【2】記憶と桜

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 まぶたにやわらかいものを感じて、少女はそっと目を開ける。少女は体を起こすと、木の枝の上に寝ていたことに気づく。


 桜の花びらがひとひら栄養の行き届いた地面に舞い落ちる。周りを見渡すと一面薄紅色で埋め尽くされている。暖かい春の風が優しく吹き抜けていく。


「ジュリちゃ~ん。こっちにもっとおもしろいとこあるよ~。降りてきてよ」


 誰かが木の下から樹里を呼びかける。樹里は“まってて”と言うと、木からえいっと飛び降りた。


 ふわふわしたやわらかい薄い色の髪に、大きな黒く潤んだ瞳の男の子が目の前でいたずらっぽく笑っている。6歳のときの蒼がそこに立っていた。


 この頃の樹里は、イギリスから日本に来たばかりであまり幼稚園にも馴染めずに、よく抜け出しては近くの神社で遊んでいた。そんなとき、蒼は樹里を探しに来てくれたり、一緒に遊ぼうと誘ってくれたりしていた。


「ショウくんまた幼稚園抜け出してきたの?なぁに、おもしろいとこって?」


「こっち」


 蒼は樹里の手を引き、鳥居の下をくぐり抜け、まっすぐ拝殿に向かって歩いていく。そしてその裏にある本殿を指差す。


「ここの上に登るとびっくりするよ!ジュリちゃん一緒に登ってみようよ」


 本殿の横に植えてある大きな檜を足場にして、樹里と蒼は本殿の上にひょいと登る。


 3階建ての屋上くらいある屋根の上からみえる景色は薄紅色一色であった。桜を床に敷き詰めたような美しい世界に樹里は心を奪われた。


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「きれい」


「ジュリちゃん最近元気なかったから、ここのケシキ見せてあげたかったんだ~。元気でた?」


「うん♪ありがとショウくん」


「あとね、ジュリちゃんの日本語ぜんぜん変じゃないからね。まわりのヤツらが何か言ってきたら僕がやっつけてあげるよ」


 確かに樹里は日本語がまだあまり上手に使えない。その上、髪の色も目の色も周りの子達とは違うため、変に目立ってしまいみんなから敬遠されていた。そんな樹里をいつも守ってくれていたのが蒼だった。


「僕がジュリちゃんをずーーーっと守っていくからね」


「ショウくん優しいね。だいすき」


そう言うと、樹里は軽く蒼に口づけする。(樹里にとってはほんの挨拶程度なのだが)


 その時、蒼の目に樹里の後頭部めがけて何か黒い物体が急降下してくるのが見えた。


「あぶない!!」


 蒼は樹里の手を力いっぱい自分の方へと引く。しかし子供は自分の力加減が分からない。バランスを失った少年は、少女の手を離すとそのままの姿勢で地面へと落下していく。


 屋根に残された樹里は、泣き叫ぶことしかできなかった。


「だれか…だれかたすけて!」


「たすけて…」


「たすけ…」


 樹里の声が何度も何度も脳裏にこだまする…


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「…樹里!おい、大丈夫か?」


 懐かしい声に呼ばれて、樹里は跳ね起きる。すると蒼は肩を押さえて制止し、心配そうに樹里の顔を覗き込む。


「すごいうなされてたみたいだから、びっくりして起こそうとしたんだけど、樹里なかなか起きないから心配したよ。嫌な夢でも見たのか?」


 蒼はかすかに微笑むと、優しく樹里の顔に触れる。そして涙を拭ってくれる。


「ごめんね…蒼…ごめん」


 何故だろうか、樹里は今見た夢のことを10年もの間忘れていた。というより、記憶からすっかり抜け落ちていたと言う方が正しい。


 6歳のときに自分を救ってくれたのは確かに蒼であった。今、当時の記憶がはっきりと蘇ってくる。


 落下事故の後、蒼は3日間もの間昏睡状態だった。外傷はほとんどなかったが、目覚めても脳障害が残るかもしれないと言われていた。そしてこのままでは危ないと宣告された3日目の朝、ようやく意識を取り戻したのだ。


 幸い蒼には後遺症もなく、5日目には退院することができた。しかし、樹里は蒼の父からひどく叱られ、もう蒼とは遊ばないようにと言いつけられていた。


 すっかり落ち込み、幼稚園にも行かなくなったある日、お隣さんに蒼が引っ越してきたのだった。


「きちゃった♪」


 少年は白い歯を見せて爽やかにそう言うと、それから毎朝樹里の家に迎えに来てくれるようになった。そして今に至る。


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 樹里は申し訳ないのと、当時の恐怖とを思い出すと涙が止まらなかった。


なぜ、こんな大事なことを忘れていたんだろう。なぜ、こんな大切なことに気づかなかったんだろう。


「何で謝ってんだよ。変なやつだなぁ。ほら」


 言い終わらないうちに樹里の頭を抱き寄せる。それから優しくぽんぽんと頭を撫でる。


「そんな怖い夢見たのか~。よしよし」


 蒼はいつだって優しい。そして誰にでも優しい。しかし特に樹里には優しいので、いつもついつい甘えてしまうのだ。


「違うの。夢が怖いんじゃないの。私…蒼に昔助けられたんだね。そのせいで蒼は死にかけたのに…それを今まで忘れてた…本当にごめんなさい」


 一瞬頭を撫でていた蒼の手は止まり、不意に手を離す。次の瞬間樹里を持ち上げると膝の上に乗せ、両手を腰にまわす。


「今ならもっとちゃんと助けてやれたのにな。あの時はカッコ悪いとこみせた挙げ句、心配させたよな。俺の方こそごめん」


 そしていたずらっぽく昔と同じ笑顔で笑うと、“だからあいこだ”と言って慰めてくれる。樹里は改めて蒼の優しさに感謝した。それから大切な存在にも…


 樹里は蒼の頬を両手で包むと、じっと瞳を覗き込む。6歳のときの少年とは違い、いつの間にか立派に成長している。しかし美しい瞳は昔のままの輝きを称えていた。


「ありがとう。蒼大好き」


 そして軽く蒼の唇に触れる。蒼は驚いて目を見開いている。


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 樹里を膝から降ろすと蒼はしどろもどろになって言う。


「おまえなぁ…日本人はそんな簡単に好きでもない相手にち…チューとかしちゃいけないんだぞ?誰でも彼でもそんなことしたら、相手に勘違いされるぞ」


「誰でもはしないもん。好きでもない相手じゃないもん」


 樹里はそう言い放つと、頬をぷぅと膨らませ、いたずらっぽく笑い返した。


 しばらく蒼は言葉の意味が理解できないらしく、首を傾げて黙っていた。…が、数秒後に目を丸くすると、“えー!”っと叫ぶ。


「それっていつも樹里が口癖みたいに言ってる“好き”と違うのか?男としてー」


「うん。男として好きだよ。付きー」


「ちょっと待て。そういうのは俺から言う!」


 急いで樹里の口を手で遮ると、蒼は目を閉じてしばらく黙り込む。長いまつげが月の光に照らされて輝いている。


 次に目を開けたときには、すっかり意を決したように真面目な顔になる。そして樹里を見据えると、一言一言丁寧に言葉を発する。


「好きだ。ずっと樹里だけを見てた。付き合ってくれ」


「うん。私も蒼が好き。大好き」


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 見つめ合う2人…激しい動悸が胸を締めつける。


 目を閉じると樹里の肩に手が置かれる。その手に少しずつ力が加わる。そしてほのかな息遣いが顔にかかる。



…微かなうめき声が聞こえる…


『…ジュリ…はやく…戻ってこい…もう…ぐっ…』


黒猫だ!


 まだ夢の中にルゥは取り残されていた。気づくと左手にはブレスレットが填められている。


 樹里が目をパッと開けると、目の前には蒼の顔が…とっさに押し止める。そして左手から鈴を取り出し、3回縦に振る。


 蒼はぱったりと倒れ、その場に寝てしまった。


「蒼ごめん!私行かないと」


 鈴を1周回すと、樹里も蒼の上へ倒れ込む。そしてそのまま意識を失った。


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