第32話


太陽の光が岩肌を照らす。殆ど遮蔽物のない山岳地帯は遠くまで見通せる。高い空の下そびえる山は壮麗な景色だが、エリアスにそれを楽しむ余裕はない。彼の口からは、呻き声が漏れる。


『尻が痛い…』


かっぽかっぽと音が響く。慣れない乗馬を強いられたエリアスの腰やら尻やらは悲鳴を上げている。一歩ごとに伝わるこの振動が辛い。既に満身創痍な彼に、前に座っていたシャールカが青い目を向けた。


『兄上。目的の村に近付いてきましたよ』

『兄ではありません…』


そうお決まりの台詞を返す声にも元気は無い。彼女の言葉に視線を上げて、エリアスは首を傾げた。


『……?本当ですか…?』


周りには先程と、一切代わり映えしない景色が続いている。丘を越えては山、山を越えては丘と、永遠に続く光景に何度絶望を繰り返してきたか。だから一体何を目安に「あと少し」だと言ってるのか、理解ができなかったのだ。


『ええ』


するとシャールカはその小さな手を片方だけ上げて、天を指した。大型の猛禽類が羽根を広げ飛ぶ姿。足に付いた緋色の紐が、太陽の下できらりと輝く。


『彼らは狗鷲イヌワシと共に生きる部族です』






それからは早かった。彼らの姿を見つけた村の住人が、次から次へと集まってくる。直ぐにいたく歓迎した様子の彼らにすっかり囲まれ、馬を降りたエリアスの前で、シャールカは意気揚々と胸を張った。


『私の兄です!』

『だから兄ではありませんてば…』


呆れながらも視線を走らせれば、人垣の向こうに家々が見える。先日の村にあった、移動式の住居とは違う。木と石で建てられた家だ。


そして人の腕や止まり木に掴まるのは、大型の猛禽類の姿。嘴で羽繕いをすると、くるると喉が鳴る。そんな彼らに興味津々と言った様子で近付くシャールカとは裏腹に、エリアスはなるべく距離を取る。人の輪から離れた。


(寒い…)


山間部に位置する村は、まるで季節に取り残されたような冷気に支配されている。息を吐けば真っ白な蒸気へと変わり、山あいにはまだ雪も残る。


『兄上』


そうしてぼうっと景色をみていると、呼び止められた。振り向けば色鮮やかな布きれをシャールカが差し出す。そろそろと緊張を孕んだ瞳が彼を見上げた。


『旅をしながら、少しずつ織ったのです。その、思ったより小さくなってしまったのですけれど、父はちょうど良いのではと。使っていただけますか?』

『……』


言葉通り、ずいぶん小さい。シャールカの手のひらに収まる程度だ。エリアスの知らない類いの形状だが、モコモコとした感触に防寒着の類いだと分かる。そして縦と横の枠をはみ出して自在に飛び交う毛糸に、恐ろしく不器用なのだろうと察した。それでも彼女からすれば、「兄」の為に懸命に作ったに違いない。


『……』


黙ったまま受け取る。その幼い顔立ちがぱあっと輝いた様子を見て、エリアスはふんと鼻を鳴らした。


(まあ、使ってやらなくも…)


『おお!エリアスの股間隠し、ついにできたのか!』


そう満更でもなかった彼に、声量も中身もとんでもない声が降ってきた。脳の動きが停止する。


『…股間隠し?』

『ええ。殿方にとって、時に命以上に大切なところと聞きまして…冷やしすぎてはいけないと!』


シャールカが胸を張る。エリアスの手の中にあるのさ、小さな、とても小さな布きれである。


『さすがは俺の娘だ!』


そしてそんなシャールカを拾い上げ、父はぶんぶんと振り回す。


『よく気が付くなあ!だが俺のを作る時はあと3倍はでかく頼むぞ!エリアスにはちょうど良いが、俺は何も隠しきれん!』


やがて彼女を下ろすと、笑顔でエリアスの肩を叩いた。


『なあエリアス!』

『触るな』






満点の星空の下に、火の粉が舞う。丸太で組まれた焚き火を中心にして、楽しげに喋り踊る人々の姿。


『……』


その喧騒を縫って村のあちこちを見回っていたエリアスが、ふと足を止める。火の近くに腰かけるシャールカの父へと近付いた。


『どうした。エリアス』

『…信仰を統一しないのは何故です?』


突然の質問に、嗅ぎ煙草の香りを楽しんでいた彼が、顔を上げる。エリアスは先を続けた。


『この村、祭壇が天井近くにありました。様式も祀られているものも、前の村とは違うようです』

『テングリ…所謂、天神崇拝だな。最初の村では大地を神だと信奉する。それだけじゃあないぞ。動物を神だと言う村も、山そのものを崇める者も居る』

『……』


エリアスは片方の眉を上げる。彼が理解ができないのは、王であるこの男が別の存在を崇拝することを許している点だ。


『北クルカでは王こそが唯一神。国を統治するのに、多くの神など邪魔でしかないでしょう』

『エリアス。お前…』


彼がぱちりと瞬きをする。


『俺が神だと思うのか!』


続けてダッハッハと腹を抱えて笑い出す。馬鹿にされたような気がして、エリアスはぶすっとした表情で、皮肉を口にした。


『…貴方が神だとしたら、人類は直ぐに滅亡しそうですね』

『すまんすまん。不貞腐れるな。俺は神にはなれない』


ひとしきり笑い終わった後に彼は涙を拭いて、自身の隣をエリアスに示す。無言で座ると、彼は煙草を仕舞いゆっくりと口を開いた。


『神は1人1人違うものだ。同時に、人の生き方や暮らし方もひとつきりではない』


言いながら目を細める。

エリアスの指摘した通り、同じ国の民でも彼らの文化はまるで違う。前の村では牧畜や農耕が主流だが、ここでは鷲を使った狩猟が彼らの生活を支えている。草や水を求めて住む場所を住居ごと周回する村があれば、時期で住む家を分ける村もある。


『…エリアス。俺の故郷は、この地ではなかった』


語りかけるようにそう呟く。賑やかな空間に、ぽつりと落ちる。


『そこで俺は、大国にのみ込まれる民族を散々見てきた。時にその所業に加担さえした』


エリアスはじっと彼を見つめる。体の至るところを走る古傷に、世界的に見ても珍しい種族。彼の人生が常人のそれとは全く違っていたであろうことは、想像に難くない。


『我らは大地の民。天下の産品。どこへ行こうとそれは変わらん。だが一度大国に屈すれば、いずれ苦しむのは我らの子供達だ』

『……』

『大多数の力は恐ろしい。国に言われるがまま信仰を変え、住居を変え、文化も、親の教えも、最後には先祖を捨てることさえ強要される』


そこで言葉を切って、彼は微笑んだ。エリアスに視線を向けて、優しく口を開く。


『部族が長い時間を懸けて、数多の犠牲を払って築いた礎なんだ。俺は民から何一つ、欠けさせるわけにはいかない』


静かにそう言い切る。


『……』


けれどその宣言を受けても尚、エリアスの心は動かない。すうと目を細めた。


『…貴方の魂胆なら、分かっています。私を絆し拠点の建設計画を無いものにしようとしているのでしょう』


冷淡に言い放つ。たとえ多少の情が芽生えようとも、恩があろうとも、エリアスの意志は変わらない。


(俺がどれだけ、あの座を目指してきたと思っている)


その冷たい瞳のまま、吐き捨てるように先を続ける。


『無駄ですよ。何がなんでも、俺は計画を遂行します。そして玉座に…』

『そんなに王になりたいのか?』


被せるように、シャールカの父親が聞く。彼の表情にも声にも、大きな変化はなかった。エリアスの発言に怒った訳でも、呆れた訳でもない。ただ静かに、呟いた。


『あの子と、代わってやってくれ』


碧の瞳が映すのはたったひとりの血の繋がった娘。村の子供と共に、楽しそうに歌をうたっている。目が合うと笑顔でこちらに手を振った。星空の下に響くのは澄んだ歌声と、馬頭琴の音色。


『は…?何を…』


言いかけて、口を閉じる。彼の横顔がいつになく真剣だったので、エリアスは何も言えなかった。







小さなエリアスは磨き上げられた王宮内を走る。煌びやかで荘厳、誰もが羨み憧れる宮殿で、こちらに背を向け先を歩く女が1人。


「母上!」


息が上がりながらも長い髪が垂れ下がる背中に声を掛けるが、反応はない。彼女は早足で先を歩く。エリアスも追い付こうと必死に足を動かすが、その差は縮まらない。まるでどんどん廊下が伸びて行くようだ。


北クルカ王国第8王子。エリアス・コゼル。

彼にとって自身の生まれた王宮は、まさに――地獄だった。


1人の王に30人の妻。そして王座はひとつだけ。その座に就く権利を持つ者は12人。単純に、数が多すぎた。


特に幼少期のエリアスはひどく病気がちな子供で、医師からも長くは生きられないだろうとまで言われた。虚弱な8人目に周囲の誰もが落胆したが、誰よりもいちばん絶望したのは、彼の母親だった。

どうすれば夫である国王の愛を受けられるのか、どうすれば自分の立場を維持できるのか、そればかり考え、できそこないの息子にはいつも背中を向けていた。


「母上!」


だからエリアスは、母の顔を覚えていない。そのまま、彼を顧みることもないまま、病で亡くなった。後年に肖像画を見て初めて、自分は母とよく似ていたのだと知った。




『っ…!』


そこで目が覚めた。心臓がぎゅうと締まるような感覚に、寒さで覚醒したのだと気が付いた。指の先が、凍るように冷たい。


(俺は…)


自身に掛かった分厚い織物、様々な毛皮を張った天幕の内側を見て現在の状況を思い出す。シャールカ達と共に、遊牧民の村に宿泊していること。彼の目指す夢は、道半ばであること。


(あと少しなんだ…)


誰も、無視できない力が欲しかった。その為に死に物狂いで努力した。ひとりきりで死ぬのは嫌だった。


(寒い…)


布団の中は暖かい筈なのに、震えが止まらない。必死で両肩を擦るが、自分の体温だけでは到底温めきれない。かじかんだ四肢から、冷たさが上ってくる。やがてその冷気が胴にまで辿り着いたその時――。


『!』


目の前に、金の髪が現れた。眠たそうな青の瞳が、暗闇に揺れる。そのまま、シャールカは彼の布団の中に、ごそごそと入ってくる。


呆気にとられていると、今度は背中側から圧迫される。シャールカの父親だった。そのままふたりで、エリアスを挟むようにして横になった。寝台の上が急激に暖かくなる。


『な、何を…』


押し返そうと思った。出て行けと、そう怒鳴るつもりだった。それなのに、エリアスの腕も口も、その意思を実行には移せない。溶けていく心が止められない。


『っ…!』


拒絶しようとしたその腕で、目の前の小さな頭を抱き締める。優しい手のひらが返ってきた。


背中から感じる熱も、腕の中の柔らかな感触も。彼が誰からも受けず、そして彼が誰にも与えなかったものだった。

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