第35話


雲ひとつない青空の下。風も虫の音も静まり返った静寂の中には、笑い声だけが響く。


『…まさか』


ひとしきり笑い終わった後、ロベルトは目元の涙を拭く仕草をする。やがてすうと目を細めて、前に向き直った。


『まさか…何の価値もない若造の命を優先させるなんてね。どうやら君は、目の前の小事に気を取られ大局が見えていないらしい。それでも君は王なのかい?』

『分かってないのはお前の方さ。家族さえいとも簡単に切り捨てる人間が、王となれるとは到底思えん』


シャールカの父は平然と返す。


『……』


するとその時初めて、ロベルトの顔から笑みが消えた。苛立ったように一度奥歯を噛む。こめかみに青筋が立ち、声色が変わる。


『…後悔するよ』

『しない』


これまでにない強い口調でそう語られても、微動だにしない。彼は間髪を容れず言葉を返す。


『我らから人を傷付けることはない。けれど家族を売り渡すぐらいならば、俺達は戦う道を選ぶ』


彼の背後で、村人が鳴鏑めいてきを放つ。空を鋭い音が走ると同時に、村のそこかしこから武装した男達が姿を現した。シャールカの父親は、大国の王子を見据え、自信を口にする。


『俺達は強いぞ』


ぴりぴりと肌を刺すような空気。大国を前にして一歩も引く様子の無い姿に僅かに気圧される自国の兵を見て、ロベルトは舌打ちと共に吐き捨てる。


『…良いさ。そっちがその気なら、戦争を始めるだけだ』


そう言って姿勢を正す。彼が腕を高く掲げると、その場に緊張が走る。そうしてロベルトが自身の手を振り下ろそうとして――ひとつの声に邪魔をされた。


『よくぞ来てくださいました』


エリアスだった。隠れていた建物の影から出て、ふたりの傍まで進み出る。


『…エリアス』

『私は貴方の家族ではありません』


シャールカの父親に対しては冷たくそう言い放ち、横を通りすぎる。遠くでシャールカが呼ぶ声もするが、それさえも無視して、対峙するふたりの間に立つ。姿を現したエリアスを前に、少し驚いた様子で、ロベルトは口を開いた。


『やあ。エリアス・コゼル。君が自ら、出て来るとは思わなかったよ。彼らに情でも芽生えた?』

『まさか。変わらない景色にも、野蛮な生活にも、押し付けられた家族ごっこにも、ちょうど飽き飽きしていたところだったんですよ』


まるで助かったと言わんばかりの口振りに、ロベルトは首を傾げる。


『何にしても、自ら現れたからには…君も、自分がどうなるか分かっているってことで良いんだよね?』


その言葉に、シャールカの父が腰に差した剣に触れる。けれどそれを制すように、エリアスは手を広げた。息を吐きながら、天を仰ぐ。


『ああ。何と勿体ない。私には破格の価値があると言うのに』

『……』


その台詞に、ロベルトと言えば無言で片方の眉を上げる。エリアスは首筋を僅かに伝う汗を見せないようにして、先を続けた。


『貴方がわざわざ直接手を下しに来るほど、貴方は私を恐れた。この政治的手腕や人脈を、みすみす手放してしまうおつもりで?』

『…君が信用できる保証がどこにある?国へ着けば寝返る可能性の方が高いでしょ。ここで生かしたところでいずれ敵になるならば、排除した方が良い』

『ええ、もちろん。そう考えるのが普通でしょう。だから私は、』


エリアスは一度だけ息を吸い込む。そのまま流れるように、宣言した。


『私の王位継承権は、放棄します』


王位継承権。彼を構成するひとつであり、彼の目的の全て。

それを自ら手放すと言った発言に、ロベルトが驚いて目を見開く。シャールカの父親も、珍しく唖然とした様子で声を漏らした。


『エリアス…』

『貴方にはほとほと呆れましたよ。何を考えているのか理解ができないと思っていましたが、この状況で、敵の命を優先させるなんて。まさかこれほど…馬鹿だとは』


最後の方は呟くようにそう言って、エリアスはロベルトに顔を向けた。取って付けたような笑みを浮かべる。


『私の継承権放棄の証人には貴方の取り巻きと…そうですね。この男にでもなってもらいましょうか。阿呆ですが複数の集落を束ねる長です。十分でしょう』


言いながら、シャールカの父親を指し示す。ロベルトは興味深そうに顎に手を当てた。


『…悪くない提案だね。君を権力争いの場から引きずり下ろせる上に、味方として取り込めるってことだろう?』

『ええ。そうと決まればここに残る理由はありません。帰りましょうか。煌びやかで清潔な宮殿が恋しいです』


エリアスが進むと、北クルカの人垣は割れ受け入れられた。ロベルトの指示で兵士が武器を仕舞う。


『…君の立てていた貿易拠点移設計画。あれはどうなったんだい?』

『ああ。そのことですが、致命的な欠陥が見つかりました。凍結せざるを得ません。別の計画について、お話ししますよ』


言いながら、北クルカ側へと踏み入れる。


『兄上!』


そこで、幼い声に呼び止められた。大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、シャールカがこちらを見ている。あまりに寂しそうに呼ぶものだから、エリアスの口からは、思わず彼女を呼ぶ声が漏れる。


「シャ…」

「シャールカ」


別の声が遮るように落ちた。その金色の頭に大きな手を置いて、彼女の父親は言った。


『エリアス。いつでも来い。お前は俺の家族だ』


力強く言い切られた一言。エリアスは何も言わずに背を向ける。


『……』

『驚いたよ』


その様子を見ながら、ロベルトが肩を竦める。エリアスと目が合うと、緩やかに微笑んだ。


『君が、王位を放棄してまで人を助けるだなんて』

『何のことでしょう。…それは、買い被りと言うものでは』

『彼らを盾にして逃げれば、継承権を持ったまま帰ることもできたかもしれない。国へ着きさえすれば道はいくらでもある。君がそれに気付かなかったとは、思えないけど』

『そんな不確実な方法よりも、確実な道を選んだだけですよ。私は命の方が大事ですから』


エリアスの整った唇からは否定の言葉ばかりが出てくる。それでもまだ、ロベルトの瞳は疑問を抱えたままだ。首を捻り、身を乗り出す。


『…前の君ならば不確実な方法を取ってでも、継承権を守っただろう?そう判断したから僕は、最終手段に出た。君は絶対、王座を手放さないと思ってたからね』

『……』

『どういう風の吹き回しだい?』


その問いかけに、エリアスは無言で顔を上げた。ロベルトの瞳に映る影をじっと見つめる。


「母上!」


虹彩に見えたのは、幼い頃のエリアス。居場所を求めて泣く小さな子供。一度だけ瞬いて、その記憶に別れを告げる。


『俺にはもう、必要ありませんから』


青空の下、エリアスはそう言って微笑む。

地表は陽の光で満たされ、その上を柔らかな風が吹く。世界のあまりの眩しさに、思わず目を細めた。












「よくやった。何でもあの男は、北クルカの要人らしいぞ」

「今頃奴ら、慌てふためいているだろう」

「直ぐに声明を出そう」

「“憂国の義勇軍”は此処に復活する」


彼らの会話を、拘束されたエリアスはじっと聞いていた。


「……」


連れてこられたのは足がつかない街外れの廃屋、その一室。大仰な組織の名前。囚われた指導者の解放と言う目的。エリアスの中で、直ぐ様答えは出る。


(瑞の反政府組織か…)


これはまた予想外のところから狙われたものだと唇を噛む。彼らにとって、国が無下にできない人物であれば、エリアスでなくとも誰でもよかったのだろう。今回の訪問は秘密裏だった上、更に彼自身が部下に裏切られた経験から、必要最低限の護衛しか連れて来なかったことが災いした。


(クルハーネクを解任すべきではなかったか…)


彼の頭を後悔が過る。けれどすぐに首を振り、その考えを払った。


(いや。どちらにしろ変わりはしない。彼女を守る者は、俺しかいないのだから。俺が、どうにかしなければ…)


「シャールカ」


呼ぶと、隣の金の頭がぴくりと動く。同じく後ろ手に縛られた彼女に対して、エリアスは真剣な表情で先を続けた。


「良いですか。俺が気を引きます。隙をついて逃げてください」

「エリアス。貴方を置いては行けません」


事態に戸惑いながらも、シャールカからは気丈な返事が返ってくる。エリアスは首を振り、諭すように口を開いた。


「俺のことはどうとでもなります。重要な人質です。下手に手を出せないでしょう」


シャールカは違う。彼らからすれば、「金になる」以外の価値はない。


(それは瑞の連中にとっても同じだ)


下手をすれば国際問題に発展する。このままエリアスを放っておくことはないだろう。何らかの手を打つ筈だ。けれど救出作戦で優先されるべきは他国の王子の身命であって、奴隷1匹ごときの生死ではない。


「逃げてください」


このまま事が進めば、シャールカは売り飛ばされる。そうなれば次はどこに買われるか。エリアスが買い戻せる保証はない。今度は、無事では済まないかもしれない。


(嫌だ)


彼が思い出すのは、逃げてきた胡国の民から、事の顛末を聞いた時の情景。彼の力が及ばない場所で起こった心が引き裂かれるような事態を、人伝に聞いたのだ彼は。噛み締めた奥歯からはぎしりと音が鳴る。


(あんな思いは、もう2度と…)


「エリアス」


室内に、ふと声が落ちた。視線を上げると、シャールカの青い瞳と目が合った。その時、彼の心には妙な既視感が過る。


「 」


続いて紡がれた言葉に、エリアスは瞳を見開く。今の状況さえも忘れて、震える口を開けた。


「っ、シャール…」

「何をごちゃごちゃ喋っている?」


しかしその瞬間、背後から低い声が落ちてきて、それどころではなくなった。


「っ…!」


エリアスが慌てて振り向くと、暗い光を宿す瞳と目が合った。先ほど頭領と呼ばれていた男だ。背中にひやりと悪寒が走る。縛られ床に座り込むふたりを一瞥し、男は言った。


「女の方に人質としての価値はない。売り払え」

「待て!」


悲痛な声が反響する。そこからの光景はまるで、夢の中のようだった。


突然、彼らのすぐ近くの壁が轟音と共に砕け散る。


「な――」


驚く男達が、武器を取り身構える余裕などなかった。煙の中から現れた太い腕が、彼らを一瞬で昏倒させたのだ。


「っ…!」


次々に倒れて行く部下を目の当たりにし、頭領の男が息を呑む。突如壁の向こうから現れた影を認識した瞬間、シャールカが叫んだ。


「旦那様!」


立ち込める白煙の中から現れたのは、バルトロメイだった。


「っ!動くな!」


そう叫び、頭領の男がエリアスに向かって小刀を振りかざした。その位置からならば、距離はバルトロメイよりも、男の方が近い。迫る刃を前に、エリアスは咄嗟に目を瞑る。


「!」


その時、シャールカが動いた。縛られた手はそのままに、反動をつけて、勢いよく男の腹あたりに頭突きを食らわせる。


「この…っ!」


男は素早く体勢を立て直すが、その一瞬があれば事足りた。彼が意識を失う最後に見たのは、視界いっぱいに迫った大きな拳だった。


轟音を立てて、体躯が床に沈む。エリアスは縛られたまま、呆然と声を出した。


「貴方は、どうして…」

「殿下!」


最後まで言い終わる前に、すぐさま取り囲まれた。バルトロメイの部隊の者と、北クルカの人間が混じり、場の制圧と救出作業を行う。


「殿下!お怪我は!」

「無事を確認した!陛下にご報告を!」


そうして皆が皆エリアスの元に駆け寄る中、バルトロメイだけは別の方向へと向かった。


「行くぞ」

「へ?」


それだけ短く言って、拘束が解かれたシャールカの手を取った。ぽかんと口を開ける彼女を引っ張りながら、ずんずんと歩き出す。


「だ、旦那様」


背後からシャールカが戸惑ったような声で呼ぶが、バルトロメイは振り返らない。急ぎ足のまま、彼女を引っ張る。


「怪我は無いか」

「へ…?」


そう言われ考える。けれどここに来るまでは眠っていた訳で、特に抵抗する間もなく連れてこられた。強いて言えば先ほど頭突きをした際に頭に受けた衝撃ぐらいだが、特に尾を引くような痛みもない。


どちらかと言えば、その身ひとつで壁をぶち破ってきたバルトロメイの方が、明らかにぼろぼろである。しかし心配するツィリルも手当てをしようとする部下も無視して、バルトロメイは前を見たまま言った。


「医者とヨハナを控えさせてある。些末なことでも何でも良い。何かあれば必ず彼らに報告して…」

「あっ!あの!バルトロメイ様!」


一際大きく名前を呼ぶと、彼の足がぴたりと止まる。いきなり停止した為に後ろから付いてきていたシャールカが結構な勢いでべちんと当たるが、特段気にすることなく振り返った。


「何だ」

「そ、その…」


バルトロメイにじっと見られると、珍しく、まごまごと言い澱んで、シャールカは視線をさ迷わせる。やがて下を見て、小さく呟いた。


「その…旦那様の、お手が、いちばん。体に、悪いのですが…」


バルトロメイの大きな手の中で、ぷるぷる震える小さな手。心臓の音が、指を介して伝わりそうなほど鳴り響く。その顔は真っ赤だった。


「っ…!!」


柔らかな皮膚の感触に火照る熱。気付いたバルトロメイも、慌ててその手を離す。


「……」

「……」


これまで幾度となく、ふたりは接触してきた。決してそれ以上の意味はないが、バルトロメイに抱えられることもあれば、シャールカがのし掛かることもあった。ふたりが意図していないところで密着したことも数知れず。けれどこうして手を繋ぐのは、初めてだった。


「…悪かった」

「い、いえ…私こそ…」


互いに真っ赤に染まって、押し黙る。


「……」


そのままぎくしゃくとふたりが出入口へと向かう光景を、エリアスは静かに見ていた。たくさんの部下に囲まれ、甲斐甲斐しく世話を焼かれていると言うのに、まるで別世界に居るような感覚に陥る。自身の身を案じる声も、どこか遠くに聞こえる。


最後にとても眩しそうに、目を細めた。




『エリアス』


バルトロメイが助けに来る一瞬前。連れて行かれそうになったあの時。シャールカは言った。


『貴方の護衛役は、バルトロメイ様です』


それを受けて初めて、彼女に言ってなかったことに気付いた。バルトロメイは既に解任した後だ。けれどそれを話す前に、彼女は口を開く。


『エリアス。貴方はご存知ないかもしれませんが』


そうして10年前と同じように、その瞳を信頼で染め上げて、シャールカは微笑んだ。


『実は閣下は、すごいのですよ』

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