【4】黒猫と青年

 1人と1匹は、目の前のBARに向かって進んでいく。


 近づくほど、建物の全貌が見えてくる。かすみがかかったように薄ぼんやりしていたときには、ちょっとしたテーマパークのホラーハウスだと思っていたものが、1歩1歩と近づくにつれ、ゴーストタウン化した街の本物の老朽化した建物に思える。風が吹きつけた屋根はペラペラとめくれ、割れた窓ガラスはガタガタときしむ。それどころか、足音やほんのわずかな振動でさえ、建物が全壊してしまいそうである。


《とても人が住んでいるとは思えない…》


「ねえねえ、猫さ…」


 樹里は何かを訴えかけようと、ふと横を歩く黒猫を見てみる。


すると、黒猫の耳元に小さく光る何かを確認する。耳をすませば、かすかに “しゃん しゃん ” と、軽やかな鈴ののような何かが、高らかな音を奏でている。


 小さく鼓膜を震わせる音は、なんだか心地いい。


本当は隣を歩く黒猫に、怪しい洋館の話やこの世界のこと、7階から飛び降りても平気なことなど、色々と質問したいことはあったが、すっかり穏やかな鈴の音に聴き入ってしまった。


 美しい音色を耳に、1歩…また1歩と建物に近づいていく。


 そして、あと1歩という所で足を止めた。


ーーーーー27ーーーーー


 すぐ目の前には、木製でできた高さ2mほどの長方形の板がある。ドアのような形状だが、腰の辺りにあるべきものが見当たらない。


《ん?あれ…?》


 ドアノブらしきものが見つからないのだ。


 とりあえず、押してみる…ビクともしない。

 ドアを引きたいところではあるが、ドアノブがないので引けるはずもない。


「これ、ドアよね?」


『さあ?』


 黒猫はわざとらしくそっぽを向くと、何やら鼻歌のようなものを口ずさんでいる。


「さあ…って。まあ、いいわ」


 樹里は目の前の古びたボロボロの建物を仰ぎ見る。


 黒猫はすでに飽きてきたのか、遠くで飛んでいる鳥を眺めては、今にもヨダレを垂らさんばかりに舌舐めずりをしている。


《本当に教える気ないみたいね。そっちがその気なら、分かったわよ》


ドアを入念に調べていく。

ドアノブはやはり見つからない。


もう1度押してみる…やはり何も変化はない。

ガタガタと手のひらを当て、揺すってみる…コンクリートで固められたように、微動だにしない。


と…ドアの左側10cmの所に小さなくぼみを発見した。


ーーーーー28ーーーーー


 樹里はすぐにピンときた。


 隣でひげをくいくいと撫でている黒猫を見やると、すぐにしゃがみ込んで話しかけた。


「黒猫さん、耳に着けているもの、お借りしてもいいですか?」


 黒猫はごろごろと喉を鳴らすと、満面の笑みを少女に返した。


 黒猫の意志を察すると、樹里は耳からそうっと鈴を取り外した。


 そしてドア横の窪みにその鈴をはめた。


何も起こらない…


「なっ………!?」


 黒猫は“ ご自分でどうぞ ” と言わんばかりに、ちょこんと少女の横にたたずんでいる。


 ワケが分からない樹里は、何度も何度も鈴をはめたり抜いたりを繰り返した。


 見かねた黒猫が、ため息まじりに話しかけた。


『本当はジュリが自分で考えないといけないんだが…』


ーーーーー29ーーーーー


 一瞬、黒猫はためらった。チラチラと周囲を見回す。ためらった風を、わざとらしく見せつけただけかもしれない。


『見てられないからヒントをやるよ』


『この世界はジュリの居る世界とはちょっと原理が違うんだ』


 こほん、と咳払いをして黒猫は続ける。


『目に見えるものが正しい訳じゃない。ドアを開けるのにドアノブや鍵は重要じゃない。大事なのはジュリ自身の心だ』


 そこまで言うと、樹里にもあることがひらめいた。


「意志…ね。中に入りたいという強い意志。でしょ?」


 黒猫を見ても、何も読み取れなかったが、少女は確信していた。


 樹里は鈴を窪みから取り出すと、黒猫に丁重にお返しした。


そしてドアに両手を当て、目を閉じて祈った…開けてください、と。


するとギィという鈍い音を立てながら、ドアはゆっくりと奥へと開いていった。


ーーーーー30ーーーーー


 建物の中は、外からは想像も出来ないほど手入れが行き届いていた。というよりも、宮殿そのものであった。


 3階分くらいはありそうな高い天井に、長く左右に広がっている玄関広場。そこから鳥が両翼を広げたような上り階段が、弧を描きながら2階まで伸びている。下には美しく織られた天鵞絨びろーどの赤い絨毯が、どこまでも長く続いている。


 そして天井の一番せり上がった場所には、クリスタルでできた輝くばかりのシャンデリアが下がっており、どこからか取り込んだ光をキラキラと乱反射させ、来るものを出迎えてくれていた。


『さぁ、案内してやる。こっちだ』


 息を飲んで屋敷内部に見とれてる樹里を尻目に、黒猫は軽快なステップでどんどん先へ行ってしまう。


「ま、猫さん、待って」


 慌てて黒猫の後を追っていく。


 2、3分ほど歩いたところで黒猫は立ち止まる。


続いて少女も足を止めた。


『ここだ』


 黒猫が小さな黒い手を挙げて指し示した先には、黒い扉がある。


 何やら扉の前には、文字が書かれている。


ーーーーー31ーーーーー


【中に入るにはルールを守っていただかなくてはなりません】



【ルールは中に入ってからしか言えませんが、ここで守ると “ 約束 ” してください】



 銀文字で書かれた2文が刻まれていた。


『ここでの “ 約束 ” は現世と違って絶対だ。一度守ると決めたら、破ることはできないぜ』


 樹里はこのワケの分からない世界に来たときから、すでに覚悟を決めていたので、ゆっくりうなずくと扉を開けた。


キィ


 中に入ると、一番に大きな水槽が目に入った。両手いっぱいに広げたよりも大きな横幅2mはある水槽が、入り口に衝立ついたてのように設置してある。室内が一望できないようにしてあるのか、水槽を避けて左右に通行するように配置してある。水槽の中は暗くてよく見えないが、泡がぷくぷくと出ているし、何かが泳いでる気配がする。


 部屋の中はさほど広くはない。薄暗い部屋にはいくつもの棚が並べられており、面白そうな物がたくさん置かれている。


アンティークと呼ばれる椅子などの家具類

中身はからっぽの大きな鳥カゴ

見たこともないような用途の分からない玩具

奇妙な時間を指し示す時計

題名の読めない本らしきもの


 これらのものが、部屋中を所狭しと並べられた棚に、ぎゅうぎゅう詰めで置かれている。とにかくここは、趣味がいっぱい詰まった楽しい部屋なのだ。


 わくわくしながら、少女が玩具の1つを手にしようとした瞬間…


ーーーーー32ーーーーー


「使うべきときがくるまで、ここの物に手を触れてはいけないよ」


 部屋の奥の方から、透き通った男性の低く美しい声がした。


「だ、だれっ!?」


 樹里は薄暗い部屋の中、きょろきょろと見回して声の主を探す。


にゃあ


 黒猫は初めて猫らしく鳴くと、部屋の奥に向かって一直線に駆けていく。黒猫が白っぽく長いものにり寄ると、それが男性の足であることが分かる。声の主であろう。


 樹里は声の主を見て、言葉を失った。



そこには、天使がいた。



 男性らしき人物は、銀色にほのかに光を放つ仕立ての良いスーツをまとっている。その肩にかかる長い髪の毛も、同じように銀色に輝いている。髪の毛が揺れるたびにそこから光の欠片かけらが振り落とされているように、軽やかな光を纏っている。


十分過ぎるほど伸びた背に、すらりと長い彫刻のような手足。しなやかな首には、キラリと光るクロスのペンダントが掛けられている。


 そんなものより何より、驚いたのは男の顔である。


 キラキラと銀色に輝く髪の向こうから、形の良い高すぎも低すぎもしない鼻が覗く。さらに、銀髪と負けず劣らず輝く長い睫毛まつげが、優しそうな男性の性格を物語っている。


 すっかり樹里が時間を忘れ、男の横顔に見惚みとれていたときー


十分すぎるほど長い時間黒猫を撫でていた男が、ふと、少女を振り返った。


 ぬけるように白く肌理きめの整った肌、とても生きている者の肌とは思えない…象牙でできた乳白色の彫像のようである。そこにバランス良く配置されている目、鼻、口。


とりわけ、目が合ったら吸い込まれてしまいそうな赤く輝く美しい瞳に、樹里は文字通り目を奪われてしまった。


 紛れもない、本物の天使だった。


ーーーーー33ーーーーー


「樹里さん、お待ちしてました。心より歓迎いたします。」


 美しい男は優しい声で話しかけながら、樹里の方へと近づいてくる。


黒猫が勝ち誇ったような顔で、その後に続く。


 人は絶対的な存在の前には無力である。


この世ならざる美しさを前にし、少女はふっと意識を失いそうになった。


そこへ男のしなやかな腕は伸び、倒れかけた少女を抱きとめた。


「大丈夫ですか?」


樹里はハッとして真っ赤になりながら、男にもたれかけ立ち上がろうとした。


「だっ…だいじょ…」


しかし一度力を失った足は、うまく言うことを聞いてくれない。


それを察してか、男は樹里をいとも簡単に抱き上げて、側に置いてある長椅子に寝かせてくれた。



 ここだけの話、もっと男の腕の中にいたかったと樹里は思った。


 男は顔いっぱいに優しい笑みを浮かべ、その笑顔からは予想もつかない言葉を述べだした。


ーーーーー34ーーーーー


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