【第4章 1】異変と怪異
チチチ ピチチチ
小鳥のさえずりが聞こえる。窓からは明るい光が差し込んでいる。
樹里は重いまぶたをこすりながら、寝返りをうつ。何か温かいものに触れる…自分ではない誰かの腕。そして目の前には静かに寝息を立てている蒼の顔がある。
《もう少しだけ…こうしててもいいよね?》
樹里は自分に言い聞かせるように囁くと、温かい蒼の腕の中に潜り込む。前日までの樹里では想像もできなかった感情が湧き起こる…好きな人の傍がいかに幸せかということを。
しばらく…時間にしたら数分であろうが…ぬくもりを堪能していた樹里だが、大変な事に気づく。時計を確認すると、もう7:45になっている。
「やばーーーい!」
「蒼!ショーーウ!早く起きて~。遅刻する~」
「ん~…あと5分~」
蒼は寝ぼけているのか、そう言うと樹里に覆い被さってくる。樹里はじたばたと動き腕を振り解こうとするが、もがけばもがくほど締め付ける腕の力は強くなる。
観念したときに耳元で“ぷっ”という声が聞こえる。いたずらっぽく笑う蒼を見て、樹里も楽しい気分になる。
「おはよ」
「おはよ。樹里って意外と寝相悪いのな。昨日は何回殴られたことかー」
「うそ~!?知らなかった。ごめ~ん」
申し訳なさそうな少女とは対照的に、少年は含み笑いをして今にも吹き出しそうだ。
「うそ!寝顔かわいかったぞ」
「もーー!しかも寝たふりしてたでしょ?蒼は…ってそんなふざけてる場合じゃないよ!学校!遅刻しちゃう」
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「あぁ。大丈夫だよ。大丈夫だからもっとこうして…いてっ」
樹里の鉄拳が蒼の脇腹めがけて飛ぶ。しかし蒼は一向に離してくれそうにない。
「大丈夫じゃない!テストに間に合わなくなる」
「今日は学校休みなんだって。さっき学校から緊急連絡網が掛かってきたって、父さんが言ってたよ」
「へっ…?」
「理由は分からないけど、何か学校で問題があったらしいぜ。俺たちにしてみりゃラッキーだよな」
『ごほっ…どうやら本当らしいぜ。ヤツらがテストの問題を盗み出したらしい。何のためにしたのか検討もつかないがな』
黒猫が邪魔して悪いとでも言いたげに、顔を背けたまま話している。
《もしかして…ずっとそこにいた?》
『いた…というか見てた』
「きゃあああ」
樹里はあまりの恥ずかしさに、めいっぱい叫ぶと顔を隠す。
「えぇぇ!いきなりどした?」
『なんだよ、今さら』
1人と1匹の正反対の行動が不協和音を生む。そこへ更なる不協和音が加わる。
「お兄ちゃん何かあったの?」
蒼の妹の翠淋が声に驚いて駆けつけたのだ。しかし部屋の状況を一瞥し“汚らわしい”と怒って出て行ってしまった。
「とりあえず起きようか」
2人はようやく身支度を始めた。何だかんだで、いつの間にか時計は9時を回っていた。
ーーーーー106ーーーーー
学校は休みだったが、親友の草壁凪が病院に泊まり込んでいるということで、そこへ向かうことにした。
凪の父レストランのオーナーシェフは、先日何者かに襲われ現在も意識が回復していない。なので母と1人娘とで交替で看病している。
病院までは自転車で行ける距離なので、自転車で行こうということになった。蒼の自転車は隣駅に置いてきてしまったが、替えの分が実家にも置いてある。自転車置き場についた2人は、着いた途端呆然とする。タイヤ部分に見事な穴が開いているではないか。
仕方がないので父のを借りることにした。しかし、こちらもパンクしていて使えそうにない。妹の自転車も同様であった。
「おっかしいな。俺のはともかく、親父と翠淋は几帳面だからこんな状態で放っておくはずないんだけど…」
「気持ち悪いね~。でも、病院は近いし散歩がてら歩いて行こ!」
《これも、無魔がやったんだよね?》
樹里は肩に乗っている黒猫に向かって囁きかける。黒猫は努めて明るい声で笑う。
『らしいな~。でも、これはヤツらの中でも下っ端がやったほんのイタズラらしい。まぁ、心配すんな!』
病院までの道のりは、徒歩で20分ほどだ。途中でお見舞いの花を買って行こうという話になる。しかしルゥは“やめといたほうがいい”と言って聞かない。
花屋に着くと、普段なら外に色とりどりのチューリップやカーネーションなどが飾られているはずだが、今日は何も置かれていない。不思議に思い店内に入ると、店主は泣きながら枯れた花々を始末している。どうしたのかと聞いたところによると、“突然花が萎れたかと思ったら、全て枯れてしまった”そうだ。
蒼は驚いて不審そうな表情を見せていたが、樹里とルゥには原因が分かっていたので、病院へ急き立てた。
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病院に到着すると、玄関前は人で溢れかえっていた。人をかき分けて中へ進んでいくと、ロビーも受付も、どこもかしこも人でいっぱいである。
何とか受付で部屋番号を聞き出すと、2人と1匹は急いで部屋へと潜り込む。
中は個室で、凪の父の傍らに凪は手をつき、うつむいて座っている。樹里と蒼の姿を認めると、凪は顔をほころばせ手招きをする。
「2人とも、来てくれてありがとう。まだ父は目を覚まさないけど、いずれ意識も戻るだろうってお医者さまが」
「良かったぁ。何か困ったことあったら、いつでも私達に言ってね」
3人はしばらくにこやかに会話を弾ませる。不意に、蒼が思い出したように凪に疑問を投げかける。
「そう言えば、病院内にすごい人が溢れかえってるけど、どうしたのかな?」
「ああ…昨日までは普通だったんだけど、今朝になって急に患者さんが押しかけてきたみたい。暴れて手に負えないとか、怪我したとか、突然卒倒したとか…原因は色々みたい。おかしいよね、どうしたのかな?」
『ヤツらの邪気に当てられた人が大勢いるみたいだな。まだそれほどの被害は出てないみたいだが、それも時間の問題かもな』
ルゥはそう言い残すと、“偵察してくる。何かあったら飛んでくるから”と部屋を出て行く。
数時間病室で話し込んでいた3人だが、お昼を過ぎた頃“部外者は帰ってください”と看護士さんに注意されたため、樹里と蒼は病院を後にする。
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「せっかくの休みなんだしさ、今から遊園地か水族館行かね?」
樹里は昨日の悪夢を思い出したら嫌なので、“水族館になら行く”と答える。実は遊園地と同じくらい、水族館と動物園は好きなのだ。
水族館まではバスで15分ほどの距離である。黒猫はいったんは偵察から戻ってきたが、“デートを邪魔したら悪いから”と言ってまたどこかへ行ってしまった。なので、今は本当に樹里と蒼の2人きりである。
水族館は普段休日にしか来たことがなかったので知らなかったが、平日はほぼ貸し切り状態であった。
館内に入るとひんやりと心地いい風が全身を包み、巨大な水槽が2人を出迎えてくれる。その巨大な水槽の前に立つと、海の中にいる錯覚さえ覚える。水槽の中はサメやエイなどの大型魚類から小型の魚類までが優雅に泳いでいる。
その巨大な水槽を囲むように、周りにはペンギンや白クマ、ラッコなどの水槽が並ぶ。アザラシやアシカの水槽など、ガラスの向こうでは水中ショーが行われていた。水槽内をしなやかに縦横無尽に泳ぐ様は、とても涼しげで美しい。
本当は黒猫は水族館の動物たちが苦手で来ないのかな?などと考えると、ちょっとおかしかった。
ーーーーー109ーーーーー
「蒼と2人っきりで水族館に来るのって久しぶりだよね。何かデートみたい!」
「だなぁ。いつも凪とか他に大勢いたもんな。あ、樹里の過保護な兄貴!よくついてきてたよな。兄貴も4月からイタリアに行っちゃってるんだっけ?」
「リュウくんのこと?そうだよ。でももうすぐ夏休みで日本に帰ってくるって言ってた」
「あ~…帰ってくるんだ。俺絶対嫌われてると思うんだけどな」
蒼は樹里の兄がもうすぐ帰国すると聞き、落胆の色を隠せない。その様子をみた樹里は無邪気にフォローをする。
「そんなことないよ~。蒼は好かれてる方だよ!他の男の子なんて“近づいたら許さね~!”って言われてたし。リュウくんはイギリスが長かったから、女性には優しいんだけど男性には厳しいんだよね」
「そんな次元じゃないと思うぜ?樹里はやらねぇとかまで言われたことあるし。お前の兄貴、自分は彼女いっぱいいるのにな」
そうなのだ。樹里の兄
「リュウくんの話はもういいよ。それより、あっちに夏期限定のコーナーがあるんだって!行ってみよ~」
水族館の1番の見所である美しい水のトンネルエスカレーターを上りながら、樹里はパンフレットを指差して言う。
「これ知ってる!CMでやってた。確か中はカップルしか入れないって。内容は来てからのお楽しみね♪とか言ってた」
夏期限定コーナーの前には看板が立てられている。
“この中には男女別々でお入りください。男女共に耳栓を着け、音の無い世界をお楽しみください。尚、中は大変暗くなっており、深海魚たちの光だけを頼りにパートナーを見つけてください”
ーーーーー110ーーーーー
「お化け屋敷みたい。こういうの得意!どっちが先に見つけるか勝負ね」
「おう!当然負けないけどな。暗闇で泣かないように~」
入り口は1人ずつしか通れないほど狭く、通り抜けるとすぐに耳栓を装着するように指示がある。
普段耳栓を付けることはほとんどないので、少し違和感を感じる。聞こえるのはぼーというこもった音と、自分の息遣いだけだ。
自分の息遣いを伴奏に、樹里は深淵の闇へと吸い込まれていく…それは深い、宇宙の彼方のような漆黒の闇。光は蛍のように発光する魚たちの仄かな明かりのみ。
樹里はしばらく闇の世界に魅了されていた…が、ふと銀の扉の中のことを思い出す。不意に悪夢の空間と今の状態とがシンクロする。光も音もない世界…足に当たる地面の感触も、体を包む大気すら感じられない。
落ちる…!
ーーーーー111ーーーーー
懸命に手をバタつかせ空をつかもうとする…が手足は虚しく空を舞うだけであった。樹里の体は気が遠くなるほどの闇に飲み込まれてゆく。
もうだめだ!
そう思ったとき、微かな光が目に入る。銀色の髪が光に透けて煌めいている。救いの手を差し伸べてくれたのは夢の中の守護者、夢喰である。優しく受け止めてくれる手は、何だか懐かしい。
夢喰は柔らかな笑みを浮かべ、何かを囁いているようだ。そこで樹里は自分が耳栓をしてることを思い出し、素早く耳に手をやる。
「おい!大丈夫か?樹里しっかりしろ!」
次の瞬間、目の前はすっかり明るくなっていた(とは言っても非常灯程度の明るさだが)。蒼が心配そうに樹里の顔を見下ろしている。
「ゆめ…く…!?」
「探したぞ!樹里がぜんっぜんレーダーに映らなくなったから、心配して係員に電気まで着けてもらったんだよ。そしたら、樹里がここに倒れてたんだ。目を開けたまま動かないから、本当にどうしようかと思って…気づいてくれて良かった…」
よく見ると少年はうっすらと涙を浮かべている。しかし、蒼は無理に笑顔を作ろうとしているのが明らかで痛々しい。その様子を見ていると、樹里も切ない気持ちでいっぱいになる。
蒼は安堵の溜め息をもらすと、樹里を抱き上げ救護室へと向かう。救護室では“こんなアクシデントは初めてです”と係員が言っているのが聞こえる。
蒼が言うには、このアトラクションは“女性は耳栓を着けるが、男性は女性の位置が分かるような装置を持っている。そこで、暗闇の中で不安がっている女性を男性が助け出し、運命的なものを感じさせよう”という企画なのだそうだ。
ところが今回肝心の装置が働かなくなり、樹里の位置が分からなくなったのが事の発端らしい。深海魚のために照明を点けることができないのと、耳栓をしているために呼びかけても気づかない、というのが事故を更に大きくする要因になったようだ。
樹里と蒼はお詫びに水族館の無料招待券を受け取ると、大事を取って帰路につく。
ーーーーー112ーーーーー
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