【第1章 1】怪しい黒いもの

コトンッ


 軽快な音が響いたのは、深夜4時を回った真っ暗な室内。


 閑静かんせいな住宅街に立地するこの集合マンションには、家族連れの所帯が多く、昼間は子供達の笑い声や泣き声、人々の生活音などで騒音といってもいいほどの音であふれている。しかし、夜21時を過ぎた辺りから周囲の人通りも減り、0時を過ぎた頃には一変して静けさに包まれる。人も動物も、物ですら眠っているかのように物音ひとつしない。いわゆる草木も眠る…というやつである。


 唯一、大晦日おおみそかの1日だけわずかに騒がしくなる程度の、閑静さである。


 それくらい騒音とは無縁の地域に、眠りをさまたげるほど騒々しい音の氾濫はんらんが起きる。


「んー…」


 コトンと音を立てたのは、玄関の郵便受けからだろうか。


 しかし、この程度の音ではこの家の住人は起きるはずはない。樹里じゅりは軽く寝返りを1回打っただけで、再び深い眠りについた。


ーーーーー2ーーーーー


 すると、音は少女を起こすのが目的と言わんばかりに、寝静まった室内のあちらこちらからし始める。


ピピピピピッと鳴り出した目覚まし時計を皮切りに、台所ではミキサーが何かを刻む音を、洗面所ではドライヤーの乾いた音と水の流れる音、リビングではピアノが軽快なメロディーをかなで始めた。


さらに、家中の照明が一斉に明滅めいめつし始める。


「ん………んん………」


 これだけの起床条件を満たしながらも、少女は軽く顔をしかめるだけに留める。樹里は自他共に認める寝起きの悪さなのである。


 薄手の掛け布団を頭まで被り、再び寝ようとしたところで


「ー原因不明の傷害事件が頻発しておりますので、くれぐれもお出かけの際はご注意ください。それでは、週間の天気予報をお伝えいたします。本日7月18日月曜日はー」


《えっ…!?》


と、テレビから早朝の天気予報が流れ始める。


 朝8時台に流れる天気予報と勘違いした少女は、


「やっばい!!!遅刻したー!!!」


と、頭まですっぽり被った布団を跳ね除け、よたよたしながらもあわててリビングへと駆けていく。


ーーーーー3 ーーーーー


「ん…あれ?外まだ暗い………って、4時?え!?4時24分??ああああああああああ!!!」


 3LDKのマンション中に、甲高い叫び声が響き渡った。


 樹里は思わず手に持っていたスマホを、盛大にソファーの下に蹴飛ばしてしまった。なぜなら、隣人に 「遅刻するから!」とメールしようとしてスマホを見た樹里の目に、4時間近くも早い時刻が表示されていたからだ。


 どう盛大かというと。液晶画面を指で操作し、時刻を確認。驚きのあまりスマホを落とし、それが運悪くひざに当たる。サッカーのリフティングの要領で蹴り上げ、勢い余って頭上より高く上げてしまう。飛び上がってつかもうとしたら、指が滑って頭に当たり、今度はヘディングの要領で飛んでいき、スマホは華麗に床のソファーの下に滑り込んだというわけだ。


 隣人顔負けの見事なゴールは、ソファーの下だった。というわけだ。なんてことはなく…


 手が入らないほどの隙間しかないソファーの下に、どこにしまってあったのか小学生のときに少女が図工で作ったヘンテコな杖状のアート作品を突っ込み、華麗に滑り込んだスマホを、ちまちまと押し出している地味な作業の真っ最中である。


コトンッ!!!


 そのとき、再び玄関の方から音がした。


ーーーーー4ーーーーー


「あれ?朝刊かなぁ?」


 樹里はかがんだ体勢に疲れたこともあり、スマホを取り出すのをいったん諦めると、気分直しに玄関の方へと向かうことにする。


「わたし新聞読まないから、イタリア行く前に止めといてよーって言ったのに。まったく、りゅうくん(兄)はー」


 デジタル化が主流の現代において、紙媒体をなぜか好む兄への愚痴をこぼしながら、少女は真っ暗な廊下を歩く。


「このインクの匂いと、紙の感触がいいんだよ」


と言いながら、澄ました顔でコーヒーをすする兄の顔が脳裏をよぎる。


ぱすっぱすっ


 暗い廊下に乾いたスリッパの音が響く。それに、なぜか点滅を続けるLEDライトが共鳴している。人が通ると自動的に点灯するはずのライトであり、さらに先週切れかかっていたので、新しいのに取り替えたばかりにも関わらず、だ。


 郵便受けを開けると、新聞らしきものはなく、1通のが滑り出してきた。


ーーーーー5ーーーーー


「なに…これ」


 樹里は触れた瞬間に、思わずを取り落としてしまった。


 なに?と言ったのは、それが本当に何か分からなかったから。それに、その物体は見るからに怪しかったからである。


「なんか…気持ち悪っ…」


 朝っぱらから無理やり起こされたせいで若干不機嫌な少女は、半分投げやり気味に、床に転がった得体の知れない物を拾い上げる。


 は、一見したところ面も裏も真っ黒で、手触りも悪くなく、ざらざらした高級そうな紙でできていることは分かる。10cm×20cmの長方形をしており、ちょうど手のひらサイズで軽くて薄い。いわゆる手紙のような形状をしている。


 郵便受けに入っているということは、住人に見て欲しいからなのだろうが。しかし、全面が真っ黒で両面には宛名あてなすらなく、どちらが表か裏かも分からない形態で、どう見たって招待状などの歓迎すべき代物ではない。


それに、開け口どころか継ぎ目すらない。どこから開けるかも分からないのが、不気味さに拍車をかけている。


 樹里がを見なかったことにして、再び郵便受けに戻そうとするとー


手のひらに何か衝撃が走った。


ーーーーー6ーーーーー


「ひゃっ!あああああっ!!!」


 恥ずかしいほど素っ頓狂とんきょうな声を上げてしまった。絶対に気のせいではあるが、真っ黒な手紙が一瞬ぶるっと身震いをしたような気がしたからである。


 樹里は今度こそ本気で手紙を落として、2度と拾う気もなかった。


郵便受けに戻したところで、家には自分しかいない。見ないふりをしてスリッパで踏みつけて歩き、ソファーの下だったり、どこかの家具の隙間に入ってしまえばいい。そのうち忘れた頃に隙間から滑り出してきたら、ゴミ箱に捨ててあればいいやと。あるいは、家に来た家政婦が拾い上げ、勝手に捨てておいてくれるだろうと。


 すると、今度は床に落ちるどころか、手のひらにひっついて離れなくなってしまった。


「きもっ…!やだやだ!」


 手のひらをひらひらとさせ、ひっついた手紙をがそうとすると、今度は数枚の黒いが床にひらひらと舞い落ちた。


 それは、数枚の便箋びんせんだった。相変わらず表も裏も分からない真っ黒な形状の。しかも、罫線けいせんも何もない。開き口の分からなかった手紙の封がいつの間にか開いており、中に入っていた黒い便箋が数枚落ちたようだった。


ーーーーー7ーーーーー


 ほんの1分前には2度と拾う気がなかったのに、樹里はうっかり拾い上げて、1枚の便箋に書かれている文字を読んでしまった。


 そこには、こう書かれていた。



【いのち短きものへ】



と。


 通常であれば、こんなものはタチの悪いだと思って、足蹴にしてまとめてゴミ箱にそのまま投入すればいい。


 あるいは、読まなければ良かった。と後悔するのが普通の人であろう。間違っても、残りの便箋を読もうなどと思わない。


 しかし、少女は自他共に認める気丈な性格である。

 無鉄砲と呼ぶ方が正しいかもしれない。

 好奇心には勝てない性分なのだ。


 さっきまで怖がっていたのと同一人物とは思えないほど、少女はたかぶり、というよりは、何かに怒っているようだった。


ーーーーー8ーーーーー


《ばかにしてる!》


 樹里が真っ先に思ったのは、これだった。


 次に、思ったのが


《犯人を見つけ出してやる!》


だった。


 樹里は床に転がった残りの便箋を拾い上げると、全部で5枚あることが分かる。そのうちの1枚目の中央に、何か小さく書かれているのが分かる。目を凝らしてやっと見えるほどの小ささである。


 裸眼で視力2.0の目を凝らして、小さな文字を見つめると、


【警告】


と書いてあるのが分かる。


「ちっさ!!!」


思わず少女は小さく叫んだ。


《警告ならもっと大きく書きなさいよ。意味分かんない》


ーーーーー9ーーーーー


 こうなってしまっては、好奇心は止められない。怒りを感じながらも、胸の中に湧き上がってくる好戦的な衝動を抑えられず、少女は全身が身震いしてくるのさえ感じる。


《そっちがその気なら、いいでしょう。とことん付き合ってあげるわよ》


 好敵手から宣戦布告をされた武将はこんな気持ちかもしれない。少女がそこまで考えていたかどうかはともかく、少女は警戒心もなく便箋をめくった。


 すると、次のページには大きな文字で


【あなたは3日後に死にます】


と書いてあった。


《死にます?》


 再び、12文字の羅列られつを読んだ。1文字1文字声に出すようにはっきりと。


「あなたはみっかごにしにます」


 今度は斜めから読んだ。逆さまにもしてみた。裏から透かしてみたりもした。


“ 命の危険です ” でもなく、“ 死ぬかもしれません ” でもなく、


【3日後に死にます】


はっきりそう書いてあった。決定した未来のように。


ーーーーー10ーーーーー


《わたしが、死ぬ…?》


 少女は呆然と玄関前に立ち尽くしてしまった。先程まで燃え上がっていた怒りの熱はどこかに昇華してしまい、心の中にひやりと冷たいものが満たされていくのを感じる。


 普通の女子高生として学校に通い、大きな病気や怪我もこの16年間したことがない。人から大きく恨みを買ったこともなければ、当然命を狙われる覚えもない。どちらかといえば、困っている人を見たら放っておけないたちで、“ ありがとう ” と感謝されることもしばしばだ。


 そんな自分が、あと最長でも72時間で死ぬとは、想像しようとしてもイメージはくうを掴むようで、少しも


 冷静に考えてみれば、この手紙を書いた主が最も怪しい。予言とか予知の類は信じていないし、占い師のような知り合いもいない。差出人が自分の命を狙っているのかもしれない。


では、なぜわざわざ自分に殺人予告をするのか?

怖がらせるため?ただの嫌がらせ?

予告をするのが犯人のこだわり?


だめだ。どのパターンで考えても、納得する答えなど得られるはずもない。


ーーーーー11ーーーーー


「お前(樹里)は頭で考えすぎるんだよ。考えても分からないことは、まず行動を起こせばいい」


 また兄がよく言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。


《やめたやめたー!分からないなら、行動あるのみ!》


 樹里は大きくうなずくと、残り3枚の便箋を次々とめくっていった。



3枚目ー


 3枚目には、罫線もない真っ黒な便箋に、金色の文字が所狭しと埋め尽くされていた。


樹里の家族構成(父、母、兄の4人)。

昔飼っていた猫プラムを拾った日のことや、ちょうど1年前に突然家出をしてしまった日のこと。

通っている学校や所属している部活のこと。

好きな映画、本、音楽について。

それに前回の中間試験の結果について。

それからとても人には言えないような、樹里にしか分からない彼女の秘密が書かれている。


 そして2枚目の最後に…


【あなたをおびやかすつもりはありません。】

【しかし、こうでもしないと信用してもらえないと思い、遺憾ながら筆を執らせていただいた次第です】

【信じていただけましたか?】


と付け加えてあった。


ーーーーー12ーーーーー


4枚目ー


白紙


5枚目ー


白紙


《………黒い紙だけど白紙ね》


 拍子抜けしてしまった。1枚目〜3枚目まではかなり気合の入った脅し文句で、樹里の心を散々振り回したのに、残り2枚が白紙とは。


 まだ何か書いてあるかもしれない。すぐには見つからないように、何か暗号が隠れているのかも?そう思い、樹里はドラーヤーであぶったり、ブルーライトを当ててみたり、思いつく限りのことをしてみたが、白紙の便箋に何か浮かび上がることはなかった。


 ひとしきり奇妙な手紙を調べて気付いたのだが、封筒は一見したところしなやかで上質な紙で形作られている。しかし、破こうとするとどんな鋼よりも硬く強く、燃やそうとすると一瞬のうちに鎮火してしまう。それに、しばらく手に持っていると、ひんやりとシルクのような感触でしっくりと手に馴染んでくる。


《まぁ…考えても仕方ないか》


 奇妙な手紙を、とりあえず枕元に置いておく。そしてベッドに横になり、足を投げ出すと、樹里の意識は自然と遠のいていった………


ーーーーー13ーーーーー

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