第34話


馬の嘶きが聞こえ、馬車が止まる。腕の中の熱に向かって、エリアスは口を開く。


「シャールカ。俺は貴女に、言わねばならないことが…」


抱き締めた体の前面はとても暖かいのに、彼の背中は冷たい。そうして静かに視線を下げて――エリアスは固まった。


「…は?」


彼の服にべたりと付いたのは涎らしき染み。ぴたりと閉じた睫毛にあどけない寝顔。シャールカと言えば、ぐうぐう寝息を立てていた。


(……?)


エリアスの思考が停止する。人の話を聞けとかこの状況で寝るか普通とか、言いたいことは色々あるが、その感情を抑えて彼女の肩に触れる。


「シャール、カっ…!?」


ところが、起こそうとして気が付いた。馬車の隙間から、白い煙が入ってきている。咄嗟に息を止めるが、その気体が一度肺に入った瞬間、エリアスの視界がぐらりと揺れる。


(一体、何が…)


まだ何とか動く体で立ち上がり、外に出ようとしたが、扉は先に外側から開けられた。一斉に入ってくる白煙の他に、黒い影が映る。


「っ…!」

「こいつか」


エリアスを一目見て、彼はそう呟く。襲撃者は男だった。煙の吸引と身元の特定を避ける為か、黒い布で顔を覆い、武装をしている。


「こそこそと隠していたようだが、わざわざオルドジシュカが自身の庭に招くぐらいだ。この男は、囚われている我らが指導者の解放に、必ずや役に立つだろう」

「何を…」


腕を掴まれ、ぐいと引き上げられた。エリアスの質問には答えず、大柄な男は彼を抱えた部下に向かって指示を出す。


「煙を吸わせ過ぎないようにしろよ。死んだら困る」

「頭領!女もいますがどうします?」


(っ、シャールカ…!)


朦朧とし始めた意識の中、気絶し床に沈む、金の頭が目に入る。エリアスと同じ方向へと視線を送って、頭領と呼ばれた男はぽつりと呟いた。


「金糸雀人か…」


鮮やかな毛色を見て、すぐさまそう判断する。強い口調で先を続けた。


「金になる。連れて行くぞ」

「っ…!」


止めろと口に出そうとしたが、声は出なかった。視界がまるで絞るように小さくなって、思考が停止する。そこで、エリアスの意識は闇に溶けた。






『まあ…』


幼いシャールカはぱちりと睫毛をしばたたいて、目の前の光景に声を出す。

背景には草原、手前には馬に跨がるエリアスの姿。


『思うように動かない体で、これほど乗りこなせるとは!兄上は筋が良いですね!』

『当たり前です。この俺にできないことなどありません』


そして褒められたエリアスと言えば、ふんと鼻で笑った。馬上で得意気に胸を張る。


『これでわざわざ、貴女の後ろに乗って旅をしなくて良くなりますね』

『……』

『俺を馬鹿にしてきた連中も黙らせられます。馬に乗れないから女々しいだの何だのと、クソガキ共が。全くどれだけ、不愉快だったことか』

『…ふふ。うれしいです』


幼少期から馬に乗る習慣のある彼らにとって、少女の後ろに座るエリアスの姿は、とても滑稽に映ったらしい。恨み節を口にする彼を前に、シャールカは笑みを溢した。一体何だと訝しげに目を向けるエリアスに対して、彼女は微笑む。


『自力で移動ができるようになれば、兄上は、祖国へ帰ってしまうと思っていたものですから』

『っ…!?』


その瞬間、彼の軸が歪んだ。視界がぐるんと揺れたと思ったら、体に衝撃が走る。


『あ、兄上!』


視線を上げれば、シャールカが駆け寄ってくるところだった。彼女は先に馬を落ち着かせ、手綱を引く。自分は落馬したのだと、エリアスは頭の隅で理解した。けれど今重要なことは、そこではない。


(そうだ。俺の目的は、祖国に戻ることだった筈だ)


先程のやりとりを受けて、彼はとても動揺した。シャールカにではない。このまま彼らと旅を続ける気だった自分自身にだ。


『兄上。平気ですか?』

『……』


心配そうにこちらを覗き込んでくる青い瞳を、呆然と見つめ返す。


(俺ならば、すぐに馬にも乗りこなせるようになる。いずれ、体も回復するだろう。そうなれば。もう、この地に留まる理由はない…)


『兄上?』

『…俺は』


強い口調で呟く。


『俺は、兄ではありません…』


シャールカに背を向ける。その時の彼は、それだけ返すのが精一杯だった。




心地よい春の季節と別れを告げ、強い日差しが届くようになっても、3人の旅は穏やかなものだった。たまに野宿や狩りをしながらあちこちの村を巡り、様子を見、時に困り事を解決する。これまでの人生で経験したことのない生活や慣習に、相変わらずエリアスは文句ばかり言っていたが、関係性は変わらない。シャールカは彼のことを兄と呼び、彼女の父は笑い飛ばした。


その呑気な様子に苛立つと同時に、焦燥を抱いた。他ならぬエリアス自身が、自然と共に生きるこの暮らしにも、この関係にも、僅かな安寧を感じ始めてしまっていたからだ。


そうして胸に湧く感情を持て余し始めた折。ちょうどエリアスの体の中から毒が抜けきり、5番目の村に赴いた頃――厄災は訪れる。


『なに。大したことじゃないよ』


エリアスにとっては聞き覚えのある声が響く。背中を嫌な汗が伝い、緊張からかひどく喉が乾く。視線を上げれば、同じくじっと息を潜めるシャールカと目が合った。


『我らが第8王子が此処に居ないか、聞きたいのはそれだけなんだ』


優しい口調に、柔らかな物腰。穏やかな微笑みを浮かべた彼は、最後に、付け加えるように言った。


『僕達はエリアスの保護に来た』


北クルカ側の人間だ。けれど、エリアスが自ら進んで出て行くことはない。ちょうど死角になる家畜小屋の影で、声の主を睨む。周囲に多くの兵士や従者を置き、悠然と佇む人物。その取り巻きの中に自身の元部下を見つけ、エリアスの口からは思わず舌打ちが出る。


(よくも、いけしゃあしゃあと…)


ロベルト・トゥルノフスキー。北クルカ王国第1王子。エリアスの異母兄弟であり、今最も熾烈な王位争いを繰り広げる最有力候補の一角だ。エリアスを殺さんと暗殺者を差し向けたのも、彼だろう。そして今、息を止めきれなかった部下に代わり、自らの足でここまで来た。


今、エリアスが彼の元に行けばどうなるかなど決まっている。人知れず始末され、王の元には「異国の地で既に凶賊に殺されていた」との報告が上がるだけだ。


『さあ。俺はお前達の殿下など知らん』


そして彼と相対するシャールカの父親は、そう短く返した。とりつく島もないその返答にロベルトは一度瞬きをしたものの、直ぐに全てを見透かしたように先を続ける。


『調べはついているんだよ。第8王子が忽然と姿を消したあの場に、君達がいたって』

『どこかの馬鹿が火を点けたのでな。土地を焼き払われては堪らんだろう。消火をしに集まっただけだ』


確信を持った追及も、彼はのらりくらりと躱す。その表情も態度も平然としたままだ。進まない会話を前に、ロベルトは目を細めた。


『何が本当か、は重要じゃないんだ。僕は真実を作る力を持っている』


そう言って顎に手を当て、何事か思案する様子を見せる。やがて思い描いた「真実」を口にした。


『そうだね。彼の進めていた貿易拠点計画。あの交渉が決裂し、逆上した遊牧民が我が国の第8王子を殺し、火を放った――と言う筋書きはどうかな?』


(っ…!)


エリアスが息を呑む。ロベルトが言っているのは、脅しだ。こちらの要求を呑まねば、全ての罪を被せた後で皆殺しにすると。


恐ろしい提案をしたロベルトと言えば、わざとらしく眉尻を下げて口を開く。


『可愛い弟を殺されたんだ。僕達は父の名の元に、騎馬の民を断罪し報復しなきゃいけない。もっとも、君達が我らが第8王子を無事に返してくれると言うならば、話は別だけど』

『……』

『ああ。ひとつ言っておくと、五体満足で送り届け謝礼を貰おうと思っているのなら、無駄だよ。彼にはこの地を利用する計画があるし…君達の生活を脅かすだけの厄介者さ』


エリアスの頭がくらりと揺れる。喉がぎゅうと狭まって、息ができない。止まってしまった思考を、ひとつの事実だけが支配する。


(俺を…差し出せば、彼らは助かる…)


利益になるのならば生かす。不利益になるのならば殺せ。

他ならぬエリアスも取ってきた手段だ。綺麗事だけで得られるほど、今の地位は甘くはなかった。ただ、今までその審判を下す立場だったのが、下される側になっただけだ。


(俺は…)


『兄上』


声が降ってきて、びくりと震える。顔を上げると、シャールカと目が合った。彼女はまだ幼いが、馬鹿ではない。彼を差し出せば皆が助かることも、理解しているだろう。


『兄上は…ご存知ないかもしれません』


シャールカはそのまま、真剣な表情で先を続けた。


『実は、私の父は…すごいのです』

『…は?』


エリアスがぽかんと口を開けた。この絶体絶命の状況下で突然の父自慢。混乱すると言うものだろう。


『なんでも昔の父は、とにかく大人気だったそうで…。とんでもないモテモテっぷりだったのです。迫り来る男女をそれはもうちぎっては投げちぎっては投げ…』

『それ絶対盛ってますよ』

『そうしてこの地で、私の母と運命の出会いを果たしたのです…』

『……』


始まったのは両親のなれそめ。やっぱり馬鹿だったかとエリアスが心の内で前言撤回する中、シャールカは呟いた。


『胸に掲げる信条を、父は、母の形見だと言います。それを曲げたところを、私は一度も見たことがありません』


信頼に満ちた青の瞳に迷いはない。そのまま、諭すように口を開く。


『その父が、貴方を私の兄だと言いました』


(…馬鹿な)


彼女の言わんとしていることを理解して、たったそれだけ思う。エリアスからすれば万にひとつも存在しない選択肢。


『悪いな』


けれど、彼女の父は言った。


『お前らに渡すような家族は、1人も居ない』


(…有り得ない)


打算と戦略で生きてきた。人に期待することなどとうの昔に諦めた。エリアスが逆の立場だったら、確実に見捨てる。当然だ。彼らとは血の繋がりさえない敵同士。助ける理由も、守る必要も無い。


『今この場に居るのは、俺の息子だ』


けれどあの時のエリアスは確かに、期待をしてしまっていたのだ。

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