第43話


『すごいなシャールカ!』


馬から下りた娘に、インジフが駆け寄る。大きな手が頭を撫でた。


『お前ならできると、信じていたぞ』


擦り傷や痣で小さな体をボロボロにしながらも、シャールカは笑顔で彼を見上げる。


『ええ!皆が無理だ無理だと言うものですから、絶対にできると証明してやらねらばと思いまして!』


彼女達の部族では、ある一定の年齢を越えると成人の儀式が行われる。特定の岩崖から、馬に乗ったまま駆け下りる。大人でも難しい挑戦で、本来ならばシャールカのような幼い少女が行うものではない。けれどどれだけ周りから止められようとも、当時負けず嫌いな子供だった彼女が止まる筈もなく。父の監修の元で練習を積み、無事に達成したのだ。


『これで私も一人前!』


努力の末に目的を達成したシャールカは、意気揚々と胸を張る。


『もう、父上が居なくても平気です!』


それを口にした瞬間、頭を撫でる手が僅かに止まった。上からは、普段よりも小さな声が落ちてきた。


『…そうだな』

『父上?』


悟ったような、どこか寂しげな声色。顔を上げると、インジフはにっこり笑って小さな彼女を持ち上げた。


『この歳にして独り立ちしてしまうとは!さすがは俺の娘だ!』


そう言って彼女をぶんぶん振り回す。やがて腕の中にぽんとシャールカを置いて、顔を覗き込む。最後にいたずらっぽく、微笑んだ。


『ならば今夜はひとりでも寝られるな?』

『…それは嫌です!』




「……」


シャールカはゆっくり、瞼を開ける。


天幕の内側と膝の上の小さな頭が視界に映ると同時に、笑い声が遠くへ消えて行く。とても懐かしい父との記憶。彼女の宝物。


「…ええ。もう、ひとりでも寝られます」


誰もが寝静まった中、東胡の子供達の頭を撫でながら、小さく呟く。起こさないよう彼らの頭に毛布を挟んで、立ち上がった。


天幕の外に出る。空を見上げると、宝石を散りばめたような星空が広がっている。星々の降り落ちるその下を歩いて、シャールカは見つけた。


「旦那様」


瑞の関係者の宿泊用にと作られた、簡易的な建物。その外。そこに、バルトロメイは居た。大きな背中に声を掛ける。


「お隣、よろしいですか?」


シャールカに気付いた彼は、黙って隣を空けた。その場所に腰を下ろす。バルトロメイが彼女の背に目を止めた。


「…弓を、直したのか」


シャールカの背には、瑞の占い師から買った弓。中ほどでふたつに折れていたそれは修復され、今は天に向かって真っ直ぐに伸びている。


「ええ。もう武器としては使えませんが、御守り代わりに。ご不快でしょうか?」

「構わない。これが折れなければ俺は死んでいた。俺の命を救った弓だ」


バルトロメイは淡々と話す。けれど否定することはない。その不器用な優しさに、思わず口の端が綻ぶ。そうして微笑んだまま、シャールカはゆっくり口を開いた。


「閣下。どうか、お許し願いたいことがあります」

「…ああ」


バルトロメイに、驚いた様子は無かった。シャールカが今日何かしらの答えを出すと、分かっていたのだろう。自分も関わることなのに、何も言わずに待っていてくれた。


「…まるで、昨日のことのようです。私が父と別れた時のこと、ジガへ行った時。そして、バルトロメイ様に拾って頂いた時のこと」


シャールカは選んだ。部族の皆と共に逃げるのではなく、囮となって捕まる道を自分で選択した。それによって運命は、大きく変わった。


「瑞での日々は私にとって、とても価値のある旅でした」


辛いことも、少なくはなかった。家族と離ればなれになった末に父は死に、心が壊れそうな体験をし、実際に何度も危機に晒された。それでも姉と思える人ができ、違う世界を見て、様々な人と関わった。


(そして…)


シャールカが顔を上げ、バルトロメイを見た。眩しそうに目を細める。


(そして、自分の身さえ惜しくはないと思える、大切な人もできた)


「バルトロメイ様」


彼の顔をじっと見たまま、シャールカは口を開く。その頭に過るのは、先のやりとりだ。


『姫様。どうか、お幸せに』


目の前に現れたふたつの選択肢を前に、バルトロメイを想った。そしてシャールカの中で、すぐに結論は出た。悩むまでもないことだ。彼女は今、彼に向かってその答えを口にする。


「私、皆と共に行きます」


暗闇にたったひとつ落ちたのは、別れの言葉。シャールカが自分で選んだ運命の道。


『なりません』


彼女の幸せを望む民の前で、シャールカはそう言った。


『父亡き今、部族を率いる長はこのシャールカを置いて他にはいません』


もう「父は」とは言わない。


『たとえ奴隷となろうとも、地獄へ落ちることになろうとも、そこにただひとりでも民がいる限り。私は最後まであなた方の王です』


静かに、それでも強く言い切る。彼女の決意は、その場に優しく落ちた。


『姫様…!』


目の前の家族が崩れ落ちる。安堵で震える肩シャールカは確信する。自分の居るべき場所は間違いなく、こちらだ。



「…そうか」


そして答えを聞かされたバルトロメイは、それだけを短く返す。


(…分かっていたことだ)


シャールカは捨てない。今にも押し潰されそうな民を見捨て、自分ひとりだけ幸せになることを、彼女は許さない。


(そして、俺が彼女の選択を止めないことも)


「……」


黙ってしまった彼を前に、シャールカは立ち上がった。バルトロメイに背を向けながら、胸を張る。


「別れが惜しくなってはいけません。誠に遺憾ではございますが、性奴隷の務めを全うすることは、すっぱりと諦めます」


(だから、バルトロメイ様へのこの想いは秘密に)


胸に宿る気持ちを、シャールカはそっと隅に追いやる。違う道を生きるふたりは、別々に幸せになるべきだ。


「シャールカ」


そうして決意を固める彼女を、ふと呼び止める声がした。強くて優しい、シャールカの好きな低声。


「閣下…?」


思わず、バルトロメイを振り返る。彼はこちらをじっと見ていた。星空の下、ひとつきりになった黒い瞳はやっぱりとても、輝いて映る。そのまま、彼は口を開く。


「愛している」


何を言われたのか、分からなかった。理解した後も、何度も何度も頭の中で繰り返して、そこでやっと、シャールカは声を出した。


「ば…バルトロメイ様、」


彼はこちらを、真っ直ぐに見つめている。嘘も迷いも、微塵も無い瞳。この先を続けてもただ辛いだけなのに、それが分かっていてもまだ。


「一体、何を、」


シャールカが必死で声を出す。笑顔を作ろうと、口角を上げる。


「何を、言って…~~っ!」


その笑顔が途中から、崩れ落ちるように歪む。そのまま、バルトロメイに飛び付いた。彼もシャールカの背に腕を回して、それに応える。


「っ…!か、閣下…!」


その温かさに、ずっと抑えていた想いと涙が、堰を切ったように溢れ出す。首に回した腕に、力が入る。


「私はずっと、貴方様を…っ、お慕い申し上げておりました…!」

「ああ…!」


バルトロメイも強く抱き締め返す。大きな手に押さえられて、シャールカの金糸がくしゃりと歪んだ。


「好きだった。シャールカ。初めて会った時から、ずっと…っ!」

「はい…!」


眉間に皺を寄せ、バルトロメイは口にする。彼女と出会う前の話。


「俺はずっと、自分の為だけに生きてきた」


後悔している訳ではない。そうしなければ彼は生きてはいけなかったし、努力の末に掴んだ強さも地位も誇れるものには違いなかった。


『誰ひとり差し出すつもりはありません。私を連れて行きなさい』


けれどあの時。絶望を前にしてもまだ、誰かの為に命を懸けるシャールカを目にした瞬間。自分には無いものを持つ彼女を、どうしようもなく眩しく思った。だから、恋をした。


「シャールカ。俺は、君が来てからずっと、幸せだった…!」

「っ…!」


シャールカが顔を上げる。碧色の瞳いっぱいに涙が溜まって、まるで波打つ湖面のように歪む。


「か、閣下が居たから私は、ここまで生きてこられたのです…!たくさん、たくさん、守ってくださって、っ、あ、ありがとうございました…!」


嗚咽に遮られ、上手く言葉にならない。それでも言いたいことだけを並べ立て、互いの手を握る。絡まった指の向こうに、大切な人の顔があった。


「シャールカ…!」

「バルトロメイ様…」


涙で歪んだ視界に、美しい星が映る。互いの鼻が触れて、息が止まる。


そうして夜空の下、ふたりは初めて唇を重ねた。












「あー…」


吹く風は爽やかで、空には突き抜けるような晴天が広がる。翌朝、解体される瑞の仮拠点の近くに、ツィリルは居た。


「ストラチル様。どうされました?」


その場所で自身の荷を移動させるシャールカが彼に気付き、顔を出す。目が合うと、ツィリルは腕を組みぶっきらぼうに口を開いた。


「…何だ。貴様とも長い付き合いだ。別れの一言でも言ってやろうかと思ってな」

「まあ」

「勘違いするなよ!貴様のことは大いに嫌いだ!性奴隷!」


そこではたと気付き、慌てて咳払いをする。


「む、もう性奴隷ではないのだったな」

「いいえ!残念ながら、諦める私ではございません!」


荷を置き、シャールカは胸を張る。


「部族を立て直し、私が居らずとも皆が生きて行けるようになった暁には!」


そこで言葉を切った。背後のバルトロメイを振り返り、微笑む。


「必ずもう一度、クルハーネク将軍閣下の性奴隷になりますわ」


金の髪は太陽の光を浴びて輝き、真っ青な瞳は同じ色をしている。眩しそうに目を細めるバルトロメイに、シャールカは言った。


「だからその時は、本懐を遂げさせてくださいね」

「…ああ。俺の方から頼む」


そう言って互いに笑い合う。


「……」


ツィリルはその光景を、ただ黙って見つめる。


シャールカも、バルトロメイも、理解しているのだ。時代は混沌と不合理を極めた乱世。身分も国も、民族も。ふたりはあまりにも違いすぎる。一度その道を分ければ、もう二度と会うことは叶わない。


それでもこの日。形ばかりの約束をして、ふたりは別れた。


バルトロメイが戦場で受けた傷が元で死んだのは、その3年後のことだった。享年29歳。生涯誰ひとりとして妻を娶らなかった英雄の死は、国境を越えシャールカの耳まで届いた。

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