていた手に集結していき、止んだ時には紅い炎を纏った短剣が握られていた。


 仰け反るノートンの首元に短剣を突きつける。いけない!樹里は直感的にそう感じ、立ち上がる。


「だめぇ!!!」


 樹里はやっとの思いでルゥの背中にしがみつく。ルゥは驚いて一瞬手を止める。


 その瞬間を見逃さなかった。ノートンは渾身の力を振り絞りピアスを剥ぎ取ると、黒衣に投げつける。2人が顔を向けたときには、ノートンは跡形もなく消えてしまっていた。


「あっ…消えちゃった…ね?」


「あ~あ。逃げられちゃった。ジュリはホント甘いんだからなぁ」


 姿は人型のままに、普段通りの優しいルゥに戻っていた。樹里は落ちていたピアスを拾い、背伸びをして黒いフードを外すとルゥの耳につける。ルゥの息遣いが頬を撫でる。なんだか甘いいい香りがした。


「………ん!?」


 ルゥはそれまでの朗らかな表情を一転させて、目を見開いて何かに驚いている。それから目を閉じて耳を伏せると、悔しそうに話し始める。


ーーーーー167ーーーーー


「マズいことになった…。ヤツがピアスを装着したことで、ヤツの考えが分かるようになったんだが…あいつ…現世に行ったみたいだ。しかも何か良からぬ事を企んでる」


 ルゥのただならぬ様子から、事態が深刻であることが分かる。樹里は事の重大さに気づき、初めて自分の心の甘さを悔いた。


「ごめんね。私が甘かった…ルゥの言う通りにしとけば良かったね」


「と・に・か・く!いったん現世に戻ろうな!」


「…うん。いつも迷惑かけてごめん」


 ぽんぽんと頭を軽く撫でる温かい手に、“気にしなくていいよ”という優しい気持ちが込められていた。


 樹里はルゥの優しさと強さに後押しされ、気持ちを切り替え鈴を逆に1回転させた。


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