第37話
「クルハーネク。顔を上げよ」
首都、慶閣の中央部。宮内。陽を浴びて輝くその座に腰掛けるのはオルドジシュカ・ゼレナー。傍らには太尉であるイグナーツ・モクリーの姿もある。
顔を上げたバルトロメイと目が合うと、彼女は椅子の肘掛けに片肘をつく。顔前に垂れ下がる飾り玉がしゃらんと音を立てた。
「要人の救出…一歩間違えれば国際問題に発展する案件を、迅速且つ正確に処理した。此度は大儀であった」
そこで言葉を切り、宙を見る。何事か思案する様子を見せた。
「褒美は何が良いか考えた時に…他ならぬコゼル殿下から、今お主が最終承認を待っている、市民権の発行。そちらを急いだ方が喜ぶだろうとの進言を受けてな」
そう言って手を掲げた。合図を受けて、侍女がバルトロメイの元まで目的の物を運んでくる。朱色の台座に置かれたのは、木簡。通常のそれよりも分厚く、縁には細かな細工が施されている。鮮やかな絹の紐で括られたその文書を指し示し、オルドジシュカは口を開いた。
「あの娘の戸籍だ」
大切そうに置かれたそれを、バルトロメイは無言で見つめる。
「……」
「どうした?常に仏頂面のお主の、喜ぶ顔が見られると思っていたのだが」
そう声を掛けられ初めて、バルトロメイは口を開ける。
「…いえ。頂戴します」
それだけ短く言って、深く頭を下げた。
「何だ。つまらん奴だな」
木簡を手に去って行く背中を見ながら、オルドジシュカは不満げにため息を吐いた。隣に控えるイグナーツが穏やかに笑う。
「まあ、複雑な心境なのでしょう。新しい国へ移籍すると言うことは、故郷を捨てさせると同義ですからの」
望郷の2つ名を持つ老君は、遠い目をしながら髭を撫でる。
「あの娘も、それを受け入れるしかないでしょうが。運命を前に、人間の意思はあまりにも弱い」
「……」
彼の言葉に、オルドジシュカは無言を返す。あの金糸を思い出しながら、こちらは紙で出来た手元の文書を捲る。
戸籍を発行する際に必要だった、シャールカの要項が並んでいる。そこに記載された一文に、ふと眉を顰めた。
「“
そう言って、不愉快そうに鼻を鳴らす。冠の飾り玉が、もう一度鳴った。
『俺も直接、彼の死をこの目で見たわけではありません』
シャールカの父親が死んだ。非情な宣告をした後、エリアスはそう言った。
『逃げてきた胡国の民の中に、彼と共に戦地へ向かった戦士が居たそうです。西からの攻撃により散り散りになり、インジフも…』
最後の方は、逃げるように言い澱む。淡々と言葉を並べ立てるその声は、僅かに震えている。
『それを聞いて、何度も、何度も、彼が生きている途がないか捜しました。けれど何も、出ては来なかった』
そうして必死で情報を集めるエリアスの耳に入ってきたのは、絶望的な知らせだった。
『“ハヴェル・ドルボフラフは東胡の王の首を取った”』
シャールカの肩がぴくりと動く。
『その時俺は分かりました』
そこで言葉を切り、エリアスは顔を上げる。美しい緋色の瞳が、口惜しそうに歪んだ。
『彼は、負けたのだと』
「旦那様!」
陽も傾いた屋敷の中に、鈴を転がすような声が響く。寝台の縁に腰を下ろすバルトロメイの姿を見つけると、彼女は急ぎ足で駆け寄ってくる。
「申し訳ありません!よもやバルトロメイ様の方がお先に寝所においでとは!何たる失態!」
シャールカである。エリアスが瑞を去って数日。平静を装ってはいるが、彼女の顔色の悪さや目の下に浮かんだ隈。まともに寝てはいないのだろうと察せられる。そんな見せかけの元気を振り絞り、シャールカは拳を握る。
「お役に立ってみせますわ!今日という今日は!必ず!」
「…シャールカ」
バルトロメイは静かに呟いた。手に持った木簡を一瞥もせずに、口を開く。
「君の国について、聞かせてくれ」
「っ…」
突然の申し出に、シャールカは少し驚いた顔をした。やがて力なく微笑む。
「何も、面白いことなど…」
「構わない」
「……」
それを受けて、彼女は困ったように笑う。けれど黙ったままのバルトロメイに負けて、彼の横に腰掛けた。
「私達の生活は自然と共に。水や草を追って部族もあれば、農耕を主たる行う者も。それぞれが異なる神を信仰し、それぞれの先祖の教えを守り生きていました」
「…そうか」
「けれど共通していることもあります。どの村の子供達も、5歳になるとそのことを盛大に祝うのですよ」
過酷な地で生きる彼らにとって、子供は神の所有物だ。5年もの歳月を無事に生き抜いた感謝と、彼らの今後の幸福を願う。
「今思うと、あの祭事は他ならぬ父がいちばん、楽しみにしていたように思います。あの人は、子供が好きでしたから」
くすりと笑う。最後に会った時も、両手で数えても足りない数の孫を願っていた。
「あれほど子供が好きならば当然、再婚を考えるでしょう。周りからもよく勧められていたのですが、父は、それを全部断っていました。お前の母以上の女は居ないからと、そう言って」
それを思い出し、シャールカの頬が緩む。幼い時に死別してしまった為に、彼女は母親の声も顔も覚えてはいなかったが、インジフの語る思い出はいつだって輝いていた。
「そんな父が。私はとても、好きだった…」
逆境を吹き飛ばす笑顔に広い背中。強い意志。どんな時でも決して負けない。
「……」
「シャールカ」
一滴、頬を液体が滑った。バルトロメイが見ていることに気が付き、咄嗟に目元を拭うが、瞼の奥からは新しい涙が零れ落ちた。
「っ…!」
青の瞳はすぐに満たされる。それでも必死で両頬を拭いながら、シャールカは口を開く。
「わかって、いたんです…父が、既にこの世にいない可能性があるって」
「……」
「なのに…なのに、最後に会った時の、父の言葉が、っ忘れられない…!」
大好きな人。この世に唯一残った、たったひとりの肉親。彼女の心の支え。
「信じて、いたんです…。たとえどうなろうと、父さえいれば、部族は大丈夫…。必ず、元に戻る筈だって…」
敷布の上に涙が落ちて、染みを作る。バルトロメイが片手で彼女を抱き寄せた。
「っ…!!」
シャールカが息を呑む。確かな温もりに、心の中に必死で留めておいた不安が、一気に膨れ上がるのが分かった。震える口を開ける。
「だから、ずっと…ずっと、怖かった…!」
バルトロメイの服を、強く握る。呑み込もうとしても止まらない。涙も声も、堰を切ったかのように溢れ出す。
「皆が、先祖が…父が、命懸けで守ったものが、一瞬で崩れて行く…!私達は、いずれ。この世界から…消え去る」
嗚咽と共に落ちた言葉は、そのまま宙に消える。泣きじゃくる小さな体を前に、バルトロメイはただ見ていることしかできない。
「シャールカ…」
震える金糸の向こう。手に持った木簡が目に入る。シャールカの為になると信じて疑わなかった、この国で生きる権利。
『後ろ楯や国籍を宛がい居場所を作れば、あの子が幸せになれると?』
彼の頭に過ったのは出会った頃のエリアスの一言。バルトロメイが木簡を手放すと、とても軽い音を立てて床を転がる。しゃくりあげるその肩を、両腕で抱き締めた。
(“睡蓮の民”…か)
瑞の言語で、胡国の民、主に東の民族を意味する呼び名である。けれど彼らは決して、自分達のことをこの名では呼ばない。南欧の神話、聞きかじりの知識を元に、侮蔑の意味を込めて付けられた名だからだ。
睡蓮の花詞は滅亡。
「睡蓮の民」は、「滅び行く民族」の意である。
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