第39話


馬車が止まる。目の前の彼が立ち上がった様子を見て、シャールカは目的地に着いたのだと察した。そうして彼女の主人になった男は、一瞬だけこちらを見た。


『ついてこい』

『…はい』


戸惑いながらも彼の背中を追う。バルトロメイが足を踏み入れた先は、ジガの一等地にある宿舎だった。


『……』


一見豪華絢爛な宿だが、よく見ると建物のあちこちの塗装は剥げ腐食している。中の作りや装飾も趣味が良いとは決して言えない前時代の遺物。それでも先ほどまで居た奴隷市場よりは、だいぶましだった。


『閣下!』


ふたりの前に、男が立ちはだかった。バルトロメイの体調や気遣う様子からして、彼の部下であろうと察する。彼はバルトロメイを見て、次に彼の影に隠れていたシャールカを見て、ぎょっと目を剥く。


『その女は一体…!?』

『買った』


バルトロメイはたったそれだけ答える。ざわざわと広がる喧騒も無視して、シャールカの腕を引き連れて行く。彼の部屋らしきところへ辿り着いたところで、ふと足を止めた。


『匂うな。湯浴みをしてこい』


シャールカを上から下まで見てそう言う。言われて初めて、先程泥水に浸かってしまったことを思い出した。


『……』


備え付けの湯殿は、沐浴をするだけの簡素な作りの部屋だった。桶に湯を注ぎながら、着ていた服を脱ぐ。


(体を洗って、何をするのでしょう)


自嘲気味に笑う。この五体満足の体を見るのも、最後かもしれない。


「この先一生、妊娠できないようにするんだよ」

「女同士で殺し合いをさせる奴、四肢を捥いだ女を飼うのが趣味の奴もいる」


頭の中には笑い声が響く。彼女を捕まえ、物として売買をした者達の声が。そして今、自分は物として買った者の手元にいる。


「っ…!」


ばしゃんと雫が飛び散った。桶が転がり、派手な音を立てる。その湯殿の中央で、シャールカは震える。


(怖い…!)


自分を犠牲にして皆を逃がすと決めた時、覚悟はした。後悔もしていない。あれ以上の最善策は無かったと、今でもそう思う。


けれど意思とは関係なく、震えが止まらない。一体何が待ち受けているのか、予想もつかない。誰かに自分の全てを握られると言うことがこんなにも恐ろしいだなんて、知りもしなかった。


『…戻りました』


それでも頼れる者も、行く宛もない。この地獄が現実なのだと、シャールカは前に進むしかなかった。


『……』


バルトロメイはじっとこちらを見ている。彼も湯を浴びてきたのだろう。黒髪からは、ひとつ雫が落ちた。


『……』

『……』


一体何をされるのだろうと、ひたすらに待つ。


『…名は』


当然声が降ってきて、びくりと震える。恐る恐る顔を上げると、真っ黒な虹彩がこちらを見ていた。


『名は、何と言う』


予想外の質問だった。バルトロメイは黙って返事を待っている。驚きながらも、シャールカは答えた。


『シャールカです…』

『…そうか』


それだけ言って、バルトロメイは背を向けた。彼女に対し、小さく呟く。


『…これから、そう呼ぶ』


そこで初めて、「今後」があるのだと知った。彼は自分を、一夜だけで使い潰すことも、売るつもりもないのだと。


(でも、いずれは分からない…)


真っ暗な闇が、足元から広がって周囲を包む。振り返れば輝く幸福な過去があるのに、引き返すことはできない。今にも不安に押し潰されて崩れ落ちそうになった時、衣擦れの音がした。


『明日は移動だ。寝ろ』


その声に顔を上げると、バルトロメイが寝台に横になったところだった。彼のすぐ横には、寝台の半分ほど空けられた空間。


『はい…』


戸惑いながらも、敷布に触れる。両膝を乗せると、ぎしりと鳴った。


『……』


彼の隣に、黙って横たわる。静かに狭い室内には、互いの息遣いだけが響く。


バルトロメイが手を出してくることはなかった。横になったまま、こちらを見もしない。ぶっきらぼうで、とても大きな背中。まるで頑強な壁のような背は、父によく似ていた。それを見ていると勝手に心がほどけて、意識が溶けて行く。


この日、父と別れてから初めて、シャールカは熟睡した。






「…難しい状況らしいわ」


陰鬱な雨が降りしきる、バルトロメイの屋敷。雨粒が当たる音を聞きながら、ヨハナは口を開く。


「兄様が連れ去られてから、丸1日経った」


彼女が口にするのは、先程伝令係から聞いた内容だ。


「何とか助け出そうとストラチル様が奔走されているらしいけど、西胡の連中はありとあらゆる人質交換にも応じず徹底抗戦する構えみたい」

「……」

「もちろん救出には向かってる。けど、敵の本陣を叩かなきゃいけないことと、壊滅的な被害を受けた街自体の復旧に人員を割かなきゃいけないことから、出発は遅れてるって…。その状態で兄様が、一体どれほど、のか…」


目を伏せ唇を噛む。言葉を失うヨハナを前に、シャールカは静かに口を開いた。


「あの男はいつも、私の大切な人を持って行くのですね」

「シャールカ…」


彼女の手元には、木簡。先程ヨハナから手渡したばかりの、シャールカの戸籍だった。


(こんなことに、なるだなんて…)


ハヴェル率いる西胡の襲撃の一報が入ってすぐ。同じ場所へ向かった彼らを心配する間もなく舞い込んできたのは、バルトロメイが捕まり連れて行かれたとの事実だった。軍事機密の為に公にはされていない情報だったが、ヨハナを知るツィリルが裏で伝令係を手配したのだ。


(もっと強く、兄様から渡すように言えばよかった…!)


ヨハナの心を埋め尽くすのは後悔。兄の希望通り、シャールカの戸籍はバルトロメイが取得したとは言わなかった。彼女にはオルドジシュカの意向で与えられたと伝えたのみだ。真実は、然るべき時にバルトロメイから明かせば良いのだと思っていた。


けれど、バルトロメイがこうなった今。その瞬間が訪れる可能性は、限りなく少なくなった。このまま彼が帰らぬ人となれば、想いを伝えることもできない。


(せめて、私が…!)


「シャールカ…!」


堪らず声を出す。既に何もかもが遅いが、彼の想いだけでも伝えたかった。


「その戸籍、本当は…」

「父は言いました」


シャールカは呟く。戸籍から顔を上げ、父の言葉を口にする。


「『与えた恩を、恩と思う必要はない。その心は、お前の視覚を鈍らせる』」


シャールカの頭に過ったのは、バルトロメイの奴隷になって初めての夜のことだ。


「『だがしかし、こちらが受けた恩だけは忘れるな。その手は、お前の命を救った手だ』」


無愛想で、堅物で、何を考えているのか分からない、そう言う主人だった。それでも物に過ぎない彼女の名前を聞き、自身の寝る場所の半分を与えてくれた。その無骨な優しさに、一体どれほど救われたことか。


「私は、必ず閣下を助け出す」


予想外の言葉に、ヨハナはぎょっと目を見開く。立ち上がる彼女を見て、慌てて口を開いた。


「む…無理よ!ある将軍が部隊を連れ西胡の元に行って、二度と帰って来なかったって話もある…!それをアンタが…」

「私も、正面から行く気はありません」


ずっと前に占い師の元から買った弓を背負う。ヨハナを振り向くと同時に、彼女は強く宣言した。


「このシャールカ。一計を案じます!」








「性奴隷」


ツィリルの呼び掛けに瞼を開ける。荷馬車の天幕を内側から捲ると、神妙な面持ちの彼と目が合った。


「着いたぞ」

「ここが…」


視線を移せば、巨大な砦が目に入る。瑞の国境から離れ丸2日。西胡の本拠地である。


「……」


シャールカも直接目にしたことはなかった。けれど彼女が昔に伝え聞いたものよりもずっと、大きく成長していた。村の全てを覆う外壁に背の高い門、侵入を阻む罠はそこらじゅうに。何もない草原に突如としてそびえ立つ砦は、途方もなく堅牢で巨大に見える。


「僕達が彩釉に駆け付けた時には既に、火の海だった…」


ツィリルが呟く。彼が見たのは、この世の終わりのような光景だった。元の美しい町並みは跡形もない。巻き上がる噴煙に、響き渡る悲鳴、炎は全てを飲み込む。


『遅かったな。私の名は、ハヴェル・ドルボフラフ』


呆然とする部隊をまるで値踏みするように見回した後で、その現実を作り出した男は真っ直ぐにバルトロメイを指差した。


『そこの将軍閣下。貴殿が大人しく捕まるならば、一度退こう』


あまりにも突然のことだった。バルトロメイ達が到着したところで、武器も人員も到底足りない。救援も間に合わない。


「たとえ…命を捨てても、僕達は戦う気だった!国の為に散る覚悟はとうの昔にできている!それでも閣下が奴の元へと行ったのは、あれ以上の侵攻を防ぐ為!国を守り、人民を救う…全て…」


そこでツィリルが言葉を切った。視線を下げ、唇を噛む。


「全て僕達の、力不足だ…」


心底悔しそうにそう漏らす。


「瑞では…万が一他国から攻められても対抗できるよう、要所には通信係が配置されている。その情報網を掻い潜っての襲撃だった。外部の者どころか国民さえ分かり得る情報ではない。しかもあの街に貯蔵庫があることを何故、知っていたのか…」

「……」


シャールカは無言を返す。変わり果てた彩釉の街は、彼女も目にした。前の姿を彼女は知らないが、きっと活気に満ちた街だったのだろうと、胸が苦しくなった。何よりも自身の故郷を思い出した。


「とにかく時間がない。僕は、この救出に全てを懸けるつもりだ。だが…本当にこれで入れるのか?」


彼らが今乗り込んでいるのは、非戦闘用の馬車。ツィリル達は、行商人に扮している。北クルカからジガへ行く貿易ルートの確保の為に交渉に来た商人で、承諾を貰えるなら毎月多くの品物を献上する、そう言った「設定」だ。門の前にいた兵士に声を掛け、そう伝えると、黙って引っ込んでいった。


(だが、これはどうなんだ…)


約束も誰かの紹介があるわけでもない。特に今は彩釉への襲撃のすぐ後。警戒している筈だ。今にも、上空から矢を射られ荷台を襲われたとしても、なんらおかしくはない。


「…目的は閣下の救出だ。貴様の復讐に付き合うつもりはないぞ。刺し違えるつもりなら…」

「ええ。分かっています」


ツィリルに釘を刺されても動じずに、シャールカは答える。彼女の髪は今、油煙から作った染料で黒く染めてある。目立つわけにはいかないからだ。


「私達の土地は他に比べ、痩せていて穀物の収穫量はとても少ない。魚や果物も、見ることすらないのです」

「……」

「だからこそ、私達の中では交易が重要視される。家畜や別の土地の輸入品を、生活に必要な物資に交換する為に」


彼女が父親から周辺諸国の文字や言語を徹底的に教えられたのは、これが理由である。こちらが不利益を被ることがないように。友好的な関係を築けるように。シャールカの肩には民の生活が懸かっている。


「西胡のハヴェルがわざわざ他国を侵略をしなければならない原因も、おそらくは物資の調達の為でしょう」


元は同じ国。生き方や文化に大きな変わりはない。自分達に足りない物を他者から一方的に略奪するか、交換や友好によって得るかの違いだ。


今回の行商人の設定も、それを考慮し考えた。上手く契約を取り交わせば、少ない危険で長期的に安定した報酬を得られる。決して悪い話ではない。


「私達もまた、誰かと繋がっていなければ、生きられないのです」


砦の内側で掛け声がして、門が開く。餌を招き入れんとぽっかり空いた口からは、どこか懐かしい匂いがした。

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