【2】猜疑心と疑惑
夢喰の部屋に戻ると、室内は雑然としていた。あちらこちらにアンティークの家具は散らばり、部屋の様子も何となく薄暗い。
『ジュリ~大丈夫だったか?アーケードの中に入れそうもなくて、急いで夢喰様を呼びに戻ったんだけどな。間に合って良かった』
樹里は無邪気に近づいてくる黒猫に対して、無性に腹が立ってきた。嫌な言葉がどんどん口をついて出てきてしまう。
「ルゥは何やってたの?いつでも助けてくれるって大口叩いてたわりには、全然役に立たないし。そもそも私が死のうが生きようがルゥには関係ないしね」
言われた黒猫はショックを隠せない。普段のルゥならば反論するところだが、今は目に涙をいっぱいためて走り去ってしまった。
言ってしまった後にハッとしたが、やり場のない怒りには抗えない。黒猫に申し訳なく感じたのは束の間であった。周りのもの全てが疑わしく、腹立たしく思える。
樹里は思いの丈をぶつけるように、夢喰に吠えかかる。
「夢喰さんだって酷い。あと少しで危ないところだったんだから!守ってくれるっていうのは嘘だったの?もう私…誰を信じていいか分かんなー」
突然目の前がぼやけ、焦点がうまく合わなくなる。そして口元に温かいものが触れた。すると樹里の心は優しさと穏やかな気持ちに満ち溢れ、今までの恐怖や怒りが嘘のように晴れていく。
樹里はそのまま目を閉じ、自分の中に流れこんでくるやわらかな幸福感に、しばらく酔いしれていた。
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閉じていた目の裏側に懐かしい風景が蘇る。
しとしとと雨が降っている。周りには紫陽花の花が咲き乱れ、少女は傘の合間から色とりどりの花を楽しんでいる。
みぃ…みぃ…
ふと耳の端に弱々しい猫の鳴き声が聞こえる。樹里が目線を下に向けると、パッと小さな生きものと目が合う。紫陽花の咲く垣根の下に、小さな白い子猫がちょこんと座っている。
白い毛皮はすっかり雨に濡れて薄汚れているが、碧色に輝く瞳が印象的な美しい猫である。その猫は寒いのか、小さな体を小刻みに震わせていた。
少女はしゃがみこむと、自分の傘を子猫の上にさしてあげる。それから傘を左手に持ち替えると、右手を子猫の前に差し出す。
「猫ちゃんこんな所でどうしたの?帰るお家ないの?良かったら家にくる?」
言い終わらないうちに、白猫は頷くと右手の上に乗ってくる。
制服が汚れることも気にせず子猫を胸に抱きしめると、持っていたタオルで包み込む。
家に帰ると3才年上の兄だけがいたが、ずぶ濡れの妹を見た途端慌てて玄関に飛んできた。バスタオルを2、3枚持ってきて樹里に被せかける。
「樹里、そんなにびしょ濡れになって!傘忘れたのか?しかも、そのちっこいのどうしたんだよ?」
「私はいいから、この猫ちゃんを洗ってあげて欲しいの。あと、ミルクと寝床と…
子猫を兄に手渡すと、樹里はそのまま玄関に倒れ込む。
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樹里が気がついたときには、ふさふさとした温かいぬくもりが首元に絡みついていた。すっかり洗われて綺麗になった白い子猫は、寝ている少女の首の横に寄り添って寝ている。
白猫の毛皮は今や美しく光り輝き、まさに真珠のように光を吸収してキラキラと煌めいている。まだ小さな肉球は淡い桜色で、安心しきっているのか手足をぎゅーんと伸ばしている。
樹里が“猫さん”と語りかけようとしたとき、ふと白猫は目を開けた。そして1人と1匹が目を合わせた瞬間、“プラムだよ”と聞こえた気がした。なので、この日から同居人(猫)の名前は【プラム】になった。
最初、両親はまだ9才だった樹里が猫を飼うのに反対した。しかし兄の説得もあり、マンションの管理人の許可も出たので飼えることになった。
それからはどこへ行くにも樹里とプラムは一緒だった。
朝は樹里と蒼の乗る自転車の後ろからプラムはついてくるし、帰ってきたらバスでも歩きでもどこへでも一緒に遊びに行く。もちろん、猫の入れない所に行くときには何も言わなくてもお留守番をしてくれる。
しかし驚くべきはプラムの洞察力である。プラムは餌の時間になるとちょこんとお座りをして待ち、樹里が遊びたいと思ったときにはオモチャをくわえて持ってくる。
そのくせ樹里が忙しいときには絶対に邪魔をすることはないし、具合が悪いときはいち早く気づき誰かに知らせてくれる。
まるで人の言葉はおろか、心まで読めるのではないかと思うほど賢い猫であった。
プラムは比較的誰にでも愛想は良かったが、それでも樹里にだけは特別なついていた。文字通り一心同体であった。
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しかしある日…ちょうど1年前の今頃、プラムは樹里たちの前から姿を消した。
それまでプラムが1人で外出することもまれだったし、帰らないなんてことは1度としてなかった。
プラムが行きそうな場所はくまなく探したし、迷子のポスターもあちこちに貼って回った。
しかし、それから1年…プラムの姿を見ることはなかった。
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樹里の唇を押さえていたものが離れると、先程まで見えていたヴィジョンが消えていく。
当時の映像そのままに映るプラムを見て、樹里は懐かしいような切ないような、不思議な感覚にとらわれていた。
「落ち着きましたか?樹里さんが少し錯乱していたので、こんな荒っぽい手法を使ってしまいました。申し訳ありません」
樹里は言われて思い出した…夢喰さんとキス…しちゃったんだ。言葉にした途端、樹里の顔は火が吹き出そうなほど真っ赤に染まる。それから呂律が回らない口で訳の分からない事を話し始める。
「あ、いや!私の方こそ取り乱しちゃってごめんなさい。結構酷いことも、いやかなり酷いことも言った気がするし。イライラしてたというか、何というか…。でも悪気はなかったんです。普段は八つ当たりなんてしないのに、何でだろ…おかしいな!は、はは」
さっきとは違った意味で錯乱してきた樹里である。それを見越してか夢喰は少女を抱きしめると、軽くぽんぽんと頭を撫でながら言う。
「知っています。あなたのせいではない事は。樹里さんが恐怖、怒りを感じ疑心暗鬼になっていたのは、先刻の夢魔のせいです」
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「あの者は【シヴィル】という名で、かつては私の同志でした。しかしある時闇の力に魅入られ、夢魔に成り下がってしまったのです」
「以前会ったノートン船長と同じような力を持っているんですか?」
「ノートン船長は死人を生き返らせる能力があったと思います。それから睡眠薬や幻惑剤の調合にも長けています」
樹里は過去を振り返って頷く。夢喰は樹里の反応を待ってから話を続ける。
「一方シヴィルは冷気を操ります。冷気を固めて武器にすることもできますし、空間を極限まで冷やすことができます。しかし1番厄介なのは、口から発する息吹が人に恐怖や猜疑心などの悪意を抱かせる力を持つことです。どうやら影の中しか移動できなくなったようですが」
「でも…私がみんなにした態度は、私自身が感じていた心を投影していたんですよね?ルゥには特に酷いことを…」
その時、夢喰の肩越しからくねくね動く黒い尻尾が見えた。樹里はそのよく動く尻尾に向かって話し掛ける。
「ルゥ、さっきは本当にごめんね。あなたを傷つけてしまった。私、やっぱりルゥがいないと悪夢を乗り切れないと思う。お願いだから帰ってきて」
さっきまで尻尾があった所に、今度は碧色の瞳と黒い耳が2つずつ、様子を伺うように覗いている。
『もうオレのこといじめない?酷いこと言わない?』
「うん。いじめないよ」
今度は片手を壁にかけた状態で、黒猫は潤んだ碧色の目をしばたたかせている。
『ちゃんとオレのこと信じてくれる?』
「うん。信じてる。ルゥはいつも通りのルゥでいて」
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黒猫はぴょんと飛び出してくると、ひょいと樹里の肩に飛び乗る。それからゴロゴロと首にすり寄る。
「それからね…ルゥはちょっとくらい口が悪くないと、ルゥらしくないよ」
1人と1匹は目を合わせると、にやりと笑い合う。ふと黒猫を見ていて、樹里は白猫の面影を重ねてみた。
「夢喰さん…プラムは…あの子はもう帰らないんでしょうか」
少女は青年の目をまっすぐ見上げると、淡々とした口調で問いかけた。青年はいつも通りの優しい笑みを浮かべて、ゆっくりと丁寧に答えてくれる。
「詳しいことはお話しできませんが、樹里さんが会いたいと願っていれば、いつかまた会うこともできましょう。それまで信じて待っていてください」
夢喰の言葉は、いつも樹里の心を温かく包み込んでくれる。少女は青年の胸に抱かれながら、この紳士的な青年に急速に惹かれていく。いや…一目見たときから恋に落ちていたのかもしれない。
ずっとこのまま時が止まってしまえばいいのに。しかし、樹里にはあまり時間がない…助かっても助からなくても、青年に会えるのは後1日。取りあえず今は生き抜くことだけを考えよう。
そう思ったとき、青年はおもむろに樹里の首に手を回す。
回された手が離されたとき、“かしゃん”という音を鳴らして首に重みがかかる。
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『夢喰さま…それはー』
何か言おうとするルゥの口を押さえて、夢喰は樹里に微笑みかける。
樹里は自分の首に下がったものを確認しようとして触れる…クロスのペンダントのようだ…しかし金属質な手触りではなく、硬すぎも柔らかすぎもせず、ほのかに温かい。
「これ、いつも夢喰さんが首にかけているものですよね?大切なものではないんですか?」
「樹里さんに持っていて欲しいんです。いざというときに、そのクロスが身代わりになってくれるでしょう」
それから、青年は珍しく恥ずかしそうな顔を見せる。
「離れていても、私はあなたの傍にいますから」
それから気分を一新するように青年は深呼吸をすると、“まだ時間はあります。今日の悪夢を消化してしまいましょう”と言う。
その頃には、部屋の中は樹里の心の中同様すっかり整頓され、元の清潔な状態に戻っていた。
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