【2】弓道部の怪
蒼は担任に呼ばれているため職員室へ、樹里は凪に呼ばれているので弓道部の部室へと向かう。
蒼と下駄箱の前で別れたところで、黒猫が戻ってくる。ルゥは樹里の顔をにやにやと眺めている。
『素直になれたみたいだな。こっちも凪に憑いてた無魔を追っ払えたぜ。とりあえず校内に無魔は残ってないから安心しろ』
凪は確かにいつもの優しい凪に戻っていた。今までのいきさつをまるで覚えていないらしく、1時限目の古典を受け損なったことを知らされてひどく落ち込んでいた。
それからの凪は、まるで今日の鬱憤を晴らすかのごとく矢を撃ちまくっていた。鬼気迫る副部長の撃ちっぷりに、上級生までが遠慮して遠巻きにしている。
「誰も撃たないの?練習にならないじゃない。ほら樹里!久々に腕前見せてみなよ」
なぜかご指名を受けてしまった樹里は、仕方なく胴着に着替えて準備する。
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樹里は厳かに礼をすると、弓を構える。久々の的はやけに遠くに感じる。弓をゆっくり引き絞り、矢を放とうとした…その時…
右腕に激痛が走る。固唾を呑んで見ていた部員達は一斉に悲鳴をあげる。
樹里は周囲の喧騒に驚いて右腕を動かそうとするが、思うように動かない。足元には自分が取り落とした矢と、別の矢が落ちている。その周りには少しずつ、赤い水たまりが広がっていく。
「救急車…誰か救急車呼んで!」
凪が高らかに叫ぶと、何人かが急いで道場を出て行く。それから凪は樹里の元に駆け寄ると、持っていた手拭いを引き裂き、患部より上部に力一杯巻きつけた。
「これで一応は止血できるはず。樹里、意識を強く保っててね」
樹里は自分の身に何が起きたのか理解できずに、必死に働いている凪と目を丸くしている黒猫とを交互に眺めた。黒猫は樹里が何を言いたいのかを察する。
《違う…無魔じゃねぇ…これは…》
ふと、黒猫の視線の先に弓が見える。地面に無造作に置かれているそれは、部員のものではない。樹里は腕を押さえながら、弦の切れた弓に刻印されている名前を見た。…S.K…と。
ほどなくしてサイレンの音が近づいてきた。樹里は犯人を探したかったが、凪と救急隊員とに無理矢理救急車に押し込められてしまう。
凪のおじさんが入院している総合病院で精密検査を受ける。その間中、凪は付き添っていてくれる。怪我をした帳本人よりも青い顔をし心配してくれる凪を見ると、今朝のことが夢のように感じられる。
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医者の話によると、出血の割には怪我は大したことなく、右上腕部に全治2週間の切り傷を負っただけだそうだ。しかし医者は首を傾げている。
遠距離から受けた矢傷で、これほどまでに鮮やかに急所を避け、かつ小さな傷で済むことは奇跡に近い。というより、不可能だと言うのだ。
樹里たちが治療室から出ていくと、3人の姿が目に入る。蒼と岡崎先生と、樹里たち弓道部の部長である
沙波先輩は部長ではあるが、現在3年で受験生ということもあり、実質の部長の役割は凪が担っている。また、沙波先輩は樹里の兄鹿竜の元彼女でもある。
「樹里!大丈夫か?怪我したって聞いて気が気じゃなかったよ。何で怪我したんだ?」
「樹里ちゃん怪我の具合はどう?弓道部のみんなも心配してたわ。どうしてこうなったの?」
樹里が答えづらそうにしていると、凪が興奮気味に説明をしだす。
「矢傷よ。誰かが樹里の腕に向かって撃ったみたいなの。もしかしたら部員の誰かかもしれない。許せない!」
「ちょっと待って。あなた副部長でしょ?そんな人間が、証拠もないのに部員を疑うなんて許せないわ。少し落ち着きなさい」
普段は美しく聡明で温厚な沙波先輩が、珍しく声を荒げている。
「でも…でもこれは素人のできることではないって先生が…。部員じゃないとしたら誰が…?」
今にも泣き出しそうな凪と、困惑顔の沙波先輩との間に割って入る声がする。
「君たちいいかげんにしなさい。今は犯人探しより、怪我した水乃本人をいたわってあげなさい。とにかくここは病院だ、水乃の家まで送ろう」
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岡崎先生の言葉で、その場の全員が落ち着きを取り戻す。凪を病院に残し、一行は岡崎先生の車に乗り込み帰宅する。
「樹里ちゃんとは本当にお久しぶりね。4ヶ月くらい経つかな?鹿竜は元気?」
「ええ沙波先輩。竜くんはイタリアでも楽しくやってるみたいです」
沙波先輩と喋るのは4ヶ月ぶり、つまり樹里の兄が留学してしまって以来ほとんど口をきく機会がなくなってしまっていた。久しぶりに話す沙波先輩は相変わらず綺麗で、女性的な魅力で溢れていた。
沙波と鹿竜とは一番古い付き合いで、小さい頃から樹里も遊んでもらったり悩み相談をしてもらったりしていた。実の姉のように慕い、憧れの存在でもあった。なのに鹿竜は特定の彼女は作らず、遊び歩いていた。そのたびに沙波が泣かされているのを、樹里は何度か見たことがある。
《いつか竜くんの悪い癖が治って、沙波先輩とうまくいけばいいのにな》
『難しいんじゃね?サワは美人だけど、心の中はいろいろと複雑みたいだしな』
“なにが?”と聞こうとしたとき、車は沙波の家の前に停車する。大きな門構えはいつ見ても圧倒される。
「先生送っていただきありがとうございます。樹里ちゃんもお大事にね。またゆっくりお話ししましょ」
樹里はハッとして車の窓を開け、言い忘れていたことを言う。
「竜くん、数日以内に夏休みで日本に帰ってきますよ!帰国したら沙波先輩に一番に連絡します!」
すると沙波はこぼれんばかりの笑顔で“ありがとう”と言うと、顔を隠してしまい手を振る。
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車が出発すると、蒼が珍しく難しい顔をしていることに気づく。隣では見えないのをいいことに、ルゥも腕を組み顔をしかめて、蒼の真似をしている。それがあまりにも似ていて可笑しかったので、樹里は吹き出す。
「最近周りで変なこと起こりすぎじゃないか?試験延期になったり、ボヤ騒ぎがあったり、パンクしたり。そして今回の樹里の怪我だ」
蒼があまりにも真剣な眼差しで話し掛けてきたので、ルゥも飛び上がって驚いている。その後ちょこんとお座りをすると、うんうんと頷き始めた。その姿も可笑しかったのだが、樹里は必死に笑いをこらえた。
「おーい。俺はマジで心配してるんですけど?凪が部員の誰かがやったって言ってただろ。樹里は何か心当たりある?もしくは何か見たとか」
「心当たりは無くはないかな。S.Kって書いてある弓が落ちてた。あれがもしかしたら犯人のものかも」
「S.K…………香山さんはS.Kじゃないか!?」
「それはない!あの人はそんなことする人じゃない!」
樹里は口の端が緩みながらも反論した。確かに沙波先輩のことは一瞬頭によぎった…でも妹のように可愛がってくれてたあの人が、そんな恐ろしいことをするはずがない。
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「そうだよなぁ。じゃあ誰なんだろう」
『誰かなんて、知らない方がいいかもしれないぜ?』
「ルゥは誰か知ってるの?」
「誰だって?ルゥって誰だ?」
それまで黙って運転手に徹していた岡崎先生が、不意に口を開いた。その様子に一同口を開けたまま呆気にとられた。樹里が誤ってルゥの名前を発してしまったことよりも、岡崎先生が突然反応したことに全員が驚いた。
「あ、いや、何でもない。先生は運転手に徹します。話続けて」
首を傾げた樹里だが、S.Kについて頭に思いついたことがあった。
「蒼もS.Kだ!」
車内は一気に温かい空気に包まれると、堪えていた笑いが沸き起こる。
「くだらねぇ!」
『くだらねー』
少年と黒猫はシンクロしたように笑っている。先生もくすくすと笑うと“犯人探しはやめ”と言い、マンションに横付けする。
「ありがとうございました。ご心配おかけしてすいません」
「先生こそごめんな。土日の間は安静にしてるように。月曜に腕が動かなそうなら先生に言ってくれ」
そう言うと、岡崎先生は行ってしまう。
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それから2人と1匹が仲良く7階に上がると、樹里の家の前に珍しい客が待っていた。顔を真っ青にし、今にも倒れそうな美少女は蒼の妹であった。
「翠淋、お前こんなとこでどうした?家に連絡したのか?」
苦しそうに顔を歪めて翠淋が飛び込んだ先は、樹里であった。
「えっ!?どうしたの?大丈夫?」
翠淋はそのまま泣き崩れて、とても会話ができる状態ではなかった。蒼の家にはどうしても行きたくないと言うので、樹里は蒼を追い払い翠淋を自分の部屋へと上げる。
しばらく翠淋は泣きはらしていたが、コーヒーを飲み干し少し落ち着くといきなり樹里に頭を下げる。
「ごめんなさい…樹里さんの怪我…もしかしたら私の…せいかも…しれないんです」
途切れ途切れに発する言葉には、苦悩が見てとれる。樹里は翠淋がゆっくり話し続けるのを静かに聞いていた。
「今日、高校の先生に呼ばれたんです。でもその先生がいなかったので、樹里さんの腕前でも見てやろうと思って、道場に行ったんです。そこで、胴着を着た樹里さんを見たら…相変わらず綺麗で…少しイラっとして…。その後の記憶がないんです…気づいたときには下に私の弓が落ちてて…怖くなって逃げてしまいました」
そこまで言うと、翠淋は目からぽろぽろと涙を流し突っ伏してしまう。
『ウソはついてないみたいだな。本当に記憶が途切れてる。やつらの気配なんかなかったのに…』
ーーーーー153ーーーーー
樹里はしばらく小さな肩をか細く揺らしている少女を眺めていた。
すると何を思ったか、黒猫の耳から鈴のピアスを取り外し、翠淋の顔の前に垂らした。
《何回くらい振ったら4時間さかのぼれる?》
『3回で1時間だから12回くらいかな…ってそんなことしても、妹チャンの記憶がなくなるだけだぜ?』
樹里はゆっくり1回頷く。それから少女の名前を呼ぶと、鈴を縦に振り始める。
鈴は歌うように美しいメロディーを奏でだす。ふわりふわりと少女の頭上から記憶の旋律が流れ出す。
鈴の音を聴きながら翠淋の目は虚ろになる。そして歌が鳴り終わる頃には、いつも通りの凛とした表情に戻っていた。
「えっ…何で私樹里さんの部屋にいるの…?」
「たぶん蒼に会いに来たんじゃない?私がコーヒーでもどうって、無理に部屋に上がってもらったの」
「そう…でしたっけ…じゃあ兄の所に戻ります。お邪魔しました」
翠淋は目をキョロキョロさせて、落ち着かない様子で部屋を出て行く。樹里は翠淋が部屋を出るなり、蒼に電話をかける。
「ちょっ!樹里たち大丈夫かよ。翠淋何か失礼なことしてないか?」
「してないよ、大丈夫。今は翠淋ちゃん動揺してるみたいだから、何も聞かないであげて?もう平気だから安心して」
電話の向こうから元気そうな翠淋の声が聞こえる。樹里はそっと胸をなで下ろす。
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『オレには樹里のしたいことが全然分かんね…』
しばらく静観していた黒猫は、突然ボソッとつぶやくと、ベランダの手すりの上にひょいと登る。
ちょうど南向きの窓から見える景色は、光と闇が混在している。茜色に染まる空が少しずつ闇に溶けていく様は、見ているだけで心を落ち着けてくれる。樹里はここからの眺めが1番好きだった。
少女はやわらかな風を感じながらベランダに出ると、黒猫の横に並んで肘をつく。
「うん。そうだよね…私自身も良く分からないんだ。ただ…翠淋ちゃんの心の痛みを少しでもとってあげたかった…」
『なんだよそれ!?例え本人が覚えてなかろうが後悔してようが、やったことはやったことだろ?少しくらい反省させた方がいいんだよ』
「そうかもしれない…でも…そうじゃないかもしれない。私には彼女の気持ちが分かるの。自分のせいで人を傷付けてしまった思い出ほど辛いものはない…後悔していれば後悔しているほどね。私は彼女にはそんな思いを抱えて欲しくない」
『そんな思いって?ショウが昔自分のせいで死にかけたこと気にしてるのか?あれはジュリのせいじゃないだろ』
「私のせいだよ。誰も責めないからって気にしないふりはできない。こんなことなら思い出したくなかった…」
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あの記憶を取り戻してから数日、樹里は自分の気持ちが本当はどこにあるのか分からなくなっていた。罪の意識から蒼の気持ちに応えようとしているのか、心から大切なものに気付けたのかが分からない。それに……
「好きになってはいけない人を好きになってしまった気持ちも分かる。翠淋ちゃんはずっと葛藤して生きてきたと思うの…。私なんてほんの数日だけど…」
『オレにはいまいち分かんねぇ話だけど、痛み苦しみだけは理解できる。ジュリがそれでいいんだったらオレもいいや』
「ありがとルゥ」
それだけ言うと、1人と1匹は沈んでゆく太陽を…もしかしたら最後になるかもしれないと感じながら…眺めていた。
ビルとビルの隙間から漏れている光の柱がまるで十字のようで、樹里は手を合わせずにはいられなかった。
《どうか…どうか、もう1度私に眩しい太陽を見せてください…》
これから待ち受ける夢はおそらく今までにないくらい壮絶なものになるであろう……無言で消えていく光の輪郭を見つめている黒猫の悲しそうな表情を見て、そう思った。
そして無常にも日はガラガラと崩れ落ち、夜の帳は一瞬にして下ろされた―
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