第41話
「インジフの、娘だと…?」
暗闇に、ハヴェルの呆然とした声が響く。
「……」
シャールカは静かにこちらを見つめている。その瞳が空のような蒼色であることに、この場所の暗さの為に今の今まで気が付かなかった。現れた金の髪が僅かな光を反射して、彼女の目は父親とよく似た輝きを放つ。
「そうか…」
まるで取り憑かれたように呆然と、ハヴェルは足を踏み出す。手を伸ばした。
「
部下の声に我に返った。それに返事をする間もなく、直ぐに一報が飛び込んでくる。
「襲撃です!軍勢が攻めてきました!」
「蹴散らせ」
ハヴェルは短く返す。兵士が慌ただしく駆けて行く。けれど伝達係の男は顔色を青くしたまま、先を続ける。
「大軍勢がこちらへ向かって来ています!想定しなかった数です!」
一度ごくりと唾を飲む。そしてただならぬ様相で口を開いた。
「掲げられた旗印を見るに…瑞と北クルカの合同軍です!」
「何…!?」
ハヴェルが驚き目を見開く。予想外の事実に舌打ちが漏れた。
(まさか敵対国同士が手を組むとは…)
「どう致しますか!」
部下の不安げな声が響く。それを受けて、ハヴェルは直ぐ様判断を下した。
「此処を棄てる」
自棄になっている訳ではない。彼の頭は、至って冷静だ。
(私さえ生きていれば、何とでもなる)
いくら大軍を相手にするとは言え、ここは砦。ハヴェルが逃げる程度の時間ならば稼げる。彼の大陸随一の乗馬技術と駿馬を持ってすれば、誰も追い付けない。国内に拠点はいくつもある。そちらに住居を移し、また再生を図れば良い。
ハヴェルは顔を上げ、シャールカを指差した。
「娘。その提案に乗ってやる。来い!」
言いながらシャールカの腕を掴む。強く引かれた為に彼女は僅かに息を漏らすが、それでもバルトロメイとツィリルに手を出さないならと、大人しく従う。
それを見たハヴェルの部下が、慌てて声を荒げた。
「可汗!そのような娘を連れて行く余裕は…っ!?」
忠告しようとした彼を、どんと衝撃が襲った。弓の先に付いた槍に腹部を穿たれ崩れ落ちる。ハヴェルの冷たい目が、彼を見下ろした。
「ならお前が死ね」
「な…!」
弓を引き抜こうとした腕を、シャールカが掴んだ。強い口調でハヴェルを止める。
「貴方は!自分の部下に対して、何を、っ!?」
彼女が自分自身に突き付けていた刃が首元から離れた隙に、鳩尾に一度拳を叩き込む。
「っは…!」
「貴様だけは逃がさんぞ、娘…!」
彼女の手から頭蓋骨が落ち、地面を跳ねる。それを見もせずに痛みで意識を失ったシャールカを肩に担ぎ、ハヴェルは歩き出す。その目は、飢えた獣のようにぎらぎらと光る。
(インジフの、娘だ!)
「っ、性奴隷…!」
小さくなっていく背中を見送りながら、ツィリルは呻く。立ち上がりたくとも、力が入らない。致死性の高い毒物に侵された体は、言うことを聞かない。
(駄目だ…!連れ去られる前に、味方が間に合うことを祈るしか…)
そう願ったところで、ツィリルはミシミシと軋む音に気が付いた。目線だけを動かし辺りを見て、その音は、バルトロメイの解けかけた腕の拘束から発せられているのだと悟った。片腕を縛る鎖から、バルトロメイが力ずくで逃れようとしているのだ。それが盛大な音を立てた瞬間、がらがらと鎖の破片が落ち、ツィリルの顔にも血が飛んだ。
「か、閣下…!」
「……」
バルトロメイは答えない。倒れた兵士の剣を持つ。歩く度に体のあちこちから血が滴り落ち、足元は覚束ない。それでも確かな意志を持って歩き出した。
ハヴェル・ドルボフラフ。
西胡の王アーモスと、母インドラの元に生まれた。そしてハヴェルの出自を語る上にはもうひとり必要だ。彼には、3歳年下の妹がいた。
幼少時のハヴェルは優しい性格で、雄々しい父のことは尊敬していたが、あまりそりが合わなかった。その代わりに妹を可愛がり、裁縫や勉学を教えた。
ハヴェルがまだ7歳の時。とても残酷なことが起きた。両親の不在中に、彼の家に凶賊が押し入ったのだ。父アーモスに恨みを持つ者の仕業だった。その場に居合わせた幼い妹は酷い暴行を受け、2日後に死んだ。
その光景を。大切な妹が戸棚から引きずり出され壊されて行く残酷な光景を。寝台の下から、彼はずっと、見ていたのだ。
妹を助けようとしなかったハヴェルを、恐怖に負けた息子を、彼の父はひどく責めた。元の原因がアーモス自身にあると、認めたくなかったのかもしれない。息子であるハヴェルを繰り返し罵倒し、罰だと言って顔を刻んだ。
彼の中で鬱積した感情が最高潮に達した頃、転機が訪れた。成長したハヴェルの力が、老いた父を超えたのだ。それに気付いた彼は、復讐を始めた。父の築き上げた地位も粉々になるまでに壊し、今までの仕返しとばかりに彼自身を痛め付けた。ハヴェルが抱え続けた罪責感は、酷い拷問の末に、逃がした母の居場所を吐いた父の様子を見て、初めて払拭された。
(ああ。誰でも、自分の身が可愛いんじゃないか…)
それから取り憑かれたように、彼は欲した。人間を蹂躙し心を砕く。我が身かわいさに大切な者を売り渡す者を見下ろして、つかの間の安寧を得る。
『インジフ。おかしいなあ』
だから東胡の族長が現れた時も、玩具が来たのだと思った。捕まった民を助けに来た勇敢なその瞳が、後悔と憎悪で染まる瞬間を大いに期待した。
『お前はここに忍び込み皆を逃がしたのに、お前が捕まっても誰も助けには戻らない』
インジフに向かって口を開く。彼に徹底的に与えたのは絶望と痛み。抵抗する体力も、考える力も、もはや彼には残されてはいない。そんなインジフの心を折る最後の一手を、ハヴェルは口にする。
『逃がした連中がどこに向かって逃げたのか。それを言うだけで、私はお前を楽にしてやれる』
醜く歪んだ顔を、味方の情報を吐く口を、滑り落ちる涙が見たかった。それこそが妹を見捨てた彼に捧げられる唯一の赦し。人間は皆、自分のことしか考えていないのだと言う確固たる証拠。
「貴様の敗けだ、インジフ!」
兵士が行き来する慌ただしい砦の中をハヴェルの乗った馬が駆け抜ける。意識を失ったシャールカを腹部を下にして載せている。その揺れる金糸を見下ろして、ハヴェルは喜色に満ちた笑みを浮かべる。
(この、娘さえ居れば…!)
後はこの場から逃げおおせるだけだ。砦からの脱出用に用意された隠し通路を見据えた瞬間、人影が現れた。
「っ…!」
バルトロメイだった。既に立つことすらやっとの状態で、姿を現した。引きずった鞘から、長く美しい刀身を抜く。そのまま、ハヴェルの軌道上へと立ち塞がった。
「どけ!!」
バルトロメイに向かって吠える。
「今そこから退けば、見逃してやる!」
彼は地面、ハヴェルは馬上にいる。バルトロメイが圧倒的に不利な立場にいることは変わりない。けれど、バルトロメイはその場から動かない。理由はただひとつ、シャールカを助ける為だ。
(どいつも!こいつも!!)
ハヴェルの心の中で、激情が燃え上がる。背中の矢筒に手を伸ばすが、弓は先程使ってしまった。その事実に舌打ちをする。腰には長剣もあったが、咄嗟にシャールカの背中にあった弓を引き抜き構える。
「このっ…!」
矢を放つ。矢先は足元に刺さるが、バルトロメイは微動だにしない。既に避ける体力は残されていないのだろう。
「クソッ!クソ、この…!」
それなのに、当たらない。ハヴェルが放った矢は、バルトロメイの近くの地面や背後を穿つ。当たらない理由は、ハヴェルの指が震えているからだ。それが恐怖から来るものだと言うことに彼が気付いた時――音を立てて弓が割れた。
「な…っ!」
弦が弾け弓が反る。それでも何とか放たれた矢は、弛い放射線を描きながらも初めてバルトロメイに当たった。彼の左目を大きく貫く。バルトロメイの体が傾き、血飛沫が舞った。
「よしッ!…!?」
喜んだのも束の間、彼は倒れない。片目から血を流しながらも、元の位置に戻る。残る黒の瞳が、ハヴェルを見据える。
「っ!!」
その光景が、過去の記憶と重なる。
『逃がした連中がどこに向かって逃げたのか。それを言うだけで、私はお前を楽にしてやれる』
持ち得る限りの知識を使い、あらゆる絶望を与えた。最後にはほんのひと雫、甘美な一滴を落とせば良い。
『なあ』
その状況で、インジフは笑った。
『お前に、喩え命を張っても惜しくはないと思う存在はないのか?』
体のあちこちを切り刻まれても尚、それが全て無駄だったと聞かされてもまだ、彼の蒼い瞳に迷いは浮かばない。
『っ…!その目を!止めろ!!』
激昂し、ハヴェルが剣を振り上げる。彼がずっと、目を逸らしてきた光景だ。死んだ幼い妹が、責めるように彼を見ている。
(止めろ!止めろ!止めろ!!)
激情に駆られるがまま振り下ろした刃は、インジフの顔を切り裂いた。
『可哀想な奴め』
血飛沫の向こうに、インジフの笑みが消えていく。
「旦那様!!」
シャールカの声に我に返った。突然目の前が開け、現実が姿を現す。
インジフを殺めた時。あの時と同じ光景だ。宙を彩る鮮血。守るべき者の為に死ぬことに、後悔など微塵もない瞳。たったひとつの違いと言えば、斬られていたのは、自分だったことだろう。
命が掻き消える瞬間に抱いた感情は、狂おしいほどの自責と後悔、そして自分でもどうしようもない憧れだった。
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