第30話


『殿下の恩情をはね除けるとは、愚かな奴らです』


北クルカ側が用意した天幕の内側。つい先程まで会談が行われていた場所に、若いエリアスは居た。臣下の言葉に口元を拭いて微笑む。


『構いませんよ。出て行きたくないのなら追い出せば良い。どこかしらで生きて行くでしょう』


小さな机に真っ白な卓布を敷き、その上でひとりきりで食事をとる。エリアスの深紅の瞳が、冷たく光った。


『もっとも、私の国民となることを拒んだ今、野垂れ死ぬかもしれませんがね』


あの光景を思い出すと、怒りが湧いてくる。いくら大国とは言え、今後のことを考えると面倒は避けたい。その為に彼らが喜んで土地を手放せるよう、破格の条件を提示したのだ彼は。


「無知で、傲慢で、愚かな考えだな」


だからこそあの一言は予想外で、エリアスの怒りを買うものだった。まるで差し伸べた手を噛まれたような。


『……』


皿には未だ食事の大半が残っていたが、彼は手の中のナイフを置いた。食器同士が触れ合った為に、きんと音が鳴る。


(大国の恩恵を想像すらできない蛮族が。せいぜい後悔するがいい)


『殿下』


立ち上がったエリアスに、辺りの兵士がすかさず駆け寄った。深く頭を垂れる。


『全ては貴方様の王への道筋、その礎となることでしょう』

『ええ。玉座は既に私のものです』


跪く彼らの中心で、エリアスは悠々と微笑む。その瞳が映すのは遥かなる高み。


この時、北クルカの王位継承権を持つ者は12人存在した。その中で現状、最も玉座に近い王子達。エリアスはその位置に君臨していた。






そして、夕餉から数刻経ってから。エリアスの瞳には全く別の情景が浮かんでいた。鮮やかな赤は消え去り、暗く澱む。映すのは絶望と後悔、そして死の色。


『クソッ…!何で…!』


燃え盛る炎の中を、這って進む。天幕は倒れ人が叫ぶ。そんな喧騒もどこ吹く風、空だけは雲ひとつない美しい星空を描いている。


『ここまで、来て…!』


状況の全てを理解してはいなかった。それでも彼の口からは、志半ばで倒れることの無念がこぼれ落ちる。


『捜せ!』


足音と声に気が付き止まる。それは自身の臣下のものではあったが、咄嗟に上半身を起こし、無事な天幕の影に隠れた。


『まだ近くにいる筈だ!』

『首を持っていかないと、殿下は納得されないからな』


その場からそれをじっと聞きながら、エリアスが背後の柱に頭を預けた。銀の髪がさらりと揺れる。彼は今、全てを理解した。


『っ…!』


彼らの呼ぶ「殿下」はエリアスのことではない。ならば、何人もいる他の王位継承者達のひとり。今最もその座に近いエリアスを暗殺しようと、刺客を差し向けたのだ。それを悟ると同時に、部下に裏切られたのだと知った。


(食事に何か盛られたのか…)


頭の隅で冷静に分析する。意識は混濁し麻痺で足は満足に動かない。けれど少量だった為か、死ぬことはなかった。異変を察知し殺される前にかろうじて這い出たものの、この場所が見つかるのも、時間の問題だろう。


(もう…)


じゃり、と石を踏む音がした。目の前に、人影が立っている。くらくら揺れる意識の中で、金の煌めきだけははっきり見えた。


『貴方は…』


そこで、エリアスの視界は暗転する。






『……』


乾いた口内に、水滴がぽたぽたと落ちる。舌に残る甘味。どうやら家畜の乳のようだったが、それを理解するほどの余裕はエリアスには無かった。少ない液体をかき集め、無理矢理飲み込む。喉を通りすぎるのを待って、重い瞼を開けた。


『……』

『父上!生きています!』


いちばん初めに視界に入ってきたのは、空と見紛うような青。それが誰かの瞳だと理解する前に、別の声が降ってきた。


『おお!目を覚まさないから死んでるのかと思ったな!葬式の準備を始めるところだったぞ!』


縁起でもないことを大声で叫んでいる。未だぼうっと霞む頭を押さえ、エリアスは起き上がった。自国のものとは全く違う天幕、それを支える骨組み。色鮮やかな内装と、中央の祭壇が目に入った。


(ここは…)


目の前に立つふたりに向かって、警戒しながら口を開く。


『俺を、どうするつもりですか…?』

『……』


少女と男。容姿と出で立ちを見て、すぐにこの地の遊牧民であることを理解する。


(この親子…先程の会談の際に俺に食って掛かった奴らか)


珍しい金糸には見覚えがある。エリアスを火事の現場から助け出したのも、父親である彼だろう。無言でこちらを見る男を前に、エリアスが唇を噛む。奥歯がぎしりと鳴った。


(俺を拘束し、国へ身代金を要求する気か?いや、今なら俺の首を差し出すだけでも金になる)


先程まで土地の奪い合いをしていた、いわば敵同士。計画を進めていたエリアス本人を排除すれば、貿易拠点の計画自体が白紙に戻る。王の玉座に就く為に、彼が練りに練った構想だったのだから。


(この計画が始動すれば、国にとって莫大な利益に繋がる。俺の王座は確定の筈だった…。なのに、それなのに、ここまできて…!)


『シャールカ!』


びくりと震える。じっと見ていた男の声だった。エリアスから視線を外し、彼は傍らに居た娘に向かって口を開いた。


『シャールカ。お前確か、兄を欲しがっていたな』

『はい!兄とはとても素晴らしいものであると聞きました!』


小さな彼女は全身を使って生き生きと語り出す。ばたばた両手を上げ下げし、仕入れたばかりの知識を話した。


『時に楽しい遊び相手、時によき相談相手。妹の要求を聞き入れ優しく包むものが兄であると!それを聞いてから私、羨ましくて仕方がありません!』


そこで言葉を切り、不満そうに頬を膨らませる。腰に手を当て、自身の父親を見た。


『父上にそのお話をしたら、任せろと仰ったきり既に1年が経過しました。一体いつになったら、兄上を作って頂けるのでしょうか』

『何を言っている。俺は約束は果たす男だぞ』


(何だこいつら…)


普通に考えて兄が自然にできるわけがない。間抜けな会話にエリアスの中で先程までの警戒心が薄れかけ、慌ててそれを引き戻す。しかし彼のそんな心の内など吹き飛ばすように、目の前の男は笑顔で娘に向かって宣言した。


『喜べ!今日からこいつがお前の兄だ!』


そう大仰な仕草で一点を指す。そして指し示した先に居たのは――エリアスだった。


『は…?』

『まあ…!』


少女は両手を合わせ、きらきらした瞳を向けてくる。呆気に取られるエリアスを置いて、彼は豪快に笑いながら続けた。


『良かったなシャールカ。王子様の兄がいる娘はそうは居ないぞ』

『はい!自慢してきます!』


(…は?)


エリアスは呆然と、嬉しそうにテントを出て行く少女を見送る。その小さな背中が外へと消えるところまで見た後で、我に返った。


『…どういうつもりですか?』

『どういうも何も、お前に妹ができただけだ。大事にしろよ』


当然の疑問を口にすれば、ずいぶんさっぱりした返事が返ってくる。とてもではないが理解ができず、エリアスの眉間に皺が寄った。


『馬鹿な。俺にそんな暇などありません。すぐにでもここを発たねば』

『どこに行けるんだ?体にはまだ満足に動かないだろう。そもそもお前、馬に乗れるのか?』


その一言にぎくりと震える。北クルカの王族に、乗馬の習慣はない。専ら臣下の操る馬車で移動し、用意された食物を摂るだけ。


更に、ここは異国だ。あるものと言えば点在する集落のみ、あとはひたすら草原が続く。自国までの距離も知らなければ、方向も分からない。旅のいろはも屋外で自活できるだけの技術も全て、これまでの彼にとって、必要ないものだったのだから。


『馬など…下賤の者の乗り物です』


悔しげにそう呟く。彼をじっと見ていた男が、ふっと目尻を緩ませた。


『今、我ら親子は長としてあちこちの部族を巡っている。付いてこい。そのうち北クルカとの国境付近を通ることもあるだろう』


彼はその先を言わなかったが、エリアスは察した。安全な場所に送るから、好きにしろと言っているのだ彼は。けれど直ぐに、甘い考えは掻き消える。


(まさか。そんな訳がない。俺をどうするか決めかねているだけだ。用途を探り、価値がないと判断すれば隙を見て殺すに決まっている)


『…何です?』


そこで、目の前の男に見られていることに気が付いた。娘と同じ青の瞳。その目でエリアスの抱く疑念も思惑も、何もかも見通したように彼は笑った。


『それまでお前は、俺の家族だ』

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