【2】怪しい黒いいきもの

コトンッ


 玄関先から何かが郵便受けに投函とうかんされる音が響き、樹里はハッと眼を覚ます。


カーテンを閉めていても分かる。外は真っ暗で、おそらくは深夜帯なのであろう。


 少女はぐるんと右に大きく寝返りを打つと、すぐに枕元を確認する。そこには、昨夜寝る直前まで操作していたスマホが置いてある。スマホの液晶画面を確認すると、“ 4:24 ” と表示されている。


《なんだぁ…夢かぁ》


 それにしても、さっき見た夢はやけにリアルであった。手にした手紙の感触も、未だにはっきりと残っている。ニュースの報道もリアルで、その後の騒音も耳に残っている。とはいえ、夢は夢。夢の内容を考えても意味のないことは、誰にでも分かる。


 すっかり目が冴えてしまった。樹里はベッドから起き上がると、リビングに行きテレビを点けた。ニュースのキャスターが、ちょうどお天気お姉さんにコーナーを振るところであった。


「ー原因不明の傷害事件が頻発しておりますので、くれぐれもお出かけの際はご注意ください。次は、お天気コーナーです。お天気お姉さーん?今日のお天気は?」


「それでは、週間の天気予報をお伝えいたします。本日7月18日月曜日はー」


《えっ…!?夢と同じ…?》


 樹里は自分の全身から血の気が引くのを感じた。放心状態の彼女の心臓の音と、リビングの時計の “ コチコチ ” という音が、明らかな不協和音を奏でている。


ーーーーー14ーーーーー


 そういえば…あれ?何かがおかしい。“4:24”。どこかで見覚えがある。さっきの夢で見たときの時間も、確か同じ時間ではなかったか?


 まさか…これも夢の続き?それともこれが夢で、さっきのが現実?


などと、樹里が頭を抱えていたそのときー


狙っていたかのように、室内のあちらこちらからけたたましい騒音が開始する。


 ピピピピピッと鳴り出した目覚まし時計を皮切りに、台所ではミキサーが何かを刻む音を、洗面所ではドライヤーの乾いた音と水の流れる音、リビングではピアノが軽快なメロディーをかなで始めた。


「また!?んもう!しつこい!」


 樹里は慌てて室内を駆け回り、騒音を立てている目覚まし時計、台所のミキサー、洗面所のドライヤーや流れ出した蛇口を閉めて回った。


 しかし、いくら樹里が止めようとして動き回っても、音は鳴り止まない。それぞれはいったんは止まっても、結局は動き出し、どれも動きを止める様子はない。


「もう!ほんとやだ!夢ならとっとと覚めて!」


コツン


 少女が叫ぶのとほぼ同時に、玄関とは反対側の位置から小さく何かを叩く音が聞こえてくる。リビングの窓の外辺りからだ。と同時に、部屋中の騒音はピタとおさまった。


ーーーーー15ーーーーー


 よく見れば、カーテンを閉めたリビングの窓の外に、大きな人形ひとがたの黒い影が映し出されている。リビングの窓はベランダへと通じているので、人がいたとしても不思議はないのだが、ここは7階なのだ。いや、玄関でもなくベランダから訪ねてくる人がいるとすれば、怪しいに決まっているのだが。


「だ…だれ?」


 その影に向かって呼びかけても、返事はない。生唾を飲む音だけが脳裏にこだまする。


「え、でも…ここ7階だし…」


《夢なら、このまま放置しても消えないし、どうしようもないよね…よーし》


 やはり生まれ持った好奇心には勝てない。独り言と頭の中両方で話しながら、樹里は思い切って、窓ガラスの取手を掴み、一気に窓を開け放った。


「誰なのっ!?」


 すると、そこには誰の姿もなかった。


正確には、姿はなかった。のだが。


 足元には、小さくうずくまっている黒いいきものがいた。


「か…か…か………」


ーーーーー16ーーーーー


「かわいい!猫ちゃん!!!うわあああああかわいいいいいいいいい」


 ここが7階であることもすっかり忘れ、少女はベランダで屈み込むと、その猫を抱き上げていた。


 夢中(無理やり)で抱きしめる少女に、猫は必死の抵抗を見せようと、少女の顔を肉球で押してみるが、その行為は少女を喜ばせるだけである。仕方ないとばかりに、猫は爪を少し出すと、猫パンチを繰り出した。


「いっ…つ!いった…ぁ」


 猫は突然の猫パンチに驚いて力を緩めた少女の腕から逃れると、寝室の方へと駆けて行った。


「夢なのに痛いいいい。なんで?」


 いやいや、それより部屋に勝手に上がり込んだ猫は放ってはおけないだろう。とツッコミたくなるところ、少女はそんなこと気にも留めない様子で、浮き足立った気持ちで猫の後ろ姿を追いかけていく。


 寝室に駆け込むと、中にいると思っていた猫の姿はなかった。


「あれ…猫ちゃん?いないの?猫ちゃーん、猫ちゃーん?」


 樹里がいくら呼びかけようとも、猫の姿はどこにも見えない。ベッドの下も、(当然であるが)閉じたクローゼットの中にもいない。


 室内のあらゆる隙間という隙間を探しても猫は見つからず、諦めて再びベッドに戻り、目を閉じかけたときー


少女の耳元で、何者かがささやいた。それは男性の低く美しい声であった。


ーーーーー17ーーーーー


『おい。寝ようとするな。起きろ』


「ひっ!!!」


『こら。黙って体だけ起こせ。そんで、今度こそ騒ぐなよ?』


「分かった。おとなしくする」


 少女は自分を呼びかける声を探し求め、室内を見回す。しかし、薄暗い寝室内には誰の姿も見当たらない。


『おいおい。どっち見てる?こっちだこっち』


「誰!?どこにいるの?」


 背後を見ても、ベッドの下を覗き込んでも見たが、やはり室内のどこにも人の姿はない。


『こっちだってーの』


 まさかと思い、天井に吊り下がっている照明を見ると、その傘部分にちょこんと座っている美しい黒猫がいた。


 どこまでも深い漆黒の毛皮を持つその生き物は、樹里を真っ直ぐ見下ろしている。体は全身黒い毛で覆われているが、薄暗い中でも美しい艶のある毛並みは見てとれる。尻尾も負けず劣らず美しい弧を描き、顔には銀色に輝くしなやかなひげ、ぴんと立つ耳には何やら球体できらきらと輝くピアスらしき物が光っていた。だが何よりも目をいたのは美しい瞳である。引き込まれそうなみどりに輝くその瞳に、惹かれない者はいないであろう。


ーーーーー18ーーーーー


『今日は大事な用事と、渡すもんがあってきた。渡すもんは………あれ?』


 樹里は勢いよくベッドから立ち上がる。狂ったように、何度も何度も両手で耳をふさいでみた。声は少しも小さくならない。頭の中に、何者かの声が直接響いているらしい。しかし、この部屋には自分と黒猫しかいない。


《やっぱりこれって夢よね。猫さんが話すなんて、実際あるはずないし。こんなに綺麗な猫さん見たことないし………本当に綺麗………》


 あまりの黒猫の美しさに、すっかり見惚れて黙り込んでしまった少女の手に、何者かが触れる感触がする。


『なあんだ。もう持ってるじゃねえか。ほれ』


「んにゃぁ!!!」


 うっかり変な声を出してしまった。なぜなら、自分の手に大好きな猫の肉球が押し当てられていたから。しかも、感触が夢なのにやけにリアルであったから。いや、そんなことより…


「ねこ!!!猫がしゃべった!?」


『今更かい!!!さっきからずっと喋ってるわ!』


「えええっ!?どういうこと?よくできたお人形さん?腹話術のたぐい?あ、夢だったっけ?うん、絶対に夢だ!」


『夢じゃねーわ。ったく、落ち着きのないやつめ。ほれ、手に持ってるやつ、見てみろ』


ーーーーー19ーーーーー


 少女の手に触れてきた黒い肉球のぷにぷにした柔らかい感触に、一瞬樹里の警戒心は緩んでしまったが、自分の手に握られているものを見て、再び言葉を失ってしまった。


なぜなら、さっきまで何も持っていなかったはずなのに、夢で見た(と思っていた)はずの黒い封筒が、自分の手にしっかと握られていたから。


『おーい。今度はだんまりかーい』


 黒猫が再び話しかけてくるまで、少女はその場で立ち尽くしていた。樹里は自分が人形になったみたいだ、と思った。


『登場の仕方間違えたわ。あー、格好つかねえ』


 小さく黒猫はため息をつくと、天井の照明の上から華麗に窓枠へと舞い降りる。背後から差し込む外の照明と月明かりに照らされて、その漆黒の毛皮はますます神々しく光り輝いていた。


『えっへん。とりあえず、最初っからやり直すわ』


 黒猫はわざとらしくと咳払いをしてみせると


『お迎えに上がりました。ジュリさま』


と、英国紳士のように丁寧に敬礼をする。よく見てみれば首にはタキシードのえりのような付け襟がついているし、しっぽにも可愛いリボンがついている。見るからに気品漂うシャム猫のようなしなやかな容姿である。


ーーーーー20ーーーーー


「は、はぁ…」


『はぁ、だ?なんだその拍子抜けした声は!こっちがせっかく綺麗に決めてやったっていうのに。もっとしゃきっとせんか!』


「はいっ!ごめんなさい!」


『ふん、分かればよろし。オレさまが迎えに来てやったからには安心しろ』


《なんて口の悪い猫さんだろう…見た目はこんなに愛くるしいのに…》


『おい、ジュリ。お前の声は全部聞こえてんだからな。後半はその通りだが、前半は聞き捨てならねえ。男らしい!と言ってくれ』


《男らしさを完全に取り違えてる…》


『ゴホン。ま、いいわ。そんなことより、お前には時間がない。ある方のところに案内するように言い遣って、ここに迎えに来たんだ』


黒猫はなんだか恥ずかしそうに軽く咳払いをすると、


『とりあえず、招待状は受け取ったな』


と、少女の手に握られている黒い封筒を指差す。(指はどこか分からないとツッコミたい気持ちを抑えながら)


「招待状?この不気味な黒い手紙?ある方って?」


『手紙読んだんだろが。差出人のとこ、ちゃんと読まなかったのか?』


ーーーーー21ーーーーーー


 すると、先ほどの夢の中では気づかなかった文字が、封筒の外側に刻印されている。


【夢喰】


と。


「夢…く、くう?」


『アホか。夢喰ゆめくいさまだ』


「ゆ、め、く、い?」


『さ、ま!夢喰様だ!』


 歯切れよく言い放った黒猫であったが、黒猫は突然大きな目をさらに大きく見開いた。黒く品良くとがった耳と尻尾を立て、全身は総毛立っている。何かに警戒しているように見える。


『しまった…!長居をしすぎた。急ぐぞ』


「なにを?」


 樹里が不思議そうに首を傾げているのもそのままに、黒猫は辺りを警戒して目だけをキョロキョロと、何かのセンサーのように動かしている。そして、


『強行突破するぞ。オレについてこい』


「え、ちょっ!ここ7階!!!」


黒猫は樹里の手をむんずと掴むと、なんと!あろうことか、7階から飛び降りたのである。


ーーーーー22ーーーーー

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