第31話


「っ、」


息遣いが響く。エリアスが頬を染め、わずかに身動ぎした。銀の髪がさらりと揺れる。熱い息を吐いた。


「シャールカ、そこは…」

「ふふ。貴方の弱いところは知っているのです…」


シャールカが自信を持って微笑んだ。そのまま、指先に力を込める。エリアスの体がびくりと動いた。


「あ、っ…。昔よりもだいぶ…上手くなっていますね…」


そしてそんなふたりを見つめる影があった。その人物の背後には開け放たれた扉。


「……」


バルトロメイである。無言な上に相変わらずの無表情ではあるのだが、わずかに肩で息をしている。声を聞きつけ、焦ってこの部屋まで来たのだろう。それを目敏く察したエリアスが、取って付けたような笑みを浮かべて彼を見た。


「クルハーネク閣下。どうかされました?」


そう話すエリアスは、上から下まできちんと服を着ている。座る彼の背後に立つシャールカも、非常に健全な笑顔を向けた。


「旦那様!今、エリアスに頼まれ指圧を行っておりまして」

「ええ。シャールカは今も昔もとても上手なんですよ」


褒められた彼女は得意気な顔をして、ぐいぐいとエリアスの肩を押す。その手をじっと見ていたバルトロメイの眉間が僅かに軋むが、彼は何も言わない。やがて静かに呟いた。


「そうか…」


それだけ言って背を向ける。どしんどしんと足音を立てながら出て行く。作った大きな拳が、みしりと鳴った。


(…フン)


彼の背中を見ながら、エリアスは心の内で笑う。

エリアスを突き動かすものは怒り。彼にとって、バルトロメイは敵である。どのような理由があったとしても、シャールカを物として買った男だ。エリアスからすれば到底見逃せる事実ではない。


(…必ず取り返す)


燃え上がる心を隠し、直ぐ様表情を切り替える。美しい微笑みを浮かべ、振り向いた。


「シャールカ。今、何か困っていること、欲しいものなどはありますか?」

「欲しいもの、ですか…?」


シャールカがぱちぱち瞬きをする。青の瞳がくるりと動き、一点で止まる。思い当たるものがあるのだろう。エリアスはにこりと笑って、先を続けた。


「ええ。何でも良いですよ」

「で、ですがエリアス。これは私の問題ですので、貴方にお金を出させる訳には…」

「シャールカ」


髪に触れた。優しく耳に掛け、一度頬を撫でる。愛情に満ちた赤を向けて、彼は口を開く。


「貴女の家族に逢いました。皆が皆、貴女に感謝していましたよ。無茶でしたが、立派な行動でした」

「エリアス…」

「俺にできることは何でもします。買わせてください」


その言葉を受けて、シャールカは伏し目で瞬く。もじもじと両手の指先を絡ませた。


「エリアス。その、貴方にしか頼れないことなのです。私…」

「遠慮はいりませんよ」


先を促す。するとシャールカは顔を上げ、遠慮がちに言った。


「私、どすけべえな下着が欲しいのですが」


室内が静まり返る。エリアスは笑顔のまま固まっている。


「ただのすけべえではございません…」


その沈黙に気が付かず、シャールカは両手を握って語り出す。青い瞳はきらきら煌めいている。


「どすけべえでございます!殿方が一目で欲情し手を出さずにはいられない…そんな下着を、買ってください!」


そう言って、エリアスを見つめた。彼女の期待に満ちた眼差しを受けた彼は、悠々と微笑む。そして口を開いて声を出す。全ての感情を込めた、たった一言を――。


「は?」


なんて?











(こいつら…一体何を、考えている…)


肉に火が通る芳醇な香りが辺りを漂う。腹は減っていたが、エリアスはそれどころではなかった。天幕の内側、敷物の上に座りながら、苛々と爪を噛む。


(こちらに要求がある者ほど扱いやすいものはない)


彼が苦手とするのはその逆、要求が見えない者だ。そして彼を苛立たせている何よりの要因は。


『この方が!私の兄上です!』


そう広くはない天幕の中は、村の子供達でわいわいと賑わう。シャールカが胸を張り、エリアスを指した。


『私は貴女の兄ではありません』


当然、彼はぴしゃりと断言する。けれど彼らは気にも留めない。それを伝えられた子供達は、興味津々といった様子で嬉しそうに寄ってくる。


『触らないでください』


エリアスが冷たく吐き捨てても止まらない。無邪気な子供達ははねのける手さえも何かの遊びかのように掴んでくる。


嫌がらせでも、彼の声を聞いていないわけでもない。純粋に、言葉が通じないのである。エリアスは彼らの言語を知らないし、彼らもまた然りだった。シャールカと父は彼に合わせ北クルカの言語を話していたが、それを理解できる者はここには殆ど居なかった。


(これでは適当な住民に金を握らせ、国へ送らせることもできない…)


『だから触るな』


寄ってたかる子供達の攻撃を凌いでいると、外から呼ぶ声がして、皆が出て行った。ひとりきりになったテントでため息をついて座り込む。


(全くもって最悪だ)


彼らとの生活が始まって数日。慣れない草原生活は、エリアスにとって苛立ちの連続だった。


シャールカが広めるせいで、村中の者が彼女の「兄」を構おうと訪れる。子供達も大人も言葉の通じない彼からすれば宇宙人以外の何者でもないし、まず第一にエリアスは子供が嫌いである。やっと追い出したと思ったら、最後には寝ている彼の隣を仔羊がうろうろと徘徊する始末。そしてその家畜達の鳴き声で、神経質な彼は何度起こされたことか。


『兄上。お食事ですよ』


そして元凶である彼の「妹」は呑気に皿を手に現れた。


『村の方が、せっかく長である父が来たのだからと、羊を屠ってくださったのです』


手扒肉ショウバーロウ。塩で茹でた羊肉である。木の皿の中を一目見て、エリアスは端正な顔立ちをしかめる。


『羊の肉など臭みがひどく、食えたものではないでしょう。だいたい、手づかみとは何と野蛮な』


そう文句を言いながら、エリアスは皿を突き返す。温室育ちの彼にとっては、彼らの日常の何もかもがあり得ない。すると背後から、シャールカの父親が声をかけた。


『シャールカ。エリアスは骨から剥いてやらないと食べられないんじゃないか?』

『は!?』

『まあ、兄上ときたら我が儘です。ですが仕方ありませんね。怪我をした兄の世話をするのも、妹の務めと言うもの』


ふううとため息をつきながらも、シャールカはどこか嬉しそうに小刀を使って骨から身を剥がし始める。その様子に、エリアスがきっぱり断言した。


『要りませんってば』

『飯を食わねば体は一生治らんぞ』

『……』


彼の言葉を受けて黙りこむ。毒は、依然として尾を引いている。四肢の先には痺れが残り、満足には動かせない。そしていつ自国に戻れるとも分からぬこの状況だ。念のため警戒して視線を走らせるが、皆同じ皿から取り分けている。


(毒の類いは入ってないか…)


『…自分でやります。貸してください』


食事を祭壇に捧げる村人を横目に、皿を手に取った。残った羊肉に口をつけながら、シャールカは微笑む。


『とても美味しいです。本来は、作物が収穫できない冬の間のご馳走なのですよ』


言いながら、隣の子供に何事か話しかける。礼を言ったのだろう。それに冷たい目を向けながら、エリアスは鼻を鳴らした。


『これがご馳走ですか。寂しい舌ですね。ただ塩で茹でただけの羊肉でしょう。一体どこが…』


ぱくりと一口食べて、彼の声は止まった。


『……』

『兄上。乾酪も頂きましたよ』


丸い固まりを黙って受け取る。それを口の中に入れて、噛む。口の中に広がる優しい甘味に、エリアスは予想外の感情をもて余す。


(ここの暮らしは何もかも最悪だ。最悪だが…飯だけは、悪くない…)


『…チーズですか』

『ええ!これは牛ですね』


感想は言わない。けれど黙々と食を進めるエリアスに、シャールカは上機嫌でにこにこと微笑む。


『今日屋根の上で干したものだそうです。出来立てですね』

『は、はあ!?屋根の上!?』


予想外の事実に慌てるが、時既に遅し。乾酪はすっかり飲み込んでしまった後だ。


『よりにもって雨風の当たる屋根の上ですか!?もっと綺麗なところとか、こう、色々あるでしょう!王子になんてものを食べさせるんですか!』


そう騒ぐが、残念ながら言葉は通じない。元気になったエリアスを、皆楽しそうに見守っている。そして言語が通じるはずのシャールカの父親と言えば、酒でべろべろに酔っ払っている。豪快に笑いながら彼の肩を叩いた。


『そうかそうか。そんなに旨かったかエリアス』

『違います!』






雲ひとつない晴天の下、ぽこぽこと建てられた家々に別れを告げる。長であるシャールカ親子はこの年、国内のあちこちを巡らなければならない。エリアスを連れ、彼を看病していた村を出た。日除けの被り物をして、馬上でシャールカが口を開く。


『おひとりで馬にも乗れないとは!兄上は致し方ありませんね!』


手綱を持ったシャールカがエリアスを振り返る。そう文句は言いながらも、どこか嬉しそうに鼻を鳴らす。その様子に眉間に皺を寄せながらも、エリアスの呆れの矛先は別に向く。


『…仮にも敵と娘を同乗させるなんて、あの男は馬鹿ですか』


そう言って顔を上げる。彼が視線を向けたのは、同じく馬で草原の先を歩くシャールカの父親である。


毒が残っているとは言え、エリアスは男性、シャールカは少女だ。そんな彼に背を向けて、同じ馬に同乗させるなど危険極まりない。自棄になった彼が人質に取る可能性だってある。父親の選択としてはあり得ない話だ。だが当の娘と言えば、意気揚々と先を続けた。


『まあ、父ならば「王たる者。男のひとりやふたり、誘惑なり力業なり自力でどうにかしなさい」と言いますわ!』

『言っておきますが、貴女の父親は頭がどうかしてますよ』


ふんと鼻を鳴らしてそう言うと、シャールカはむっと唇を尖らせる。自身の乗る馬に話しかけた。


『まあ、兄上は失礼です!そうは思いませんか、ふくらはぎ』

『俺が間違ってました。娘もどうかしてましたね』


思い付く限りの嫌味でちくちく刺す。が、残念ながらこの親子には効かない。


『貴方は私の兄上です。背中を預けこそすれ警戒する必要がどこにあると言うのですか』

『…何度も言ってますが、俺は貴女の兄ではありません。見ず知らず、しかも会ったばかりの男をよく兄と呼べますね』


皮肉を込めて口にする。それを受けてもまだ、シャールカは平然と胸を張る。真っ直ぐ前を見ながら先を続けた。


『父は言いました。性別も肌も血の色でさえも、人間を形成する一片に過ぎない。人を縛り得るものはただひとつ、心である』


そこで言葉を切って、振り向いた。こちらに大きな青い瞳を向け、朗らかに笑う。


『父と私が認めれば、我らは家族です』

『……』


そう情を傾けられても、エリアスの心は冷淡なままだ。冷たい赤で見下ろし、鼻で笑った。


『…綺麗事を。良いですか、ふたつほど事実を教えてあげますよ』


強い風が吹く。エリアスの銀糸に光が乗る。馬の脚を、背の低い草がさらさらと撫でた。


『人間は肌の色や血筋で区別されるものです。それに…』


そこで言葉を切り、エリアスは地平線の彼方を睨む。たった一言を口にした。


『俺は兄に、殺されかけました』

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