第38話


「ヨハナ」


ヨハナの自宅。そう広くはないが手入れの行き届いた畑には、薬草が並んでいる。彼女の夫が趣味で育てているものだ。声を掛けられ、水をやる手を止めたヨハナは顔を上げた。


「兄様」


突如現れたバルトロメイに驚きながらも、手を拭き駆け寄る。


「来るなら来るって言ってくれれば良かったのに。どうしたの?」


茶の準備をしようとするヨハナを制し、バルトロメイは木簡を差し出した。静かに口を開く。


「折を見て、シャールカに渡してくれ」


ヨハナは少し驚いた後で、掲げられたそれを手に持った。


「…本当に取ったんだ」


少し端の欠けた木簡を解く。現物を見るのは初めてだったが、中に書かれた文言と王印にこれがシャールカの戸籍だと察する。バルトロメイではなく、ヨハナから渡すことの意味も。


「兄様がやってくれたって聞いたら、シャールカ。喜ぶと思うけど」

「…言わなくていい」


彼が自らの名前を出さないのは、シャールカが本当の意味で自由になれるようにだ。その為には、彼に対する恩義も斟酌も必要ない。


(それは、分かってるけど…)


木簡を大切に抱えながら、ヨハナは彼を見上げる。


「兄様はそれでいいの?」

「…ああ」


背を向けたバルトロメイからは、短い返事が戻ってくる。


「そう…」


押し黙るヨハナを置いて、彼は進む。出入口の門に辿り着いたところで、ふと足を止めた。


「…それを」


低い声で、小さく呟く。ヨハナが顔を上げる。振り向かずに、バルトロメイは続けた。


「それを渡してもまだ、シャールカが俺の傍に居ることを選ぶなら」


庭先に、柔らかな陽射しが落ちる。草木を揺らす風と、鳥の鳴き声が重なって、とても綺麗な音がした。


「俺は彼女に求婚する」






「ストラチル様…」


バルトロメイの屋敷。近くに予定されている遠征の打ち合わせの為に訪れていたツィリルを呼び止めたのは、シャールカだった。


「…性奴隷」


その緊張した面持ちに、何か頼みがあるのだろうと察する。


(この女は敵だ。閣下をたぶらかし誘惑する女狐。だが…)


彼女の父親の生存が絶望的なことは、ツィリルの耳にも入った。これで、シャールカには帰る場所どころか頼れる者さえいなくなった。弱い者から消える、この世の理を理解する彼の心にも、同情は芽生える。


「言ってみるがいい」


(…この僕が、優しくしてやらんこともない)


そう心に決めふんぞり返る。そんな彼に対し、シャールカは真剣な表情で続けた。


「ストラチル様の男性器を、貸し出して頂きたいのですが」

「…は?」


予想外の依頼にツィリルが固まる。その無言の時間を、シャールカは肯定と見なした。


「それでは失礼させていただきます!」


宣言と同時に彼の足元へ滑り込むように屈み、素早く下衣に手を掛ける。我に返ったツィリルが下ろそうとする手を、全力で止めに入った。


「ふっ、ふざけるな!貴様などに貸す訳ないだろう!男子の大事なところは結婚する相手しか触れてはならないと言う常識を知らないのか貴様はァ!」

「ふざけてなどおりません!私は真剣です!」


互いに上下に引っ張られて、ツィリルの服からはみちみちと苦しそうな音が鳴る。けれど生粋の軍人である彼と力比べをして勝てるわけがない。シャールカは諦め、手を離した。憂いを帯びた瞳で事の成り行きを口にする。


「先日、諸事情で旦那様に接吻をお頼み申し上げたのですが、拒否をされてしまったのです…」

「当たり前だ。閣下の口唇は貴様ごときにくれてやるほど安くはないと言うことだろう」

「それが、違うのです…。旦那様の拒否は一言、『接吻の仕方など知らん』と…!」

「はあ?馬鹿な。接吻のやり方が分からない者など居るものか」


彼女の言葉を疑い、ツィリルは片方の眉を上げる。今どき接吻など子供同士でもすることだ。けれどそんな彼に対し、シャールカは真剣な表情で言った。


「いいえ。私は悟りました。既に様々な経験をされたバルトロメイ様にとって、愛の言葉の掛け合いや接吻は二の次三の次、女など性欲処理の道具でしかないのかと…!」

「ありうるな…!」


よもや甘酸っぱい恋心の為にバルトロメイがその発言をしたとは露程も思わない。思わず納得し頷いてしまったツィリルを、シャールカは見上げた。


「と言うわけで接吻は諦めます!ならばするべきはやはり性交です!」


女を性欲処理にしか思っていない男にさえ手を出されないとは、シャールカの女としての矜持はズタズタである。が、ここまで来るといっそ慣れたものなので、彼女はたくましく宣言する。


「ですが…殿方の股間のことを、何せ私は何も知らない…。このままではいけません!と言うわけで研究の為、貴方の男性器を貸してください!」


言い切りながら、シャールカは彼の下衣をもう一度掴んだ。


「やっ!止めろー!!」


ツィリルも慌てて掴み応戦するが、油断し力が緩んでいた為に少しばかり衣服が下がる。可愛らしい桃色の下着がちらっと垣間見えた。今にもつるんとずり落ちそうな服を抱え、彼は必死で叫ぶ。


「手を離せ!このアバズレがァ!何故僕だ!!」

「いかんせん閣下の閣下は凶悪な容貌ですから…怖じ気づくことがないよう、先に貴方のしめじ茸を挟んで段階を踏もうかと」

「誰がしめじだ!!」


売り言葉に買い言葉、興奮したツィリルは一転、自身の着衣に手を掛ける。


「見ていろ!僕の松茸で貴様をあっと驚かせ、て…」


意気揚々と語っていた彼の言葉じりが、きゅっと萎む。今の今まで気付かなかったが、ふたりの隣にバルトロメイが居たからだ。ほんの少し前まで居なかったので、彼が聞いていたのは、恐らく松茸を見せつけるくだりからだろう。


「か、閣下…!」


一瞬で背中に冷や汗をほとばしらせるツィリルに、完全に瞳孔の開いたバルトロメイはただ一言だけ口にした。


「……あ?」


ツィリルの股間が松茸どころかえのきになってしまったことは言うまでもない。






「今回の目的は街の護衛だ。国境線で、不穏な動きがあるとの情報が入った」


明け方。眩しいまでの朝日が降り注ぐバルトロメイの屋敷。右の頬を腫れ上がらせつつもどこか嬉しそうな顔をして、ツィリルは今回の遠征の計画を語る。


「本来ならば閣下の手を煩わせるまでもないことだがな。彩釉さいゆうには緊急用の物資貯蔵庫がある。念には念を入れてだ」


言いながら、バルトロメイの荷を積み込む為に屋敷の外に待機させた部隊の元へと向かった。手伝おうと追いかけるシャールカに、ふと背後から影が掛かる。


「旦那様」


バルトロメイだった。振り向き顔を上げると、黒い瞳と目が合う。シャールカを見つめ、彼はひとつ声を出す。


「ひと月もあれば、帰ってくる」

「分かりました。お待ちしておりますわ」


シャールカは深々と頭を下げる。その様子を見ていた彼は、少し悩むような仕草を見せた後に、淡々と口を開く。


「俺が帰ってくる時までに…どのような選択をしていても、俺はその意志を尊重する」

「旦那様…?」


戸籍はまだ受け取ってはいないし、話も聞いていない。だから彼の言っていることの意味は、この時のシャールカにはよくわからなかった。ぱちりと瞬きをした後で、微笑む。


「たとえどのようなことが起ころうとも、私は閣下をお待ちしております」




「……」


馬に乗った大きな背中が段々と小さくなって行く様子を、屋敷の外でシャールカは見送る。


(私は、今の私にできることを)


父は死に、家族は散り散りになった。故郷に戻る夢は潰え、彼女を形成したものはひとつも無くなった。それでも残った命と意志を抱えて、どんな世界だろうと必死に生きて行くしかない。


(…でも。もし、お許し頂けるのであれば)


「これからも、閣下のお側に居られたら、幸せですね…」


思い描いたのは、理想の未来。沈んでいた表情からは、少しだけ穏やかな笑みが漏れる。


「…あら」


ぽつりと一粒、頭に違和感を感じ顔を上げた。灰色の空から、大粒の雨粒が落ちてくるところだった。つい先ほどまで穏やかだった晴天には分厚い雲が掛かり、空が翳る。遠くで雷鳴が聞こえた。


ハヴェル・ドルボフラフ率いる西胡の一団が瑞の彩釉に攻め入ったとの一報が飛び込んできたのは、それから数日後のことだった。

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