【3】夢の中の世界

「きゃああああああああ!!!」


 叫んだときには、もう遅かった。


すでに1人と1匹はベランダの塀を難なく飛び越え、下へ下へと急降下しているところであった。


高層階から下に降りていく超高速エレベーターよりも速く、ジェットコースターで頂上から一気に急降下していくよりも鋭く冷たい風が、全身を包む。


『あー、言い忘れてたんだが』


「え?なに?なに!?」


『大事なことだから、耳の穴かっぽじってよく聞けよ?』


「頭の中に聞こえてくるから、耳必要ないじゃん」


『あ、それもそうか。って、そんなことどうでもいいわ!』


「大事なことなんじゃないの?いいから、早く言って!」


『地面にぶつかりそうになっても、目だけは絶対に閉じるなよ』


「えっ…なに?」


『目を開けたままじゃないといけない場所なんだ。閉じると、最悪は時空の狭間はざまで迷子になるぜ』


ーーーーー23ーーーーー


 飛び降りてから地面まで、ほんの数秒だったに違いない。


しかし、落ちていく途中、さまざまな情景が脳裏を駆け巡る。


 クラス担任が、週明けには期末テストだからな、と叫んでいたこと。昨年の文化祭ではお化け屋敷が禁止され、仕方なくメイド喫茶の制服を着させられたこと。高校の入学式のとき、遅咲きの桜が見事に咲き誇っていたこと。ちょうど1年前に愛猫の白猫が失踪するその日まで、常に一緒にいたこと。修学旅行で行った沖縄…家族で行った世界各国…日本に初めて来た日のこと。思い出がゆっくりとさかのぼり、確実に鮮明に映し出されていく。


《これが走馬灯ってやつなのかな…》


『バカか!』


 間髪入れずに黒猫に怒鳴られ、樹里はハッと我に返る。危うく目を閉じそうになっていた。


『それが時空の狭間の恐怖だ。覚えておけ』


「危なかったぁ…猫さん、ありがとう」


『ほれ、そろそろ地面だ。歯を食いしばって目を見開いとけよ?』


 黒猫と少女は、一斉にカウントダウンを始めた。


        3


        2


        1


 これでもかというくらい目を見開いて、樹里は目の前に広がる大地を迎え入れた。


ーーーーー24ーーーーー


 樹里は体ごと大地に飲み込まれるかと思った。しかし、体は地平線を素通りし、地中に埋まるわけでもなく、どこか別の場所に一瞬で移動したように景色が一変した。


地面を越えた先に広がるもの…


そこは巨大な空間…空であった。


 自分達のよく見るさわやかな青空でもなく、夕方に輝く美しい茜空あかねぞらでもなく、どんよりと曇る雨空でもなく、満点の星が散らばる夜空でもない。


 敢えて言うならば、夜明け前のほんの一瞬だけ拝むことのできる、黒にほど近い闇にかすかに光が射したような幻想的な空。そこから、太陽が昇り始め、ほんの数十分の間だけ望める夜明けの空に似ている。そこに光のカーテンが薄く幾重にも連なり、ゆらゆらと光を揺らめかせている様が見える。


 これは、そう。一生に一度は見たいと思っていた、オーロラに似ている。


鮮やかなパステルカラーの空に、燦然さんぜんと輝くオーロラ、そんなところだ。



 気づくと足に地面の感触が当たる。


《空に落ちていたような気がしたんだけど…》


『似たようなもんだ。ここはジュリのいた場所とは、正反対に位置するところだ』


「正反対?裏側にある世界?」


『ま、そんなもんだ。つまり、上下左右すべてが逆さまな世界なのさ』


ーーーーー25ーーーーー


それってつまり…


「パラレルワールドってことね」


『残念!!ちょっと惜しいけど、だいぶ違う』


「じゃあ、どういうこと?」


『そんなに知りたいのかぁ?』


 この猫は可愛いやつだが、もったいぶるところがあるようだ。


ぷぅ


 樹里はマンガの主人公のように、頬を膨らませてふてくされた。


『すげー顔!まぁ、オレからは詳しく説明してやれないから、後は夢喰様に聞いてくれ』


“ 何を ”と言おうとしたが、あまりの威圧感に押し黙ってしまった。


 目の前にはこの世のものとは思えないほど美しく荘厳なきゅうで…もとい。みすぼらしい小さなBARがあった。


建物は今にも崩れ落ちそうな有り様だし、看板なんて何が書いてあるか判別できるのは店主くらいであろう。


「…いちおう聞くけど、まさかここじゃないよね?」


『いちおう言うが、まさかのここだぜ』


 樹里はまったくの期待外れだと思った。それどころか、完全に期待を裏切られた。


目の前の建物のみにくさは、オーロラのように美しい空に、この口は悪いが見た目は美しい黒猫からは到底想像できなかった光景だ。


『さらに言っておくと、何もかもジュリのせいなんだからな』


言いがかりである。


少なくとも、このときの樹里にはそうとしか考えられなかった。


ーーーーー26ーーーーー

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