第42話


初夏の息吹が草原を走る。その風に乗って、金の髪がふわりと舞う。シャールカの吐いた息も、それに溶けて駆けて行く。


「……」


あれから、ひと月が経過した。西胡は解体、囚われていた捕虜や金糸雀人達も解放され、住人の居なくなった砦は既に朽ち始めている。


彼女の碧の瞳が見つめる先は、砦の向こう。地平線の果て。


「シャールカ」


名前を呼ばれて振り向く。どこか憂いを帯びていた瞳が一転、ぱあっと輝いた。


「エリアス!」


背後にはシャールカの“兄”の姿。彼女が駆け寄ると、腕を広げ彼女を受け入れる。一度ぎゅうと抱き締め合って、体を離す。彼の顔をじっと見ながら、シャールカは微笑む。


「今回の、瑞と北クルカの合同軍。北クルカ側でこの話を纏めたのは、貴方だったそうですね」

「ええ。オルドジシュカ皇帝からの発案でしたが…無事に実を結びましたね」


ふたりが再会することとなった、瑞へのエリアスの訪問。西胡に早々に危機感を抱いたオルドジシュカが発案した、非公式の会談だった。急成長する敵の動きに焦りを覚えたのはエリアスも同様で、国へ帰った後も裏で手筈を整えてきた。


「予定では、出陣はもっと先の話だったんですけどね。クルハーネク閣下が捕まったと聞き、貴女は間違いなく無茶をすると思いまして、出征を早めたんですよ」

「ええ。本当に助かりました」


自然豊かな大陸も春から夏の様相にすっかり様変わりし、シャールカの頬の傷も殆ど塞がった。その僅かに残る跡を指先で撫でながら、エリアスは安心させるように笑みを浮かべる。


「シャールカ。今日は貴女に手土産が」


そう言って手を上げる。彼が指し示した方向を見て、シャールカが息を呑んだ。


「皆…!」


目線の先には、鮮やかな民族衣装を纏った遊牧民の姿。北クルカに逃げていた、彼女の家族達だった。


「姫様…!」


崩れ落ちそうになる老婆を、咄嗟に支える。彼女は自分の体勢を元に戻すこともそこそこに、シャールカの顔を包むように両手で触れた。体のあちこちを確認しながら、目に涙を浮かべる。


「ご無事で…!」

「貴方がたも、お元気そうで本当に良かった…!」


見回せば、変わらぬ老若男女様々な面々。皆、奇跡の再会に目に涙を浮かべている。シャールカも目尻の雫を拭って、口を開いた。


「どうしてここに…」

「我らの地がどうなるのか、見届ける為に参りました」


その声は僅かに震えている。シャールカは一度目を閉じ、ゆっくりと微笑んだ。


「…私もです」


顔を上げる。遠い目で見つめるのは、砦の向こう。地平線の果てにある、彼らの故郷。


「……」


エリアスは無言を返す。西胡の本拠地があった場所には簡易的な建物が設営され、続々と人が集まって来ている。これからこの場で、瑞と北クルカの会談が始まる。協議される内容は今後の関係、そして此度の出征で得た土地の配分。瑞と北クルカの間で胡国の地を分けるのだ。


シャールカの故郷は今日、片一方の国の所有物となる。






「本日はお集まり頂いたことに感謝を」


二国の関係者が集う天幕の内側で、進行役がそう話す。北クルカからはエリアス、瑞からはイグナーツ・モクリーが代表者として選定された。


「此度の功労者への褒章授与を先に行いたい」


一等高い位置に座るイグナーツは手を広げ、声を出した。


「バルトロメイ・クルハーネク。出よ」


強い光を放つ黒髪に、左目を覆う眼帯。天幕の中央には、隻眼となったバルトロメイが座する。彼の従者として来たシャールカも、静かにその背後で待機する。


イグナーツは髭を撫でて、ゆったりと微笑んだ。


「クルハーネク。貴殿のお陰で最小限かつ最速に抑えられた。陛下も一目置いておったぞ。儂も鼻が高い」


バルトロメイがハヴェルを討ち取ったことは、直後にその場の全員に知れ渡ることとなった。西胡の全面降伏を経て、戦争は無事に終焉を迎えた。


「ええ。北クルカ王からも、こちらのできる最大限の感謝をとの言葉を賜っております」


エリアスもそう言って、にこやかに微笑む。北クルカから瑞の将軍への恩賜は、2国間の友好の印ともなる。


「……」


そうして差し出された千載一遇の機会を前に、バルトロメイは顔を上げる。そして静かに言った。


「俺に褒美は、必要ありません」


ざわめきが巻き起こり、それはやがて全体を包む。目を見開いて、イグナーツが口を開いた。


「…何を言っている?」


(旦那様…?)


シャールカも戸惑ったように顔を上げる。隣ではツィリルが、目を見開いて彼の背中を見ていた。当然だ。戦績を挙げて報酬を得る。兵士として当たり前の権利を放棄する、有り得ない発言だからだ。


そして皆の戸惑いの中心に居るバルトロメイは、瞬きひとつせずに口を開く。


「俺の望みはただひとつ。住む地を奪われた遊牧民に、故郷を返したい」


騒ぎの中にひとつ落ちる。低い声は一度その場に反響して、シャールカの脳に、やっと届いた。


「西胡の地はあなた方の好きに割ればいい。だが、元東胡の地は、彼らに返還を」


(何を、)


何を、言っているのだろうと思ったのだ。

自分達が故郷に戻り、元の生活をする。悲しみの中で、誰もがとうに諦めていた未来だった。けれどバルトロメイだけはまだ、その景色を見ている。


「そしてその地を、両国が手を出さない、中立地帯として頂きたい」


バルトロメイはそこで言葉を切り、こちらを振り返った。シャールカを示す。


「今は亡き東胡の族長。そしてその娘。彼らが居なければハヴェルの首を取ることは、不可能だった。どうか騎馬の民に、敬服と恩情を」

「か、閣下…!」


シャールカがやっと発した声は、驚きのせいか掠れていた。イグナーツは一度瞬きをした後に、淡々と口を開いた。


「…片眼を失った将軍が武勲を立て続けられるほど、この世は甘くないぞ。お前がいちばん、分かっているだろうが」


あの時バルトロメイの眼球を貫いた矢は、弓が割れた為に勢いが殺され、途中で止まった。それでもこの先生涯に渡って視力を奪うには、十分すぎる傷だ。


「お前にとっていちばん良い選択肢は、一生暮らせる金を受け取り、引退を選択することじゃ。それでもこの道を選ぶと?」

「はい」


間髪を容れずに返すバルトロメイに迷いはない。ざわざわと拡がる喧騒を前に、イグナーツは肘掛けに片肘をついた。


「…全く、どうしたものかの」


言いながら、シャールカへと視線を移す。驚きと感嘆の混じった、泣きそうな表情。


『聞きなさい!!』


凜然と声が響く。バルトロメイがハヴェルを斬った、直後の話だ。馬上から転げ落ち全身に擦り傷と泥汚れを浴びたシャールカは、直ぐに立ち上がった。バルトロメイの傷の様子を確認した後で、西胡の民に向かって宣言する。


『瑞のクルハーネク閣下がハヴェル・ドルボフラフを討ち取りました!戦う必要は、もうどこにもありません!』


それでも尚、彼らは剣を離さない。彼らを突き動かすのは恐怖だ。冷酷な男だったとは言え率いる長を失い、四方を敵に囲まれた絶体絶命のこの状況を前に、恐れ狼狽している。バルトロメイを人質にとれば事が有利に働くかもしれないと、こちらに近付く者も現れた。


『聞きなさい』


倒れ込んだバルトロメイの前に立ちながら、シャールカは静かに語りかける。


『危害を与えず降伏したとなれば、決して不当な扱いはされない。ハヴェルが死んだ今、意地になって戦っても、多くの血が流されるだけです』


言いながら彼女が見たのは、怯えた表情の子供達。その様子にぎゅうと眉根を寄せて、シャールカは続ける。


『何よりも未来の為に、貴方がたは剣を下ろすべきです』


決して大きな声ではなかったが、場は静まり返った。やがて音を立てて、武器が落ちる。シャールカの説得を受けた彼らは砦の門を開け、合同軍に抵抗することなく従った。実質の無血開城となった。


その事実を、イグナーツは後に知った。


(…この娘が居なければ、クルハーネクはおろか、こちらにも多くの被害が出ていただろうな)


金糸を見ながら、ふうとため息を吐く。やがて諦めたように宙を見上げ、微笑んだ。


「陛下がわざわざ儂を派遣した意味が分かった」


他国との交渉ごとなど、本来のイグナーツの仕事ではない。それでもオルドジシュカは彼を指名し、そして裁量権を与えた。お主の好きに決めよとの台詞が、やけに印象に残っている。


(陛下も全く、人が悪い)


そうして“望郷”の2つ名を持つ老人は、エリアスを筆頭にした北クルカ勢に、深く頭を下げた。


「彼らが故郷に戻れるよう、儂からもどうか、お願い申し上げる」






「ああ、信じられない…」

「私達は、故郷に帰れるのですね…」


夕陽が地平線に沈む。涙する遊牧民達の中央で、シャールカは微笑む。


「ええ。大忙しですよ。それこそ北クルカに居たままの方が良かったと思うこともあるかもしれません」


バルトロメイが請願した東胡の土地を遊牧民へと戻す案は、無事に可決された。


それでも、課題は多い。誰の干渉も受けないと言うことは即ち、誰からも守ってはもらえないと同義である。大国の保護を受けない地で、悪事を働こうとする輩も居るだろう。甘言を弄し彼らから搾り取ろうとする者も、必ず出てくる。その状況下でバラバラになった部族を立て直し、再生させなければならない。


率いる者が必要だ。インジフ亡き今、その意思を継ぐ指導者が。


(そして人権を得た今。私は、自由になれる…)


呆然と思う。それと同時に、あるひとつの事実に直面する。


(けれど、こちらに行けば…閣下とは…もう…)


バルトロメイは瑞の将軍だ。両国の干渉を受けぬ中立地帯にと、他ならぬ彼が望んだ。その状況下で瑞の要職に就いたバルトロメイが、東胡に踏み入ることはできない。シャールカが故郷に戻ると言うことは即ち、ふたりの別れを意味する。


「っ…」


衣服の上から戸籍に触れる。僅かに震えるその手をふと、柔らかな熱が包んだ。


「ずっと、心配しておりました」


とても優しい声が落ちる。顔を上げると、老婆の姿。シャールカの手を、ぎゅうと握った。


「あの時我らの身代わりとなった姫様が、どのような惨たらしい仕打ちを受けているのかと」

「そのようなことは…。今となっては、貴女がたの方が苦労したと思います」

「いいえ。姫様のされたことが、どれほど勇気のいることだったか」


その一言に、シャールカは眉尻を下げて微笑む。


「皆のことは…父に、任されたものでしたから」


それを口にすると、皆が目にうっすら涙を浮かべる。インジフの頭蓋は、民と共に故郷に帰り、手厚く葬られる予定だ。声を震わせながらも、老婆は続けた。


「インジフ様は仰いました。『本当はずっと、娘にただ幸せになってくれと言いたかった』」


シャールカは目を見開く。彼女の父は決して、個々の幸福を優先させろとは言わなかった。部族を率いる長としては、当然のことだ。これは、ふとした時にインジフの口から溢れ出してしまった本心。彼女は続ける。


「『俺の教えも、部族も関係ない。愛する人を見つけ、家族を作り、自分の幸福だけを追求して欲しい』」


(父上…)


初めて耳にした父の本音は、愛に溢れていて、耳に心地よく響いた。



「……」


彼らの交わす言葉を、エリアスは黙って聞いていた。王になりたいと言った彼に、インジフは言った。


『あの子と、代わってやってくれ』


あの時は意味が分からなかったが、今なら分かる。王として人の為に生きよと説きながらも、彼がひとりの父親として望んだこと。



「そして我らの望みはただひとつ。民の為に命を懸け、民の為に最愛の父君を亡くされた貴女様に、人一倍幸せになってもらうこと」


老婆はシャールカの手をもう一度、強く掴む。その指がとても細くなっていて、驚いた。


「クルハーネク閣下。初めてお会いしましたが、愛に満ちた心の優しい方です。…若い頃のお父上に、とてもよく似ている」


彼女は安心させるように微笑んで、インジフの台詞を口にする。


「我らは大地の民。天下の産品。その足が大地に付く限り、どれだけ離れようとも我らは家族です」


ぽろぽろと涙を流しながら、優しく笑う。背後からは、複数の嗚咽が聞こえた。


「姫様。どうか、お幸せに」


いつだって、重要な選択をする時に思い浮かぶのは、父の背中だった。彼女の行動の指針。憧れの姿。けれどこの時シャールカの心にあったのは、ただ1人だけ。愛した男の顔だった。

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